手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

コンテスト必勝法

 ネットでの種明かしに多くの紙面を割いてきました。種明かしの話ばかりにかかわっていると、自分自身が低い次元の世界に置かれているような気がして滅入ってきます。気分を変えて、コンテストについてお話ししましょう。

 タイトルに、「コンテスト必勝法」と書きました。マジックコンテストに必勝法なんてあるのでしょうか。そこで私は断言します。「あります」。あなたが本当に入賞したいと考えているならお読みください。必勝法を伝授いたしましょう。

 

 私は、日本奇術協会のコンテストの審査員や、大会責任者を何度もつとめました。30代になってから、SAM(アメリカ奇術協会、現存する世界で一番古いマジック団体、初代会長はハリーフーディーニ)の日本地域局を立ち上げて、日本中に40の支部を作り、毎年日本国内で世界大会を二十年開催してきました。国内大会は毎年コンテストを開催し、そこで審査委員長を務めました。その間にはSAMの本大会(アメリカ国内)で審査員も務めました。いまだに九州奇術連合会では審査委員長をしています。卒爾ながら、コンテストに関しては隅の隅まで知り尽くしています。

 ですが、私自身が審査員に向いているかと言うと、きわめて不向きだと思います。私は審査員をしたいからそんな活動をしてきたわけではありません。立場上手伝ってきただけです。出来れば日本国内で優れたジャッジが育ってきたなら、そうした役は専門家に任せたいと思っています。

 しかし、マジックコンテストのプロのジャッジなどと言うものは存在しません。仮に日本国内のコンテスト6か所、プラス韓国、台湾のコンテストを合わせて、すべてを渡り歩いてジャッジをしたとしても、ジャッジだけでは生きては行けないのです。

 そのため、コンテストのたびに、マジックのディーラーや有志に任せるほかはありません。時に採点に間違いが起きることもあります。多くの場合、とりあえず選んだジャッジがマジックを知らないために起こることが問題なんだろうと思います。このことは後でお話ししましょう。

 

 私がジャッジをあまりやりたがらない理由は、私が大会に参加すると言うことは、必ず出演が絡みます。出演と、審査員と言う二つの仕事を短い時間にすることは激務だからです。審査員は客席に座って点数をつけるだけではないのです。SAMの本大会などは、事前にジヤッジミーティングと言うものがあり、二時間ほど、SAMは本部役員がジャッジに、どんなマジシャンが欲しいのか、を説明します。これはとてもいいシステムです。SAMがなぜコンテストをするのかと言う、基本理念がしっかりジャッジに伝わるからです。日本国内のコンテストはほとんど、この点が不明確です。

 SAMに限らず、コンテストの主催者が欲しいのは、プロマジシャンです。きっちりとした演技ができて、その演技が洗練されている人。そしてマジシャンの人柄が一般のお客様に愛されるような人。マジックの世界だけでなく、一般の外のお客様にも、強い影響力を持ったマジシャンが欲しいのです。そうした人が育って、プロになってほしいのです。そうでないと、コンベンション自体がどんどん小さくなってしまうからです。

 

 私がSAM本大会のジャッジを引き受けた時、ジャッジは五名いました。三人はアメリカ人、そのうち一人はプロマジシャンです。アメリカ人以外の一人はドイツ人、そして私です。

 さて、審査員は演技を見た後で、ディスカッションをします。夕方5時から始まって深夜12時まで続きました。どんな話をしたかと言うことは後でお話しします。ドイツ人、アメリカ人、日本人と三か国のマジシャンがディスカッションをすると、時に議論が白熱することがあります。するとアメリカ人は役柄から調整役に回ろうとしますが、ドイツ人は安易なことには一切妥協がありません。時にはアメリカ人のおかしな理論をこっぴどくやっつけてしまいます。ここで面白い話がいくつもありますが、それは後でお話しします。かなり真剣な議論でしたので、終わった時は相当に疲れました。

 それから大会参加者を呼び出して、一人ずつフィードバックをします。この時点ですでに深夜12時を過ぎています。フィードバックと言うのはSAM独特の考え方で、コンテスタントに、演技終了後に「あなたの演技の何がよくて、何がダメか」を審査員が一人ずつ話します。つまり審査員は、何が素晴らしいマジシャンなのか、SAMはどんなマジシャンを求めているのかを公開するわけです。これはとてもいい方法です。日本国内のSAMの大会でも採用していました。

 日本の大会でフィードバックをすると、参加者はほとんど素直に聞くだけなのですが、アメリカ人はそう簡単にはいきません。しっかり自己主張をして、自分の正当性を語る人もいます。アメリカ人はこうした点がはっきりしていて、時には審査員を議論で打ち負かす人までいます。中には理屈にもならないようなことを言って、審査員に毒づいて、足でドアをけって去ってゆく人もいます。当然審査員から顰蹙を買います。

