手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

SAMジャパン 3

SAMジャパン 3

 

 SAMジャパンは、毎年日本各地で世界大会を開催してきました。これも日本のマジック団体では珍しいことでした。日本での世界大会は、多くは東京、大阪などを本拠地にしている組織が東京、大阪で開催していました。

 開催場所を移動しない理由は明らかで、地方都市での開催は常に観客動員にばらつきが生まれます。大きなリスクと背中合わせの開催になるのです。

 私は、多くのマジック愛好家を育てるには、地方都市の開催こそが一番大切だと考えていました。実際に優れたショウを目の当たりに見ると言うことはとても大きな刺激になります。日本ではいまだに、東京大阪と言った大都市と、地方都市とではショウに接する格差が大きすぎます。

 私は、少しでも地方都市にいいショウを提供するのがSAMの役目ではないかと思い、毎年開催場所を変えて来ました。理想はその通りです。然し、これが私にとって、後々大きな負担となって行きます。

 一回目と二回目は東京板橋で開催、三回目は熊本菊池(九州奇術連合会と合同)、四回目は三重県伊勢(伊勢博覧会と合同)、五回目は仙台、六回目は京都、7回目は境港(港博覧会と合同)、八回目は長崎、以後、浜松、東京、札幌、横浜、福岡、東京、埼玉、横浜、と続きました。

 伊勢と境港は博覧会場の中でショウのみを開催しましたので、コンテストはできませんでした。

 それ以外はコンテストを致しました。その中で、チャンピオンになったのは、一回目のカズカタヤマさんと、二回目のセロさん。六回目の幸条スガヤさんの三人です。15年大会を開催して3人だけなのです。

 これは始めに申し上げたように、既定の点数に達しない場合は入賞も優勝も認めないと言う、本部の考え方をそのまま踏襲したためです。この基準は、世界のマジック大会の基準で審査していますので、仮に、SAMジャパンで入賞したなら、アメリカのSAMやIBMの本大会でも入賞は間違いないはずです。

 こうして審査基準を厳しくしたことで、韓国や、台湾、中国香港からもコンテストに参加する人がやってきて、最も数が多かったときには、ステージ部門が25人。クロースアップ部門が15人。合計40人のコンテスタントが参加しました。フィードバックの説明も、韓国語、中国語の通訳が付き、とても煩雑で時間がかかりました。

 2010年代のアジアの国々は、今よりずっとマジックのレベルが低く、みんな日本に憧れてやってきました。彼らは熱心に審査員のアドバイスをノートに書きこんでいました。

 

 SAMジャパンでは、チャンピオンになった人にはアメリカの本大会にゲストとして出演できる権利を出しました。約2000ドルの旅費を出し、ホテル代と、大会参加費はアメリカ本部持ちと言う、願ってもない条件でした。

 アメリカ本部としては一人でも多くの日本のマジシャンを見たがっていましたので、チャンピオンの出ない年は私が推薦する形で、日本のプロを送りました。ブラボー中谷さんや、カズカタヤマさん、ナポレオンズさん、藤本昭義さんなどをゲストに推薦しました。

 海外の大会に出るのは初めてのマジシャンにも自信をつけてもらうために積極的に送り出したのです。日本国内に閉じこもって活動しているマジシャンに、少しでも広い視野で活動してもらいたいと考えました。アメリカ本部との交流で、出演の場を設けたことは、日本のマジシャンに多くの点で収穫があったと思います。

 また、コンテスト自体も、賞状とトロフィーを渡して「はいお終い」。と言うのでは先がありません。チャンピオンになったならその先にアメリカの出演がある。FISM視野に入れることも出来る、海外のプロ活動にも道が開ける、と言うのであれば、SAMの国内コンテストが大きく活動を広げられる結果になって行きます。そうあるように願ってアメリカとのつながりを作ったのです。

 

 実際、多くのアマチュアにとってはプロになる意思はないでしょう。アマチュアはアマチュアのままマジック活動をしたいはずです。にもかかわらずSAMがコンテストを通してプロの道を説いて行くのはなぜか。それは人前で見せるためのマナーを学んでほしいからです。

 いくら趣味だからと言っても、マジシャンがただ自分のやりたいことをだらだらと続けていていいと言うものではありません。舞台に立つ、イベントに呼ばれてショウをする。と言うことは、プロであろうとなかろうとショウマンシップを身に着けていなければいけませんし、仕勝手(しがって=わがまま)でマジックをしていてはいけないのです。

 それを誰かが教えない限り、ビデオや道具を買っただけでマジックをしている人は学ぶことが出来ないのです。

 ところが、アマチュアは時として、まったく信じられないような舞台をします。

 

 年取ったアマチュアさんに多いのですが、初めに舞台に出て来て、長々自分の経歴を喋り出す人がいます。自分が50年マジックをしていることを自慢し、いつまでたってもマジックが一つも始まりません。

