手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大掃除 大晦日 

大掃除大晦日

 

 27日、28日、29日と名古屋、大阪、奈良と指導に出かけました。28日の大阪では指導終了後に、北野さんと土井さんを誘い、新大阪の東洋亭でハンバーグライスのセットを食べました。

 ここのハンバーグと、トマト丸ごと一個使ったサラダは私の大好物です。始めにハイボールを一杯飲みながら、トマトを食べ、そしてメインのハンバーグを頂きます。

 こうして、今年も大阪の指導を終え、勝手知ったる仲間と一杯飲めるのは幸せです。

 

 翌日29日は、9時50分に近鉄難波駅から奈良に向かいました。それからどこかで食事をしようと街を歩きましたが、先月、どうしようもないビーフシチューを食べてがっかりしましたので、この日は入念に街を歩き店を探しました。然し、カフェの軽食か、イタリアンレストランしか見当たりません。ピッッアやスパゲティも悪くはないのですが、もう少し何かないと探しました。

 何とかしっかりした食事をしたいと思い、ぐるり一周しても入りたい店がありませんでした。やむなく近鉄デパートに行き、7階の中華料理店に入りました。ここも少し心配でしたが、五目焼きそばのセットを頼みました。

 出て来た焼きそばはまずまずでした。なにより、7階から見た奈良の街が素晴らしく、東に東大寺の大きな屋根が見え、西にいま整備中の平城京大極殿が見えます。町の中心でありながらこれほど広々とした風景は珍しく、「あぁ、奈良は落ち着いていていいなぁ」、としばし景色を楽しみました。

 さて、奈良で生徒さんに個人指導をして、4時30分、近鉄奈良駅に戻り、そこから京都行きに乗りました。そこから40分くらいで京都へ、関西はどこへ移動するにもそう遠くはなく、鉄道の便もいいため、機能的です。

 それにしても近鉄と言う会社は実にいい位置で仕事をしています。西に神戸、大阪、奈良、北に京都、東北に名古屋、東の賢島まで、ビジネスの旅から、観光旅行まで、うらやましいほどに魅力ある街を押さえています。とても広い地域に鉄道網を張り巡らせていて、しかも列車の本数もたくさん出ています。東京にこれだけの私鉄はありません。

 京都から5時30分の新幹線に乗って東京に戻ります。駅で焼鯖寿司を買い、車中で寿司を食べつつハイーボールを飲みました。このところ連日ハイボールを飲んでいます。あまりいいことではありません。家に着いたのが9時でした。

 

 翌日30日は大掃除です。学生の高木君と柳沢君が手伝いに来てくれました。前田が指揮をしてどんどん進めましたので、午前10時から始めて、間、食事をして、午後3時には終了しました。通年の大掃除よりも1時間以上も早く終わりました。

 掃除をすると必ず使わないマジックの道具とか、素材が出て来ます。それを二人に差し上げました。

 終了後、高木君と柳沢君を連れて、寿司屋に行きました。食べたい刺身と寿司を頼みながら酒を飲むのは幸せです。とここでも酒を飲んでしまいました。これから年末正月は酒を飲まないようにしようと思います。いい機嫌になって外に出ましたが、まだ5時でした。多少なりとも日のあるうちに酒が飲めるのは贅沢な遊びです。

 

 さて今日は、2組指導があります。午前中に一人、午後に一組、指導を終えたあと、急ぎ、井上楽鶯先生のところに行って、引き出しを受け取ります。結局引き出しの製作は10か月もかかってしましました。それでもぎりぎり年内に出来たことは幸いです。

 引き出しを習いたいと言う生徒さんが、首を長くして待っていますので、正月早々に送ろうと思います。

 と言うわけで、大晦日も、今から夜まで仕事が続きます。考えて見ると12月はほとんど休みがありませんでした。こうした生活がいいとか悪いとかいうよりも、私にすれば人から求められている仕事があるのが有難いと思います。来年もよい年でありますように、皆様のご多幸を祈ります。

 

藤山新太郎

  

 

 

 

