手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

片倉雄一のこと

片倉雄一のこと

 

 昨日(29日)にMHさんのことを書いていて、書いている間中、片倉雄一さんのことを思い出していました。片倉雄一さんは、マジックのクリエーターであり、マジックメーカーのトリックス社に勤務していて、実際、八重洲口のトリックスマジックショップで実演して見せていた人で、人当たりのいい、穏やかな性格で、クロースアップのずば抜けて上手い人でした。今に残るWショックは彼の作品です。

 残念なことに、鬱(うつ)病質なところがあり、いったん鬱の状態に入ると一か月も二か月も部屋に閉じこもって人と会うこともせず、仕事もできない。当然、マジックも出来ません。この病気がどうして罹るのか、また、どうしたら直るのか、私にはわかりません。ただ、闘病中は自身の中で相当な葛藤があるのでしょう。売り場に復帰すると、げっそりと痩せていました。

 気の毒なことは鬱のさ中に自殺したことでした。30代だったと思います。私とは年一つ違いで、私が二十歳くらいからトリックスに出入りしていた頃に知り合い、会うとよく一緒に酒を飲んでいました。

 彼は日頃はおとなしい性格で、落語や漫才が好きで、私とは、お笑いの話をしょっちゅうしていました。マジック仲間でお笑いの話が出来る人は少なかったらしく、彼は私を見ると、進んで飲みに行きたがりました。私がくだらない話をすると、腹を抱えて笑い、呑んでいる間中思い出しては笑っていました。

 大概のマニアは、片倉雄一さんと会って喫茶店などに行くと、すぐにカードやコインを出して、技法を習おうとします。私はそれを一切しません。そのことが彼に無理な緊張感を強いることがなかったと見え、いつでもとてもリラックスして私と話すことを楽しんでいました。

 普段は売り場に立って、マジックを見せているか、あいている時間は、机の前で、紙を切ったり張ったりして、マジックの小道具を考案していました。私がMHさんを見て、何となく片倉雄一さんに似ているな、と思ったのは、机の上で作品を切り張りしているであろう姿を想像してでした。

 彼もよくカードを切り刻んで色々なマジックを作っていたのです。しかもその作品の仕上がり具合がMHさんの作品とよく似ていました。彼の作ったカードトリックを、私が舞台でやってみたいと言うと、彼は惜しげもなくくれました。しかも、「私が演じる時は、ステージだから、大きいものでないと見えないよ」。と言うと、半月位して、ジャンボカードで作っておいてくれました。作る日数を思うとなにがしかの謝礼を払わなければいけないと思い、「幾らお支払いしたらいい?」。と尋ねると、「お金はいらない」。と言います。「いつも笑わせてくれるから、そのお礼」。と言いました。全く欲のない、素直で穏やかな性格の人でした。

 

 彼のマジックにはファンが多く、売り場はいつも何人かのファンがいました。彼がマジックを見せるのは売り場に立った時だけで、クロースアップのショウをしたり、コンベンションに出ることはほとんどありませんでした。「僕はショウとしてマジックを見せることは上手くない、目の前にいる人にちょっと見せるだけでいいんだ」。と言っていました。

 私にすれば、マジックと言うのは、舞台衣装を着て、化粧をして、音楽に乗せて、華麗に派手に見せることだと了解していたものですから、彼がそんな風に密かにマジックを見せていることが不思議でなりませんでした。

 そもそも、昭和40年代では、まだクロースアップはショウとしては成り立っておらず。クロースアップで収入を得て生活している人は皆無でした。唯一バーマジシャンというジャンルが、バーで飲みに来たお客さん相手にサービスでマジックを見せていたくらいで、あくまでそれは酒を飲んでくれたことへのサービスで、マジックで収入を得る場ではなかったのです。

 

 一度彼と飲むときに、売り場のお客さんのヒロサカイさんを連れて来ました。片倉さんがなぜヒロサカイさんを連れて来たのかよくわかりません。彼はまだ学生でした。片倉さんはどこかで才能を認めていたのでしょう。三人で飲み屋で盛り上がり、そのあと私のマンションに行き、朝まで酒を飲みました。二人ともとても酒が強かったのです。

 私は丸一日付き合わせて、私の家まで連れて来てしまったことを申し訳なく思い、翌日に交通費を渡そうとしました。然し、片倉さんはそれを受取ろうとしません。「面白かったからいいよ」。と言っていました。

 

 この頃学生だった、ヒロサカイさんや、前田知洋さんがそれから10年近く経って、ようやくクロースアップの仕事が成功するようになります。それは時代が平成に変わり、バブルが弾けた後のことでした。

