手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

youtube のストーリー

youtubeのストーリー

 

 yourubeに上がっているさまざまなストーリーを時々見ています。それがフィクションなのか、ノンフィクションなのかはわかりません。内容は、夫婦の不仲、夫の不倫、舅、姑のいびり、親子の不和、会社の上司のいじめ、結婚相手の両親の無理解。助けた人の恩返し。様々な話が出て来ますが、どれもいくつかの共通した話の展開があり、それぞれ共通した結論が出て来ます。

 話の多くは、弱者へのいじめであったり、差別であったり、相手の無理解であったりします。然し、そこから出た結論に必ずしもすんなり納得できるわけではありません。いろいろ疑問を感じてしまいます。「それって、本当の結論なのだろうか」。と思います。

 

 会社の上司にいじめを受けてやめさせられたり、社長に無理な仕事をさせられて左遷をされたり、下請けの社員が、大手の企業の仕入れ担当の課長に虐め抜かれたり。

 その問題の解決が、たまたま知り合った別の大手の会社の社長のお陰で、大手会社から問題の会社に、「もう取引はしないぞ」。と脅してもらい。嫌がらせをした上司を左遷させたり。会社の社長を謝らせたり。

 これは水戸黄門のストーリーと同じです。御代官様に虐げられていたお百姓が、たまたま通りがかった水戸黄門様に助けられ、お代官を叱ってもらう。昔からあるパターンです。但し、これは、力によって、力のある者を制するわけで、力を肯定しています。結果として力に乗っかってものを言っていることに何ら変わりません。立場が変わっただけで、上司や社長と同じことをしているのです。

 むしろ、日本の社会の中で、企業の取引が、商品のクオリティとか、価格とか、アイディアとか、純粋な取引の対象とは別の部分で曲げられていることの方が問題だと思います。社内で嫌がらせだの無能な上司が幅を利かせているだの、その時点でその企業は成長しないことの証なのだと思います。水戸黄門さまが出て来て、一人二人の悪代官を叱ってくれても、腐った組織は同じことを繰り返すと思います。

 その時その時で自分一人は助かっても、駄目はいくら繰り返しても駄目です。結局はさっさと会社から離れたほうが成功を掴めるはずです。

 

 とは言っても、無理解な仕事先はいくらでもあるでしょう。仕事とはそんな無理解な人たちを相手に生きて行くことが仕事なのだと思います。立場の違いで虐げられることもしばしばると思います。そんな時に、いじめる上司のことにばかり悩んでいても問題は解決しないでしょう。

 それなら、何か別の道を探して、例えば趣味の世界に入ることで今までの人生とは違う世界を見つけて、楽しみを探し出すことの方が人生を幸せにできるかも知れません。いつ来るとも知れない、水戸黄門さまを求めるよりも、自分自身が少し違ったところに人生の価値観を置くことは人生を豊かにすると思います。

 

 夫婦間の問題に、姑や、義理の姉妹などが絡んで、一軒の家の中で嫌がらせをされる話も、日本的で、およそ悩まなくてもいい問題に首を突っ込んでいる話だと思います。姑が息子を可愛がり、嫁に息子を取られたと錯覚して、嫁をいびり出そうとする話は、昔から延々繰り返されてきました。

 そのため、夫の家に暮らすと言うことは相当な決断を要します。なおかつその家に、夫の姉や、妹がいると、一族が束になって嫁いじめをします。それに耐えて生きて行くことはほぼ不可能なことです。

 初めから、夫の家に入るときには、家の中の役割分担を決めたうえで入るなどしなければ、必ずもめる結果になります。曖昧なまま人の善意を信じて夫の家に入るなどすればうまく行かないのは当然なのです。

 私の経験でもそれは理解できます。結婚前に、度々今の女房が家に来ていましたが、私の母親と女房の両方からたびたび不満が出ました。始めは家を買う資金が出来るまでの数年間は同居しようかと考えていましたが、これは無理だとわかり、すぐにマンションを買うことにしました。

 やはり一家に主婦が二人いると言うのは無理なのです。無理を互いが我慢しているとやがて破局に追いやられます。youtubeの話で多くは、結局は離婚に発展します。嫁の日頃の我慢が溜まって行き、姑が陰で嫁に罵詈雑言を言っているのを嫁が録音しておいて、親戚一同が集まっているときにみんなに聞かせる。などと言う行為に出て、結局離婚をします。