日本奇術 西洋奇術 2

日本奇術 西洋奇術 2

 

 私は、一つの世界の発展は、多分に世の中の大きな流れに合致している。と見ています。

 昭和40年代、日本奇術が西洋奇術に取り込まれて行き、辛うじて種仕掛けだけが残り、あわや継承部分が消え去ろうとしていた時期。実は日本全体の文化や仕組みが同じように伝統を否定され、日本の文化が失われようとし、その後の生活様式が変わろうとしていたのです。

 日本奇術、西洋奇術と書くと、マジックに馴染みのない人には、何のことかさっぱりわからないと思います。それを建築の世界を例にとって、和室、洋室で比較してみると、話はよくわかると思います。

 

 少なくとも私の子供のころ、昭和30年代までは和室と洋室ははっきり違う作りをしていました。当時の家は軒並み日本建築でした。どの部屋も畳み敷きでしたし、全ての部屋は障子か襖で仕切られていました。

 無論、洋間のある家もありましたが、それは町内でも豊かな生活をしている人の家で、その家は、総体が日本建築で作られている中で、玄関わきに張り出した西洋建築が付いていました。その部屋だけが建物の作りが違っていて、屋根がとがっていたり、壁が板壁でなく、石が貼ってあったり、窓が出窓になっていて、外見からして既に洋風になっていました。

 中に入るには、ドアがあって、その先は床張りで、壁は漆喰か布張りで、長押(なげし)に漆喰などで唐草の模様が浮き出されていました。天井には小さなシャンデリアが吊ってありました。

 当時の日本人がどういう価値感で洋間を考えていたのかはわかりませんが、洋間とは単なる板の間ではなく、床から壁から天井から日本建築とは全く違った造りになっていたのです。

 

 それが、昭和40年代に入ると、洋間はどんどん日本人の生活に普及してきました。当時盛んに作られた、団地や、マンションが洋間を後押ししました。アパートや建売住宅の間取りを見ると、「和6、洋6、キッチン、風呂トイレ付」などと書かれていて、図面には、和室と洋室が隣同士で並んでいたりします。和室と洋室は襖(ふすま)で仕切られていて、襖を開ければ簡単に出入りできるようになっています。

 然し、鍵のかからない部屋は洋室とは言えません。西洋の考えでは部屋とは個人のものです。個人のプライバシーが守られない部屋は部屋ではありません。襖に鍵はかかりませんから、洋室とは呼べません。然し、そんなことは関係なく、板の間イコール洋間と言う考えになって行き、洋間が普及し始めます。

 和室の方も、畳が敷いてあるためにかろうじて和室と呼ばれるようになり、床の間もなく、時に、押入れもなく、廊下もなく、ただ6畳のスペースに畳が6枚敷いてあるだけのものが和室になって行きます。

 あらゆる日本建築の文化や工夫がはぎ取られてしまい。畳だけが残されて、それを和室と見られるようになります。仮にこうした部屋で育った子供が、「あぁ、和室はいい」。と思うかどうか。つまりこの時代の和室と洋室の違いは、板の間なのか畳敷きなのかの区別だけになって行きました。

 

 それが昭和60年代から平成に入ると、新築マンションなどの図面の上では和、洋の区別もなくなって来ます。フローリングの部屋と畳の部屋に分かれるようになり、すでにフローリングが当たり前の時代になって行ったのです。

 つまり、多くの家では、ベッドや机を置きやすいフローリングの部屋を好むようになり、どんどん和室は特殊なものになり、和の文化の愛好家のための部屋になって行きました。

 

 そんな状況の中、昭和の末頃から、贅沢な日本建築が作られるようになります。旅館や、高所得者の個人宅などで、日本建築の中にうまく洋間を取り込んで融合させたモダンな日本建築の家が出て来ます。

 日本建築はいい。と考えている人でも、そっくりそのまま旧家に暮らすことはとても生活しにくいことは分かります。ベッドやソファーの生活に慣れ、広いリビングを求める現代の人たちには、間仕切りの多い、古い日本建築は生活しにくいものになって行ったのです。

