手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日本奇術 西洋奇術 8

日本奇術 西洋奇術 8

 

 ここまで書いて、私が手妻に接してから55年間、一体何をしてきたのかをまとめてお話ししましょう。

 昭和40年代は、手妻を手妻として演じる人がどんどんいなくなり、種仕掛けのみが残されて行きました。手妻の作品はマジック(西洋奇術)の演者の中の一演目としてかろうじて残って行ったのです。

 それは種を残すと言う点では有効だったでしょう。然し、手妻がどういう理由で作られたのか。手妻の構造、手妻の本質は顧みられないまま、種仕掛けのみが残り、手妻の最も良き部分が継承されずに消えようとしていたのです。

 手妻の面白さに気付きだした私は、何とかしてその面白さを伝えようと、アレンジを加えたり、創作活動をしましたが、如何せん知識も技量も未熟で、なかなか上手く伝えることが出来ませんでした。

 28歳の時に、一度古典に戻って、古い形で手妻を再現してみようと考えて公演しました。これは好評で、その後私を支持して下さる先生方が出来ました。この公演が今日私が演じる手妻公演の原型となっています。

 そのうち、水芸の改良を手掛けるようになり、25分かかって演じていたかつての水芸を10分に縮め、作曲を依頼し、ようやく納得の行く作品が出来ました。それを昭和63年に芸術祭参加公演で発表をしました。これが芸術祭の初受賞につながり、受賞を機に仕事の内容も、仕事量も大きく飛躍して行きました。

 参加公演は昭和63年の10月でしたが、授賞式はあくる年、平成元年の1月でした。昭和から平成に変わったと言うことと手妻の発展とは本来何のつながりもありません。然し、結果としてこの時が大きな転換期でした。平成を境に日本人の考え方が大きく変わって行ったのです。

 それまで急成長で伸びてきた日本の経済に陰りが出てきたのです。この先何を目標に生きて行ったらよいのか、日本人は悩みだしました。やがてバブル景気は終わり、大不況がやって来ます。平成5年のことです。

 不況は長く経済の低迷をもたらし、それは今に至るまで続いています。日本人は問題にぶつかると、過去の歴史から答えを見出そうとします。そこで急激に日本の歴史を見直す流れが生まれます。それに乗じて、歌舞伎、能、狂言、邦楽、雅楽、落語と、あらゆる古典芸能に観客が押し掛けるようになります。

それまで歌舞伎にしろ、能にしろ、落語にしろ、もう将来がないのではないかと危ぶまれていた時に、急に世間から評価されてブームの様に人気が出てきたのです。

 手妻も例外ではありませんでした。地方のイベントや、市民会館などから出演依頼が来るようになり、仕事量が増えて行きました。但し、これはとても危険なことでした。本来手妻は流行とは無縁の芸能なのです。うっかりブームに乗っかったなら、その後、ブームが去った後、また元の冴えない時代に戻ってしまいます。流行など考えずに着実に活動して行かなければならないのです。

 

 ところで、私は、バブルの時代があったことは良いことだったと思います。そしてバブルが弾けたこともよいことだったと思います。

 バブルの時代は日本を豊かにしました。本四架橋を3本も作ったり、青函トンネルを作ったりと、本来なら100年待っても出来なかった事業がバブルのお陰で達成できたのです。今日の都市の景観はみなバブルのお陰で奇麗になったのです。

 初めて日本人が財布の中身を心配しないで生きて行けるようになった時代です。そうした時代をたとえ10年でも体験できたことは日本人にとっても日本にとってもよかったと思います。

 と同時に、バブルが弾けたことも結果としてよかったと思います。バブルの時代は、みんなが儲かった金で株や、不動産投資をしていました。ごく普通の会社でさえ、株や、使いもしない土地を買い漁ったのです。結果、たちまち日本の土地は2倍に跳ね上がりました。そんな土地に銀行はほとんど無審査の状態で金を貸しました。誰でも土地持ち、家持になれたのです。

 但し、バブルが弾けることを誰も予想していませんでした。一旦バブルが弾けると一気に物の価格が下がり、物が売れなくなりました。たくさんの企業が倒産しました。この時日本人は真剣に自分を見つめ直すようになったのです。

 この時何をすべきかを考えて答えを出した人たちは次の時代に生き残ることが出来ました。こうした世の中の流れから、急に手妻が見直されるようになりました。明らかに世の中の評価が変わって行った時でした。

