手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

牡丹雪

牡丹雪

 

 昨日(5日)の午後から東京では雪が降り始めました。霙(みぞれ)のように、水分が多く、窓越しに見ても雪が大粒でよくわかります。これは牡丹雪(ぼたんゆき)でしょう。牡丹の花のように分厚く大きな花弁(はなびら)が空から次々に舞い降りて来ます。無論、雪の結晶です。

 この雪では、降ってもすぐに溶けてしまうだろう。と思っていると、次から次と大粒の白い花弁が降り注ぎ、夜に及んでかなり積もりました。向かいの家の二階を見ると、10センチくらい積もっています。東京では十分大雪です。

 東京は毎年、二回か三回雪が降ります。大概は数時間降って、大して積もらずに終わります。そもそも東京の12月は、あまり寒くなく、乾燥していますので、雪はほとんど降りません。降っても積もることは珍しいです。一月も同様に快晴が多く、雨がほとんど降りません。たまに雪が降っても翌日には消えている場合が多く、なかなか雪景色と言うほどには積もりません。

 積もる可能性のある雪は二月です。二月の寒い日に、雪が降ると、確実に積もります。それが10センチも積もると、転倒する人、自動車の玉つき事故や、タイヤが夏タイヤの儘で走行した車が、立体交差が上がれなくなり、渋滞を招いたり、追突をしてあちこちで事故が多発します。

 私の家は環七と言う幹線道路に近く、しかも消防署がすぐそばにありましたので(今は数百メートル駅寄りに新しい消防署が出来て移動しています)、これまでは、雪の日は早朝から救急車が発動して賑やかでした。

 さすがに以前のようにひっきりなしの救急車の音は聞こえませんが。それでもこうしてブログを書いていると、時折、救急車のサイレンが聞こえて来ます。多くは歩いていて転倒して救急車のお世話になります。

 誰でも雪を見れば、「ここは気を付けて歩かなければいけない」。とは思うのですが、厚着をして動きが鈍かったり、重い荷物を持っていたり、傘をさしていたりして手が使えなかったりして、そこへ信号の変わり目で、急いで横断歩道を渡ろうとすると、いきなり滑って転倒します。みんなわかっちゃいるけど転倒するのです。

 然し、転ぶと言うことを簡単に考えていると、それが大事件につながります。ちょっと転んだだけなのに、骨折していたり、頭を強く打ったりして、起き上がれなくなる時があります。特に歳を取って来ると危険です。普通に歩いていてもフラフラするのに、雪の中で両手に荷物を持って転ぶと、防御が出来ませんから、思いっきり体を打ちます。転んだくらいなんともない、と思っていても、何気ない転倒が入院につながったりします。外出の折は重ねてご注意ください。

 

 和装は、履物に、雨下駄とか、雪下駄があります。雨でも雪でも草履や雪駄(せった)では上手く歩けません。雪駄とは文字の通りならば雪用の履物のはずですが、棕櫚(しゅろ)と言う植物繊維を鏝(こて)を使って熱しながら編み込んであるのですが、水にぬらすと覿面に形が崩れてしまいます。

 雪駄そのものはかなり高価なものなので、一回、雪道を歩いただけで棕櫚が惨めにほぐれてしまうと、実に残念です。雪駄は、表は畳のように、棕櫚を丁寧に編み込んであって、裏は鹿革を厚く張ってあります。鹿革は水を吸い込まないため、丈夫ですが、実際、1㎝程度の鹿革が貼ってあっても、雨や雪ではほとんど役に立ちませんし、雪の際には鹿革はつるつる滑るためにとても危険です。とても雪用の履物とは言えません。

 

  「初雪や、二の字二の字の下駄の跡」。情景が浮かんで実に風流です。

 実際、江戸時代などは、雪用の履物は、高足駄と言う、歯の長い高下駄を履いたようです。今でも応援団が履いているあの下駄です。あれなら雪に沈み込むようなことはないでしょうが、実際雪道を高下駄で歩いてみると分かりますが、高下駄はとても危険です。