 

 マジックをしないで歌を歌う人や、踊りを踊る人もいます。少しぐらいの歌や踊りなら愛嬌ですが、全くマジックがないままワンコーラスみっちり歌う人がいます。正直困ります。

 

 カード手順や、四つ玉手順を8分間も続ける人がいます。ご当人は面白くて仕方ないのでしょうが、見る側は延々賽の河原の石積のごとく、果てしなく意味のないものを見せられます。指の間で増やしてはハットに捨て、増やしては捨てている動作がやがて拷問に見えて来ます。

 

 自分で考えたメンタルマジックを披露する人がいます。観客を上げて、新聞の記事の特定部分を読ませたり、辞書の特定のページを探させて細かな文章を読ませたり、それを紙に筆記したり、カードを引かせて、シャフルさせたり、サインさせたり、散々観客に用事をさせて、10分かけて、ようやくトランプが一枚当たります。

 当たったときには、観客はそれがメンタルマジックだったこともすっかり忘れていて、舞台に上がったお客様も客席も、ぐったりしています。

 500人入るコンベンション会場で、拍手をする観客は数人。その拍手を聞いて満足げにメンタリストは去って行きますが、観客の拍手は、不思議さを讃えた拍手ではなく、終わってくれたことに対する感謝の拍手です。

 ただ好き勝手にアマチュアにマジックをさせたなら、そこから生まれるマジックは我ままにしかなりません。それを制御して、社会とのつながりを教えるのはコンテストの役目なのです。いやそれ以前に教える先輩や指導家がいなければいけないはずなのです。今に至ってもマジックの世界は未熟です。

続く

 あす、4日(土)、座・高円寺で、16時からマジックマイスターが催されます。前売り3000円、当日3500円、マジシャンが16本出演します。よろしかったらどうぞお越しください。詳細は東京イリュージョンまで、Tel 03-5378-2882

SAMジャパン 2

 

SAMジャパン 2

 

 平成3年にSAMジャパンを立ち上げ、それから15年間SAMにかかわることになりました。それが良かったか悪かったかは後でお話しするとして、なぜ私がSAMの活動に没頭したのかと言うなら、それは優れたプロマジシャンを育てたかったからです。

 この時代、既に徒弟制度は完全に崩れてしまい、私以外で弟子を育てようとするマジシャンはほとんどいませんでした。と言ってほかにマジシャンを育てる手段と言うものがありません。結果、多くの若いマジシャンは、ビデオや小道具を買って自分で練習して、いつの間にかプロになっている人が圧倒的に多かったのです。

 人によっては仲間や先輩からアドバイスを受けることもなく、自分の考えだけでプロになってしまいます。そんなマジシャンに限って、「俺は誰からも習わずにプロになった」。と、自慢するひとがあります。それは自慢ですか?。

 一流のシェフが、どこの料理学校にも行かず、どこの一流レストランにも修行しないで、売り物の素材を買い求めて、勝手に料理をして、いいシェフになれますか。またそれを自慢できますか。そんなことを平気で言うマジシャンがいると言うことは、マジックの世界は三流なのです。

 徒弟制度で学ぶと言うことは、多くの先輩から世間に公表されていない口伝や生き方を学ぶことです。種仕掛けだけで一人前になれるものではないのです。徒弟制度もない、専門学校もないとすると、誰にどう伝えますか。手段がありません。ビデオや、小道具を買い求めただけではマジックの表面しか学べないのです。それでプロにはなり得ないのです。

 そうなら、どこかで能力のある人と出会い、誰かからにプロの道を学ばなければいけません。長くプロ活動をしているマジシャンも、日々の仕事先でマジシャンと出会う機会はほとんどないのです。このままではマジシャンの技術が継承されなくなります。そこで、コンテストなり、コンベンションなりで、優れたプロの演技を見て、話をして、人と人の信頼関係を作った上で教えてもらえるようにしたらいいと考えたのです。

 実際アメリカのコンベンションを見ていると、アメリカのプロマジシャンが若い人を集めて熱心に話をしているのをよく見かけました。ああしたものを日本でもやってみたら効果があるのではないかと考えたのです。

 

 ある時、SAM本部のコンテスト役員、ポール・クリテリィさんに質問をしました。「SAMは何を目的としてコンテストを開催しているのですか」。と、するとポールさんは即座に「優れたプロを創り出したいからです」。と答えました。白人社会のリーダーは、基本方針などを尋ねると、実に明快な答えを示します。

 こうした点、日本人のリーダーははっきりしません。根本的な質問をしても、曖昧な返事しか帰ってこない場合が多いのです。つまり、コンベンションも、コンテストも、ただ何となくやっているのです。

 あえて目的を言うなら、人寄せのため、人がたくさん集まれば物がたくさん売れるからやっている.。そんな理由なのでしょう。コンテストに集まってきた若い人材がこの先どうなるか、どう育てるかなどと考えてはいないのです。