平成に入ってすぐにマリックさんが出て来て、500円玉にたばこを通して世間をにぎわせていた頃でした。

 すぐに同じような超魔術師がぞろぞろ現れて、それまでクロースアップを趣味としていたマジック界ではおなじみの人たちが一躍、超魔術師としてテレビ番組に出るようになったのを記憶しています。クロースアップが世間に認知される前に、超魔術ブームがあって、超魔術によって、クロースアップの手法が認知されていったわけです。

 つまり小さなマジックをテレビでどう見せたら効果を上げられるか、そのことを真剣に考えて答えを出した人はマリックさんだったのです。

 ところで、その後のクロースアップマジシャンの成功を片倉雄一さんは見たのだろうか。と考えると、微妙な時期だったと思います。まだ彼が生きていた時代はクロースアップの華々しい成功はなかったように思います。

 片倉さんの人生はクロースアップが花開く一歩手前で終わったのです。終生、収入とか、名声とかには無縁で、創作をしても、そのうちの何作はトリックスで販売されましたが、大概は仲間内に配ってしまい、見返りも求めませんでした。

 狭い世界で知られてはいても、ただ売り場でマジックを見せることだけを喜びとしていた人でした。片倉雄一さんを思うにつけ、今になって人の人生なんて一体何なのかとしみじみ思います。

続く

 

 8月7日(日)日本橋アゴラカフェ マジック&手妻の公演

 日本橋マンダリンホテル二階、アゴラカフェにて、出演、藤山新太郎、藤山大成(前田将太)、穂積みゆき、小林拓馬、せとな、

入場料5000円、食事付き、12時から 事前にご予約ください。6262-6331 アゴラカフェ。

マリックさんMHさん

マリックさんMHさん

 

 時々youtubeのマジックを見ます。しかし、そこに出て来る多くのマジシャンのことを、私は極力語るまいと心に決めています。語らないことが理性なのだと思っています。

 優れたマジシャンがたくさんいます。マジックを考える才能は飛び抜けた人がいます。私にできないマジックをする人がたくさんいます。到底私が戦える相手ではないと思います。でも私はそうしたマジックを語りません。

 それは「なぜ私が手妻をしているのか」と言う私のマジックの本質と深いかかわりがあります。今、動画で演じられているマジックの多くは、手妻の対極にあるのです。

 私は多くのマジシャンと争う気持ちはありません。争っても私は不思議さで勝てません。そして私が争う理由もありません。私が50年以上追求してきたことは、不思議の追求ではなく、芸能の追求だからです。マジシャンで生きようと、漫才で生きようと、ミュージシャンで生きようと、芸能が何であるかが分からなければ芸能界では生き残れないのです。

 芸能人として生きようと考えていながら、その答えを芸能に求めず、タネを求めて、タネに答えを見い出そうとしていては、芸能で生きることは困難になります。

 

 昭和が終わり平成になったころ、マジシャンは徐々に仕事の場を失って行きました。初めは単にバブルが弾けたからだと考えていました。然し、景気が復活して社会が安定して来てもマジシャンの仕事は増えては来ませんでした。単純な舞台でのショウの仕事は少なくなりました。変わってクロースアップが盛んになりました。然し、クロースアップもたちまち過当競争になり、マジシャンの仕事は厳しくなって行きました。

 その後、ネットで道具の販売、DVDの指導ビデオの販売が盛んになりました。マジシャンのタネの切り売りが始まったのです。然し、これも過当競争化して、DVDの価格はどんどん下がりました。元々マジックの指導ビデオはそう多く売れるものではありません。それが価格を下げてしまっては仕事として成り立たないのではないかと、他人事ながら心配になります。

 

 その後、youtubeでマジックの種明かし動画が盛んに出るようになりました。一度出たなら歯止めは効きません。何でもかでも種明かしが進みます。見ていると何人もの種明かしマジシャンが出て来て、ここでも過当競争化しています。こうした状況がいいわけはなく、離れて眺めているとマジックをする人が寂しい人たちに見えて来ます。

 

 話は変わって、たまたま見たマリックさんの動画で、ルービックキューブが四角い瓶の中に入ってしまう。と言う作品を見ました。マリックさんは若いマジシャンの前でそれを実演して見せました。それが台湾のコンベンションで公開されたもので、それを作者に連絡して教えてもらった。と話していました。

 演技は無理なく不思議に演じられています。新し物好きなマリックさんらしい演技だと思いました。

 ところが、別の動画ではこれをもう種明かししている人がいました。せっかく苦労して考案したアイディアをもう第三者が種明かしをしています。更に別の動画ではその道具の売り先まで教えています。つまり、実演と種明かしと、販売先までが三つの動画でほぼ同時に公開されているのです。今、情報はネットによって即座に世界中に伝わります。