 なんせ足の親指と人差し指のみで重い足駄の鼻緒を挟んで歩くのですから、慣れないと簡単に足から離れてしまい、雪に足駄を取られてしまいます。一足ごとに下駄を雪の中に置いて来るような歩き方では、前に進みません。

 しかも、昔の人とは違って草履や下駄を履く習慣がない現代の人は、親指の周りの皮膚が弱く、鼻緒が指に食い込んで指の間が擦り切れます。

 夏に浴衣を着て、雪駄履きで花火大会などに行こうとしゃれこんで行くと、帰りには、足の親指の付け根が擦り切れて、血が出て来て歩くのも困難になります。慣れなければ足袋を履いて雪駄を履けばよいのですが、そんなことは初めて浴衣を着る人には分かりません。何となく裸足雪駄は粋に見えますから、みんな真似をするのですが、いざと言う時のために懐に紺足袋を一足用意しておくとよいでしょう。

 

 女性の和服は、雨用のコートを着て、雨下駄(あまげた=下駄の先に爪皮と言う雨除けが付いています)を履き、蛇の目傘(じゃのめがさ=番傘より細く色も派手めな傘)を差して外出します。たぶん今日もそうした女性を銀座や浅草で見ることがあるかと思います。

 雨着は、泥の跳ねを後で拭いたり、傘も下駄も翌日には日陰に干して、乾かさなければなりませんので手入れも大変ですし、どれも高価です。一式揃えて、雨、雪の日に歩くのは大変な贅沢です。ところが、和服の好きな人は、それが楽しいのです。何とも風情があって、蛇の目を目深に差して、雪の中を歩く女性の姿は竹久夢二の世界か、広重の浮世絵の姿そのものです。

 和服は不便この上ないものですが、その美意識は極上の贅沢なのです。さて、今日も銀座当たりで、極上の世界が見られるでしょうか。せめて「二の字、二の字の下駄の跡」だけでも見られるといいのですが。

続く

両家顔合わせ

両家顔合わせ

 

 一度離婚した娘が何年も私の家に住んでいたのですが、再度彼氏を見つけて、結婚をすることになりました。一昨日(3日)は互いの両親との顔合わせと言うことで、銀座の料理屋さんで会食をしました。

 彼氏は真面目な勤め人で、もう何度か会っています。私が反対する理由などありませんから、娘が良いと思うなら結婚することに異存はありません。相手方のご両親も、穏やかそうないい方々でした。二人は既にアパートを借りて暮らしています。

 数年前に前の夫と離婚したときには少し心配しましたが、その後、新しい彼氏との出会いがあって、結果、全ては上手く行っているようで良かったと思います。

 

 私の20代30代はとにかく忙しく、昭和63年に芸術祭賞を頂き、平成元年にチームを株式会社にし、同じ年に子供が生まれ、平成二年に今の事務所兼自宅が建ちました。全く、「あれをやって見よう」。「あれを手に入れよう」。と願えば何でも手に入り、毎日毎日が忙しく、順風満帆な人生でした。

 

 私の人生の中で娘と一緒に生活した30代半ばから50代半ばまでが最も充実した人生でした。特に娘の子供のころは毎日が宝石のように輝いていました。子供を持つと言うことはそれだけで大きな喜びです。私は、マジシャンや芸人の中で結婚をしない、子供を持たないと言う人が多いことを残念に思います。縁があって彼女との付き合いが生まれたなら、結婚はしたほうが良いと思いますし、子供が出来る状況があるなら、ぜひ子供を作った方が良いと思います。

 子供を持つと毎日毎日が気付かされる日々です。親が子供をどう思っていたのか、どう育てるべきか、それにつれて自分がどう生きなければいけないか、などなど、毎日学ぶことばかりでした。仕事も大事ですが、矢張り娘と話をしたり、子育てをすることは二度と手に入れることのできない貴重な日々でした。

