手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

指導と言う名の金もうけ

 今から15年前のことになります。

私はハワイのマジックコンベンションに出演しました。

とても小さなコンベンションで、参加者は300人程度だったと思います。

 私はそこで、ステージとクロースアップ、それにレクチュアーの3つを依頼されました。正直なところ、私にそれほど多くの期待をかけてもらうのははなはだ荷が重かったのです。3つも用事を引き受けたなら、ゆっくりハワイのホテルで食事をすることも、昼にラウンジでゆっくりアルコールを飲むこともできません。正直面倒だなぁ。と思っていました。

 私は二十代からずいぶん多くのマジックコンベンションに出演してきました。FISMはコンテストには一度も出ていませんが、3度ゲストとして出演しました。楽しい思い出では数々ありました。でも、正直なところ、40代あたりから私は、コンベンションに出演することにあまり強い意欲は感じなくなりました。

 確かにマジック愛好家の中で、私のマジックを評価してもらうことは誠に名誉なことではあります。しかし、やはりプロとして生きて行くなら、マジックの理解者ばかり相手にしていては活動が狭すぎます。もっともっと外に向かって生きて行くべきだと考えていました。むしろ、コンベンションに出演するときは、その中で稼いでやろうなどとは考えずに、マジック愛好家や若手に食事やアルコールをご馳走して、次に育ってゆく人を応援してやらなければいけない。そんな風に考えるようになりました。

しかし思いとは裏腹にハワイのコンベンションは多忙でした。

 

 まず初日は、クロースアップでお椀と玉を演じました。おわんと玉は、カップ&ボールの日本版と言ったもので、日本の古典ですが、それを私がアレンジした作品です。私の演技はよほど珍しかったようです。演技が終わると、スタンディングオベーションになりました。無論私は最高の気分でした。

 

 その翌日はレクチュアーです。レクチュアーの講師は、私とダロー マーティネスでした。ダローはアメリカで看板のクロースアップマジシャンです。そのダロー-が朝、私が朝食をとっている時に寄ってきて、「シンタローあなたはアメリカでは有名だ。やはりあなたがレクチュアーの最後を締めるべきだ、ぜひ私を先に出させてくれ」。

 そんなふうにダローにした手に出られては嫌とは言えません。これも名誉なことと思い、私は後に出ることにしました。しかし、ダローが一体どんなレクチュアーをするのか興味があります。少し早く行って、先に自分のセットを済ませ、そのあとでゆっくりダローの指導を見ようと思い、早めにレクチュアールームに行きました。

 驚いたことにそこに既にダローがいました。彼はビニール袋に入った、パケットカードをたくさん持参していて、長いテーブルに順に商品を並べていました。そして一作づつ値札を書いていました。恐らくカードのトリックだけでも30品くらいあるでしょう。それに指導用ビデオ、ノート、あらゆる販売物がびっしり並んでいます。

 彼はひたすら値札を書き続けています。そしてテーブル一杯に商品を並べた後、私の方を見て、私が商品を並べるスペースがないことに気づいたのか、「オオ、ソーリー、シンタロー、君のスペースが必要だったね」と言うので、「ダロー、心配はいらない。私は商品やビデオは販売しない。なにもないから、君のやりたいようにやっていいよ」すると彼は驚いた表情をして。「なにも販売しないのか」とつぶやきました。

 

 さて、ダローのレクチュアーが始まると、彼が一つ一つマジックを解説してゆきますが、必ず解説が終わるたびに、「このトリックがこれだ」と言ってビニール袋を持ち上げ、値段を告げました。つまり彼のレクチュアーは、習っただけではできないものばかりで、トリックを買わなければできないものだったのです。参加者の中には、中学生や高校生のマジック愛好家がいます。彼らはコンベンションの参加費を払うのがやっとで、トリックは欲しいけど買う余裕はありません。多くの受講者は、順にマジックの解説をしつつ、商品の宣伝をしてゆくダローのスタイルを見て、テーブルの上に並んだ商品の数だけこの動作が続くんだと観念し、レクチュアー会場は何となく重苦しい雰囲気に包まれてゆきました。

 一時間のダローのレクチュアーが終わり、販売時間になり、大幅に休憩時間をオーバーしてようやく私の出番です。私の指導内容は30品目なんてありません。シルク、お札、カードマジックの3つだけです。シルクは天海のシルクバニッシュです。参加者はほとんどシルクを持っていません。そこでみんなにティッシュペーパーを配り、ティッシュペーパーを丸めて、シルクのハンカチに見立てて、シルクの消し方を教えました。天海特有の難しいハンドリングですが、時間をかけて教えると、みんなできるようになりました。

