手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

オリンピックと猿ヶ京

オリンピックと猿ヶ京

 

 おかしなタイトルですが、その関連をお話しします。

 昨夕(23日)猿ヶ京の合宿から戻りました。これがために一日ブログを休んでしまいました。毎日私のブログを楽しみにされている皆様には申し訳ありません。書きたいことはいろいろありますが、時間がありませんでした。

 今日(24日)はこれから富士の指導に出かけます。早朝、いつものように早く起きましたのでブログを書いています。

 

 一昨日、昨日(22日、23日)と泊まり込みで猿ヶ京に行ってきました。毎年何回も合宿を繰り返しています。今年は一日だけ参加するビジターが多く、初日は18人の盛況でした。

 さて高円寺を毎年9時に出ていたものを、今回は連休の渋滞を予測して、8時30分に出ました。ところが関越自動車道に乗った直後から渋滞で、12時到着予定が、13時30分になりました。

 これが後々のスケジュールの禍にならなければよいが、と思いつつ、急ぎ掃除をして、二時に稽古開始。

 

 9月にマジックマイスターを開催しますので、そこに出演する人はその演技をチェックしました。マイスター自体は、出演者が増えて、20本近くになっています。コロナ禍にありながら、コロナ以前よりも盛況です。

 

 今回合宿の参加者は子供さんやお孫さんを連れての参加が多く、今後を考えれば、マジックをしない参加者が増えることもいいことかと思います。

 別に何をするわけでもないのですが、多少子供さんたちの興味に応えようと、家族を連れての利根川の散歩を、二時以降に挟みました。日中は暑かったのが難点でしたが、散歩から戻り、3時から稽古拝見です。

 今回はマイスターの参加者がほとんどですので、そのための手順稽古です。マイスターの参加者は大学生や、若手マジシャンが増えて、賑やかなメンバーになりました。その稽古を見る限り、演技内容はまだ未消化な人もかなりあります。あと一月半で不自然でないくらいの作品に仕上げなくてはいけません。参加者一人一人が内容もレベルも違うため、指導は簡単には行きません。実際この日は稽古時間がかなり押されていますので、急ぎ演技を拝見して、いくつかのアドバイスをするだけでした。

 

 稽古は6時に終え、皆さん温泉に行きました。私は少し早く温泉を切り上げて、夜の食事の準備をしました、今晩のメインディッシュは、アユと鳥のもも肉の炭火焼きです。

 他に餃子や焼売も作りました。仕上げに煮込みうどんを用意しましたが、うどんを求める人がいません。アユと鳥の炭火焼きが相当に満足だったようです。

 例によって夜遅くまでマジックの話をしながら夜は更けて行きました。

 

 翌日は3本リングの受講生が3名、お椀と玉、真田紐、袖卵、

朝食が8時、昼食が11時50分、いろいろと時間制限のある中、皆さんの協力で食事も稽古もうまく行きました。

 食後、午後2時まで稽古をして、3時に出立。6時少し前に事務所に到着。いつもの活動ですが、皆様満足してくれました。

 

 さて、家で食事をしていると、オリンピックの開会式が始まりました。すったもんだの騒動の末、一体どうなったのかと心配ました。内容は制作者の苦労がありありと見えましたが、素晴らしい開会式になりました。

 入場行進局は一体どうするかと思っていると、スーパーマリオなどの、ファミコンソフトのテーマ曲をうまくつなぎ合わせて音楽を作っていました。それなら世界中の皆さんが知っている曲です。しかも日本を代表する文化です。いいアイディアだと思います。

 これを、わずか数日でそっくり作り替えると言うのは、徹夜に次ぐ徹夜の突貫作業だったことでしょう。楽曲の権利を著作者や、企業と交渉するだけでもとんでもない書類の数が必要です。それを数日の間で果たしたのですから立派です。

 私は、テレビで見ていて、制作者の意図が強く感じられて、大感動しました。聖火ランナーも、一人一人意味付をして、日本がなぜオリンピックを誘致したかったのか、そしてどうやって困難を克服してきたのかを語っていました。ここはとても大切な部分です。