 

 平成6年に再度芸術祭の受賞があり、仕事の上では何とか安定した状態を維持しました。然し、このころから新たな悩みが始まりました。

 それは、旧来の手妻をスピードアップして、見やすい楽しい手妻にすることが手妻を残す道だと考えていたものを、手妻の内容をより深く、コクのあるものにしなければならない、と考えるようになったのです。つまり、世間の求める古典芸能と言うものは、もっと芸能の深層を求めているのだと言うことに気付きだしました。

 それから一作一作を見直し、演技を組みなおしました。道具も、漆の職人に頼み、金蒔絵を施した古風な道具に切り替えて行きました。それらはとても費用のかかることで、仕事が少なくなっていたその時期にはとても資金繰りが大変な時期でした。

 いくら稼いでも、稼いだ金はたった一作の漆塗りの小道具に消えてしまうわけですから、女房にはずいぶん苦労を掛けました。然し、そこに賭けた時間は無駄ではありませんでした。道具やテーブルや、衣装が良くなることで、アッパークラスの新たなお客様が集まるようになりました。お客様は手妻を高級品と見てくれるようになったのです。

 そうした活動の中から、平成10年に芸術祭大賞の受賞がありました。この受賞によって手妻の評価が大きく上がったと思います。それ以後は弟子も押しかけて来るようになり、私以上に活躍する弟子も出て来ました。いい流れです。

 ここから先は、私の敷いたレールから次の時代に引き継がれなければなりません。私の考えだけでなく、それぞれの手妻があっていいのです。

 但し、模倣でなく、流行に追われることなく、手妻を本気で愛する人が手妻に携わって行ってほしいと思います。本来手妻は地味な世界ですから、それを根底に据えて、わかって演じてくれたならこの先も安泰です。

 日本奇術 西洋奇術 終わり

日本奇術 西洋奇術 7

日本奇術 西洋奇術 7

 

 ご自身が手妻の継承者になりたいなら、直接会ってきっちり習うことです。私は子供のころからそうして習って来ました。そして今も手妻を知る人を見つけては習いに行っています。それは決して大変なことではなく、古典を継承したいなら絶対しなければいけないことなのです。

 昨年10月に90歳で亡くなられた、帰天斎正華師(3代目正一氏の芸養子)には、つい1年前まで、私は度々ご自宅に出掛けては手妻を習っていました。当時としても大阪で帰天斎の芸を継承する数少ない手妻師であり、貴重なお師匠さんでした。

 私が、「最近どなたか尋ねて来ましたか」。と尋ねると、「いえ、誰も来ません」。と言っていました。手妻がようやく再評価されている現代においても、直接習って芸を継承して行こうと言うマジシャンはほとんどいないのが現状なのです。

 

 今から15年前、青森に「金輪の曲」(リンキングリング)を残しているアマチュアさんがいると聞いて、泊まり込みで出かけて、五戸(ごのへ)と八戸(はちのへ)の金輪を見せていただき、教えを乞いました。継承者は複数いて、どちらも同じ系統の演技でした。然し、微妙に違いがあります。

 その微妙な違いとは一体何だったのか、東京に戻って資料を調べつつ考えました。「放下せん(せん=竹冠に全の文字)」で解説されている数少ない絵柄と説明文とを合わせて、青森の手順を見るに、

 青森の金輪は、キーリングを2本使用します、そのことは五戸も八戸の手順も同じです。そして残りがシングルリングです。

 使うリングの本数は、五戸が6本、八戸が7本です。どちらも同じ系統でありながら本数が違うことは不自然です。この本数の違いこそが、本来の手妻がどんなものだったかの鍵があるように思います。

 ちなみに放下せんでは7本を使用していたように見えますが、全貌は見えません。挿絵では7本を一列につないでいます。「こんなつなぎ方が出来るわけはない」と、長らく放下せんの解説の挿絵は誇張して描かれているのではないかと考えられていました。