 こうして一人一人を相手にすると、明け方まで話をすることになります。この間トイレ休憩は一回のみ、アルコールは禁止、食事はハンバーガーのようなファストフードを事前に買っておいて、他の審査員の話の隙間に食べます。

 これが終わると各賞状にジャッジ全員がサインをします。すでに朝になっています。そしてようやく解放されて朝食。その後、その日の午後の総会後、授賞式をします。部屋に戻っても寝る時間はなく、授賞式までの間にブラックタイ(黒い蝶ネクタイ、黒いタキシードに着かえます。私は黒紋付に袴姿です)授賞式前にジャッジは集合して、式次第を練習します。授賞式は舞台上で一人一人名前を読み上げ、賞状とトロフィー、賞金を渡します。まったく二日間、休みがありません。

 ここまで全て済ませて、SAM本大会の審査員の仕事は終了します。詳しくは後でお話ししますが、これだけの仕事をしても謝礼と言うものは一切存在しません。次世代の優秀なマジシャンを育てるために、みんなが奉仕をするのです。まったくの善意の活動です。しかし、審査員はコンテスタントのみんなから感謝され、敬愛されるかと言うなら、必ずしもそうはならない場合があります。大会終了後になっても、ジャッジにさんざん悪態をつくコンテスタントもいます。「あいつらはマジックのことなんか何もわかっていない」と、怒りをあらわにします。確かにいつのコンテストでもジャッジは完ぺきではありません。常に問題をはらんでいます。しかし、これだけは申し上げますが、SAMに限らず、すべてのコンベンションは、次に出て来る人をつぶすためにコンテストをしているのではありません。

 「あいつらは悪意で俺を落とした」と言う人があります。アメリカでは時として人種差別を持ち出す人もいます。「色が黒いから落とされた」と言うわけです。審査員は個々のコンテスタントに特別な感情はありません。そのことはフィードバックでも詳しく説明しています。ジヤッジが審査するのは純粋にマジックの内容だけなのです。当然、コンテスタント当人も頭ではわかっているですが、それでも実際審査されると「なぜあの人が入賞して、俺は入賞しないのか」と言う、細かな点差の部分で疑問に感じる人がいることは事実です。

 

 えこひいきとか、派閥の力学で入賞者に便宜を図る、と言うのはよいことではありません。しかし、わずかな点差で特定の人を優遇する気持ちが審査員にないかと言うなら、それはあるでしょう。仮に、ここに同点の二人のマジシャンがいたとして、一方が、マジック界に有能だと思われるマジシャンがいたなら、おのずとそのマジシャンにわずかでもよい点数がつくことは普通にあります。

 コンテストも人間のすることですから、全く公平には決まりません。ただしそれは裏工作で決まるわけではありません。コンテスタントの中には、SAMの本大会に来る前に、既に、あちこちのローカルなコンテストに出て入賞している人もいます。そうした人たちは、マジック関係者も名前を知っていますし、演技の内容まで知っている場合が多いのです。言ってみれば彼らは本命の優勝候補者です。

 かつてのランスバートンがそうでした。子供のころからSAMのローカルのコンベンションでチャレンジをしていて、かなり名前を知られていたのです。やがてIBMのコンテストで優勝し、FISMでチャンピオンになりました。その後の活躍はみなさんご存じの通りです。まさに彼の生き方はミスターマジシャンで、マジック界が求めていたマジシャンだったわけです。

 

 仮に、関係者に名前も演技も知られていないマジシャンがいたとしても、ローカルコンテストの役員が、わざわざ彼をSAMの審査員に引き合わせて宣伝してくれるような場合もあります。ただし、あいさつされたからと言って、審査員は特別な配慮はありません。しかし、マジックの世界でこのマジシャンを支援する輪ができつつあるとなれば、多少の考慮は自然に行われます。こうして優遇されるような人が、必ずその先にランスバートンのようにプロとして成功してゆくとは限りませんが、早くから方向の見えている人で、周囲の支持も厚く、若いうちから名前の知られているようなコンテスタントなら、自然と成功は早まります。わずかな点差で、そのマジシャンが優位に立つこともありうるわけです。なぜと問われるまでもありません。その人は既に主催者の基本理念に合致したマジシャンだからです。

 

 コンテスト必勝法の一つは人の支持を得ることです。

大会組織も、審査員も、観客も、とにかく多くのマジシャンを仲間に取り込むことはとても大切なことです。仲間や先輩方の熱い支持があれば、それは既に将来を約束されたポジションに立ったようなものだからです。

 コンテストに出る人の多くは、自作のオリジナルにこだわったり、どうしたらよい手順ができて、どうしたらそれが評価されるか、つまり自分が認められるにはどうしたらいいのか、そればかり考えている人がいますが、それは極めてミクロなものの考え方です。そうした考えを持つ以前に、少し広く物を見てみることです。まず、あなた個人がマジック界から支持されているかどうかを考えてみることです。