 アメリカのレクチュアーと言うものは、解説はごくあっさりとしていて、あまり込み入った種明かしはしません。もっと詳しく知りたければ、レクチュアーノートなり、ビデオを買いなさい。と言うことです。私のように、手を取って教えると言うのは、個人レッスンの範疇になり、全く別予算の指導法になります。私にとってはそんなことは関係ありません。何とかみんなができるように懇切丁寧に指導をしました。

 次のお札は、キャッシュカードを裏表改めて、手の中で広げるとお札に変わるものです。私のアイディアで珍しいものです。これもみんなにカードと1ドル札を持たせて、受講者と一緒になって何度も稽古をしました。すると、みんなできるようになりました。そしておしまいに、簡単なカードあてをしました。以上3つが私のレクチュアーでした。私が、「それではこれで私のレクチュアーは終わりです」。と言うと、参加者の中から、「シンタロー商品はないのか」と質問されました。「商品なんてないです。シルクとカードなら皆さんの家に帰ればあるでしょう。あえて売るものなんてありません」。「それならビデオはないのか」。「ビデオが欲しいなら、ジェームス吉田さんのマジックショップに私のビデオがあります。そこで買ってください」。「レクチュアーノートは」「今見た通りです、教えたことはみんなあなた方の頭の中にあるはずです。それで十分ではありませんか」。

 ここで多くの人が、「まったく物を販売しないレクチュアーなんて初めてだ」と言って、ほぼ全員が立ち上がってスタンディングオベーションが1分以上も続いたのです。私は、正直驚きました。そのあとは参加者が寄ってきて、みんなが、「最近のレクチュアーはディーラーショウなのかレクチュアーなのかわからないようなものばかりで、少々失望していたんだ。シンタローのレクチュアーは素晴らしかった、これが本当のレクチュアーだ」とみんなから褒められました。

 実はこうしたレクチュアーこそ私のやりたかったレクチュアーだったのです。この道でどうにかなったマジシャンが、後輩のために時間を割いて指導をする、そこに見返りは一切求めない。これが本来の指導であろうと思ったのです。それが実践できた私は幸せだと思いました。

 

 長々自慢話めいた話をしましたが、私が言いたいことは何かというなら、コンベンションと言う場は小銭稼ぎの場ではないと言うことです。無論、ディーラーやメーカーなら、利益を上げることが目的ですから、商売するのは当然です。しかし、プロマジシャンは、既にギャラをもらってコンベンションに来ているのですから、コンベンションではあくせくせず、マジック愛好家のために奉仕をする気持ちでレクチュアーをすべきです。後輩から金を儲けようとするのは卑しい行為です。プロマジシャンならもっと高潔に構えていたいものです。

 

 このハワイのコンベンションは私にとって、もう一つ幸せなことがありました。三日目のゲストショウで私がクロージングアクトとして蝶を飛ばしました。私が出る前までの観客の様子は、アメリカ人らしく、口笛を鳴らしたり、床を足で踏んだりして賑やかに見ていました。ところが、私が出てきて演技をすると、全く物音がしなくなりました。あまりに静かです。その時私は、「まずかったなぁ、アメリカ人にはこの芸は地味すぎたかなぁ」、と内心反省をしました。終わりに差し掛かって吹雪が散るところでも普通は拍手が沸き起こるのですが、反応はわずかです。「これは失敗だっかな」。と思いました。しかし、演技が終わったあとに、じわじわと拍手が起こり、やがて観客が立ち上がり、しまいには全員総立ちになって長い拍手が続きました。

 そのあと楽屋に次から次と人が訪れて褒めてくれました。主催者がやってきて、「スタンディングオベーションになるマジシャンはこれまでも大勢いたけれども、クロースアップもステージもレクチュアーまでも、三つものスタンディングオベーションをさせたマジシャンはシンタローだけだ」。と褒めてくれました。

 正直この時は舞台人として、人生で最も充実し、幸せを感じた時でした。演技がうまく行ったと言うことも喜びではありますが、それよりも何よりも、私がこう生きて行きたいと言うことを実践して、それが愛好家から評価されたことが嬉しかったのです。

 

 話を戻して、私は指導と言うものは、本当に習いたいと思う人に、自分の人生で工夫したこと、考えたことを素直に、包み隠さず伝えること。そしてそこに見返りを求めない。それが正しい指導なんだと思います。しかも、教えることはマジックの内容も大切ですが、それよりも、指導家の姿勢、マジシャンとしての人生、それらすべてをひっくるめて正直に見せることが指導なんだと思います。

 そんなことを考えながら、最終日の晩、仲間とラウンジでスコッチ&ソーダを飲みながら遅くまで談笑をしました。遠く浜辺の波の音を聞きながら、気心の知れた仲間や、若いハワイのマジシャンと話をするのは幸せなひと時でした。