 このころから、和の何を残し、何を変えて行くか、取捨択一をした上で、日本文化を見直して、日本人が住む家を考えるようになります。平成以降、ようやく日本人は、新たな日本文化を考え始めたと言えます。

 

 と、日本建築の話が長くなりましたが、ここまでの話の流れをご記憶の上、この先をお読みください。

 

 さて昭和40年代になると、東京の一徳斎美蝶師は亡くなり、関西の帰天斎正一師は亡くなり、急激に手妻の演者はいなくなります。そうした中で、新しい手妻を演じるアマチュアさんや、プロが出て来ます。

 それは旧来の手妻の演技とは関係なく、和服を着て、和風の演技をする人たちで、時折、海外のマジシャンが着物を着て日本風のマジックをするのと同じような感覚で、伝統とは無縁の日本風マジックをするようになります。

 かく言う私も例外ではなく、自分なりに工夫した手順を作って、和服を着て演じていました。それは、子供のころに習った、連理の曲や、蒸籠だけでは手順が足らないため、手順に前づけ、後付けをしないと今の時代の演技にならなかったためです。今思えばそれはへんてこなマジックでした。

 他の人たちも似たり寄ったりで、手妻ではない内容で、西洋マジックを置き換えて手妻を演じていました。ゾンビボールや四つ玉を毬にして演じたり、ロープマジックや、リングをそのまま和服で演じたりする人が出て来ました。

 それらは一見創作マジックのようではありますが、手妻ではありません。

 

 そのうち、アメリカで活躍している島田晴夫師が日本に来て、和服で傘をたくさん出す演技をしました。昭和40年代末のことです。この演技が見事だったために、その後、傘出しをする人が増え、傘イコール和妻(手妻)だと認識する人が増えて、旧来の手妻の演技に関係なく、傘出しが持て囃されるようになりました。

 島田師の傘出しは師のオリジナルであり、手妻とは何ら関係のない演技です。従って、この手順が普及することが手妻の普及にはなりません。これはあくまで島田師の演技であり、それを真似る人は島田師の模倣なのです。無論、島田師から直接習っているなら問題はありません。但し何度も言うように、これは手妻ではないのです。

 こうした演技が流行るようになると、私のように子供のころから手妻を覚えて来た者は、一体手妻の何を残し、どう演じて行っていいのか、そして誰を対象に手妻を演じて行ったらいいのか、苦悩することになります。次回はそのことからお話ししましょう。

続く

 

 

日本奇術 西洋奇術

日本奇術 西洋奇術

 

 今では日本奇術と西洋奇術ははっきり区別して演じられていますが、少なくとも私の子供のころまではその区別は曖昧なものでした。日本奇術の演目を、タキシードを着て演じる人は少なからずいましたし、又。日本奇術の演者が和服を着て、西洋奇術の演目を取り入れて演じていた人もまたたくさんいました。

 日本奇術を演じる西洋奇術師は、大阪のジャグラー都一師などが代表例で、師はタキシードを着て蝶を飛ばしていました。そうしたことは昭和30~40年代は珍しいことではなく、私の知る限りでも、かなりの数のマジシャンが洋装で日本奇術を演じていました。

 そうした師匠達に、「なぜ洋服で和の奇術を演じるのですか」、と問うと、多くは、「だって、洋服を着て演じたほうがモダンじゃないか」。という返事が帰って来ました。

 彼らは当時流行りのラテン音楽や、ジャズの音楽を流しながら、メリケンハットやロープ切りと言った西洋奇術を演じつつ、同時に演目の中に連理の曲や、蒸籠(せいろう=空箱)、蝶等を取り入れていたのです。

 その逆に、和服を着て、日本奇術をしながら、演目の中に、新聞と水や、毛ばたきの色変わり、パラソルチェンジなどと言った西洋奇術を演じる人もいました

 私の師匠である松旭斎清子などはそうしたタイプでした。同様に、松旭斎の一門は、ドレスを着ようと和服を着ようと、演じる内容は、西洋奇術も日本奇術もほとんど区別することなく取り入れていたのです。