 主催者の目的が曖昧では、コンテスタントも目的意識の薄いしか集まりません。結局、何をどうしてよいかわからないままコンテストに参加することになります。こんな状態で、いくらコンテストを続けていても、優れたマジシャンは育たないのです。

 ポール・クリテリィさんは、「優れたプロマジシャンを育てて、一般の観客にアピールして、誰もが名前を聞けばわかるようなマジシャンが出て来ない限り、マジックの支持層は増えません。外の観客を取り込めるようなマジシャンを作り出すことは結果として奇術界を大きくするのです」。

 まったく仰る通りです。どんなマジシャンがいても結構ですし、 アマチュアがたくさん増えることは喜ばしいことですが、マジックの組織としては、プロを育てることを目標にしない限り、マジック界全体の支持者は増えないのです。その考えは全く私も同意見でした。

 

 ポールさんからは多くのことを学びました。私がコンテストで最も疑問だったことは、審査員の採点が、本当にコンテスタントの技量を数値で示しているのかどうか。と言う点でした。つまり数値が科学されているのかどうかということです。実は日本のコンテストはこれが曖昧でした。

 多くの審査員が、見た目で、自分の判断だけで、勝手に点数を付けてしまう場合が多いのです。そこを、アメリカではどうやって正しい数値を見つけ出しているのか。これは大きな興味でした。実際、私がアメリカで審査員となって審査会に出てみると、各審査員は、相当に大変な仕事をしていました。

 

 まず、SAMの審査表は、大きく、技術、演技力、オリジナリティ、の3つに分けて審査します。それぞれが30点です。それに、観客の反応として10点、を加えて100点です。

 初めに、各項目に六割の点数を与えます。30点満点に対して18点にラインを引いておきます。ここが基準点です。演技に大きな失敗もなく、普通に見ていて不自然でない演技で、不思議も表現されていると言う演技は18点です。それに、演技の失敗や、ぎこちなさ、手順の作り方の良しあし、などを0・5点ずつ増減して行きます。フラッシュ(ネタバレ)などは一回につき1点減点します。

 審査員は、一か所に集まって演技を見ることはなく、客席のいろいろなところから演技を見ています。後で審査会で「上手からタネが良く見えた」。とか、「下手からのスチールは無理があった」。などと意見が出て、その都度、審査員全員が点数を訂正して行きます。

 一番大変なのは、オリジナリティで、実際に不思議な演技でありながら、それがオリジナルであるかどうかで5人の審査員は喧々諤々の議論をします。かつて自分たちの見たマジックを思い出し。「あれは誰それがやっていた」、だの。仲間に電話して、オリジナルかどうかを尋ねたり、時に一つの作品を30分かけて話し合うこともありました。

 その結果、初め高評価だったものが、いっぺんに平均点に落ちてしまう場合もありました。なおかつ審査員同士で、「あの演技をそんなに高く評価するのはおかしい」。などと、やりあう場面もありました。

 審査会は時に5時間に及ぶことがあり、そうして出来上がった審査表は、100%正解とは言えないまでも、客観的に見ても説明が付き、現時点で考えられる、良識ある採点として公表されます。この姿勢は正直頭が下がりました。

 そこまで誠実に審査しても、コンテスタントによっては、椅子を蹴り飛ばして、審査員の悪口を言って、部屋から出て行ってしまう人もいるのですから審査員と言うのは大変な役回りです。

 合計点の平均が70点以上で入賞です。チャンピオン(総合優勝)は85点以上です。点数に達しなければ、その年の入賞者はなしになります。日本のコンテストでもこのシステムは使わせてもらいました。これによりSAMジャパンのコンテストはアジアにおいて公平という評価を得たのです。

続く

 

SAMジャパン 1

SAMジャパン 1

 

 日本のマジック界で、後にも先にも、道具の販売や、指導が関与しないで、純粋なマジック団体が作られ、利害のない世界大会が運営されたのは唯一SAMだけではなかったかと思います。 

 日本中にSAMの支部が出来て、700人もの会員を統括する組織が作られ、機関誌を発行して、毎年一回地方都市で世界大会が開催されたのです。

 

 平成2年から、私は毎日、地方のマジックラブの頭となる人に手紙を書き、SAMの加入を勧めました。一人1万円の年会費で、700名を集め、平成3年にそれを持ってアメリカに行き、日本リージョンを認めてもらうためにインディアナポリスの本部の大会に出かけました。

 大会では、日本からたくさんの会員を集めて加入してくるマジシャンが来ると言う話でもちきりでした。なんせ、5000人の組織に、いきなり700人の日本人の会員が一遍に増えるのですから。どんな奴が来るのかと話題でした。私が壇上で日米が手を組めば最強だと挨拶をすると、アメリカ人は総立ちになって、何分も拍手が続きました。大歓迎をされたのです。