 私は、「あぁ、ついにここまで来たか」。とため息をつきました。マジックを種仕掛けでしか見ない人たちが、ひたすらタネの興味に走り、その種の売り買いをネットでしています。これではマジックが少しも芸能として発展しません。芸能として熟成するゆとりがありません。マジックの末路がはっきり見えます。

 私はこうした人たちと離れて活動がしたくて、あえてDVDも、種明かしも、マジックのタネの話題にも触れて来ませんでした。この仲間に入って物を言えば、芸能芸術は語れなくなるからです。

 さらにマリックさんの番組の中で、MH さんが作品を披露していました。MHさんと言う人は中学生のころから作品が脚光を浴びて、ネットや一部のマジック界で騒がれていました。二枚のカードの貫通が有名ですが、そのほか、どれも一瞬の現象で、カードの色が変わったり、ダイヤの模様が消えて、素通しになったり、不思議な現象が続きました。

 今は高校生を終えてマジシャンの道に進むそうです。まだ彼がどういうマジシャンになろうとしているのかはわかりませんが、彼の演技を見る限り、演出を加えて自分の世界を作って行く、と言う演技ではなさそうです。ひたすら不思議を追求して行く人なのかなと思います。そうなら、マジックメーカーに入ってクリエーターとして生きて行くのがいいのかと思いますが、今こうして、種明かしだのパクリだのが横行しているマジック界で、クリエーターが正しく評価され、安定して生きて行けるかどうかは未知数です。せっかく才能のある人が出て来ても、周囲が才能をつぶしてしまっては、才能は生かされないでしょう。

 彼の演技に対してマリックさんが、「とても不思議だ」。と褒めつつ、「考えたらすぐに発表して、早く売った方がいい」。などと言っていました。動画の中で作品の売り買いの話をするマリックさんの考えに唖然としてしまいました。

 この番組を見ている視聴者は一般のお客様だと思いますが、そうした人たちの前で、作品の売り買いの話をするのはどんなものでしょうか。プロマジシャンなら、MHさんが考えた作品にたいして、「素材を素材のまま見せるのでなく、どう生かしたら不思議から幻想が生まれるのか、演出や味付けを真剣に考えたほうがいい」。と言うようなアドバイスをするのがプロの先輩だろう、と思いますが、マリックさんはそう言う人ではないのでしょうか。

 かつて多くの視聴者はマリックさんのハンドパワーを本気にしたのです。そこには夢の世界が存在したのです。まさか買って来たネタでやっているとは思わなかったでしょう。それを公表していいのでしょうか。

 せっかくMHさんと言う大きな才能を秘めた若い人が出てきた中で、テレビ番組の中で作品を金に換える話をしてしまうことが、今のマジック界の現実を見たようで、これで人が育つのか、マジックが芸能として存在を確立できるのか、何とも後味の悪い思いをしました。

続く

 

 

昭和の職人

昭和の職人

 

 あれは私が5歳の頃だったと思います。祖父の家の近所に竹皮職人がいて、そこは、玄関先の間口が広く、床式になった作業場があって、その家の親父さんが朝から夕方まで、戸をあけ放って、床の上で、竹の皮(筍の外側の皮)を鞣(なめ)していました。

 子供だった私には、なぜかこの作業が面白く、通りがかると、30分も1時間も親父さんのする作業を眺めていました。この事は以前にもブログで書きました。私にとって忘れられない風景なのです。親父さんは床に座り込んで、山のような竹の皮を一枚一枚鞣して行きます。

 親父さんは常に一人でした。手伝う若い職人もいません。部屋には山のように積まれた竹皮があるだけです。親父さんは寡黙で、決して私に話しかけません。勿論私も声をかけません。3mほど距離を取って子供の私が道端にしゃがみ込んでじっと見ています。奇妙な空間がそのまま維持されて、時間が過ぎて行きます。

 竹皮は独特の作業台の上で何かヘラのような器具を使って、裏と表をしごいて鞣して行きます。鞣した竹皮は、隅を裁断機で切って、三つに折り畳んでサイズを揃えます。そこに経木(きょうぎ=紙のように薄い木製の板)を縒(よ)って作った細い紐を縛りつけ、これで一つ完成します。

 道具らしい道具はありません。作業台とヘラ、紙を切るような裁断機が全てです。作業は単純です。私はじっと黙って作業を見つめていました。職人の仕事には無駄がありません。そして独特のリズムがあります。また普通しないような指先や腕のひねりが入ります。そんな動作が面白くて、飽きずに見ていたのだと思います。