 然し、青森の金輪が2本のキーを使用していたことが分かったなら、6本までを一列につなぐことは可能です。然し、7連は無理です。  

 7本を一列につなげるには、wのリングがあれば可能です。少し見えて来ました。私が想像するに、旧来の手妻の演技にはwがあったのではないかと思います。

 今日、wを使う演技はポピュラーですが、wを使うためにはすり替えや、つなぎ外しが奇麗にできなければいけません。ここは秘伝中の秘伝だったのでしょう。

 金輪の手妻師が、青森の素人さんに指導する際に、すり替えの技法を教えるには難しいため割愛したのか、或いは秘密にしたのだと思います。結果、青森に残された手順は、wリングの技術が継承されなかったのでしょう。

 無論、放下せんの解説でもそのことをはぐらかしています。放下せんではキーリングが2本であることすらも隠しています。当時の金輪はそれほど貴重な芸であり、安易に公開できなかったのだと思われます。

 それでも、金輪の継承者が五戸と八戸に残されていたこと、そして、八戸が7本と言う、中途半端な本数を使用すること。放下せんの解説が仕掛けを隠しつつも昔の様子を伝えていたことで、ようやく江戸の金輪の全貌の解明が出来ました。

 恐らく日本のリングは、wを使って、8本の演技だったと思います。また、少し拡大解釈をして、9本の可能性もあります。

 

 今は、私の一門が9本金輪として保存継承しています。本数は増えましたが、全体の流れは青森の演技を継承させていただいています。口上なども青森のセリフを随分取り入れています。

 金輪の曲が残ったことは本当に良かったと思います。私にとっても、長く手妻を続けて来た活動の中で金輪は、エポックメーキングな仕事でした。

 

 私は40代半ばから、口上やせりふの入った手妻を随分復活させたり、創作したりしています。20代30代までは、逆に口上を取り去って、手妻のスピードアップを図ってきたのですが、必ずしも、スピードアップすることが手妻を面白くすることにはつながらないと知り、40代以降は、積極的に口上を取り入れるようにしました。

 それまでも一人で喋ることはサムタイや札焼き、五色の砂などでやっていましたが、弟子と一緒に掛け合いをすることはあまりやっていませんでした。

 弟子も、かつては昔の口調で語ることを学びたがっている人もいませんでした。然し、手妻が評価されるようになると、語りの重要性を理解する弟子がどんどん入って来るようになりました。そこで掛け合いや口上をたくさん足して、作品を復活させたり、新作を作ったりして行くようにしました。

 現代で、昔の掛け合いが出来るマジシャンは奇術界にはいないのです。昔風に喋り、口上声と、世話(昔に日常会話の話し方)を使い分けられるような人はいなくなり、それを教えられる師匠もいなくなりました。唯一私のところで掛け合いや口上を維持しています。

 この15年は、私も、お客様も、世間全体も、ある種、原点回帰をしてきたように思います。実際昔風の世話の語りをすると、現代のお客様でも結構楽しんで聞いてくださいます。そして、そうした会話の手順を加えると一層古風な独特の雰囲気が生まれます。まさに古典の世界です。

 但し、これもさじ加減が問題です。ただ古いセリフを言っていたのでは、現代のお客様には何のことかわからなくなってしまいます。古風さを残しつつ、適当に現代に伝わるように言い換えなければいけません。

 また時には今の流行りも取り入れなければいけません。古典だからいい、伝統芸だからいいと言うのではありません。常にお客様を見ていないと、また昭和40年代のように、理解者を失い、継承者を失い、仕事を失って世界から取り残されて行きます。

明日はこの長いブログをまとめます。

続く

 

 

日本奇術 西洋奇術 6

日本奇術 西洋奇術 6

 

 この20年間で困った問題を2点申し上げます。

 30代から40代にかけて、私はいくつもの賞をいただきました。以降、私の手妻に対して、余り見当違いな批判をする人はいなくなりました。ある意味私の演じる手妻が、手妻の基準として捉えられるようになったようです。

 それはそれで有り難いのですが、平成10年以降、私の演技をそのままパクって演じるアマチュアさんや、セミプロさんが増えて来ました。

 無論、私から直接習ったのならばそれでよいのですが、全く会ったこともない人が、私の演技をテレビなどで見て、そっくり真似て演じています。それも内容をよく理解していないで、見当違いな演じ方をして、癖ばかり真似て演じているのを見ると、「何十年経ってもマジックの社会はこんな人ばかりが育つんだなぁ、手妻は永遠に理解されない世界だなぁ」。と痛感します。

 