 但し、日本にSAMの組織を起こす理由は、アメリカとの連携ももちろん大切でしたが、殆どは国内の問題を解決させたいがためでした。

 

 私は昔から、一部のアマチュアマジッククラブが、特定の指導家の収入の場になってしまっていることが不満でした。そもそもマジッククラブと言うのは、マジック指導の場ではないのです。

 日本マジック界の最大の弊害は、人と人との結びつきではなくて、人とタネとの結びつきになっていることでした。マジック愛好家はタネを求めて大会に集まり、タネを知るためにクラブに所属していたのです。

 本来マジッククラブと言うのは、マジックを愛する人たちが集まってマジックを見せ合ったり、研究した作品を発表したり、ビデオを見てみんなで語り合う場であって、特定の指導家がクラブ員に一方的に教える場ではないのです。

 ましてや、クラブの会長が何十年も指導をし続けたり、道具の販売をしたりしては、営利目的の集会になってしまうのです。

 そうした点で多くの日本のマジッククラブは方向を間違えていました。昭和30年以降、雨後の筍のごとく生まれたマジッククラブは、多くは種仕掛けによる習い事のための組織でした。クラブによってはまったく家元制度になっていて、会長が指導家で、外部のプロの指導家を寄せ付けず、排他的なクラブを運営していました。

 私は昭和が終わって、平成になってもなお、親分子分のマジッククラブが残っていることに救いのないものを感じていました。

 マジックの世界大会も同様で、マジックのメーカーが主体となって運営している世界大会は日本に限らず、世界中にたくさんありました。メーカーが人集めのために世界大会を毎年開催して、その場で道具を販売する。と言うのは、最も理にかなった運営方法です。

 仮に参加者が少ないときでも、道具の売り上げによって赤字の補填(ほてん)が出来ます。多くのアマチュアは新しい道具を求めて集まってきます。参加者と、主催者の利害は一致して、齟齬(そご)がありません。

 一見おさまりのいい組織に見えますが、大きな問題があります。メーカーの主催する世界大会は、平等ではないのです。利益を得る人、お金を支払う人が常に立場が変わることがないのです。参加者は常に大会に参加するときはお客様のつもりで参加しています。参加者、会員から主体性が生まれないのです。

 

 こうした組織がコンテストをすると、往々に道具を良く買ってくれる会員さんに手心を加えてしまいます。あるマジックのコンテストで、審査員をしていた、高木重朗先生が、コンテストを終えて、審査員室に戻って主催者に第一声、「今回はどなたを優勝させたいのですか」。

 いやいや、誰を優勝させたいのかを審議するのが審査会なのに、それを主催者に尋ねると言うのは、まことにおおらかな社会です。ある意味日本的な組織です。

 コンテストの価値を高めたいとするなら、利害が絡む組織であってはいけないのです。若いコンテスタントは、審査員はきっと一つ一つの技法をチェックして厳しい審査をしているものと信じています。審査員はそれに応えなければいけないのです。

 私が、SAMを起こそうと考えたのは、第一にコンテストの改革でした。フェアなコンテストを開催したかったのです。

 そして、これはSAMの本部の役員と話をするうちに、とても参考になったことですが、SAM本部のコンテストでは、フィードバックと言う時間を設けて、コンテスタントにアドバイスをしていました。これをしているのは世界でもSAMだけです。

 

 フィードバックとは何かというと、審査が済んだ後、審査員の部屋にコンテスタントを呼びます。そして一人一人、コンテスタントの演技の評を審査員が細かく話をします。

 SAM本部のフィードバックは、審査員の会議が終わり次第始まり、時に、深夜11時くらいから明け方まで続きます。その間コンテスタントは廊下でじっと何時間も待たされます。

 コンテスタントの中には、審査員の意見に反発して言い返す人もあります。然し、審査員は何が良くて何がいけないか、徹底的にコンテスタントに語ります。

 こうした点、白人社会は相手が納得するまで、明快な論争を繰り広げます。決して曖昧な決着はしないのです。立派な行為ではありますが、審査員は大変な労力を使うことになります。

 ここで初めてコンテスタントは、審査員がマジシャンに何を求めているのかがわかるのです。審査員が5人いれば、それぞれ見るべき観点が違います。テクニックにこだわる人もあれば、プレゼンテーションやショウマンシップにこだわる人もいます。

 然し、そうした人たちがコンテスタント全員の評価を審議して採点して行くと、おのずと共通して求められるマジシャン像があぶり出されてきます。

 そこには、義理も人情もありません。良い者だけが評価されます。それを、審査員が手の内を見せながらコンテスタントに語るわけですから、実にフェアなのです。SAMジャパンがフィードバックを取り入れたことは言うまでもありません。