 三代目帰天斎正一師は、日本奇術の代表格のような人でしたが、師の演目の中にも、新聞と水や、中華蒸籠、額縁トランプ、などなど、随分西洋奇術が入っていたと聞きます。(帰天斎正華師=三代目の養女の話)。

 実は昭和30年代以降、日本奇術が流行らなくなり、演者が激減して行くにつれ、日本奇術と言うものがどんどん形を変えて行くようになりました。流派だの型だのと言ったことが守られなくなっていったのです。

 それどころか、日本奇術を演じるために和服を着ると言う、基本的なことすら守られなくなって行ったのです。

 要するに、昭和30年代40年代の日本奇術は、マジックと言う大きなくくりの中に取り込まれ、数十種類の種仕掛けが、種の価値だけで残されて行ったような状況だったのです。

 当然、その演じ方や、口伝と称するものはいつの間にか消えて行き、残さねばならない先人の工夫が顧みられず、継承者もいないまま消えてゆく状況だったのです。その後は何をどう演じようと当人の勝手になって行ったのです。

 

 今、私は、西洋奇術、日本奇術と書いて、区別をしましたが、昭和30~40年代は、こうした言い方が普通で、かろうじて区別をしていました。その違いは種仕掛けの違いであって、演じ方は、日本奇術を西洋奇術風に演じることも別段間違いとは思われていなかったのです。

 

 日本奇術の演者が西洋奇術を取り入れたことは、何も昭和30年代に始まったことではありません。幕末期に西洋奇術が入って来ると、すぐに西洋奇術の種仕掛けは手妻(日本奇術)師達に取り入れられました。

 袋卵、袖卵、真田紐の焼き継ぎ、がっくり箱、柱抜き(サムタイ)、などは、日本奇術ではなく、幕末期か明治になって入って来た西洋奇術を日本奇術風にアレンジしたものです。

 当時は日本奇術は手妻と称していました。無論今でも手妻は日本奇術を指しますが、江戸や明治のころは、現代で言うマジックとまったく同じ意味に使われていて、手妻とは和洋一緒のマジックの総称だったのです。

 すなわち、マジックイコール手妻だったわけです。従って、旧来から演じていたマジックは手妻で、新たに西洋から入ってきたマジックも手妻だったわけです。明治になると、西洋も日本も一緒にするのは間違いだと言うことになり。旧来のものを和妻。西洋のマジックを洋妻と呼ぶようになりました。但し、これは楽屋符丁です。

 今、マジック界で手妻を和妻と呼ぶのは、楽屋符丁をそのまま外に伝えていることになり、日本奇術の正式名称ではありません。仲間内で区別するのは結構ですが、西洋奇術が普通にマジックで通るようになったのなら、日本奇術は手妻と称したほうが正しいのです。なぜなら、和妻の対語である洋妻と言う言葉が消えてしまったからです。区別する言葉がない以上、手妻は日本奇術のことになります。

 

 江戸末期や明治初頭に、なぜ西洋奇術を手妻の形式に直して演じたのかと言うなら、

 江戸や明治初期は、圧倒的に着物を着て演じる奇術師の方が多かったわけですし、音楽も三味線音楽を使っていましたし、演じ方も旧来の抑揚のある口上を述べながら演じていました。手妻の演じ方をそのまま西洋奇術に移したほうが演じやすかったのでしょう。すなわち、西洋奇術を演じる時には、一度手妻の形式に置き換えて、手妻の演目の一つのような扱いで演じていたのです。

 実際、袖卵などはうまく化けた西洋奇術の手妻です。袋卵から複数の卵を出す方法は、私の子供のころでもそうした演じ方をしているマジシャンはいました。その袋卵を更に改良して、たくさんの卵を出す方法に作り変えたのが袖卵です。袖卵は何百年も昔から日本にあった手妻のように見えますが、明治に入って来た西洋奇術を改良した手妻です。