 私は20代の頃から、指導ビデオを熱心に出していました。純粋にマジックの普及につながるだろうと言う考えでしていたのです。然し、平成10年以降は、新規のビデオ制作も、旧作の販売もやめました。

 どんな人が私の演技を演じるかもわからないまま、不特定多数の人に種仕掛けを教えることが本当のマジックの普及になるのかどうか。そもそも、種仕掛けのみを教えることがいいことなのかどうか。そんな風に考えると、ビデオを販売することはむしろ間違いだと言うことに気付いたためです。

 結局、昭和20年代以降、アマチュアマジッククラブが増え、マジックショップが増え、通信販売が増え、今ではネット販売が普通になり、誰でもマジックが覚えられるようになったことで、マジックは一見発展してきたように見えますが、それはマジックの種仕掛けを金に換えただけではなかったのですか。

 マジックが普及したのではなく、種仕掛けが普及しただけなのではないですか。種仕掛けの普及の裏には、道具の価格の暴落、指導DVDの価格破壊、ネットでの種明かし。コピー、盗作の氾濫。演技の無断使用。マジックの世界はもっと知的で、高尚なものであるべきものを、今は見る影もなく堕落しています。

 そして、理解者を減らし、観客を減らし、マジックのコンベンションは種の売り買いの場になってしまっています。

 私は道具の販売も、指導も否定はしません。道具がなければマジックは演じられませんし、いい道具を作ってくれれば多くのマジシャンが助かります。また、指導を否定しては次の人が育たなくなります。然し、しっかり人を見て、信頼できる人に指導し、販売しなければマジックの世界は悪くなるばかりだと思います。

 そこで、直接指導をして、教えることに専念するようになりました。藤山コレクションと称して、手妻の道具も製作していますが、これも、別段道具の販売を目的としたものではなく、指導の一環として出しています。習わずに道具だけを購入することは出来ません。飽くまで指導を受ける人を対象としてお出ししています。

 また、何らかの理由で私の手妻の道具を手放すときには、私の方で買い取るようにしています。理解のない人の手に渡って、更にはコピーされることを恐れてのことです。単なる物売り買いではなく、手妻の価値を理解してもらいたく、そうしています。

 今の時代はよくよく相手を見て対応しないと、とんでもないことになります。売ること、教えることが目的ではなく、手妻の品格を守ることが大切なのです。

 

 もう1点は、この20年、急激に手妻の価値が認められて、古典芸として扱われるようになりました。勿論、古典芸であることは間違いないのです。アマチュアさんやセミプロさんが手妻を演じることは何ら問題ではありません。

 但し、それを市役所や、公共団体の公演など、公の場で、古典芸能の継承者と称して演じないでください。手妻をきっちり継承しているなら、誰から習ったか、という点が一番重要なのです。きっちり継承がなされているなら、それは古典芸能、或いは手妻の継承者と認められます。

 然し、マジックショップで種仕掛けを買ってきたり、DVDを見て稽古したり、自分自身で勝手に工夫をして演じている人は古典の継承者ではありません。

 ましてや、創作和妻などと称して、一切の手妻が入っていなくて、誰からも習わずに勝手にこしらえ上げたマジックは、手妻、和妻ではありません。それは日本風マジックです。

 演じる内容の中に、誰から習ったか、がはっきりしたものが入っていて、それをアレンジしたり、創作を加えたならそれは手妻として認められます。

 その習った人が、アマチュアマジッククラブの会長さんであるとか、マジックショップのオーナーであるとか、と言うのでは継承になりません。

 更に、そのマジッククラブの会長さんや、マジックショップのオーナーさんがそもそも誰から習ったのかが問題です。ルーツをたどって行くと、マジック用具の1枚の解説書になってしまうのでは古典の継承とは言えないのです。

 但し、アマチュアとして、手妻をされるなら、どんな習い方をしても結構です。然し間違っても、プロフィールに、「古典芸能継承者」「伝統的な和妻の演技者」などと書かないでください。そもそも人から継承していないのですから、継承のない手妻、和妻は手妻ではないのです。

 伝えられた内容を持たない人が勝手に伝統を詐称してはいけません。そこがあまりに安易であることが手妻の世界を悪くしているのです。

続く

日本奇術 西洋奇術 5

日本奇術 西洋奇術 5

 

 さて、それから私がして来た活動は、手妻の古い型や演出を生かすために、部分的なアレンジを加えたり、オリジナルを加えたりして、手妻の演技を一つ一つ手直して行きました。