 それは姑がしたことを考えたなら当然な仕返しなのかもしれませんが、それが嫁が求めた結論だったのか。と考えると、少し疑問に感じます。本来主人と二人で仲良く暮らせて行けたら何の問題もなかったことが、主人の家に入ったことが、無駄なストレスをためる結果となって、夫婦間も壊れてしまったわけです。他にもう少し工夫をして生きて行く方法はなかったのか。そんな生き方でよかったのかどうか。

 

 あるいは、夫の浮気が発覚して、離婚すると言う話も、夫の間抜けな生態がいろいろ書かれていて、いよいよ離婚となったときに、自身が、パソコンを駆使して株をやっているとか、パソコンで料理の指導をしているなどの副業を持っていて、十分収入があるため、生活に困らないから徹底的に夫の不正を暴いて離婚をする。と言う話になっていて、めでたしめでたしの話で終わっています。

 然し、それが本当にめでたいのか。それでよかったと言うなら、初めから結婚する必要もなかったのではないかと思います。

 どうもyoutubeのストーリーは、狭い世界の袋小路に自分をい込んで、自分や周囲の社会を壊すことで終結しているものが多いように思います。与えられた条件の中で花を咲かせる話がなかなか出て来ません。そうした点で読んでいてなにかもやもやとします。

続く

 

国葬、宗教、

国葬

 

 安倍元首相の葬儀を国葬にするか否かでもめています。安倍元首相のこれまでの実績のみであったなら、自民党葬当たりでもよいかと思いますが、選挙の活動中に狙撃されたと言うのであれば、これは特別と言えます。

 戦前、戦後すぐの時代であるなら、狙撃や襲撃も多々ありましたが、令和の時代になってまで狙撃による元首相の殺害が起こると言うのは異常です。一体、日本のどこに政治家を狙撃しなければならない理由があるのか、首をかしげてしまいます。

 犯人の供述では、統一教会に対するこれまでの恨みから、統一教会を支援していた安倍元首相を殺害することで社会に喚起を促すものだったようです。どうも飛躍した話です。統一教会に不満があるなら、まず統一教会のリーダーを狙撃すべきでしょう。如何に安倍さんが統一教会とつながりがあったからと言って、統一教会への不満を直接安倍さんに向けるのは見当違いです。

 実際、統一教会と安倍元首相との関係は深いものがあったようです。安倍さんの秘書が議員に立候補する際には何から何まで統一候補が支援していたようですので、まったく実体のない名前だけの顧問(かどうか知りませんが)などを務めていたわけでもないようです。やはり、浅からぬ関係があったと思います。

 安倍さんはいろいろな問題のある人ではあっても、外交面でも、防衛、経済と大きな実績を残し、海外の政治家から最も信頼された政治家です。ここは民主主義国家である日本が、テロに屈せず、民主主義を守る姿勢を世界に示す意味でも、国葬がふさわしいと思います。

 

宗教

 政治と宗教の関係は、つながりを持ってはいけないことになっていますが、実際は有形無実です。宗教と政治のつながりはどこでもべったりつながっています。宗教を信じる信徒に、宗教家が特定の政治家の支援を訴えれば、その影響力は大きく、「右向け右」で、みんな特定の政治家に投票するでしょう。闇雲に若者層や、浮動票を狙って演説するよりは確実に多くの票が集まります。

 そのため政治家は、新興宗教だけでなく、街の神社やお寺さんの行事までこまめに顔を出し、信者に声がけします。政教分離の原則はあっても、一概に宗教行事を否定することは出来ません。そもそも政教分離を言ったら、公明党は存在し得ないわけです。

 また海外でも、政教分離はされてはおらず、ヨーロッパにも、キリスト民主党、などと言う、明らかに宗教とつながった政党が政治活動をしています。

 そうなると宗教活動に顔出しする政治家を、一概に「法律違反だ、間違っている」。とは言えませんし、むしろ政治家にとっては手堅い票田なのです。

 

 今回の統一教会の問題は、政治家とのつながりよりも、その集金力の方に話題がクローズアップされています。いわば存在そのものを疑われているわけです。私のように、バブル期を経験した者にとっては、統一教会のバブル期の強引な霊感商法は、テレビや新聞などで散々騒がれていたたため、怪しい組織として認識をしていました。バブル後、噂を聞かなくなったため、組織は縮小されたのかと思っていました。

 むしろ今回のことにより、安倍元首相が、統一教会に関与し続けていて、なおかつ統一教会がそれなりの信者を要して活動していたことが意外でした。どんな宗教でもそれによって心が救われる人がいるわけですから、一概にその宗教は悪い、つぶしてしまえとは言えません。信じる人にとってはかけがえのないものです。

 