 SAMジャパンは10年前から、日本国内の世界大会を開催することは無くなりました。にもかかわらず、いまだにあのときのコンテストを懐かしがる人が多くいます。

 今でも「SAMの大会が一番良かった」。と言う人は多いのです。それは日本人だけでなく、韓国、台湾、中国のマジシャンにも大きな影響を与えたのです。

続く

 

王子様プロマジシャンになる 4

王子様プロマジシャンになる 4

 

 私は、自身でリサイタルをするぐらいのマジシャンなら、そのリサイタルをなぜ芸術祭参加で行わないのか、今も不思議に思います。

 芸術祭参加と言うのは、ある程度の年月、プロ活動をしてきた人で、ある程度の実績ある仕事をした人なら、参加できます。参加の許可を取り付ければ、チラシのタイトルに、「文化庁芸術祭参加公演」と言うタイトルを付けることが出来ます。

 別に参加公演をしたからと言って補助金など降りるわけではありません。然し、同時に、参加することに負担もないのです。参加公演をすれば、公演当日に、審査員が10人ほど見に来ます。そして後日内容が良かったなら、芸術祭賞を受賞します。仮に受賞しなかったからと言って、経歴に傷つくこともないのです。

 松竹や、東宝などは、毎年、10月の自社の劇場公演はほとんど無条件に芸術祭に参加しています。受賞してもしなくても参加公演は毎年続けています。無論、受賞したなら新聞などで宣伝して、その公演を再演したり、受賞した俳優を再度使って別の芝居をしたりして、観客動員に結び付けています。

 賞は、楯と賞状、賞金が後日、文化庁庁舎内で文部大臣から渡されます。受賞に至って初めて、実質のメリットが得られます。賞金は恐らく30万円から50万円程度でしょう。金額的にはそう大きなものではありません。

 然し、現実に日本で、芸能活動をしていて、国が賞金、賞状を出してくれる催しはほかにありませんので、日本政府が認めた賞をもらうことは芸能活動をするにおいて価値があります。活動にゆとりがあるなら、取っておいて損のない賞だと思います。

 

 ところが、マジシャンはなかなか芸術祭に参加しません。なぜかは知りません。マジックコンベンションのコンテストには熱心に参加するのに。どうも分り合った仲間内の評価ばかりを気にするようです。

 アマチュアが自分の演技を外部の人に認めてもらうためにコンテストに出るのはいいことだと思います。然し、プロマジシャンとして、社会に出て、他のジャンルの人たちと競って仕事を手に入れようとするなら、他のジャンルの人たちと競い合って、トロフィーを勝ち取ることはとても大切なことです。少なくとも日本国内ではマジックコンベンションでの優勝は、ほとんど舞台活動に生かすことはできないのです。

 

 私は昭和63年に芸術祭賞を受賞しました。すると、あくる年、平成になってすぐに、地方公共団体から様々な仕事の依頼が来るようになりました。その中で、板橋区が、市制40周年を迎えるにあたり、マジックの大会をやってみたいと言う依頼が来たのです。なぜ私にその話が来たかと言うなら、63年の芸術祭の会場が、板橋文化会館の小ホールだったからです。

 20代からほぼ毎年板橋文化会館を使ってリサイタル公演をしていましたので、文化会館とは顔見知りでした。そこで平成4年に大きな予算をもらってマジック大会をする企画を立てました。

 さて、ここで世界大会をどう言った名目で開催するか、はたと止まってしまいました。当時私は日本奇術協会(プロのマジック団体)の理事でしたから、奇術協会を冠にして、世界大会を開催すれば問題なくできます。然し、私は奇術協会主催にすることは躊躇しました。

 と言うのも、前々から日本のマジック組織を大きく改革したかったのです。これまでいくつかマジックの世界大会を手掛けた団体はありましたが、共通して言えるのは、マジックのメーカーかマジックショップが主宰するか、あるいはアマチュアマジッククラブが主体となって運営する大会でした。

 メーカーやアマチュアマジッククラブの意向で大会をするのではなく、参加者が組織を作って会員となって、大会を運営して行くような組織が欲しかったのです。そうなると、新規に起こすよりほかはありません。

 ただ、私の考えは、私が起こして私が運営するのでは私の組織になってしまいます。参加者が自主的に組織に加入して、そこから役員を出して、自主運営して行くようでなければ意味がないのです。

 私は自身の受賞を機会に、マジック界へのお礼の意味で、少しマジック界のために働いてみたいと考えていました。

 そこで小野坂東さん(マジックショップ、マジックランドのオーナー、マジックアドバイザー)と、連日のように打ち合わせをしました。その話の中で、「SAM(ソサエティーオブアメリカンマジシャンズ、現存する世界最古のマジック団体)。の東京支部がほとんど会員がいなくなって、活動もしていないようだから、SAMのアメリカ本部と話をして、日本の地域局を持ってきたらどうだろう」。という案が出て来ました。