 それも出来るだけ見た目には、いかにも昔からある手妻であるかのように、ほとんど手を加えていないように見せつつ、その実、より不思議に見えるように種仕掛けにアレンジを加え、ハンドリングを加え、更には、より古風で美しく見えるように、振りや演出も変えて行きました。

 

 そうするためには、10代から通っていた日本舞踊や、長唄が大きく役立つことになりました。手妻、和妻をする人の中で、日本舞踊を学ぶ人は少なからずいますが、ほんの1年2年程度、基礎を学んでやめてしまうのでは雰囲気は身に付きません。

 習い事は、長唄でも三味線でも鼓でも、少なくとも10年続けなくては、芸能の本質は理解できません。踊りは振りを学ぶことではないし、意味もなく番数を覚えることでもありません。雰囲気が自然に身についてきて、心の中を体全体で表現できることが大切なのです。

 私が本格的に手妻のアレンジを始めた30代に至って、それまで10数年学んできた伝統文化が大きく役立ったことは言うまでもありません。

 但し、私は踊りも、長唄も、鼓も下手です。何も自慢できるものはありません。ただ、自慢できることは飽きずに続けて来たことです。何事も、すぐに成功を求めようとしても役には立ちません。

 稽古事は、銀行利息のようなもので、長く続けていて、預金していたこともすっかり忘れたころ、ほんの一滴(ひとしずく)、身についてきて、芸の一部分に多少の役に立つ、と言ったものなのです。

 

 さて、手妻の様々な改案を始めはしましたが、マジシャンの中には、自分のアレンジや、オリジナルを公言して自慢する人がいますが、マジックは本来、部分的なオリジナルなど見ているお客様にはどうでもいいことなのです。むしろ完成した全体の作品がどれだけ感動を与えるかが最も重要なのです。

 むしろ、私が何かを変えたことがあからさまに見えないように、新規に変えた部分が突出しないようにすることが大切で、それでいて、本来の手妻よりも不思議で、振りも美しいものに造り替えて行くことが大切なのです。

 そうしなければ若い人が手妻に近づいてこないことは明らかだったからです。私が30代の頃、よく同年代のアマチュアさんに言われたことは、「日本奇術は不思議さがない」。と言うものでした。

 実際手妻は、箱や、シルクの影からものを出す現象が多く、ビジュアルに変化を見せたり、ダイレクトに不思議な現象が次々に重なるようにして起こる演技が少なかったのです。

 それは手妻が、スライハンドが発展する以前から存在した芸能なため、ビジュアルに不思議を提供できないことは致し方のないことではあるのです。然し、現代のアマチュアや、お客様はそんなことを忖度したりしません。面白いものは面白いと言い、つまらないものはつまらないと言います。

 お客様の期待に応え、期待値を超えた演技をして見せなければこの先手妻が生き残ることは出来ないのです。そのため、ダイレクトな不思議や、連続する現象を付加して行くことが必要でした。そうして不思議を作り上げたなら、今度はそうした不思議を隠して行かなければなりません。これは一見矛盾した行為ではありますが、実はそれこそ手妻の本質なのです。

 

 まずきっちり不思議を作り上げ、お客様に不思議を見せつつも、その不思議を決して強調することなく、型や振りで市井風俗を演じて見せて、微妙に論点をずらしてお客様に不思議を詮索されないように配慮し、決してお客様と敵対しないようにして、さりげなく終わらせる。これが手妻の本質なのです。

 不思議さを見せつつ不思議の押し売りをしない。不思議なことはさっさと忘れてもらう。むしろ演技を見終わった後には、演者の人としての魅力や、表現する世界の面白さでお客様を引き込んで行く。こうした面白さを伝えられて初めて、手妻は完成します。不思議を内包して、露骨に表に出さない世界を表現できたなら手妻は世界に誇る芸術になります。

 さて、口で言うことはたやすいのですが、それを一つ一つ作品で表現して行くとなると膨大な時間と、知識、技術が必要です。30代40代の私は、片方でイリュージョンチームを維持しつつ、そこから出来た利益を手妻に使い、古い手妻を調べて再現したり、習ったり、わずかな時間もアイディアを考え、ひたすら作品作りをしていました。

 