 宗教と言うものは、どんな宗教でも大体同じことを言っています。親や家族を大切にする。とか、仲間を愛する。とか、嘘を言わない。とか、人を殺していい。人を傷つけていい。などと言う宗教はありません。そうでありながら各宗教は何が違うのか。と言うなら、宗教を維持する費用をどこから集めて来るのかによって、宗教の立場が変わって来ます。

 宗教そのものは生産性のないものですから、どこかでスポンサーが必要です。いくら家族愛、人類愛を語っても、それで宗教家が生活して行けるものではありません。日々の活動資金をどこに求めるかは死活問題なのです。

 多くの宗教では自然自然に信者が寄進するように話しをします。宗教家は、「決して強制してお金を受け取っているわけではない」。と言いますが、それはマジックの技法のフォース(強制と悟られないような強制法)と同じで、如何にも相手の任意で選んだカードのように見せかけて、その実、マジシャンの仕組んだカードを引かせる技法と同じなのです。つまり強制ではないと言いながら、上手に強制しているのです。

 無論、直接、教祖が強制はしませんが、信者同士が何となく、寄進しなければならなくなるような雰囲気に話を持って行きます。知らず知らずに霊感商法に嵌るように仕向けて行くのです。

 例えば、ヨーロッパではキリスト教が国教になっていますので、キリスト教の活動費は一部国によって負担されます。日本の仏教は、国の負担はありませんが、長い歴史の中で、土地建物の所有が認められていて、なおかつ無税ですので。活動維持は優遇されています。古くからの宗教はいろいろな面で守られています。

 強力な支援者を持たない新興宗教などが、収入を得ることが難しく、時として無理な勧誘をしたり、怪しげな商品を売り付けたりします。そこでいろいろなトラブルが起こり、マスコミを騒がせます。それはいつの時代でも起こることで、常に新興宗教に付き纏う問題です。

 今、マスコミはみんなして統一教会を叩いています。私はそんなことをしても無意味だと思います。幾ら叩いても新興宗教は次々に出て来ますし、集金の方法は形を変えて出て来ます。収入がなければ宗教もやって行けないからあの手この手を使います。信者も、いつの時代でも救いを求めて宗教に嵌る人はいます。そんな人が、財産を失う前に、話を聞く相談所などを充実させて、宗教に強く自制を求められるような権限を持った組織を育てて行くことの方が役に立つと思うのですが、どうでしょう。

続く

 

アゴラカフェ休演

 24日(日)のアゴラカフェでのマジックショウは、メンバーの中でコロナ感染者が出たため、休演いたします。次回は8月7日です。

2022オールスターゲーム

2022オールスターゲーム

 

  アメリカのオールスターゲームが開催されました。大谷翔平はここでも、居並ぶアメリカの野球スターを追い越して大人気です。今年も、ピッチャーとバッターの二刀流を見せています。まさにオールスターゲームは、大谷選手の独り舞台のような様相になっています。

 本試合の方でも、あと一勝すれば、ベーブルースと並ぶ百年ぶりの記録を達成する選手になると言うのですから、大谷ファンだけでなく、全米野球ファンにとっても物凄く期待が盛り上がっています。

 

 私は、毎回大谷選手の活躍を動画で見ていますが、少しずつ体が大きくなってきて、改造マシーンようになってきています。これほど均整の取れた野球選手はアメリカでもそうそうはいないのではないかと思います。更には、そこから出て来る巨大なオーラが感じられるようになってきたと思います。恐らく近くで実際に会ったなら、感じるものは相当に違うと思います。まさに今が大谷選手の人生の絶頂期なのだと思います。

 

 大谷選手の私生活は質素なものだと言われています。自ら「趣味がない」。と公言しています。野球がすべてで、野球以外に何の興味もないそうです。今や年俸だけでも3億円以上稼いでいて、コマーシャルも5本あるそうです。1本のコマーシャル料は1億5千万円だそうで、この金額は野球界だけでなく、全てのスポーツ選手の中で最高額だそうです。コマーシャル料だけでも軽く年収を追い抜いているわけです。

 しかし、彼は収入には全く興味がないようです。テレビ出演もほとんど断っています。お笑い番組など出ません。紅白歌合戦もお断りでした。それでいて、高級レストランに行くわけでもなく、趣味に投資するものもなく、車は小さな韓国製のヒュンダイに乗っています。スーツも安い仕立てのもので満足しています。贅沢は全くしません。生活費は一日1万円で間に合うと言っています。「お金は使わないから、そっくり残っている」。と言っています。特別お金に執着しているわけではなく、使うことに興味がないようなのです。