 アメリカのマジック団体には、IBMとSAMがあります。互いに5000人以上の会員を集め、毎月機関誌を出し、毎年一回世界大会を開催しています。そのSAMの大会を平成3年に日本に誘致するのはどうかと考えました。

 早速東さんに交渉を依頼すると、SAMからの返事は、「五年先まで大会開催場所は決まっている。然し、支部が大会を開催することは構わない。SAMの役員や、出演者の協力はする」。と言うものでした。

 当初SAM本部側は私の申し出を、日本国内の新しい支部が2,3出来るくらいにしか考えていなかったようです。そこで私は、アメリカに、「東京支部とか横浜支部と言ったローカル支部を作ることが目的ではない。日本を統括するような、大きな地域局を作りたい。地域局を作るシステムを教えてほしい」。と連絡しました。

 するとアメリカから、「最低20支部作ってほしい。20支部の統括団体として、SAMジャパンリージョンを認める」。と言って来たのです。そうなら、日本中の仲間に連絡をして、会員を集め、20支部以上の組織を立ち上げようと、すぐさま手紙を書くことにしました。

 1990年、平成2年は、私のチームは殺人的な仕事の忙しさでしたが、新幹線の移動や、楽屋の合間にひたすら手紙を書いて、日本中のアマチュアやプロマジシャンに、まだ形すらないSAMの勧誘を始めました。その時私は35歳でした。

明日は、SAMの立ち上げの話をします。

続く

 

 

 

 

王子様プロマジシャンになる 3

王子様プロマジシャンになる 3

 

 私は、20代半ばでコンテストに見切りをつけて、別の成功の種を探していました。具体的には、昔のマジシャンを訪ね、古い作品を習いに行って、ひたすら古典作品の改案を続けていました。当時、昭和50年代ですら既に誰もやらなくなっていた作品を集めてはアレンジして舞台にかけていたのです。

 と同時に、お笑い芸人とひたすら付き合っていました。当時のツービートの北野たけしさんや、星セントルイスさんなどと、しょっちゅう喫茶店で話をしたり、一杯飲みに出かけては話を聞き、影響を受けていました。

 今、そんな話をすると、みんなうらやましいと言いますが、昭和50年代のお笑い芸人の世間の評価は、信じられないくらい低かったのです。私は北野たけしさんを天才だと思っていましたが、世間の評価はさんざんで、ネタの内容が、「ブス、ばばぁ、やくざ、うんこ、おしっこ」ですから、お笑いの中でも最低の扱いを受けていたのです。

 当時のたけしさんは、仕事も少なかったので、飲みに誘えばいつでも一緒に酒を飲むことが出来ました。私はどれだけたけしさんに影響を受けたか知れません。たけしさんの笑いの発想、社会の見方、ネタの作り方。現実に、一つのネタを毎日演芸場で繰り返し演じている過程で、笑いの厚みが毎日変化して行くのが分かりました。「あぁ、笑いとはこうして作って行くのか」。と、実際、傍で見ていて彼らの思考の過程が見えたのです。

 これが私の喋りにどれだけ役に立ったか知れません。無論、私の親父や、親父の仲間の昔の芸人さんたちの影響も随分受けました。そうした中で揉まれて行くうちに、自分自身で笑いを作り出すことが出来るようになって行きました。

 

 25歳の頃には舞台活動が忙しくなり、私はマジックコンテストからは完全に離れていました。離れてコンテストを見ると、如何にマジックの世界が狭く、多くのマジシャンが、仕事としての成功とは無縁なところにこだわって生きているのかが見えました。 

 FISMの大会も、私の友人たちは必死になって追いかけていましたが、私の興味の対象にはなりませんでした。

 むしろ、私が古い作品をまとめて作り上げた手妻(和妻)をアメリカのマジックキャッスルに持って行き演じると、たちまち、IBMアメリカのローカルコンベンションからの出演が相次ぎ、私はコンテストに出なくても既に海外のゲスト出演の依頼が舞い込んで、結構忙しく仕事をしていました。

 

 然しそれも、ひとしきり回った後、もう海外に出ることはなくなりました。それは、コンベンションの限界が見えたからです。奇術関係者の評価を当てにするよりも、国内でもっといい仕事がしたかったのです。 

 手妻をもっともっと大きく一つのジャンルに作り上げたいと思っていましたし、イリュージョンを手掛け始めていましたので、人の手配や、道具の製作に莫大な費用が掛かりました。それらをまかなうために大きな仕事を手に入れたかったのです。

「もっと高い位置に立って活動がしたい」。いつもそう考えていました。

 27歳の時に、文化庁の芸術祭に初めて参加しました。およそ芸術祭はマジシャンが参加することのない催しでした。然し、アメリカやヨーロッパの世界大会のコンテストに出るよりは地方公共団体などとのつながりが深くなって、仕事の可能性は高くなり、いい仕事が手に入ります。