 今思えば、竹皮と言うのは、肉や佃煮を買った時について来るサービス品です。それを一日ひたすら作り続けて、一体いくらの稼ぎになったのか、他人事ながら心配になります。まぁ、家を構えて家族を養うことが出来たのですから、それなりに生きて行けたのでしょうが、いいときはなかったと思います。毎日が地味な作業の繰り返しです。

 竹皮は百とか二百とかまとめて、経木の紐で縛ります。これを卸業者さんが、肉屋さんや、佃煮屋さんなどに持って行ったのでしょう。昭和の頃は、肉は竹皮に包んで売られていました。ビニールやプラスチックケースのない時代です。今でもまれに握り飯を販売する店で竹皮にくるんで売っているのを見ます。

 京都の「いずう」と言う鯖寿司屋さんは、いまだに鯖寿司を竹皮にくるんで売っています。何百年も歴史のある店ですから、それなりに竹皮にくるまれた鯖寿司は雰囲気を作り出しています。

 竹皮は殺菌作用があると聞きます。食品などは竹皮にくるんでおくと半日や一日くらいは腐らないのです。私の家では、母親は竹皮は使った後、洗って乾かして、再度、握り飯などを持って行くときに使っていました。

 

 竹皮屋の親父さんがいつ作業場を畳んだのかは知りません。私が中学生になるころにはもうなかったように思います。昭和35年の頃、親父さんは幾つだったのでしょうか。私よりも50年は年が離れていたと思います。そうなら親父さんの生まれは明治でしょう。

 小学校を卒業して、竹皮職人のところに奉公に出て、その後池上に工房を出して、あとはひたすら竹皮を鞣していたのでしょうか、そして55になったときに、もの好きな5歳の私と遭遇したのです。

 

 長々竹皮職人のことを書きましたが、何が言いたかったのかと言うと、私が子供の頃に眺めていた職人の仕事と言うのは、みんな明治時代の仕事だったのです。明治生まれの職人の親方から仕事を習い、それをずっと守って昭和30年代。40年代まで続けて来たのです。そんな職人が町内にたくさんいたのです。ところが、昭和40年代に至って、大きな断層が生じます。

 昭和39年の東京オリンピック以降、日本人の生活様式がガラッと変わって行ったのです。団地が増えて、自動車が増えて、家で着物を着て生活をする女性が急に減りました。すると、それまで普通に使っていた生活用品が使われなくなって行きます。

 炭、火鉢、下駄、浴衣、染め物屋、洗い張り、掘りごたつ、行火(あんか)、習字指導所、そろばん塾、生け花指導所、踊りの稽古処、長唄、清元の稽古処、芸者、芸者の検番、のこぎりの目立屋、研屋(とぎや)、桶屋、風呂桶屋、竹細工屋、街の商店街や、裏路地のどこにでもあった職業がどんどんなくなって行きました。

 浅草の方に行くと、今でも少数ですが、鼈甲職人、象牙職人、金銀細工師、などが活動しています。ある時、桐箱屋さんで、桐箱を注文していると、やせた小さなお爺さんがやって来て、桐箱を5つ注文して行きました。

 随分少ない数の注文だと思い、後で箱屋さんに、「あのお爺さんは何を作っている人なんですか」。と尋ねると、「根付の職人です」、と応えました。根付と言うのは、印籠の紐の先に付ける3㎝ほどの玉のことで、玉に龍や、虎や、恵比寿、大黒などを彫って、装飾にするものです。今日で言うストラップです。江戸から明治のころは、根付の職人で名だたる人がたくさんいて、その作品は今も国立博物館などに収蔵されています。良いものはまさにため息が出るほどで、芸術作品と言えます。

 彫る素材は象牙や、柘植などの木に彫って、それを漆を塗って仕上げますが、肝心の印籠と言うものが今の時代に使われることがありませんから、仮に彫の技術が日本で何番目と言うくらいの名人だとしても、仕事の数はそうはないでしょう。このお爺さんも、恐らく、大正時代に、明治生まれの師匠から彫を習い、根付職人として生きてきたのでしょう。それにしても、遠慮がちにやって来て、箱を5つ頼んで去って行く姿には哀愁が感じられました。ひょっとすると、私の代で、根付職人を見るのが最後なのかもしれません。

 何にしても何百年と続いた職人の技術がこの先生かされないのは文化の損失です。と言っても消えて行く者には誰も見向きもしないのです。

 私は今、子供のころに見た竹皮職人の親父さんと同じくらいの年になっています。あの時、竹皮職人の親父さんが、日向(ひなた)の作業場から外に向かって、何を見ていたのか、この先の自分をどう考えていたのか、残そうにも残り得ない、技術と文化をどうしようと考えていたのか。幼い子供が何度も見に来ていても、ついぞ一言も声を掛けることがなかった親父さんは、もう既に諦めていたのか、興味は尽きません。