 ほとんど毎日はトレーニングに時間を使い。仲間と飲食に行くこともないそうです。月50万円のアパートに一人で暮らし、部屋は3室。「広すぎて持て余している」状況だそうです。読書もするそうですが、どれもトレーニングに関する本だそうです。

 少しはほかのことをしたほうが気分転換にはなると思うのですが、何なら私がマジックを教えてもいいのですけど、もし大谷選手がマジックにはまり込んだなら、面白いと思います。

 無趣味で、一人でいることの多い人と言うのは、マジックに嵌りやすいと思います。何とか縁を作って、マジックを見せたいのですが、そのチャンスは来るでしょうか。彼がマジックに目覚めたなら、その効果は絶大で、マジック界は一気に注目され、多くのファンを作ることが出来るでしょう。

 要は、マジシャンであれ、ファンであれ、いい仲間を作ることが大切なのです。影響力の強い人を仲間にすれば、たちまちマジック界全体が盛り上がってきます。

 

 かつて、詩人の萩原朔太郎がマジックが好きで、その好きの度合いも人並みを燃えていて、東京アマチュアマジシャンズクラブに所属していたそうです。その技量は、と言うと必ずしもうまいとは言えなかったようですが、マジックへの愛情は終生消えることはなかったそうです。

 氏の死後に家族が遺品を整理したときに、「紐だとか、ハンカチだとか、玉だとかどうでもいいようなガラクタがたくさん出て来て、なぜこんなものを主人は大事にしていたんだろう」。と、家族は思ったそうです。そうなのです、家族から見たならどんなマジックでもそれはごみなのです。

 フレッドカプスが亡くなったときに、生前使った道具がオークションにかけられました。有名なマジシャンでしたから、関係者の間でかなり高めに売れたようです。然し、師の芸能を知るものからすれば、その小道具は既に抜け殻です。実際の価値はないに等しいものです。

 マジックの道具は生かせる人のためにあるのです。それはアマチュアだけの話ではなく、私も同じです。家一軒分はある私のマジックや手妻の道具も、私がいなくなったなら、どれもごみになってしまうでしょう。そうならないように、価値あるものは少しずつまとめておいて、使い方が分かるように、何かあったときには理解ある人に譲れるようにして整理しています。

 このところ、アマチュアさんの中で、高齢化のためにマジックの道具を手放す人が増えています。私のところにも道具を売りたいと言う話が随分来ます。少しでも価値のある物なら譲り受けたいと思いますが、私のところに流れてくる情報は、残念ながら、プラスチック物の小道具とか、解説書不明のパケットカードの類が多く、買い取っても手に余るものが多々あります。

 同じマジックの道具を買うのでも、もう少し、道具を選んで買ってくれればいいのになぁ、と悔やまれます。

 まだマジックがブームになる少し前、昭和40年代初頭のマジック用具はいいものがたくさんありました。職人の手作りのものがかなり安価で売られていて、力書房で出していたボール&ベースは木製の挽き物で作られていて、いい出来でした。シンブルも挽き物でした。小さなシンブル8本と、お終いの大きなシンブル一本がセットになって売られていました。但し、木製のシンブルは分厚くてさまざまな変化手順をするには不向きでした。

 テンヨーの銀色のカードケースなどは素晴らしい出来でした。パラソルチェンジもきれいな作りでした。水とハンカチの雲隠れ、などと言う、今となっては誰もやらないようなマジックでも、その道具の作りは素晴らしい出来でした。天地の小型のリングなどは、いまだに残っていますが、50年以上使っても全くメッキが剥げません。優れものでした。ああした端正な作りの道具が今のメーカーの用具からは見られません。アマチュアさんが亡くなったらどれもごみになってしまうのでしょうか。

 

 話は大谷選手からどんどん離れてしまいました。何とか縁を作って、大谷選手にマジックの面白さを伝えたいと思います。しかし、精神的にも肉体的にも、存在そのものが本物である大谷選手に、マジックは本物として見えるでしょうか。悩むところです。

続く

猫の蚤取り屋

猫の蚤取り屋

 

 たまたま昨日、冷や水売りについて書きましたが、私の手元に、「職人・芸人・物貰図絵(小野武雄 編著)」と言う、立派な装丁の図鑑があります。ここにはあらゆる江戸の職業、芸人がイラストで描かれていて、解説がついて、なかなか想像を掻き立てます。

 中には、とても今では職業として成り立たないような仕事が本当に行われていたようで、それはそれで、そうして生きて来れたことを羨ましく思います。

 

屑屋

 屑屋さんと言う職業は、確実に昭和までは存在していました。「屑うぃーおはらい」と言いながら町中をリヤカーのついた自転車で引いて回って、紙くずや廃品などを集めていました。古新聞、広告、古雑誌の類などを良く集めていたように思います。