 但し、芸術祭は、マジックの内容を詳しく理解して評価してくれるわけではありません。そもそも審査員の中にマジックに詳しい人はほとんどいないのです。

 そうなら入賞は楽化と言うとまったく逆で、審査員は芸能全般にはとても詳しいのです。審査員の中には、演劇評論家や、劇作家、新聞の芸能欄の評論家、古典芸能の研究家などがいます。そうした人たちが見て、マジックがどこまで芸術性があるかを評価します。

 つまり、マジックの世界の価値観など、天から通用しないのです。全くマジックコンテストの審査員とは真逆な評価をするのです。無論プロとして何十年かの実績を持って活動している人でなければ参加はできません。 

 審査対象は、落語や講談、漫才や、演劇、ミュージカルなど、あらゆるジャンルの中から優秀な人が選ばれます。つまり、マジシャンの中で誰がいいか悪いかではなく、日本のあらゆるジャンルの中の芸能人の一人として選ばれるのです。日本国内で舞台活動して行くためには、マジックコンテストよりも絶対価値があります。

 

 私は、昭和57年に、芸術祭参加公演で「百年前のマジックショウ」という副題を付けて、手妻のを公演しました。当時の私にとっては、五月雨(さみだれ)式に集めたマジックで、手妻だけで、2時間のショウが出来るかどうか、チャレンジしてみたかったのです。

 昭和50年代で既に手妻は崩壊寸前でした。演じ手は少なく、古い手妻師は20分、30分の演技は出来ても、2時間のショウが出来るような人は一人もいなかったのです。それをひとまとめにして、蝋燭(ろうそく)明かりで、生演奏を使って、明治15年の芝居小屋を再現して手妻をしてみました。

 この公演は、芸術祭賞の受賞は逃しましたが、その後、多くの審査員の先生方が私の活動を応援してくれることになりました。結果として、私の人生の道筋が出来ることになったのです。

 今だから申し上げますが、芸術祭賞を取るためにはいくつか勝利の法則があります。たまたま私はその法則を偶然に掴んでいたのです。法則は三つあります。

 

 1、古典の作品の復活など、地道な活動を続けていること。

 2、喋りがうまいこと。

 3、テーマがはっきりしていること。

 

1、に関しては、マジシャンの中には多彩なゲストを呼んで華々しく公演する人がいますが、そうした公演はあまり歓迎されません。むしろ、当人がしっかりコツコツ一つの活動を続けて来たかどうかが大切で、その成果が見たいのです。

2、マジシャンが、テレビや、芸能活動で成功しないのは、喋りがうまくないことです。そもそもマジシャンの喋りのまずさは悲劇的です。マジックの世界で、8分間の手順の評価だけ受けていたなら気付かないことでも、1時間以上の公演をすれば、喋りの技術はまるわかりになります。全ての芸能家の中での評価としてみると、マジシャンの喋りは技法を無視していますし、センスが感じられません。審査員の評価は厳しいのです。

3, 一つ,、二つのハンドリングの巧い拙いなどと言うのは、評価の対象にはなりません。マジシャンが人生をかけてしたいことは何なのか、この先どうして生きて行きたいのかが明確に伝わらないと芸術としての評価の対象にはなりません。

 明日はもう少しそのあたりを詳しくお話ししましょう。

続く

王子様プロマジシャンになる 2

王子様プロマジシャンになる 2

 

 若いうちにコンテストに出るのはいいことです。たくさん仲間を作って、多くの先輩に名前を知ってもらって、自身の演技の偏った考えをただして、この先マジックの活動をして行く際に自分が何をしなければいけないかを見つけ出すことが出来ます、手順やハンドリングではなく、生きる道筋に気付きます。それが分かっただけでもコンテストに出た成果があったはずです。

 いろいろなことに気付き、同時に自分のへたが分かったなら、なるべく早くにコンテストから離れることです。私も自分のへたには随分悩みました。

 上手いへたはセンスなのです。センスは練習で磨かれるものではありません。出来る人はさっさとできます。できない人は三年しがみついていてもできません。できないとわかったら早めに次の手段を見つけることです。駄目はいくら繰り返しても駄目です。でも駄目でも成功する道はたくさんあります。私もそうでした。私は早々コンテストから退散しました。

 何度出場しても入賞しないで、むきになって、毎度毎度コンベンションにごろついていてはいけません。

 私は、コンテストでは大した成績は残せませんでしたが、その後のプロ活動はうまく行きました。大した才能があったとは思えませんが、マジックの世界では20代末で既に一端の幹部でした。

 そんな私が審査員をしているところに質問に来るコンテスタントがいます。「どうしたら入賞できますか」。と。そこで私は言います。「コンテストに出るだけが成功の道ではありませんよ」。と。ところが出ると負けをしている人には、その言葉は意外な言葉と受け止められます。

