手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

種明かしと指導

 

 今回は種明かしと指導について私の考えをお話ししましょう。初めに申し上げますが、種明かしと指導は全く別物です。しかし、種明かしをするマジシャンがしばしば言い訳として、「自分は指導をしているんだ」と主張する人がいます。

 かつて、テレビの種明かし番組が頻繁にされた時でも、我々がテレビ局に 苦情を言いに行くと、決まってプロデューサーや、直接種明かしをしたマジシャンが同じことを言いました。それは根本を取り違えています。

 マジックは秘密を公開しないことによって成り立っている芸能ですから、むやみに種明かしをしてよいと言うものではありません。それが「指導を目的とした種の公開である」と言えば種明かしが許されると言うのはおかしなことです。指導は種明かしの免罪符ではありません。指導であるなら、そこにはTPOが求められます。つまり場所柄をわきまえてやれ、と言うことです。守るべきルールを守って公開しない限り、種明かしは指導にはなりません。

  

 ネットはだれでも無料で見ることができます。しかも24時間いつでも見られます。つまりネットは、人の集まる広場で、だれかれ関係なく、無制限に種明かしをしているのと同じことで、無条件に際限なく種が公開されてしまいます。こうした場所でマジックの種を公開することがそもそもの間違いです。

 その日の晩にどこかのレストランでマジックを見たお客様が、家に帰ってネットで検索すれば、瞬時に種仕掛けがわかります。いや、家に帰らずとも、マジックを演じている脇で、スマホを検索すればすぐに解説が出てきます。

 こうまでおおっぴらに公開されれば、もうマジックは不思議を生み出す芸能ではなくなってしまいます。私は、これまで度々、ネットのマジック指導は指導ではない。種明かしだと申し上げました。指導と種明かしはどこが違いますか。指導には、いくつかのルールがあります。ここに3つのことを申し上げましょう。

 

 一つは、指導をする場合、受講者の習いたいと言う意志を見極めて教えなくてはいけません。「ちょっと知りたい、ちょっと秘密をのぞいてみたい」は誰でも思うことです。そうした人と、「マジックを覚えて演じられるようになりたい」。と言う人とは明確に区別しなければいけません。

 単なる興味でマジックを知りたいと言うレベルの人に、マジックを教えてはいけません。そうした人は本来、受講者ではありません。仮に教えたところでマジックの練習などしません。彼らは演じる側に回ろうとは考えていないのです。彼らはいわば、マジックの良いお客様なのです。種さえ教えなければ何度でもマジックを見に来てくれる善意の人たちなのです。

 その人たちに種を教えてしまうと、「なぁんだ、マジックなんてこんなものなのか」と、それまで面白がっていたものがいっぺんに興味を失ってゆきます。しかも、さっきまで善意の人だったものが、性格が豹変して、脇で種を言うようになったり、「マジックなんてレベルが低い」などと言ってマジシャンを軽蔑するようになります。むやみに種を教えたことが全く逆効果になって、マジックを演じるうえでむしろ障害になってきます。それ故に、誰でも彼でも種を教えてよいというわけではないのです。

 初めに、習いたい人の意思を確かめると述べました。それは、言葉を変えて言えば、マジックをやりたいと言う人に義務を教えることです。例えば月謝を取る。あるいは、技術の習得には練習が必要で、時間がかかると言うことを事前にしっかり教える。また、道具が高額である。などなど、習得するために越えなければならないハードルをしっかり教えて、理解させなければいけません。

 マジックを学ぶために、果たさなければならない義務があることを知ると、本来、興味の薄い人は自然とマジックから離れて行きます。それでよいのです。彼らには良いお客様であってほしいのです。元々マジックは不向きな人たちなのですから。

 例えば、ほとんどの子供はマジックが大好きです。私がマジックショウを演じた後に、よく、「マジシャンになりたい人」。と子供に尋ねると、半分以上の子供がさっと手を上げます。しかし、実際に子供がマジシャンになって行く確率は一万人に一人もいないでしょう。野球選手や、パイロットや、漫画家になる確率よりも、マジシャンになる確率は低いでしょう。なぜかは明らかです。覚えるために多くの時間を練習に費やさなければならない。いろいろ費用が掛かる。そもそも自分に才能がない。いろいろな理由がわかると、大多数の子供はマジシャンになるこをあきらめます。ここで多くの子供があきらめるから、世の中はマジシャンだらけにならないのです。