 例えば、蒸籠(せいろう)は古い万倍(まんばい=プロダクション)の作品ですが、あの木箱の中の仕事を、4面ガラスを嵌めた小箱の中で行えないだろうか。

 全部素通しの箱の中で次々と絹ハンカチが出たなら面白い。そんなことから考えたものが「ギヤマン蒸籠」でした。無論、こうした作品は古典にはありません。よりビジュアルな、明快な手妻が欲しくて考えたものです。

 透明な小箱から次々にシルクが出現して、更には大きなシルクが出て、シルクの中から傘が咲く。現象を次々に重ねて手順を作り、一連の作品にしたものです。

 不思議が次々に起こらなければ、現代のお客様から手妻は注目されないと考えた答えがこれです。こんな演技をしながらも、傘が出たならゆっくり見得を切って、しみじみと和の世界を見せて終る。そんな演技が手妻なのだと思います。

 双つ引き出し(夫婦引き出し)でも、煙管を使って、出て来た玉を掬いあげて、出したり消したりする。その煙管の扱い方や振りで、マジックの不思議を忘れさせるように演出しました。そんな工夫をして手妻をアレンジして行ったのです。

 蝶や、水芸の改案は度々ブログで書きましたので、ここでは割愛します。こうした中で、手妻と言う芸能がどう演じるものなのか、何が手妻なのかの答えを私なりに出せるようになって行きました。

 それは私の芸の完成ともいえるものなのですが、同時に大きな問題を抱えることになりました。そのお話はまた明日。

続く

 

日本奇術 西洋奇術 4

日本奇術 西洋奇術 4

 

 こう書くと、私が手妻のことを何でも知っていて、唯我独尊。自分以外は何も知らない人たちだと言っているように聞こえるかもしれません。

 そうではありません。私がやっていた日本奇術は失敗の連続でした。22歳で初めて手掛けた日本奇術はお粗末なものでした。毛花をテーマにして、舞台一面、たくさんの毛花を咲かせる手順で、まったく学生や、素人の発想であり、およそ手妻の要素のない我儘なものでした

 但し、相当に費用をかけて作ったものでしたので、派手なことは間違いなく、これはこれであちこちで買い手がありました。自分自身ではそれを喜んでいたのです。

 NHKの歌の番組でもゲストで使ってくれました。放送後、視聴者から送られて来た手紙がNHKから届きました。内容は、「若くして日本奇術を目指す人がいることに感動した」。と言うものでした。名前は薮下隆男とありました。

 それから1年後、日本テレビのマジック番組でコンテストがありました。私はコンテストに出場しました。そこに薮下隆夫さんがいました。彼は高校を出たばかりでプロを目指していました。のちのマーカテンドーでした。初めて会いました。

 彼は私に会うと、「前にNHKに手紙を送ったんですが、届きましたか」。と言って来ました。無論、届いたことを伝えました。「なぜ私に手紙を書いたの」。と尋ねると、「自分の考えを形にして世間に発表するマジシャンがほとんどいないから、すごいと思いました」。

 当時は既製品のマジック道具で手順を組んでそれで生活するマジシャンがたくさんいたため、珍しく思ったようです。然し、手紙をくれた人が高校生だったとは知りませんでした。

 

 高校生だった薮下さんには褒められましたが、その後、私は自分勝手に作り上げた日本奇術を恥じるようになりました。これでは外国人がエキゾチズムを狙って演じるジャパニーズマジックと何も変わっていないと知ったのです。

 もっともっと昔の型や振りを尊重して、古典を柱として、それをアレンジして現代に通用するような手妻を作らなければ、駄目だと思いました。然し、同時に、古い物をそのまま演じることに後ろめたさがありました。

 それは、昔の手順と言うものが時として未熟に感じられたからです。蒸籠のネタどりであるとか、引き出しの玉を懐に隠すところとか、お椀と玉の第3段、4段のハンドリングとか、

 どう考えても今のお客様が納得する手順ではない。と思う部分がいくつもあったのです。それゆえに、ついつい古い手順を嫌って、やらずにいたのです。また昔の師匠は、手順を変えることをとても嫌がりました。勝手に直すと怒られたのです。ある意味、手妻は因循姑息な社会だったのです。