 その人は既にコンテストに出て、賞を取る以外、何も見えていないのです。「自分の後輩が出て入賞したのに自分は入賞しない」。とか、「入賞した人と同じようなことをしているのに自分は入賞しない」とか。「自分の演技のこの部分は世間にもっと評価されるべきだ」とか。

 狭い世界の中で、更に狭い数人をライバルに見て、その中で勝ったか負けたかに一喜一憂しているのです。そこで勝っても負けても、その先にあなたの成功があるかどうか。

 コンテストと言うのは若いころの通過点にすぎません。幾らそこにこだわっていても、そこから大きな成功は手に入らないのです。成功する人と言うのは、優勝した先に、自身の独創的な世界を作り上げて、たくさんの支持者を得た人なのです。

 他の人がしない、その人だけの世界を作った人こそ大きな成功が手に入るのです。優勝は成功のための一里塚にすぎません。その先の努力こそが成功の可否を決めます。

 私は質問します。「この先あなたは何になりたいのですか」。「趣味としてこの先も続けて行きたい」とか。或いは、「できればプロになりたい」とか。

 ここで私の言葉は大きく変わります。趣味の世界に生きるなら、「せっかくコンテストで知り合った、マジックの仲間を大切にすることです。先輩や指導をしてくれる人と知り合いになれたなら、積極的に教えを乞うて、うまく付き合ってゆくことです。そしてあなた自身も、コンテストにこだわってばかりいないで、次の若い人のために協力してあげることです」。

 もし、プロになりたいと言うなら、「ここにいてはいけません。仲良しグループの中でマジックを見せあっていても成功はありません。あなたが仲間だと思っている人の中で、いきなり有名になる人が出たらどうしますか。その人はあなたを見下してきますよ。仲間だ仲間だと思っていた人が、ある日あなたよりずっと高いポジションに立ってしまうのですよ。そんな人に負けないためには、同じようなことをして遊んでいてはいけません。あなたはまったく人と違った考えを持って、独自の世界を作らない限りプロとして成功しませんよ」。

 

 コンテスタントにこんなアドバイスをしていた私が、当時幾つだったのかと言えばせいぜい35、6歳だったのです。20代前半で、自分自身のスライハンドのまずさに悩んでいた頃、私は人の行かない道を模索していました。

 その一つの方法は、古典の作品を探し出しては、継承者を探し、ひたすら習いに行っていたのです。12本リングしかり、サムタイしかり、蝶しかりです。

 当時のマジックの大きな流れからするとそれらの芸は古臭くて、多くのマジック関係者からはカビの生えたものに見えたようです。実際習っているさ中も、私が見てもカビだらけでした。人がやらない作品はやらない理由があるのだと知りました。

 然し、だからつまらない、だからやらないほうがいい、とは思いませんでした。「やりようによっては面白いのではないか」。と考えていたのです。古典は基本となる構造がしっかりしていますので、少し磨きをかければ、見違えるほど新しいものに生まれ変わる可能性があります。実際舞台で演じてみると、観客のため息が渦になって聞こえるほど受けたのです。

 然しです。マジックの訳知りのアマチュアやプロの間での私の評価はさんざんなものでした。12本リングなどは集中砲火を浴びました。「今時リングの造形なんて、最低だ、藤山は全然センスがない」。と言われたのです。

 当時のリングの主流は、3本リングでした。スローな演技で、余り音を立てないようにして、静かに出し入れをする演技、それが最上のものとされていたのです。

 ところが、3本リングは仕事先の エージェントや、マネージャーからは不評でした。「相手に渡しもしないリングを独りよがりにやっているのは見ている方がつらい]。と言うのです。毎週マジックショウを入れているスーパーマーケットの出演条件の中の一つに、「3本リングはやらないこと」。と書かれているくらいでした。それほどマジック関係者と一般の仕事先の考えは違うのです。

 つまり、現実の仕事先ではマジック関係者が否定する12本リングが熱狂的に迎え入れられたのです。逆に、マジック関係者が最上と考えていた3本リングは全く不評だったのです。先ずプロで生きて行くなら、このギャップに早くから気づかなければいけません。

 ここで私が何が言いたいのかと言うなら、狭い世界の評価を当てにしないことです。マジックの世界でいう、最上とか絶対という言葉ほど怪しげなものはありません。かつての私のように、指の間に玉を挟むことが下手なマジシャンでも、別の価値観でマジックを探し出せば成功の道はあるのです。

 そもそも、マジシャンと言う職業に、器用でなければならない、という条件はないのです。不思議な現象を起こす人がなぜ器用でなければいけませんか。ちゃんと呪文を唱えて、手の上にリンゴが出現すればそれが最高の魔法使いでしょ。私はことごとくマジック関係者の語る正論を否定してこれまで生きてきました。そして幸いにマジシャンとして安定して生きて来れたのです。但し、私の周囲は常に批判の嵐でした。

 

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