 そしてその演じ方はいかにも手妻らしい精緻な振り付けが付いています。但し、袖卵は、袋を大きくしてしまったことで、不思議さが失われて行ったように思います。

 それでも、袖の形状を使うことで、和の仕草が残り、珍しく演じ方が継承されたことで今でも手妻の演目として残されています。不思議さを取るか、百数十年の継承を取るか、それは演者の判断の分かれるところです。

 明日は、日本奇術がなぜ今の形式として残って、手妻として残ることになったのかをお話ししましょう。

続く

 

積もる白雪

積もる白雪

 

 黒髪と言う小曲の歌詞の末尾が「積もると知らで積もる白雪」と言う、意味深な文句で終わっています。今日は来るか、明日は来るかと主を待つ身の女が、だんだん積もって行く雪を恨めしく思い、つい、「積もると知らずに積もる雪には罪はないけれど、でも」、と、愚痴をこぼす姿を語っています。

 今と違って、江戸時代だったら、雪が降れば覿面に、人の往来はなくなり、しかも、何日も雪が消えることなく残ったでしょう。尋ねて来る人もなく、物売りすらも通らなかったかもしれません。食べることも風呂屋に行くことすら難しかったかもしれません。

 お富与三郎の芝居で、妾のお富が、ぬか(石鹸のなかった江戸時代は、米ぬかを袋に詰めて、ぬかの油で体を洗ったのです)の入った袋の紐を口に咥えて、女中を連れて風呂屋から戻って来る場面があります。黒板塀を伝って歩いているその姿は粋の完成形と言えます。「こんな人が路地の奥で、普通に生活している江戸の世界って、どんなに洒落ているんだろう」。と羨ましく思います。

 それもひとたび雪が降れば、たちまち静寂が訪れます。人々は早く雪が止んで、また仕事に出られるようにと、家に籠って祈っているのでしょう。

 江戸の冬はほとんど雪が降らず、晴天が多く、上州から空っ風が吹いてきます。私の子供のころでも、冬は風が強くて、電線がビュンビュンうなりを上げていたのを思い出します。

 日本海側では、シベリアから多量に水分を含んだ寒気がやって来て、寒気は日本列島の山脈によってせき止められ、越後平野ドカ雪を降らせます。雪を降らせたあと、寒気は水分を減らしたお陰で軽くなり、楽々山を越え、そこから一気に乾いた風となって関東平野を吹き下ろします。これが上州の空っ風です。

 お陰で、冬の江戸はほとんど雪が降らず。乾燥した強風が吹くものですから、町は乾燥します。そこへ火事が起こると軽く一町二町、町を焼き尽くします。「火事と喧嘩は江戸の華」と囃し立てますが、威張れた話ではありません。

 年の瀬に来て仕事もなく、生きて行くことも難しい人たちの中には苦しさのあまり放火をする人が出ます。ひとたび火を点ければ大火事になります。そのあとは、火事場の掃除やら、新規の材木を運び入れるための人足(にんそく=人手)が必要になり、何やかやと仕事が発生して、貧しい人の生活を助けます。

 冬=強風=火事=仕事=生活安定、とつながりますので、火事は人助けになるわけです。然しこれは闇の連鎖です。

火事によって財産を失う人が増え、病で寝ていた人が亡くなり、新たな困窮者を生みます。

 

 江戸の昔から、冬場は晴れの日が多いため、江戸の大きな普請(土木事業)や修理は冬場に行うことが多かったようです。東北や、新潟などでは雪深いために農作業が出来ず、人手が余るために、冬場、江戸に出て稼ぎに来る人が大勢いました。

 私の子供のころでも、爺さんの家に、冬場になると何人かの手伝いの若い衆が働きに来ていました。彼らは私に親切に言葉をかけてくれますが、言っている言葉の半分も分からないことを言っていました。

 その中の一人が、折り紙でボートを折ってくれました。あまりに精緻なその出来に私は目を見張りました。「何だと思う」、と尋ねられたので「スリッパ」と言ったら職人全員に爆笑されました。恐らく故郷に残した子供を思いながらボートを作ってくれたのでしょう。

 