 然し、そうであるにしろ、古い手順を尊重しない限り、手妻は演じられません。

 そこで、ひとまず変なオリジナルは引っ込めて、アレンジも最小限にして、あちこちに出掛けては習い覚えた作品をひとまとめにして、形式も、演技そのものも古い形に戻して、手妻を手妻として演じて見ようと考えたのです。

 1983(昭和58)年、初めて芸術祭参加公演をして、古い形で手妻を再現してみました。タイトルは、「文明開化新旧手妻眺(ぶんめいかいか、しんきゅう、てづまのながめ)」

 

 これは全編蝋燭(ろうそく)灯りを使って、生演奏を使い、口上を交え、明治15年を想定して、昔の形式のままに手妻の興行を再現してみたのです。

 なぜ手妻の公演を明治15年に想定したのかと言えば、明治15年以降、急激に手妻師の数が減り、西洋奇術が台頭して行ったためです。

 一度明治15年に戻って、なぜ手妻が廃れて行ったのか、手妻は何もかも古臭くてつまらないものだったのか、手妻から今に生かせる作品はなかったのか。それをテーマとして再現してみました。

 この中には当時としては珍しい、一里四方取り寄せ、や、つづら抜け、などを復活させ、こんな風に演じていたのではないかと想像して、あくまで昔風に演じて見ました。

 

 審査結果は受賞に至りませんでしたが、思わぬことに、審査員の中から相当数の方々が熱烈に支持してくれました。そうなら受賞しそうなものですが、審査員いわく、「藤山さんはまだ若いから、年長者に賞を譲ったんだ」。と言いました。

 当時私は28歳でした。当時の考え方として、芸術祭と言うのは、功成り名を上げた芸人さんがもらう賞であって、20代の若手が取る賞ではなかったのです。

 但し、審査員の方々からその後いろいろな公演の依頼をいただくようになりました。何とはなしに私の芸を温かく迎えてくれる人たちが集まるようになってきたのです。まったく理解者もなく、仕事場も少ない状態での手妻の活動でしたので、有難いことでした。ようやく光が差してきたように感じました。

 

 ここで私が、ブログの初めから、手妻、和妻をあえて日本奇術と書いていたことについてお話ししましょう。日本奇術とは、西洋奇術の対語であり、和妻も洋妻の対語です。洋妻と言う言葉が消え、西洋奇術と言う呼び名も消えた今、日本奇術、和妻と言う呼び名は浮浪(はぐれ)雲のように空を漂っていて、何に対して日本なのか、和なのか見当が付きません。

 本来手妻と言う呼び名があるなら、名称を手妻に戻し、手妻は、マジックに対して、もっと内容の濃い、コクのある芸能にして行かなければ生き残りは不可能です。

 そうなら日本奇術を手妻と呼ぶようにしよう。そのため、「新旧手妻の眺め」と、手妻と言う名称をタイトルに使ったのです。日本奇術は手妻であるべきだ、と気付いたのはこの28歳の公演からでした。

ここからその先の私の活動は目的が決まったのです。

続く

 

日本奇術 西洋奇術 3

日本奇術 西洋奇術 3

 

 さて、12月30日に、「日本奇術、西洋奇術」の話を書き始め、間に元旦2日目を挟んだために完全に話が途切れてしまいました。ここから先をお読みになる方は、もう一度、12月30日、31日のブログからお読みの上ご覧下さい。

 

 幕末、明治期に西洋奇術が入って来た時に、ある作品は、手妻に取り込まれてしまい、そのまま手妻の演目になって行きました。サムタイ、真田紐、卵の袋、等々。

 それとは逆に、西洋のマジックを演じるために、洋服を着て、なるべく西洋風の演出をして、西洋奇術師と名乗って演じる「洋妻師」も出て来ました。その人たちの演目には、首切り美人、ダラー棒、メリケンハット、等々(明治以降、日本に入って来た西洋奇術のすべて)があります。

 明治の中頃を境に、手妻が西洋奇術を取り込んで変化してゆく傾向は薄れて行き、手妻は演者を激減させ、衰退して行きます。変わって、洋服を着て西洋奇術をする「洋妻師」が増えて行きやがてそれが主流となって行きます。

 戦後(1945年)以降に至って、西洋奇術は、あえて西洋奇術と名乗る必要もなくなり、タキシードを着てマジックをすることがグローバルスタンダードになって行きます。

 それと並行して、手妻が隅に追いやられて行き、かつて、和妻、洋妻と言う区別をしていたことが嘘であるかのように、グローバルスタンダードの大量のマジックを前に、手妻の力は衰えて行きます。