 私の幼いころは、自転車等乗らずに歩いて回っていた人もいたように思います。人一人がズタ袋を背負って、歩いて集めた紙屑が、一体いくらになったのか、見当もつきませんが、大きな荷物と天秤計(てんびんばかり)を持って歩いていました。今、天秤計見ることは稀ですが、60㎝くらいの棒の片方に重りを付けて、反対の端に荷物を吊るして、中心の軸を移動しながら重さを計ります。

 屑屋さんは、古新聞や雑誌を集めて、なにがしかの金を支払って買い取って行ったのです。随分奇特な職業があるものです。それが江戸時代から昭和まで続いていました。江戸はエコのお手本のような時代で。あらゆる廃品が金で取引されました。

 

灰屋、蝋屋、汚穢屋、

 灰屋は文字の通り、灰を買い取る職業で。各家庭の竈(かまど)の下の灰を定期的に買い取ってくれる人がやって来ます。灰を買い取って一体どうするのかと思いますが、漆喰などと合わせて壁塗りなどに使ったり、肥料にしたり、絵の具にしたりしたのだそうです。

 その灰も、松の木とか、決まった木を灰にしたものは値段が付くのですが、何でもかでも竈にくべていたのでは売れません。灰の色が統一されないためです。とにかく、江戸時代は一軒一軒の竈の下の灰までも既得権があって、誰でも勝手に買って行くことは出来なかったのです。

 月に一度くらい灰を取りに来るのですが、景気の悪いときには長屋の暮らしは三度の飯が二度、一度になり、竈を使う回数も減って、灰も集まらなかったようです。

 この竈の灰のお礼は附木(つけぎ=細い木っ端に硫黄が塗ってあるもの。のちのマッチと同じ)を数本置いて行ったそうです。

 松旭斎天洋翁は子供のころ、道頓堀にあった灰屋に奉公に出されたと自伝で書いています。灰取りが細かく集めた灰をまとめて買い取っていたのが灰屋です。丁稚を使って道頓堀で店を構えていたのですから、職業として十分成り立っていたのです。

 

 蝋屋は、灰屋と同じく、蝋燭(ろうそく)が垂れて、灯台に零れた蝋を集めて、蝋燭屋に卸していたようです。蝋燭から垂れる蝋はわずかですが、それをこまめに集めて再利用すると言うのが想像を超えたエコです。但し、垂れた蝋を集める仕事で日々の生活が成り立っていたのかどうか、他人事ながら心配になります。

 

 汚穢屋(おわいや)さんは、汲み取り屋さんのことで、家々の便所や、長屋の便所を定期的に回ってし尿を集め、肥しとして再利用します。江戸時代は、し尿は貴重な肥料でした。各家庭の便所にも縄張りがあって、勝手に持って行くことは出来ません。定期的に契約した汚穢屋さんが来て汲み取って行きますが、近郷のお百姓がアルバイトで集めていたようです。その代金として、取れた野菜をいくつか置いて行ったそうです。長屋の差配(管理人)はその野菜が余禄だったそうです。

 実際江戸の近郷のお百姓は、野菜や豆類を作ることで、米以上の稼ぎを上げていました。特に野菜は日持ちがしないため、長距離輸送が効きません。江戸の近郊で作って小舟で江戸に運ぶことで稼いでいたのです。但し、年に何度も畑を使うために、畑の土は痩せて行きます。そのため肥料は欠かせなかったのです。

 汚穢にも等級があり、長屋の汚穢は最下位で、上級は、武家の屋敷、商家の屋敷、最上級は江戸城の大奥の汚穢だったそうです。日頃の食べ物によって、し尿にまでも上下関係があったようです。

 

 都市文化が発達すると、夜の灯火がの需要が大きくなります。蝋燭などは相当に高価だったので、一般の家では使えません。多くは、菜種油か鰯脂の灯火を使っていました。菜種は高級で、油のにおいも少なく、いい灯火ですが高価です。その点鰯脂は安価でした。然し、魚の匂いがきつく、不純物が多く、煤がたくさん出ます。それでも庶民は贅沢を言えません。大概は鰯脂を灯して夜の明かりにしていました。

 この鰯脂は、朝方、鰯が取れたときに、魚屋は天秤棒で担いで新鮮な鰯を町中売り歩きます。それが売れ残ると、全て油屋が引き取り、魚を圧縮して脂を取ります。これを濾して灯火にします。残った魚かすは、干しかと言って、細かな粉にして肥料にします。この干しかが、魚の脂分を含んでいていい肥料になります。菜種油を取るための菜の花を栽培するときや、大豆、小豆などの豆類を育てる時には欠かせない肥料になります。こうして、鰯は捨てる所がなく、100%活用されていたのです。