 6歳になってからはマジックの稽古も始めましたし、日本舞踊も始めました。行く行くは私の跡継ぎになって手妻師になってくれたらいいと願っていました。娘は幸いに、病気もせず、反抗期もなく、どこへ行くにもついて来て、熱心に話しかけてくれました。実に素直に育ちました。

 但し、それで私の仕事が順調なら申し分のないことでしたが、まだ娘が幼いときに、バブルが弾けて、一気に仕事を失い。日々どうして生きて行ったらいいかと苦しい思いをしました。チームは縮小しなければならず、イリュージョンチームも方向転換を余儀なくされました。

 でも、私にとってはその時が最も幸せな時でした。なぜなら仕事がないときは、毎日、娘と散歩をして、ボール投げをしたりシャボン玉をしたりして遊べたからです。

 ひな祭りの時にはお雛様を飾りましたが、私の買ってきたお雛様はとても小さなもので、段に飾るほどの物でもありません。そこで、娘の持っているぬいぐるみ人形を全て並べて、5段飾りを作りました。赤いビロードの上に全ての人形を並べると、それは相当に立派なひな人形になりました。無論娘は大喜びで、近所の子供を連れて来て、記念写真を撮りました。

 クリスマスの時には、娘は自転車を欲しがりました。セーラームーンのキャラクターの付いた自転車です。「どうしても欲しいんだったら、手紙を書いて、サンタさんにわかるように窓ガラスに張っておくといいよ」。と言うと、娘は素直に手紙を書いて、3階の窓に張りました。

 そこで私は、事前に買っておいたセーラームーンの自転車を深夜に物置から出してきて、三階の居間に上げておきました。翌朝、娘が4階の寝室から降りて来て、自転車を見た時の喜びは物凄いものでした。「わー。本当にサンタさんが来てくれたんだ。でもどうやってここまで上がって来たんだろう」。「それはお空からトナカイに乗ってやって来て、隣の屋根の上に橇を停めて、窓を開けて入って来たんだよ。きっと」。「そうなんだ、でも、屋根が傾いていて転がらなかったのかなぁ」。「そこはサンタさんもプロだからうまくやったんだろう」。だんだん色々な矛盾を言い出して、私も答えにくくなります。それでも「嬉しい、サンタさんありがとう」。と空に向かって手を合わせます。こんな純粋な思いを持った子供を見られることはこの上ない喜びです。

 

 マジックでも随分一緒に仕事をしました。NHKにも娘は大夫で水芸をしました。SAMの創立百周年記念コンベンションが、ニューヨークのヒルトンホテルでで開催され、私はゲスト出演。そこで貰うギャラで女房も娘も連れて行き、娘はジュニアコンテストに出演させました。そして優勝しました。盾と賞金300ドルを手に入れました。女房と娘はすぐに賞金を持って五番街にお土産を買いに行きました。

 文化庁の学校公演にも連れて行き、日本中の学校を回りました。終演後校庭に停めてある車に乗ろうとすると、子供たちが追いかけて来て、「マジシャンだ、マジシャンだ」と言って、握手をしたがりました。ものすごい数です。一人ひとり握手をしていると、そこへ娘が歩いてきました、すると子供が、「あっ、綺麗なお姉ちゃんだ」。といって、全員そっちに行ってしまいました。子供でも奇麗なお姉ちゃんの方がいいらしいです。

 NHKの仕事で、上海万博のジャパンウイークのショウに出演した時も、娘が手伝いました。仕事はまるで国賓扱いで、素晴らしいホテルに泊めてもらい、どこかに行くときには、通訳と専用の車が付きました。

 舞台は5000人収容のメインホールです。そこで私は蝶を飛ばしました。蝶はホールの奥に座っていてはほとんど見えませんが、背景の大画面で映し出されます。正面に温家宝主席のご夫妻が座っています。終演後楽屋を訪ねてくれました。いい思い出です。

 