 あらゆる障害を乗り越えてでもマジックを学びたい、とする人がいたなら、そうした人たちにはマジックを教えてもいいでしょう。

 

 しかし、ネットでの種明かしは、習いたい人と、種を知りたいだけの人を区別してはいませんね。ネットは誰かれ関係なくむやみに種を公開しています。そこに資格を問いません。人を育てると言いながら、同時に本来良いお客様になってくれる人たちにまで種を公開して、失望させています。たった数人、数十人のマジシャンを育てるために、数万人、数十万人の観客を失っているのです。なぜそんな効率の悪いことをするのでしょうか。私は、前にマジック界は崩壊寸前の状況にあると言いました。その理由の一つがこれです。今やマジックの価値は只になってしまっています。只で教えて、なおかつ、数十万人のマジックに無理解な人を育てているのです。マジシャン自らが寄ってたかってマジックを無価値にしています。これは指導ではなく種明かしです。

 ところが、ネットでマジックを覚えている少年少女にすれば、私の言っていることはまるで、頭の古い閉鎖的な爺さんのたわごとだと思っているでしょう。せっかく自分たちが無料で習える機会を得たのに、その道を閉ざしてしまう頑固爺いが邪魔をしていると思っているでしょう。その通りです。私は頑固爺いなのです。

 なぜ私がネットの種明かしに反対するかは明快です。今の状況が続けば、数人のマジシャンと、何百人かのアマチュアマジシャンが育つかも知れません、しかし、そのマジシャンの周りには、数十万人の種を知っている人が育ってしまいます。つまり、せっかくマジックを覚えた少年たちがいざ、マジックを見せようとすると、みんなに「それ知っている」。と言われ、せっかくマジックを披露しようとしても、お客様がいなくなってしまうのです。安易に種を教えると言うことは、観客も安易に種を知ってしまうのです。みんなに、「そんなの古いよ」「誰でも知っているよ」。と言われ、結果、マジックは光を失ってゆくのです。

 本当にマジックを習いたいなら、理解者だけが入場できるようなネットを作って、そこで指導をしたらどうでしょう。それが本来の指導だと思いますが違いますか。

 

 二つ目は、相手のレベルを見て、どこまで教えてよいかを見極めなければいけません。際限なく何でも種明かしをしてよいというものではないのです。

 全くの初心者と、数年マジックを経験している人と、プロを目指している人とでは指導内容が違います、プロを育てようとするなら、観客との接し方から教えなければいけません。マジックがうまいまずいを言う以前に、まず、マジシャンが人に愛されていなければ仕事として成り立ちません。いかに人から愛される人格を身に着けるか、それをどう指導しますか。指導はどこにターゲットを絞るか、何を教えるかが大切なのです。

 全くの初心者のための指導でも、習う人に、あらかじめゴールを示すことが大切です。それがなければ無制限な指導をすることになります。素人を対象にしたカルチュアーセンターでのマジック指導ですら、10回とか20回などと区切って指導をする場合、カリキュラムを作ってどこまでできるようになるかを示します。それが、一年、二年と続いてきたなら、もっと規模の大きな方向を示さなければならなくなります。長くなればなるほど指導家としての資質が問われることになります。

 受講者の能力や、才能を見極めて、順に順にレベルアップを図って指導してゆくことはとても大変な仕事です。しかしそれが指導なのです。

 特にネットで問題視されていることは、実際、プロで活動しているマジシャンが演じているトリックを平気で公開してしまうことです。ネットで種明かしするマジシャンはほかのマジシャンを守っていないのです。マジシャンの側からすれば大変に迷惑です。マジシャンがそのトリックに到達するまでに、数年、あるいはそれ以上の年月を費やしてしてやっと辿り着いたであろう作品を、いとも簡単に、初心者にまで公開してしまうのは無謀です。