続く

ウクライナは停戦なるか

ウクライナは停戦なるか

 

 どうも、このところロシアはウクライナ軍によって基地を次々に爆破され、劣勢に立たされています。ロシア兵の戦意も低下して、軍は機能しなくなりつつあるようです。それでもロシア軍は、一昨日、昨日とオデッサ港をミサイル攻撃したようですが、既に停戦合意がされている地域で、繰り返しミサイル攻撃する理由がわかりません。しかも、それ以外の地域の戦闘は止まった状態のようです。

 どうしたのでしょう。ロシア軍はなぜ動かないのでしょう。どうも兵士の数が圧倒的に不足しているようです。プーチンは急ぎ、国内の刑務所にいる囚人に徴兵を呼び掛けていると言いますが、それはロシア国内で兵隊に志願する若者が足らないためのようです。

 実際この5か月で、ロシア軍は既に、4万人以上の死者を出しているため、負け戦になっていると言う情報がロシア国内にも知られて来ていて、志願兵も集まらないようです。それで、苦肉の策として、刑務所の囚人を兵士にしよう、と言う案が出てくるのでしょうが、囚人をいきなり兵士にするのではまるっきり泥縄です。囚人を集めて兵士にしてもすぐに使えないだろうと言うことは、私のようなマジシャンですらわかります。

どうもプーチンは万策尽きた感があります。

 

 ロシアの衛星国の支援を求めるにしても、衛星国はNATOの積極的な支援を見たうえで、この戦いには疑問を感じているらしく。衛星国の動きは鈍いようです。頼みの綱の中国も、支援には消極的です。それに反比例するかのようにNATOATOのウクライナへの支援はますます活発化しています。

 

 ポーランドは、元ロシアの戦車を近代的に改修したPT-91戦車を232両、ウクライナに提供すると言っています。PT-91 は今現在、ウクライナ国内でロシアが使っている戦車よりも性能が良く、確実にロシア軍を殲滅し得る機能を備えています。更にスペイン が、ドイツ製のレオパルト2と言う戦車をウクライナに提供すると言っています。

 ウクライナはこの先、続々強力な兵器が入って来ることになります。但し、どうもNATO軍は、今回のウクライナ侵攻を機会に、今自国にあるロシア製の武器をウクライナに売却して、自国はそっくりアメリカ製の最新式の武器に取り換えるように動いています。ある意味ウクライナ侵攻はポーランドにもスペインにも、その他NATO軍にとっても、装備の近代化を図る意味において、まことに好都合だったわけです。

 一見ポーランドや、スペインがウクライナに武器を供与することは善意の行為に見えますが、国と国との関係は必ずしも善意で行動するわけではありません。ウクライナポーランドが戦車を提供するのは、今ある戦車よりも性能の良い戦車を手に入れるためにするのであり、もし将来、何かの行き違いが生じて、ウクライナポーランドが戦うようなことになったときに、昔戦車を譲ったことが、後に仇(あだ)とならぬよう、先々の利害を考えた上で行動するのは当然のことなのです。

 ウクライナも当然それを知った上で武器の供与を受けています。仮に、少し古い武器でも、とにかく手に入りさえすれば、装備の遅れたロシアの軍隊を倒すことが出来るから喜んで引き取るのです。

 

 いずれにしても、プーチンはどんどん追い詰められています。強力な武器がウクライナに集まって、ウクライナの戦意はどんどん高まって行く。対してロシアは、自国の武器の不備が露呈して、ミサイル攻撃にさらされています。更に、衛星国の支援も受けられず、ロシア兵も集まらない、三重苦の中で戦況は好転していません。

 ロシアに対する金融制裁や経済制裁も徐々に効果を上げてきています。プーチンは望まないとしても、もうロシアとしては戦いを継続することは不可能になりつつあります。そうなると結果として、そう遠くない将来、停戦になるでしょう。

 ウクライナとすれば当初の目的は達成できたことになります。然し、勝利のために支払った代償はとてつもなく大きなものです。都市と言う都市は破壊され、兵士だけでなく、多くの一般国民の人命が失われ、経済活動は全く機能しなくなってしまいました。仮に、今停戦合意が出来たとしても、これから国を再建することは簡単ではありません。

 

 それにしても、ウクライナを含めて、ヨーロッパの国民の祖国愛は相当に強いものを感じます。一旦敵国に攻められたなら、自国民の男性を皆兵士にして、国外から出られないようにして、戦争に無条件に参加させる。そのことを国民も一切反対しない。その強固な姿勢こそ、今回のロシアを撃退する戦争につながっています。