 いろいろなことがありました。思い出は走馬灯のように浮かんでは消えて行きます。気が付くと、顔合わせの会食はもう終わりに近づいています。こうして食事ができて娘を送り出せることは幸せなことです。店の外に出て、しばらく銀座通りを歩き、その後、久しぶりにマジックランドに行ってみました。

 お客さんはちらほらいました。私が求めるシンブルとファンカード、薄型のミリオンカードは欲しかったものがありません。連絡があればまた出掛けようと思います。

 そうそう、ついでに日本橋の榛原に行って、蝶の紙を仕入れなければなりません。只、買うとなると、一締めを買うことになります。一締めと言うのは1000枚です。紙も1000枚まとまると相当に重いのです。今日は会席で一杯飲んでしまいましたので荷物を持って歩くのは面倒です。どうせ行くなら、弟子を連れて、店の場所を教えつつ、一締めの紙を持ってもらわなければいけません。これもまた今度にします。

続く

 

敗者のプライド

敗者のプライド

 

 日本に来る観光客の一位が韓国人、二位が中国人、三位が台湾人だそうです。コロナ以前は、一位が中国人だったのですが、このところは韓国が一位になっています。彼らは日本のことを良く知っていますし、日本文化も、日本の製品も大好きです。

 そうなら、日本が好きかと言うと好き嫌いに関しては少し複雑で、台湾人は日本が大好きでも、韓国中国は複雑な思いを持っています。韓国人中国人が日本を好きと言えない理由は歴史的に根深い事情があります。

 そもそも中国人には今でも中華思想が根深く残っていて、中国こそ世界の文化の中心地、最も高度で優れた国家だ、という意識を強く持っています。実際かつてはその通りだったでしょう。その思いが崩れ始めたのは、19世紀になってからでした。阿片戦争で、イギリスに敗れて、香港を失って以降。中国の優位が崩れ始めます。

 その後、西欧各国に不平等な条約を結ばされて、中国の威信は低下します。然し、まだ欧米の先進国に敗れてもアジアの雄であると言う自負はあったのでしょう。その後になって、日清戦争によって、日本に完敗して、台湾を盗られ、莫大な賠償金を盗られたことは、中国人の自尊心は粉々に砕かれたのです。

 日本にすれば、アジアの中でいち早く明治維新を達成して、西洋の産業を取り入れ近代化を図って、日清戦争日露戦争に勝利して、輝かしい成功を達成したのですが、それは同時に中国の国力の低下を意味したのです。日本に負けて中国は世界の進歩から取り残されていることを知りました。日本の成功が、中国の劣等意識を強く植え付けたのです。

 その後、昭和の末期から、中国が徐々に発展を始めました。それは欧米や日本の協力があってなされたことだったのですが、経済大国になった中国は、欧米や日本の支援のことは語ろうとはしません。そればかりか、日本に敗北した19世紀のことは、日本が一方的に中国を収奪した歴史だと語って、すべて日本のせいにしています。自国の無知蒙昧が欧米に付け入られたことを認めようとはしないのです。

 中国がそうなら、長らく中国に隷属していた朝鮮半島の国は同様に自国の文化や産業の遅れを認めようとはしません。いや、多少、産業の遅れは認めたとしても、稼げるようになって、国民が高収入になったなら、もう世界の先進国と肩を並べたと勘違いをします。金を手に入れたから先進国ではないのに、自国に都合のいい数字やデーターを並べ立てて、しきりに自国の優位を語ります。

 でも現代の社会は、民主主義が根付いて、平等がもたらされなければ、先進国にはなれないのです。中国は、2000兆円もの不動産の焦げ付きをきっちり認めて、処理しない限りまともな国にはなれません。然し、2000兆円もの赤字は埋め切れるものではありません。元々、共産主義国が、資本主義の考えを接ぎ木して、経済成長をしてきた国ですから、仮に成功したとしても、必ず大きなひずみを生みます。