 オリンピックなんてやる必要はないと言っている人をこれまで数多く見ましたが、彼らは肝心なことを忘れています。どんな災害があっても助け合い、互いが支えあってきた日本人をもう一度見直す意味でオリンピックはとても大切な企画だったのです。聖火ランナーに、被災地域の小学生や中学生を出したこともいい企画でした。被災地域のに人たちに元気になってもらいたいと言うのが、オリンピックの目的だったのですから、

 長嶋さんや王さんが聖火ランナーに出て来たのも素晴らしい演出でした。また、最終ランナーに大坂なおみさんを持ってきたことも、今の日本を象徴する大きな意味を持っています。

 50数年前の東京オリンピックとはずいぶん様変わりです。前回にはなかった様々な問題を抱えていることも事実です。それらを素直に伝えてみんなで話し合うにはいい機会です。

 世界各国からやってきた選手団は、コロナの影響で人の数は少なったですが、オリンピック以外ではまず見ることのない国旗を眺めながら相手国を想像することは楽しいものです。

 様々な企画はどれも熱演で十分満足しました。オリンピックを貶めていた人たちも、もう一度原点に立ち返って、オリンピックの祭典をみんなで楽しみましょう。

 

 何にしても22日23日と猿ヶ京合宿が出来たのも、オリンピック開催のために祝日が出来たお陰です。長らくコロナによって閉じ込められていた重苦しい空気が一遍に発散されたように見えます。この先は一時的に感染者を増やす可能性はありますが、その後ワクチンが普及して、コロナは収束して行くでしょう。

続く

 

 

 

猿ヶ京合宿

猿ヶ京合宿

 

 今日(22日)は猿ヶ京合宿です。本当は4月に開催する予定でしたが、コロナにより5月に延期になり、さらに6月に延期になり、そして再々々、今日7月22日、23日に至りました。

 何と今年初めての猿ヶ京合宿です。稽古場は、年間3回ほど使用していますが、今年はもうあと一回、10月くらいに開催して、それ以降に行くことはないでしょう。

 猿ヶ京は、群馬の北西部にあり、昔の三国街道に面していて、赤谷湖畔にあります。温泉が湧き、本来なら風光明媚で、観光客が大勢い押し寄せて賑やかなはずなのですが、

 今では忘れ去られたような町になってしまい、その上、コロナの被害をもろにうけて、今や限界集落に近い存在で、町としての体裁も成り立ちにくくなっています。

 なんせ、8年前に小学校が廃校となってしまい、せっかく町営の美しい校舎がありながら、全く活用されず、残された子供たちは、スクールバスに乗って、街道を南に下った町の小学校まで通っています。

 元々猿ヶ京は、赤谷湖の中にあった宿場町で、三国街道も赤谷湖の中を通っていたのですが、利根川をせき止めてダムを作ることになり、町はそっくりダムに埋まりました。

 その時住民は国に土地を買い上げてもらい、一躍資産家になりました。住人は、こぞって山沿いに温泉ホテルを建てました。折からの観光ブームで猿ヶ京温泉は大繁盛しました。

 何しろ三国街道は、17号線と言う新潟に抜ける街道沿いにあり、新潟県に入れば、そこは苗場です。当時苗場は西武グループが開発して、スキー場とリゾートマンションをこしらえていて、冬場は大繁盛していました。

 冬になると多くの人はマイカーで三国峠を越えてスキーに出かけ、帰りがけに猿ヶ京に泊まって温泉を楽しむのが流行って、苗場も猿ヶ京も冬場は観光客で溢れていたのです。

 ところが昭和50年を過ぎると、関越自動車道が開通し、旧道の17号線は使われなくなります。ほとんどの人は、関越高速道を使って直接苗場に行き、帰りは直接東京に帰ってしまうのです。これにより猿ヶ京はみるみる寂れて行きました。

 

 町もこのまま衰退して行くのを見ているわけにはいきませんから、町おこしを始めます。折から、平成元年、竹下首相が「ふるさと創生予算」というプランを立てて、日本中の町村、都市に一律一億円をプレゼントしました。使い道は自由です。町のためになることならどんな使い方でも構わない。と言う予算を全国にばらまきます。まさにバブルの花の時期です。

 