 当然なことではありますが、ウクライナがロシアと戦うことは簡単なことではありません。ましてや勝利を掴むにはよほどのウルトラCの技を駆使して闘わなければなりません。ゼレンスキーさんは大した政治家だと思います。

 当初ウクライナ侵攻に非関与で、非協力的だったドイツをここまで支援させるようにしたことは大きな成果だったと思いますし、他のNATO各国にも武器供与を積極的にしてもらうようになったこと、バルト三国がロシアと対立して側面支援してくれたこと、スゥエーデン、フィンランドが率先してNATO加盟を申し込んだこと、そして加盟を認められたこと、そのことから、トルコも、中立を保っていることが出来なくなり、NATO寄りの姿勢を取らざるを得なくなったこと。これによってロシアを包囲する一連の戦略が大きく形作られたことになり、長年NATOの裏でなかなかまとまらない話を続けていたことが、驚くほどの短期間に大きな輪になって団結が生まれたことになります。

 この先、プーチンがあっさり失脚して、新しい政権が出来るならめでたしなのですが、これから先がどうなるかはまだわかりません。また、中国が何をやりだすのかもわかりません。大きな戦争につながらなければいいのですが。但し、今世紀の前半はあちこちで戦争が起こりそうです。

続く

 

 

桜島噴火  

桜島噴火

 

 一昨日夜に桜島の噴火のニュースがありました。今回のように溶岩が流れ出るような噴火は珍しいのですが、振動と共に煙が立ち上るようなことはしょっちゅうあるようです。

 私は今まで何度か鹿児島に出かけました。ショウや、レクチュアーをするのが目的でした。その都度中心街のホテルに泊まって、夜に飲食に出かけたり、早朝市内を散歩します。

 鹿児島市内を歩いていると、街と桜島があまりに近いので、その桜島の大きさに驚きます。街中を歩いていて、ビルの隙間から突然桜島が見えると、「ええっ、こんなところに桜島があるんだ」。と、改めでビックリします。黒い島が突然そびえ、モクモク煙が出ていて、街と噴火が共生しているのです。

 

 毎日、風向きによって市内に噴煙が飛んで来ることがあり、その都度警報が出ます。噴煙が来ると。駐車している乗用車などが砂煙で真っ白になります。布団や洗濯物を干しておくと、そのまま砂を被ります。

 朝、街中を歩いていても、道の隅に砂が積っています。メインストリートの、銀行の前などは、毎日掃除をしているものと思われますが、それでも砂が少し溜まっているのを見ると、噴煙は日常のことなんだとわかります。市内には市電が通っていて、時として市電の線路の溝に砂が溜まって、電車が軌道から外れてしまい、立ち往生するときがあるようです。

 

 鹿児島市は50万人くらい人口があるのでしょう。これほど大きな町に、火山があって、毎日煙を吐いていると言うのは珍しいと思います。例えて言うなら、東京湾の真ん中に伊豆大島があるようなものです。錦江湾はとても美しく、魚の豊富な海です。そこに桜島があって煙を上げています。これほど個性の強い都市もありません。市内の人は目慣れてしまっているのか、全く噴火を恐れてはいません。

 

 私が20代のころ、鹿児島三越デパートの催事で招かれ、3日間出演したときに、深夜にホテルで寝ていると、ドッカーンと大きな音とともに、床が3センチほど沈んだので、驚いて立ち上がり、ロビーに行くと、別段誰もいません。フロントに尋ねると、「あぁ、噴火に驚いたのですか、こんなことはよくあります。大丈夫ですよ」。と、誰一人心配する人はいませんでした。土地柄と言うか、この程度の噴火では誰も驚かないようです。

 

 今回のように溶岩が流れ出す噴火でも、溶岩が直接鹿児島市内に流れ出してくることはありません。桜島錦江湾の中央にあって、島自体は、大隅半島に接続していて、鹿児島市内のある鹿児島半島とは錦江湾で隔たっています。噴煙が飛んで来ることはあってもそれ以上の被害はありません。

 桜島の溶岩は、噴火と共にドーッと流れ出るタイプではないようです。恐らくねっとりとした溶岩で、山の周辺に少し溶岩が流れる程度で、そこから先に行かないようです。地震も、家が崩れるような地震は起きません。少し揺れる程度です。但し、噴火と共に大砲のような音がしますので、初めて体験する人は音に驚きます。

 今回の噴火も、恐らく数日で収まり、そのあとは何もなかったかのように話題から消えるでしょう。

 