 元々共産主義は、全ての土地は国有です。そうであるなら、個人や、企業が土地を担保に金を借りることなどできないのです。然し資本主義の原点は資本がなければ産業が育たないのです。資本とは基本的に土地建物です。土地建物を担保に資金を産業に回すことで国は発展するわけです。共産主義が発展しないのは土地を共有して、個人使用を認めないからです。

 つまり奈良、平安時代と同じ、公地公民制度を敷いているから、経済が発展しなかったのです。ところが現実に中国では、それが出来るのです。なぜかと言えば、土地の売買は出来なくても、土地の使用権は転売できると言う、不思議な法律を作ってしまったからです。

 これは言って見れば日本の借地権法と同じです。他人の土地ではあっても、借地人は使用権の売買が出来るのです。中国は使用権を認めたことで経済活動が大きく発展したのです。ところが、商取引が進み過ぎて、経済が過熱すると、極端な金持ちと極端な貧しい人が生まれます。これは共産主義に反する社会です。

 そうなって初めて土地売買の取り締まりを始めます。ところが、経営者も、国も地方自治体も、既にべったり土地を担保に事業をしていて、しかもその大部分が焦げ付いていることに気が付いて、今や中国自体がにっちもさっちもいかなくなってしまったのです。

 物の本質を理解しないまま、目先の利益のみを追いかて経済活動をすればこうした結果に陥るのです。ロシアもかつてのスターリン時代に同じようなことをして国が危うくなりました。そしてその後制度を改めなかった結果社会主義が立ち行かなくなり、19990年にソ連は崩壊しました。

 中国も間違いなくそうなるでしょう。今ソ連と言う国が無くなったように、あと数年もすれば中華人民共和国と言う国はなくなっているでしょう。そのことは韓国も北朝鮮も同じです。中国に近づき過ぎれば、資本主義の韓国も危険なわけです。ましてや北朝鮮はすでに死に体です。

 幸い中国人も、韓国人もそのことに気付きつつあります。ひところ日本の経済低迷を見て、中国人も韓国人も「日本は過去の国だ」、「日本はもう終わった」。と言う人がたくさんいました。ところがこの一年、自国の経済が傾き出したら、そんなことを言う中国人も韓国人も、殆どいなくなりました。

 彼らのプライドは金がある時だけは強気なようです。終わって行くはずの日本が、依然として国は破綻せず、観光客はひっきりなしにやって来ますし、文化においても、大谷選手や、ゴジラが世界中に強い影響を与えています。

 正月早々能登半島で大きな地震がありましたが、だからと言って日本の経済が圧迫され、立ち行かなくなったわけではありません。大多数の日本人の生活は以前と変わりません。どこが過去の国ですか。

 今や、中国も、韓国も、北朝鮮は勿論のこと、どこも国自体の存亡そのものが怪しくなっています。そんな中で、彼らは日本に旅行して、なぜ日本の国が安定しているのかを見ているのでしょう。能登の被害を見ていながら、ゴジラが東京の町を破壊する映画を平常心で見ていられることは、日本に生まれたからこそなのでしょう。いくら経済が悪くなっても、都市が壊されても日本はつぶれません。日本人がいる限りは安泰です。

続く

ゴジラを見た

ゴジラを見た

 

 昨日、新宿の東宝映画に出かけて、ゴジラ‐1.0を見て来ました。結果を申し上げるなら、是非見るべき映画です。そもそもこの映画を単純に怪獣映画と捉えることは間違いです。爬虫類のようなゲテモノを出して、特殊撮影で観客を脅かしつけるような俗な映画ではありません。

 先ずストリーテラーがしっかりしていて、観客に強く訴えるものを持っています。日本人とは何か、人はどう生きるべきか、明快に主張が貫かれています。映画評を見ても、ゴジラを激賞する人は多く、中には、ハリウッドのやり方は間違っている。日本映画を見て、根本から改めたほうが良い。などと説教する人もあるくらいです。でも言わんとしていることはよくわかります。

 