 あなたがマジックが好きなら、あちこちでマジックを見せることです。内容が面白ければ自然と支援者ができてきます。所属するマジッククラブの会員であったり、先輩であったり、プロマジシャンであったり、とにかく、いろいろな伝手を利用して、自分を支持してくれる輪を作ることです。

 支持者のいるマジシャンと言うものは外から見ると、とても強く見えます。さらに、その後のプロ活動にも十分生かされます。プロの活動と言うのは、本来多くの支持者を持つことが仕事なのですから、アマチュアの時代から支持者を持っていると言うことは、それだけでも立派な才能なのです。

  部屋に閉じこもって、マジックに稽古をしていることだけが必ずしも成功に結び付くものではありません。無論、稽古は必要ですが、世間とのかかわりはもっと大切です。あなたやあなたの演技が人に愛されるもので、あなた自身もしっかり周囲の人を尊重する人であれば、周囲の人は自然にあなたを押し上げてくれます。

 そして、支援してくれる仲間を大切にすることです。仲間や先輩があなたを支持してくれると言うことは、善意の活動なのです。善意は無償です。無償の善意をもらったなら、あなたは感謝を忘れてはいけません。コンベンションもコンテストもすべて人の善意によって成り立っています。仮に、そこで入賞したなら、いつでもコンベンションにお返しをできるように、あなたも善意でこたえなければいけません。

 ところがマジシャンの中には、まるでコンテストは自分が世に出るための踏み台のように考えている人があります。売れたらさっさとテレビの仕事に集中して、コンベンションに見向きもしなくなる人もあります。自分が何者で、なぜマジシャンになったかをいとも簡単に忘れてしまうのです。

 コンテスト受賞はあなたの努力もさることながら、周囲の支援があなたを大きくしたはずです。ところが、コンテストで入賞すると、成功は自分の才能と勘違いする人が出てきます。たちまち欲が丸見えになって、仲間や先輩から公演を頼まれると、高額なギャラを要求したり、せっかく先輩が、演技に関していいアドバイスをしてくれても、先輩の言葉を聞かなくなったり、反発をするような人がでてきます。ようやく小さなコンベンションで一つタイトルを取ったにすぎないのに、もう天下を取った気持ちでいます。わずかばかりの成功が、たちまちその人を尊大にします。

 

 仲間の善意に対して、あなたの欲がむき出しになると、それまで支援していた人たちがぱっと離れてゆきます。いったん人が離れると、そこから先の道は急に閉ざされてゆきます。一つの成功が必ずしも次の成功を約束してはくれないのです。常に仲間の支持に感謝しつつ、一つ一つ地道にチャレンジして、常に周囲に感謝をし、いつでもお返しをしてゆける人でなければ、大きな成功はつかめないのです。

 大会の主催者や、ジャッジは自然自然とそうしたコンテスタントの心の内を見ています。少しもマジック界全体を見ずに、自分の成功にばかりこだわる人は、技はうまくても、何となく人に冷淡な演技をします。人から愛される演技にならないのです。これではいかにうまいマジシャンでも、評価が下がります。実は、そこに技術点や、オリジナリティでは割り出せない特別の点数があることを知っておくことです。

 人の善意がわかって、その中でマジシャンとして生きて行こうと思った時に、あなたは既に審査員から100点満点中5点が加算されているのです。わずかな点数ですが、オリジナルがなくても、手順構成が未熟でも、人の支持で得られる点数です。

 

  私は大田区池上の生まれです。池上にはめぐみ教会と言うキリスト教会があります。そこでは年に何回か、子供たちを集めて、お菓子やケーキを食べさせてくれました。私はキリスト教徒でもないのに、お菓子に目がくらんで、よくめぐみ協会に行きました。

 少し大人になって、「あのお菓子はいったい誰が用意しているんだろう」。と考えるようになりました。お菓子は教会が出しているわけではなく、キリストさんが出しているわけでもない。よくよく考えてみたなら、私らがおいしそうに食べている脇で、ニコニコ笑ってみている善意の大人が用意しているんだと言うことを知るのです。教会に限らず、仏教でも神道でも同じことです。周囲の善意が人を幸せにしているのです。しかも、善意は語らないから尊いのです。しかし、施しを受けた人がその善意に気づいたら、決して知らん顔をしていてはいけないのです。

 いつでも人に何かしてもらうことばかり言ってはいけないのです。賞状をもらう、トロフィーをもらったら、それはあなたの実力だけではないのです。必ず次の世代の人にその分の奉仕をしなければいけないのです。そこがわからないで、自分の欲をむき出しにして、優勝して当然、入賞しなければジャッジに毒づいて文句ばかり言っていては、この世界で本当の成功は永遠につかめないのです。

 

 次に、オリジナリティや手順構成に関してお話ししようと思いますが、今日は基本的なことをお話しして、もう紙面が一杯一杯になってしまいました。この先は二、三日後にまたお話しします。