 少し心配なことは、このところ、あちこちで地震があります。南九州の諸島の地震、関西、静岡、茨城、仙台沖、北海道などなど、各地で小さな地震があります。10年くらい前から南海沖地震などと言って、九州から東海に至る広範囲な地域で一度に地震が起こる可能性があると言われていますが、本当なのでしょうか。

 

 私は、神戸の震災の半年後に神戸を通過したときに、幾つかのビルの一、二階が押しつぶされていたのを見て、「こんな風にビルがつぶれるのだろうか」、と不思議に思いました。神戸地震は明け方にあったため、中心街のビルには人がいなかったことが幸いでした。もし日中の出来事でしたら、働く人々が押しつぶされて、死者の数は膨大なものになっていたでしょう。

 東日本大震災の際でも、正味地震の被害だけだったらそうそう大きな人的被害はなかったでしょう。日本の建築物はこの30年くらい、住宅もビルもかなりしっかり建てられるようになり、そうそうは完全倒壊しないようになっていると思います。

 ところが、神戸の震災(阪神淡路地震)ではその昔の建築物で、高度経済成長時代に作られた、高速道路の橋脚が壊れたのは驚きました。あれはどうも手抜きがあったとしか思えません。それが証拠に、高速道路は絶対大丈夫と言っていた高速道路の会社が、神戸の震災後に急に東京の高速道路で橋脚を補強し出していました。放っておいたら東京も神戸と同じ結果になっていたのでしょう。結構いい加減な仕事をしていたのでしょう。神戸の災害が東京の鉄道や、高速道路の見直しにつながったのは不幸中の幸いだったと思います。

 

 恐らく今、関東大震災が起きても、かつての大正時代の関東大震災とは違い、家の倒壊や、火災の被害はそれほど大きくはないのではないかと思います。関東大震災の被害は、10万人の死者を出しました。その多くは火災による被害です。

 東日本大震災でも、地震による被害よりもむしろ、津波によって多くの死者を出しました。南海沖地震も、津波を招くととんでもない被害が生まれるはずです。東日本大震災から10年。この10年は、次の地震のための災害防止のための対策期間と言えます。

 仮に東日本並みの大震災と津波が来たとしても、被害が最小限に収まるように、建物は壊れても死者が一人も出ないように、対策を考えられないでしょうか。

 と他人事のように言っていますが、九州から東海迄、海岸に津波を守る堤防を作ると言うのはまさに万里の長城を作るのと同じことで、現実には不可能です。

 そもそも、毎年台風や、集中豪雨があると、必ず人が何人かが亡くなります。必ず来る災害なら予測がつくはずですが、一向に対策が出来ません。日本は先進国でありながら、大雨のたびに人が亡くなると言うのが残念でなりません。

 地震も同じです。少々の建物被害なら致し方ありません。然し、有史以来、何万回と来た地震から学んで、何とか人が亡くならない方法を考えられないものでしょうか。

 桜島の噴火のニュースを見るにつけ、もっと災害から身を守るために税金を使おう。と思います。

続く

 

8月7日 日本橋アゴラカフェ、

 出演者、藤山新太郎、前田将太、穂積みゆき、小林拓馬、せとな、入場料5000円。食事付き。12時から。日曜日の午後はゆっくり手妻、マジックを楽しんで、お食事をしてはいかがでしょう。

納涼マジックショウin松野

納涼マジックショウin松野

 

 実は先週木曜日から、大阪、奈良、名古屋、富士と、4日間の指導に出かける予定だったのですが、コロナの感染が広がり、大阪、奈良、名古屋の三か所が中止になりました。すると21日の晩に、富士の佐野玉枝さんからから連絡がありました。

 「先生の指導(24日)の前日に、マジックの発表会(23日)を予定しているんですけど、トリを取っていただく予定の小林拓馬さんがコロナに罹って来れなくなってしまったんです。どなたか若い方で土曜日に富士に来てくれるマジシャンはいませんか」。

 電話で依頼が21日です。23日のショウに、スライハンドのできる若いマジシャンです。残念ながら日にちがなさ過ぎます。そこで、「私が行きましょうか?」。と申し上げました。「先生では謝礼がお支払いできません」。「いいですよ、空いていますから私が前日に伺います」。人生なんて明日に何が起きるかもわかりません。

 と言うわけで、23日、24日と富士でショウと指導をすることになりました。ところが、ここからいろいろ問題が発生しました。問題の原因は私にあります。

 

 23日の朝10時03分に、新富士駅に到着しました。いつものように駅前に加藤弘さんが迎えに来てくれています。私はショウと指導の両方をするために、今回は両手に荷物です。車に乗って、富士川の会場に向かおうとしたときに、いつも持ち歩いている和風の手提げバッグがありません。