 時代は1945年。もう日本が太平洋戦争で負けそうなころです。特攻隊に志願して、出撃した敷島(神木隆之介)が、怖気づいて爆弾を抱えたまま離れ小島の飛行場に戻って来てしまいます。そこに突然ゴジラが現れます。敷島は恐怖のあまりまともに戦えず、決断ができないまま、多くの仲間を見殺しにしてしまいます。そのため強く自責の念に駆られます。

 そうした体験を秘めて、戦後、日本戻り、闇市でかっぱらいをして暮らしているのり子(浜辺みなみ)と、のり子の連れ子との奇妙な三人暮らしをはじめます。のり子は銀座に勤め先を見つけ真面目に生きることにしました。敷島は生活のため、木造船に乗り、東京湾の機雷を見つけては機銃で撃って爆破すると言う危険な職業につきます。仕事も軌道に乗ったさ中、東京湾ゴジラが現れます。

 木造船に載せた機銃でゴジラに立ち向かいますが、全く歯が立ちません。ゴジラは、定番のように、銀座に上陸し、服部時計店などを破壊します。ここはいつものお約束ですが、今回は服部時計店の造りが良くなっています(一体何十回これまで服部時計店は破壊されたことでしょう)。

 この銀座で敷島はのり子と生き別れになります。敷島はのり子を助けられず、死なせたと、またまた自分を責めます。

 ここで一気に話は方向が変わり、機雷の除去作業をしていた、佐々木蔵之介と山田雄貴、それに科学者の吉岡秀隆が、敷島を仲間に加え、民間で自営軍を組織し、ゴジラ掃討作戦を企てます。そして、旧海軍の巡洋艦官長、堀田(田中美央)の協力を得て、旧海軍兵士を集めます。この田中美央が如何にも帝国海軍出身者らしくていい役者です。

 彼等と、スクラップになる寸前の巡洋艦に乗って、ゴジラに立ち向かいます。敷島は科学者の考えたプランに疑問を持ち、一人、戦闘機に乗ります。この戦闘機が、驚くべきことに震電と言う、大戦の末期に機銃を4基も積んだ、B29を撃墜するために作られた戦闘機で、山崎豊監督のこだわりが良く見えます。実際、敷島がこの震電に乗ったことが、素晴らしい結末を生みます。

 ここでようやく陣容が整い、巡洋艦4隻と、攻撃戦闘機一機によるゴジラ殲滅の作戦が始まりますが、もう映画は後半になっているのに、ようやくここで、ゴジラのテーマが流れます。伊福部昭ゴジラのテーマは有名ですが、元々このメロディは、ゴジラのためのものではなく、自衛隊が陣容を整えて、ゴジラと戦う時に使うための曲でした。

 が、余りに個性的なメロディのために、以後のゴジラ映画には毎回ゴジラの登場テーマとして使われるようになってしまいました。その辺は、山崎監督も承知していて、旧帝国海軍のために用意していました。然し、如何に戦争に負けたとはいえ、日本を代表して闘う船がぼろ船4隻で、護衛する戦闘機が一機のみ、何とも粗末な艦隊に、空しくテーマ曲ばかりが勇ましく流れて、そのギャップについ涙が出てしまいます。それでも胸を張って、堀田官長が指揮するさまにまたまた涙です。あぁ、大戦末期の日本軍と言うのはこんなだったのだろうなぁ。と思います。

 ゴジラのテーマ曲が立派なだけにこれでは誰が見てもゴジラに勝てないだろうと思わせます。しかし日本人は、勝算の見えない戦いに黙々と働きます。その間戦闘機に乗った敷島はまるで一匹の蠅のようにゴジラにまとわりついてゴジラを攻撃します。当人は命がけで戦っていますが、余りのサイズの小ささに涙が出て来ます。

 ゴジラの前に、人間はみな小さいのです。然し、それでもへこたれません。家族を守るための戦います。それを見ていてまた涙です。

 