 

 江戸の職業で、私が最も変わっていると思った職業は、「猫の蚤取り」です。初めて聞いたときには、「そんな仕事で生きて行けるのか」。と他人事ながら心配になりました。

 一体どうやって猫の蚤取をするのかと調べると、先ず猫を洗います。そして、猫を拭くときに、獣の毛皮で拭き取るのだそうです。その獣の毛皮は、同じ猫だとか、犬だとか、狼の毛皮だとか諸説あります。とにかく毛皮で拭いてやると、蚤が渇いた毛皮に移動します。それを一つ一つ見つけ出して蚤をつぶして行きます。蚤の死体を何十匹か作って、この一連の作業を終えます。手間賃は3文(75円)だそうです。

 どうにもまともな仕事とは思えません。これで生きて行けるわけはないと思いますが、この仕事にはもう一つ裏があって、猫の蚤を取ると言って、妾(めかけ=愛人)さんや後家(ごけ=未亡人)さんに取り入り、家に入って世間話をするうちに仲良くなって、ヒモになって行くのが目的だと言う話があります。つまり猫の蚤取はダシに過ぎず、部屋に上がり込んで仲良く話をするのが目的だったようです。それならそれなりに夢のある仕事で、若い後継者も育ったかもしれません。

 続く

 

 

水売り、冷や水売り

水売り、冷や水売り

 

 江戸時代には、水売りと言う商売があり、江戸の間中ずっと長くこの仕事は続きました。江戸の町は大半が埋め立て地のために、井戸を掘っても塩気の強い水しか出て来ません。洗濯や掃除には使えても、飲料水にはなりません。本所深川当たりでは、飲み水が足らず、やむなく水売りから水を買っていたようです。

 一口に水売りと言っても随分細かく区別がされていて、そもそも、水売りがどこの水を運んで来るかで水の値段が違います。山の手の方の、天然に湧く井戸を持っている家と契約をして、そこから運んでくる水なら上等です。それらは無料ではなく、なにがしかの水使用量を支払って汲んで来るので、運び賃の別に使用料が乗ります。

 江戸の政府は、江戸の町が水が足らないことを知って、早くから水道を架設します。初めが神田上水で、これは井之頭公園の水を水路を作って江戸の町までつなげ、街中からは掛樋(かけひ)と言う、木製で蓋つきの樋(とい)を作って樋を地下に埋め、地下水路によって、江戸中に水道をはわせました。水はところどころに取水場を設けてそこから水が汲めるようになっています。

 江戸の長屋で井戸端会議をしている姿がさし絵に出て来ますが、その井戸はほとんど井戸ではなく、水道の取水場です。

 この水も只ではなかったのですが、庶民の生活を思い、格安で使用が出来ました。この水の管理が複雑で、江戸の政府は水役人と言う役職を作り、常に水道を管理していました。水が足らなければ先々まで水が行き渡りませんし、多すぎると、取水場から水が溢れてしまいます。

 そこで、ところどころ水を逃がす場所を設けます。この水の逃げ口は、吐き樋(はきとい)と言い、水が勢いよく川に流れ落ちていました。吐き樋は何か所かあり、三越本店の裏にある一石橋のところにもありました。ここに、水売りが集まって、水を分けてもらうのです。これも役人の管理があり、鑑札を渡した業者のみしか水をもらうことが出来ません。

 桶に水を入れて水を売り歩くという、至って簡単な仕事をしている水売りですが、決して誰でもできるわけではなく、組合に加入して、水代を支払っているものにしかできない仕事だったのです。

 この水売りも、大きな商いをするものは、伝馬舟(てんまぶね)でたくさんの水桶を運び、江戸でも特に水が足らない、本所深川あたりまで船で運び、そこから契約をしている武家屋敷や、奉公人の多い商店と契約をして毎日水を運んでいたようです。

 小さな商いだと、二つの桶に水を張って、天秤棒で振り分けて担ぎ、あちこちの長屋や店に売り歩いていたそうですが、一荷がおよそ一斗(18㎏)で、水の値段は、近所なら一荷4文、遠いところだと40文から80文(一文25円)したと言います。

 