 この流れは、例えて言えば、私がかつて10代のころ、建売住宅のチラシを見たときに、「和室6畳、洋室6畳」などと書かれていた時代があったのですが、いつの間にか、洋室と言う言葉が無くなり、フローリング10㎡、とか、ダイニング20㎡、などと書かれ、フローリングがスタンダードになり、逆に和室が特異な位置づけになって行った傾向と、手妻がよく似た発展の仕方をしているように思います。

 

 戦後の手妻が、手妻の演目だけで維持できず、仕事の場も失われ、洋服を着て演じるマジシャンの演目の中に紛れ込んで、ラテンの音楽を使って、タキシードなどを着て、蒸籠をしたり、蝶を飛ばしていたと言う話をしました。私はそれを目の当たりに見て育った年代でした。

 昭和40年代50年代と言うのはそんな時代でした。手妻の演目自体がこの先生き延びられるかどうかも分からず、残ったとしても、古い演出、型、口伝は失われて行き、種仕掛けの演じ方のみが残されて形骸化して行く傾向にあったのです。

 然し、この時期、私は手妻を習い、型や口伝を習いつつ、やがて、手妻の価値に気付いて来ます。型、口伝こそが価値で、そこにこそ手妻ん本質があるとし気付くようになりました。

 そして、手妻が失われつつある、昭和40年代に、少しでも多くの口伝や型などを習っておきたいと思う気持ちが強くなりました。私の10代以降の手妻の研究は、数少なくなった手妻の演じ手や研究科を訪ねて、少しでも古い型や口伝を掘り起こして、先人の工夫を聞き出すことでした。

 昭和40年代に残された手妻で、型や口伝が残っていたものは、水芸、蝶、蒸籠、引き出し、夕涼み、サムタイ(柱抜け)、袋卵、袖卵、お椀と玉、真田紐の焼き継ぎ、若狭通いの術、紐抜け、連理の曲、金魚釣り、金輪の曲、12本リング(西洋奇術の扱いになっています)、一里取り寄せの術、など、20種余り、その他単発の種仕掛けが数十種類、

 西洋奇術の豊富さから比べたなら、余りの寂しさでした。そうした中で、手妻を演じている人を見ると、多くは型や口伝を無視して、種仕掛けの不思議さ、珍奇さだけで見せている人が殆どで、手妻の本来の面白さと言うものを語って見せられる手妻師がほとんどいませんでした。と言うよりも、その演者は手妻師ではなく、マジシャンの片手間として、和、洋の意識なく演じている人が殆どだったのです。

 私は心の中で、「これは手妻ではない」。と言い続けました。然し、同時に、島田晴夫師の演じていた傘出しを真似て、傘出しを演じる人がたくさんいたのです。島田師は自身の演技を手妻とは言いませんでした。師は、ジャパニーズスタイルマジックと称していたのです。

 西洋のマジシャンが良くやるような、着物を着て、何となく日本風のマジックを演じるスタイル。それがジャパニーズスタイルマジックです。実際師の演じる手順に手妻は一作もありません。

 無論、師はそれを承知しています。しかし日本に戻って来て、傘出しを演じて、それを真似る人たちによって、師のマジックを「和妻」と呼ぶ人が増えて行きます。

 それはとんでもないことで、師のオリジナルはオリジナルとして評価すべきことですが、師の演じるアクトは手妻ではないのです。いつの間にか手妻はまったく別の芸を手妻と呼ぶようになってしまったのです。私はそれを横目で見ていて、「これは手妻ではない」。と思い続けました。

 右を見れば、型も芸の継承もない手妻を演じる人が数多くいて、左を見れば、島田師の傘出しを丸ごとパクって、それを和妻、手妻と称する人がこれまた大勢いたのです。

 そんな中で20代の私は随分悩みました。こと手妻に関する限り、誰を見ても手妻になっていないものが幅を利かせていたのです。それを一つ一つ否定することは出来ません。否定すればすべての人を否定することになり、当時の私にはまだそれだけの発言力も、実力もなかったのです。

 手妻をどう残すか、どう生かすか、と考えている者にとって、とても苦しい時代でした。いや、このことは昭和40年代末から、今日に至るまで、ずっと続いているのです。

続く