 あぁ、何と言うことでしょう。ゴジラを見て、涙また涙です。この映画は戦争を賛美するものではなく、だからと言って安易な反戦映画でもありません。全く説教臭さはないのですが、確実に学ぶことは多いのです。

 ヒロインののり子役の浜辺みなみが、始めはかっぱらいで汚れた女を演じていたのですが、敷島に影響されてからは徐々に真面目に生きるようになり、それにつれて美人になって行きます。子供を育てること、家庭を持つことの大切さを学びつつ、人として変化して行くさまが見事です。

 一言で言うなら、「これが映画」です。面白くて、楽しくて、そして人は何をしなければならないかを問い続けています。イデオロギーの押し売りもなく、ただただゴジラをどう倒すかのストーリに集中しています。その単純さが明快でいい映画なのです。

 いや、久々いい映画を見ました。アメリカやイギリスで人気が沸騰している理由が良くわかります。

 山崎豊監督は、百田尚樹さんの「永遠のゼロ」を映画にした監督です。ここでは真っ向から戦争に向き合っていますが、これもいい映画でした。あの時、特攻攻撃をした隊員の一人が、敷島だったわけです。話は敷島によって戦後も続いて行くのです。同時に「三丁目の夕日」、の監督でもあります。何かといい作品を立て続けの出しています。

 それにつけても、昭和という時代は、今や歴史の中で語られるようになりました。私の子供のころは、学校の先生が授業中によく戦争の話をしていました。アメリカの巡洋艦を大砲で破壊した話など面白おかしく熱心に話していました。

 親父も、母親も朝飯の時には必ず東京大空襲の話でした。思えば父親も母親も空襲を経験したのは、わずか15年前の話だったのですから、忘れられないのでしょう。そうして育った私には戦争は過去の話ではありません。

 映画の中で山田雄貴は当時の現代っ子の役で出ていました。余りストーリーの発展には役に立ちそうもない賑やかしの役だったのですが、お終いに仲間を引き連れて大活躍します。あれを見ていると、頼まれもしない仕事に命を懸ける姿に涙また涙でした。

 映画を見終わって、しばらく頭の中を整理するために喫茶店に入りました。そこから1時間、感動が冷めやらぬまましばし幻想の世界に浸りました。

続く

被災者支援

被災者支援

 

 能登半島は、元旦に地震の被害を受けてから、一か月経った今もなお復旧作業が続いています。倒壊した家は無論未だどうにもならず、多くの人は避難場所で寝起きをしています。東京よりもかなり寒い地域で、しかも、雪も降り積もります。その暮らしにくさは想像を絶するものだと思います。

 被災者の皆様に何か協力できることがあれば何かしたいとは思いますが、わずかな見舞金を送るぐらいしか方法が思い浮かびません。その見舞金も、テレビなどの窓口に送るのがいいのか、市役所などに送るのがいいのか、あれこれ考えてしまいます。

 見舞金とはいいながら、これまでも、東日本大震災の際も、ちゃんと被災者のために使われたのかどうかすら分からないような、いい加減な募金担当者がいました。そんな活動を見ると、善意の活動が本当に被災者に伝わっているのかどうか、心配になります。

 例えば、輪島市に集まって来た見舞金は、水道や、ガスの復旧費用に使った。とか、道路の工事費用に使ったとか、或いは、被災者に直接一人30万円程度を送ったなどと、明確に渡したことが分かるならいいのですが、見舞金のその後の報告などが良くわかりません。

 無論、巧く配ってくれているとは思いますが、出来れば、クラウドファンディングのように、これとこれを買うために支援を集めています。と明記してくれたならお金を送る方でもよくわかります。うやむやのうちに別の使われ方をすると不信感が募ります。

 本来は、現地で縁のある人に直接見舞金を送ることが一番いい方法だと思います。然し、そこに親戚も知人もなければそれは出来ません。昔、私は輪島に出かけて、茶たくを買った記憶があります。さて、その店が何と言う店だったのか、忘れてしまいました。縁があれば見舞金を送りたいと思います。