 こうした生活用水を運ぶ水売りとは別に、冷や水売りと言う商売もありました。

これは、桶自体が磨き込まれた清潔な桶を使い、服装も当時の流行の柄の着物を着て、頭に置き手拭いをした格好のいいお兄さんが、「えーひゃっこい、ひゃっこい」と言いながら繁華な場所を選んで飲み水を売って歩きます。重い桶を担いで生活水を売っている水売りとは大きな違いです。

 水は一杯4文です。それに砂糖を入れたり、白玉を入れたりして、涼を演出します。江戸時代に砂糖はとても高価ですので、砂糖水に白玉入りと言うのは贅沢です。今日でいうタピオカティーでしょうか。12文(300円)くらい取ったようです。

 水は井戸の水から持って来ます。初めはかなり冷たい水ですが、それでも半日江戸の町で流して歩いていれば水は温まってしまいます。なるべく日陰のところを縫って歩いたとしても、やがては日向水になってしまいます。

 それを「ひゃっこい、ひゃっこい」と言って売っていてはお客様に文句を言われます。そこで一工夫して、錫(すず)で作った器で水を出します。錫は銀色で輝きがあり、見た目も涼しそうに見える高級食器です。水売りが歩いていると、肩に担いでいる棚に飾った錫器がこすれて、チリンチリンと金属音がして、それだけで涼しげに感じたことでしょう。

 少々水がぬるくても、高級な器で、涼を演出するというところが江戸の人の工夫です。なおかつ白玉と言う、ツルリンとした触感がまた人の心を捉えたのでしょう。ツルリンの白玉に、砂糖の甘い水を錫器で飲めるならちょっとした贅沢だったのでしょう。喫茶店などなかった江戸の町で、水売りは人気な商売だったようです。

 

 矢田挿雲と言う、大正から昭和初期にかけて「江戸から東京へ」という随筆を書いて大人気だった作家がいました。私は学生の頃、この江戸から東京へを買い求め、片端から読み漁りました。なんせ、冊数だけで8冊くらいあったと思います。なかなかの大著です。私はこの人の文章に憧れました。あっさりとして簡潔な書きっぷりが江戸を紹介するのにぴったりでした。

 そこに水売りが出て来ました。この水売りは恐らく明治になってからの人だったのでしょう。わずかな水代で商いしている水売りが、お客がうっかり茶碗を落として割ってしまった時に、恨み言ひとつ言わずに「割れたものは仕方ありませんや」。と言って、損料も取らずそのまま去って行ったと書かれていました。それが何とも江戸っ子らしいと言っていました。

 水売りにすれば、茶わん一つは、稼ぎの何分の一かを失ったことになります。暑い夏の日に重い水を担いで商いして、ようやく得た金が茶わん一つで呆気なくなくなるのは辛いはずです。然し、仕方ない、と言って細かなことは言わずにあきらめる所が江戸の文化なのだと教えられました。

 日頃、芸術文化などと偉そうなことを言いつつ、それの片隅で生きる者にとって、文化とは何かと問われたときに、矢田挿雲翁の書いた水売りの何気ないセリフを思い出します。

続く

 

 

お浚い会、アゴラ、峯ゼミ

お浚い会、アゴラ、峯ゼミ

 

 一昨日(16日)は午後から日本舞踊の「お浚い(さらい)会」でした。お浚い会と言うのは、本衣装を付けず、化粧もしないで、浴衣(ゆかた)で素踊りをする会のことで、ほんの内々の仲間を集めて日ごろの稽古の成果を見てもらうというものです。

 藤間章吾先生もコロナの問題などあって、もう何年も、国立劇場での発表会をしていません。国立劇場となると、一人の生徒が一番踊るためには何百万円もの費用がかかります。簡単な会ではありません。それでも、いい劇場で、演奏家を揃え、本衣装を着て踊る舞踊は、贅沢の極致です。舞踊をする人なら一度は経験してみたい世界です。そこへ行くとお浚い会は至って気軽です。

 

 場所は毎年開催している、根津のふれあいホール。今年は出演者も少なく、15番くらいの内容です。幕開きは前田将太による「七福神」。なかなか登場人物が多く、役を仕分けるのは難しい踊りです。10月30日の改名披露に踊るものです。まじめな男ですからよく稽古をしていて、きっちり踊れています。披露の際には、前田ファンにはきっと受けるでしょう。

 私の舞踊は、「日吉さん」と言う、日吉神社の祭礼を描写した短い踊り、短いのが救いです。どうも私は長い舞踊の振りは覚えられなくなりました。10分を超えるものは、踊っていて、ところどころ振りを忘れるため、何度か舞台で創作してしまいます。そうなると、なんだかぐにゃぐにゃした踊りになって、まとまりが付きません。毎回私の踊りは変です。