 昨日は、指導のために朝6時に東京を立ち、マイナスの気温の中、中央線の電車に乗りました。東京を立つまでは寒くはありましたがいい天気でした。それが岡崎を過ぎたあたりから雪が降りだし、車窓が一面雪景色になりました。

 毎月毎月新幹線に乗っていますから、雪もあれば嵐の日もあります。慌てることではありません。日本の新幹線の信頼度は世界一でしょう。何があっても心配は要りません。

 それでも雪は往々にして遅刻をすることがありますので、予約してあるチケットよりも2台早い新幹線に乗り替えています。

 コービーを飲みながらゆっくり車窓を眺めていました。するとうとうとして来て、つい転寝(うたたね)をしました。目を覚ますとまもなく名古屋です。そう、今日は名古屋で降りて指導をします。

 指導を終えて、帰り際に駅で向井ケントさんとお茶を飲みました。このところ熱心に手妻を習いに来ています。

 彼は就職をしていますが、休みの日には舞台に立って手妻をしています。本来は洋風のマジックをしていたのですが、ある日、和の面白さに目覚め、和に軸足を置くようになったそうです。実際和を演じると、東海地方で和のマジックをする人がいないらしく、かなり忙しいようです。

 いいことです。このところそうした人がたくさんやって来て、私の教室が賑わっています。いい加減な手妻をやらずに、伝統に則(のっと)った手妻を勉強しておけば、必ずいい収入になります。やりたいと思った時に、しっかり学ぶことです。

 

 さて、名古屋から、大阪に向かいます。夜になって、雪は小降りになりました。いい具合だと思っていると、関ヶ原のあたりはまだ雪がやまず、どんどん雪が降ってきます。そのため新幹線は徐行を始めます。

 名古屋から大阪までは通常1時間の旅ですが、30分くらい遅れて大阪に着きました。どこかレストランに入ろうかと思いましたが、少し疲れました。

 駅の売店に、旨そうな太巻き寿司がありましたのでこれを買い、ハイボールを買い、ホテルに入って、シャワーを浴びて、ネットを開き、連絡事項を済まし、その後一人食事を始めました。

 窓から見る大阪の町は雪景色。太巻きハイボールでいい機嫌になりました。あぁ、幸せだ、ここならすぐにでも寝られる。こんな日があってもいいのでしょう。

続く

 

 

 

 

年末ジャンボのテーマ曲

年末ジャンボのテーマ曲

 

 年末ジャンボ宝くじのコマーシャルで、ベートーベンの7番の交響曲に歌詞を付けて、ひたすら、ジャンボ、ジャンボと歌っています。明るく開放的な曲ですから、宝くじの宣伝にはいいのかも知れません。でも、7番は躍動的な曲ですが、歌詞を付けて歌えるほどメロディックではありません。コマーシャルでは何とか歌いこなしていましたが、少し無理を感じました。

 例えば6番の田園などは全編歌詞を付けたなら唄えるような、音域の狭い唱歌のような音楽です。今もベートーベンの交響曲の中で6番が抜きんでて人気があるのはメロディーの美しさにあります。残念ながら7番にはそこまでのメロディーがありません。

 それでも7番はベートーベンの9曲ある交響曲の中でもずば抜けた名曲ですが、昔から、5番(運命)、6番(田園)、9番(合唱=歓喜の歌)、と言った超が付くほどの名曲に挟まれて、あまり目立たない存在でした。

 然し、曲自体の面白さは運命よりもはるかに上だと思いますし、決して複雑怪奇な曲ではありませんから、「もっと知られてもいい曲なのに」。と昔から不思議に思っていました。

 ベートーベンは生前から高名な芸術家でしたが、一般には、彼の作る曲はどれも難解に思われていて、当時の世間の認知度は今一つだったようです。

 ベートーベンの音楽は、それまでのハイドンや、モーツァルトのような、明るく楽しい音楽とは違い、もっと人間の心の奥を陰影を深く抉って行く音楽を書きました。それが当時の人にとっては難解で前衛的なものに感じられたのでしょう。

 ベートーベンは気難しい人だと言うのが定説です。実際、癇癪持ちで、偏屈な人だったようです。然し、ひたすら世の中の流れを無視して、部屋に閉じこもって作曲していたと言う人でもなかったようです。