 

 タレントによっては、直接被災者を励ますために、避難している人たちのために、体育館などに行って歌を歌ったり、演奏したりする人たちもいます。東日本大震災の際にはたくさんのタレントさんが行って、無料で音楽を聞かせたり、中にはマジックをして見せたりもしました。

 ただ、私は思うのですが、被災者が寝起きしている小学校の体育館に出掛けて、歌を歌ったり、マジックをすることが本当に支援したことになるのでしょうか。歌の好きな人、マジックの好きな人がまとまって避難しているならそれもいいかもしれませんが、次から次と、演歌のお姉さんが来たり、マジシャンが来たり、民謡の歌い手が来たり、ギター演奏家が来たり。それが本当に親切になるのかどうか。むしろ被災者にすれば騒がれることを望まずに、静かにしていたいと望む人の方が多いのではないでしょうか。

 実は数年前に、仙台に仕事に行った際に、仕事先で、10年前に被災者だった人が言った言葉で、「全然見たこともないような演歌歌手が避難先に来て、歌を歌って、励ましの言葉をかけてもらっても、逆に有難迷惑で、煩わしいと思った」。と言われました。随分な言いようですが、毎日毎日とっかえ引っかえいろんな芸人が来れば、そのうちには煩わしくもなるのでしょう。

 そうであるなら、親切の押し売りのようなことはせず、見舞金や、求められている品物をそっと置いて帰って行く方がより被災者のためなのではないかと思います。災害の地域は、普通に生活することも困難なわけですから、そこへ何人かで押しかけて、無理無理歌を歌ったり、マジックを見せることなどあまり意味はないのではないかと思います。

 求められて来てほしいと言われたなら、出かけることはやぶさかではありませんが、そうでもなければ、被災地域に押し掛けて行けば、道は渋滞しますし、駐車するにも容易ではないでしょうし、マジックを見せると言ってもセットをする場もなく、衣装を着かえる場所もありません。舞台もないようなところで演じるわけですから、万全なショウは出来ません。

 それでも気持ちが伝わるなら、出かける価値はあるかも知れませんが、先に書いたように被災者にとっては有難迷惑なのでは無意味になります。仮に有名人が来たとしても、新聞社や地元のテレビ局が何十人も取り巻いてカメラを回し、被災者に関係なくタレントを撮りまくります。これではまるでイベントです。寝るまもなく体育館の床に寝ている被災者の脇でカメラや新聞記者がタレントを追いかけまわる姿がいいことか悪いことか。

 私は芸能をしていてつくづく思うのですが、芸能と言うものは心にゆとりがあってはじめて楽しめるもので、住むところもない、水も出ない、食料も満足にない、と言う場所で、如何に歌を歌おうともマジックをしようとも、とても楽しめる状況ではないと思います。

 被災者の心の中には、家族を失って悲嘆に暮れている人もいるでしょうし、仕事先が破壊されて、この先何をして生きて行こうと考えている人もいるでしょう。漁師をやっていたのに船を失って、漁に出られない人は、この先どう生きて行ったらいいのか。家畜を飼っていた人が、家畜を救出できなくて見殺しにしてしまっている現実。

 そんな中で芸人がやって来て、「頑張ってくださいね」。「おじいちゃん、決して負けないようにね」。などと励まされても、頑張れの言葉が如何に空しいことか。「頑張りたい、頑張りたいけども、今こうしていても餌がなくて死んで行く家畜はどうしたらいいのか」。「70過ぎて船を失った漁師は、仮に銀行が資金を貸してくれたとしても、年齢を考えたなら、ローンの返済は不可能だろう。そうならどうしたらいいか」。そう思っている被災者の気持にマジックや演歌は何か救いを与えられるのでしょうか。

 芸能にできることはわずかです。一瞬の喜びは提供できても、本当に人を幸せにすることなどできません。毎日毎日余震に悩まされる能登の避難民を思うにつけ、自分の芸の無力を思います。

続く