 中には財布、財布の中には現金、カードが入っています。再度、新富士駅に戻って、忘れ物を伝えましたら、すぐに新幹線に連絡をしてくれて、私の座っていた指定席にバッグは無事ありました。

 然し、ここからが大変です。私の乗っていた新幹線は、荷物と共に12時30分に名古屋に着きます。名古屋駅に取りに行くか、または、着払いで自宅にバッグを送ってもらうかどちらにするかと聞かれました。無論送ってもらうしかありません。

 ついては、12時30分以降に名古屋駅の遺失物預り所に電話をしなければなりません。まぁ、最悪の事態は免れました。一安心して、ステージ富士川と言う会場に向かいます。会場では富士クローバーズの会員の皆さんが既に衣装をつけて集まっています。お客様も少しずつですが集まって来ています。

 出演社の皆さんと一緒に昼食をして、私の出演は3時30分頃ですから、かなり時間があります。富士の皆さんのショウを拝見しつつ休憩することにしました。指導の時はいつもそうですが、深夜から指導内容の稽古をします。古い作品だったりすると、私自身が忘れていたりしますので、全部お浚いします。

 その上で今日の舞台の演技を稽古します。内容は、お札の増加、サムタイ、12本リングです。この三作は50年近く、何千回と演じて来た内容ですから、忘れることはありませんし、失敗もありません。然し、この20年はタキシードを着てマジックをする機会がほとんどありません。私の舞台は和服ばかりです。そのため勘を取り戻すために稽古をしました。

 演技は丁寧に演じるように心がけます。そうするとどうしてもテンポが出なくなります。スピードを上げて演じなければいけません。すると演技が雑になります。繰り返し繰り返し稽古をしたら、ゆっくり見せる部分とスピードアップする部分のメリハリがついてきました。そうです、これが私の若い頃の演技でした。と思い出したら朝の7時になっていました。

 全く睡眠がとれませんでした。そのまま朝食を済ませ、8時には前田が来たので、車に乗って中野駅まで出ました。そして東京駅から新幹線です。ずっと22日から生活が続いています。それが結果として忘れものにつながりました。と言い訳をうだうだ言っていますが、私の不注意の忘れ物です。なにより財布も現金もないのです。そしてよく考えたら明日の新幹線チケットもバッグに入れっぱなしです。

 演技の初手にお札が増えるマジックをしますが、その肝心の札がないため、お客様で来ていた望月由紀子さんにお金を借りて、お札の増加をしました。情けないマジシャンです。

 クローバーズの発表会は15本の出演者です、食事付きで2000円の企画です。近藤路子さんのシルクはすっかり手慣れて好い演技になっていました。龍登志子さんは浪曲奇術ですが、個性的な演技で拍手喝さいでした。時田準平さんは飛び込みで入ったにもかかわらずいいカードマニュピレーションを演じました。妹の夏那(なな)さんはいつの間にか小学6年生になっていました。背が高く、押出がいいためシルクのアクトがうまく見えました。佐野玉枝さんはお椀と玉。高級感が漂いいい演技です。磯部利光さんは四つだかやピラミッドのアクト。巧い出来です。

 そのあと私が出て、借りたお札でお札を増やし、サムタイリングを演じて、長い公演は終わりました。

 

 夜は駅前のホテルに入り、駅の向かいの海鮮料理屋に一人で行きました。鰺のたたきが新鮮で満足です。そこで次々に料理を頼んでみました。黒はんぺんは、鰯のはんぺんで、静岡の地元の名物です。素朴ないい味です。浜松餃子は多分冷凍ものと思いますが、それでも。独特の肉汁の味わいはいい味です。ハイボールを二杯飲んで、仕上げに富士宮焼そばを頼みました。富士宮焼そばは、普通のソース焼きそばなのですが、麺がもっちりとしていて、一度食べると病みつきになる触感です。結局どれもおいしかったので一日の締めくくりとしては満足しました。

ホテルに戻ると、 二杯のハイボールで少し疲れが出ました。まだ9時ですが、シャワーを浴びて、書き物などせずにすぐに寝てしまいました。

 

 翌朝は4時半に起きました。古谷敏郎さんの力作、「宮田輝」を集中して読みました。なんせ分厚い本ですので、簡単には読めません。

 そのあと朝食を済ませ、駅に行き、切符の払い戻しの手続きと、切符の買い直しをしました。何かと面倒ですが、全てスムーズで最悪の中ではうまく行きました。11時に加藤さんが迎えに来てくれて、指導の会場へ、それから夕方5時まで指導。新幹線で東京へ、夜8時に帰宅。長い長い二日間でした。

続く