 今回はそれがなかったため私としては上出来でした。さて、踊りを終えて、本来なら、皆さんお踊りを拝見して、打ち上げに参加するところですが、この後指導があって、すぐに自宅に戻らなければなりません。と言うわけでゆっくり舞踊に浸っているわけにもゆかず、浴衣のまま、急ぎ家に戻りました。

 

 翌日(17日)12時40分にアゴラカフェに向かいました。今日はカズカタヤマさんとミーナさんのショウ。ちょうどクロースアップが始まる所で、私は一番後ろのに席に着きました。客席は10名ほど。

 内容は先月とほぼ同じ、パラソルチェンジに始まり、カードマニュピレーションとロープのアクト、舞台上でのカード当て。ミーナによる傘手順。三本リング。ミーナの6枚ハンカチ。後半はシルク手順から大きな旗出しまで。更に、小さくなるカードを演じてお終い。内容は前回と同じでしたが、細かく整理されていて、コンパクトにまとまった60分手順でした。

 私は、カタヤマさんと少し話したかったのですが、終わってすぐに峯ゼミに向かいました。峯ゼミは今回で第二期の終了。シルクアクトも今回で終わりです。ここではシルクアクトの基礎技法は勿論。ところどころに出て来るワイングラス、ボトルの効果的なスチールの解説をしてくれました。これらの技法はプロが学ぶべき技法です。ここで学べば必ず役立つことばかりです。

 これは峯村さんが長年研究して来た、メイン手順の種を公開しているわけで、一つ一つの細かな工夫は参加者にとって大きな収穫だったと思います。これで一年の指導が終わり、来月からはシンブルと、カードマニュピレーションの指導が始まります。

 シンブル三回、カード三回の指導ですが、シンブルが、シェルを使ったハンドリングで、個性的な手順で素晴らしいものです。

 良く工夫されていて、従来のアマチュア的なハンドリングとは一線を画します。スライハンドファンならぜひ覚えていただきたい手順です。申し込みは既に8名になりました。12名で締め切り、お早めにお申し込みください。

 

 この日は、最終日ですので、有志が残って、近くの飲み屋さんで打ち上げをしました。参加者は峯村さんを含めて7名。アルコールが入って、くだらない話が続出して、和気あいあいの打ち上げでした。

 

 一見、峯ゼミとアゴラカフェでのマジックショウは、別々の催しに思えますが、そうではありません。優れたマジシャンを育てるための一貫した活動なのです。日本でなぜ優れたマジシャンが育たないのか。その答えは、誰一人ちゃんとマジックを習っていないからです。

 DVDなどで五月雨式にマジックを覚え、それを寄せ集めて、何となく組んだ手順が、それで本当にいい手順なのかどうか。全く確証を得ないまま、人に見せて行き、それがそのまま収入を得る手段になって、プロの道に至ってしまう。どこにもプロの資格もなく、誰も認めていないうちにプロが生まれて行きます。コンテストに出て技量を試そうとするマジシャンはまだいい方ですが、大きな世界に出て活動する気もなく、狭いテリトリーの中だけで活動しているプロがたくさん育ってもそれがプロと言えるかどうか。どんなマジシャンがいてもいいのですが、こうしたな現状で日本のマジシャンが育つかどうか。

 先ずしっかりとした指導があって、そこに仲間が大勢集まって、何が優れたマジックなのか、互いの話の中からディスカッションがされて、次第次第に自分の頭の中に、マジックがどういうものなのかが構成されて行きます。こうした環境の中からマジシャンが育って行きます。考えには技法が裏打ちされなければいけません。技術があって、考えが育って、それで初めてマジシャンのなすべき道が分かります。

 多くのプロマジシャンが、仮にマジックの技術が未熟ではあったとしても、何とかマジシャンとして生きて行けるのは、実践のノウハウを多く積んで、「何が受けるかを知っている」からです。たくさんのマジックを知っているマジシャンよりも、レパートリーは少なくても、数多くの実践の場を経験して、「受けをわかっているマジシャン」の方が手っ取り早くお客様の受けはいいのです。

 実際の舞台を経験してみれば、舞台は理屈通りに行かないことばかりです。うまく行かない舞台を如何に面白く、楽しげに見せるかは、場慣れしない人にはできません。そうなら、舞台をたくさん作って、技術と実践経験を併せ持ったマジシャンを育てなければ、よいマジシャンは育たない、ということになります。そのために、アゴラカフェを作り、峯ゼミを作ったのです。さぁ、何とかシステムは出来て来ました。ここからどんなマジシャンが育って行くか、3年後が楽しみです。

続く