 むしろ、作曲を依頼する人の意向は熱心に聞いたようですし、作った音楽も、相手の希望に沿って何度も書き直したりしています。また、時流を読むことにも長けていて、かなり俗な要望にもこたえていたようです。

 

 1812年に、ヨーロッパを制覇していたナポレオンがロシアで壊滅的な敗北を喫し、撤退すると、欧州全体に平和が戻ります。ウイーンもフランス軍が去って、戦勝気分がみなぎり、各地で様々な祝典行事が催されました。そうした時に、ベートーベンは世間の動向に機敏に対応し、頻繁にコンサートを開きます。

 このとき書下ろしで、ウェリントンの勝利(戦争交響曲=曲の中で実際に鉄砲などを発砲して、賑やかな戦争風景を再現した曲)や、交響曲7番8番を発表しました。そのどれもが好評を以て迎えられます。戦争交響曲の方は明らかに際物的な作品で、ベートーベンとしては相当大衆を意識した音楽ですが、この一連の演奏会でベートーベンは一般的な評価を得て、ようやく知名度を上げたようです。43歳の時です。

 

 7番の交響曲は、明らかに一般の興味を引くような、分かりやすいテーマとリズム感を持って作られています。そうではありながら、最近まで7番は、運命や田園に隠れて、演奏回数はそう多いものではなかったように思います。

 7番をメインに演奏会をするよりも、運命、田園を看板にしたほうがより観客が集まったのでしょう。

 そのことはLPレコードが普及するようになった後も、7番はずっと脇役に回ることになります。

 

 私が子供のころは、LPレコードでは、運命と田園、或いは、運命とシューベルトの未完成のカップリングが最もポピュラーでした。

 運命未完成のカップリングは一般のレコード店には何種類もあり、あまり知られていない指揮者やオ-ケストラの演奏ですら、運命未完成なら売れたようです。

 当時のLPレコードは片面が30分から35分入れるのが限界でしたから、運命と田園、運命と未完成は最適の演奏時間だったのです。

 それが7番となると、一曲で40分を超える曲ですので、レコード盤1枚を丸々裏表使って一曲入れることになります。そうすると、一般のお客様にとっては、同じ価格で運命と未完成が聴けるのと、7番が一曲だけ聴けるのではどっちがお得か、という選択になってしまい、知名度と言い、お得感と言い、なかなか7番は運命、未完成のようには売れなかったのでしょう。

 

 私は、中学生のころから舞台に立ち、一回出演料をもらうたびにLPレコードを一枚づつ買っていました。ベートーベンの交響曲は運命、田園から買いました。それから3番の英雄、1番、2番、そして7番と進みましたが、一枚買うごとに家に帰って聞くのは、スリリングで興奮したのを記憶しています。何より感動したのは3番と、7番を聞いたときで、その興奮は今も忘れることが出来ません。3番も7番もカラヤンベルリンフィルでしたが、当時は指揮者の良し悪しは分かりませんでしたので、ただただ曲に圧倒されて、感動しまくっていました。

 10代前半でベートーベンの交響曲に遭遇し、感動を体験すると言うのは、その後に芸能活動をするうえで大きな影響を受けることになります。

 その後歴史的な指揮者のメンゲルベルクフルトヴェングラー、それにカルロスクライバーの7番を聞くに及んで、7番の面白さを再確認しました。

 先日、ターンテーブルをプレゼントして頂いて、LPレコードが聴けるようになり、お陰でメンゲルベルクを引っ張り出して夜な夜な聞いています。

 ヘッドホンをしてボリュームを上げて聞いていると、居ながらにして1940年のアムステルダムコンセルトヘボウの会場内に引き込まれます。気持ちがうきうきして来て、何やら来年は良いことがありそうな気がしてきました。

 もう余すところ今年も5日。何とか来年はいい年にしなければいけません。7番を聴きながら、ジャーンボ、ジャーンボと唱えています。あぁ、ジャンボ当てたい。

続く