 それを習った少年少女の側からすれば、「いいマジックを覚えた」。と言って満足するでしょう。しかし、それが数年もしないうちに、今度は自分がマジックを演じる側に立った時に、ネットの種明かしマジシャンによって、彼らが演じようとするマジックを種明かしされるのです。その時初めて、ネットの種明かしマジシャンが、善意の人ではないことを知るのです。

 指導家が自分の知っていることを片っ端から教えれば、それで人が育つと言うものではありません。残念ながらネットの種明かしは、初めに種ありきで、受講者を本気で育てようとしているようには見えません。しかも種を明かしたがるマジシャンが増える一方です。受講者の都合など二の次になっています。結局やっていることは種明かしで、指導とは別物です。

 

 三つめは、指導している人の資質です。 

 ネットで種明かしをしているマジシャンが何者なのかがわかりません。この文章を書くために何人かのネットで種明かしをしているマジシャンを見ましたが、私の知っているマジシャンが一人もいません。無論、マジシャンはたくさんいますから、私が知っていようがいまいが、どこかでマジックの活動をしているのでしょう。しかし、この世界でどうにか名前が出た人なら、名前くらいは聞いています。しかし、誰も知りません。どんな演技をする人で、どんな活躍をした人なのか、情報を知る手立てがありません。

 カルチャーセンターの講師ならば、ギターリストでも、お茶、お花の先生でも、それぞれ経歴が書かれていて、受講生は経歴を評価して集まってきます。経歴があって、教えるわけですから、指導の内容も、最終目的も明確です。受講生はその先生になりたいと思って集まるのです。これは指導課と受講者の良い関係と言えます。

 

 しかし、ネットの種明かしは、教えている人がマジシャンなのかどうかもわからないのです。今回ネットで種明かしをしている人の演技を見ました。どのマジシャンも、やっていることは上手です。好きでしているようですので、相当やりこんで手慣れた人もいます。

 しかし、まず、10分20分と言った、当人のメインアクトを見せてください。教えるよりも前に、そのマジシャンが、何をマジックと考えているのか、マジックを駆使してどんな世界を表現しようとしているのか、そしてその演技がどこで評価されたのか、音楽の世界でも、演劇の世界でも、そこの評価のある人が指導家になるのではないですか。経歴が評価されて、そのマジックに憧れている人がネットを見て習いたいと思うなら、受講生と指導家がつながります。(それでもネットでマジックの種明かしをしてはいけません。ネットは種明かしをする場ではないのです)。

 しかし、ネットマジシャンの実力は未知数ですし、この社会で評価がされた経歴がありません。本当に教えるべき力があるのかどうかも分かりません。

 

 種明かしをしているマジシャンは、指導をするよりも先に、まず、この社会で自身の演技が評価を得ることを第一にすべきでしょう。まずそこをクリアしてから指導をされてはどうですか。それなくして、種明かしをすることでわずかばかりの収入と、名前を知られるなどという、次元に低い活動をしていると、自身の夢がいつまでも達成できず、種明かしが、自身のフラストレーションのガス抜きになってしまって、本来マジシャンがしなければならない、独自の幻想の世界を作る。という目的がいつまでたっても達成できなくなってゆきます。

 ネットの種明かしマジシャンが、マジックが好きで、相当やりこんでいることはわかります。しかし、種明かしを見る限り、演技はすべて段取りだけです。マジックが夢を作り上げてはいません。種明かしは、手とカードばかりが映されます。そこにはマジシャンの心の表現もなければ、語りかけもありません。この映像を見て、種ばかり覚えた受講者は一体何者になろうとするのでしょうか。やはり同じようにネットで種明かしをするマジシャンになってゆくのでしょうか。 

 無秩序、無資格の状態で、無制限にマジックの種が公開されている現状は、この先取り返しのつかない問題がいくつも出てくるでしょう。こんなマジックの世界は、ほかの芸能と比べたなら、とても誇れたものではありません。少しも明るく楽しい世界に見えません。

 自身で独自の世界が作り出せず、マジックの財産を売り食いしているだけにしか見えません。恥ずかしいですね。種明かしマジシャンは才能の無駄遣いをしています。早く自分のしていることに気づくことです。

 

 

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