 ここに私がお世話になった宮澤伊勢男さんが登場します。宮沢さんは、当時読売広告社にいらして、最終は専務にまでなった人です。広告代理店の名プロデューサーでした。この人は日本でバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣を定着させた人です。

 それまでクリスマスしか稼ぎ時がなかったお菓子業界が、何とかもう一つ、お菓子の売れる企画はないものかと、読売広告に依頼をして、バレンタインデーをでっちあげて、その日に女性がチョコレートを男性に送る習慣を根付かせたのです。

 昔からバレンタインデーはあっても、チョコレートを贈る習慣などありません。宮沢さんが考えたのです。この企画は当たり、企画を依頼した神戸のお菓子屋さんだけでなく、日本全国のお菓子屋さんが今も潤う結果となりました。

 当然宮澤さんの実力も世間に知れ渡ります。

 そこで、水上町(みなかみまち=町村合併で、猿ヶ京は水上町に属します)は、読売広告の宮澤さんにふるさと創生の使い道を依頼します。

 宮澤さんの企画は壮大なものでした。先ず町の中心に、「まんてん星の湯」と言う町営温泉を作り、17号線を利用する車を町に引き留めるようにします。

 次に、そこから旧三国街道を整備して、歩道を作ります。歩道の両側にはペンションを建てて、温泉を引き、若い人が集まる街づくりをします。道には小川が流れ、水車が廻っています。

 さらに、その先の利根川上流を散歩道にして、吊り橋を作り、キャンプ場を作り、野球、テニスのできるグラウンドを作り、高校、大学のスポーツクラブを呼び込み、合宿施設を作りました。

 これだけのことをすれば、ふるさと創生の一億円では到底足りません。宮沢さんは、一体水上町と幾らの契約をしたのかは知りませんが、相当に大きな予算をかけて、猿ヶ京は大改造しました。

 実際、町営温泉は今も機能していますし、遊歩道は今も生きています。水車小屋も稼働しています。スポーツ施設も残っていて、クラブの合宿も行われています。

 

 然し、バブル以降、人が来なくなってしまいました。これだけの設備を備えていながら、なぜ人が来ないのか。分かりません。バブルの勢いと言うのは、それほど、人の努力や、工夫を超えた大きな波だったのでしょう。

 良いときは波に乗って多くの人が恵まれた思いをしましたが、ひとたび波が去ると、何もかも呑み込んでしまい。あとは廃墟が残ったのです。

 

 宮澤さんはその後も猿ヶ京を心配し、何かといろいろな人を町に結び付けて、町の活性化を図ります。私もその一人だったのです。宮沢さんは定年退職後に、古典芸能を支援する、「江戸に生きる」と言う支援団体を組織します。そして私を積極的に支援してくれるようになります。

 さらに、私が「古民家で生活してみたい」。と言うと、猿ヶ京の古民家を紹介してくれました。話は長くなりましたが、そこから私と猿ヶ京の縁がつながって行きます。もう宮澤さんは3年前に亡くなりました。然し、私と猿ヶ京とのご縁は続いています。

 江戸時代の古民家から、遊歩道を歩いて、利根川上流を散歩する道は、一時間の散歩コースで、美しい風景で、私の最も好きな道です。

 然し、誰も通りません。まったく忘れ去られたような道で、いつ行っても人がいなくて、すべてを独占出来ます。自分の庭のようなところです。こんな広い敷地を独占できるなんて、まるでイギリスの貴族のような生活です。

 今日も早速出かけて行きます。利根川を散歩して、晩には温泉に入り、その後、マジック愛好家たちとじっくり酒を飲んで夜まで話をします。考えて見れば、私は子供のころからこんな生活がしてみたかったのです。それが実現できることは幸せです。宮澤さんに感謝。町に感謝。これも人のご縁あればこそです。

続く

 

 すみません、明日は都合でブログを休みます。

 

差別といじめ

差別といじめ

 

 今回の東京オリンピックは、随分といろいろな事件が次々に起こります。今度は、オリンピックの音楽担当者の小山田圭吾さんが、子供のころ、障害者の同級生をいじめていたと言う事件が明らかになりました。

 障害者の同級生の体にガムテープを巻きつけて、身動きできないようにして、段ボール箱に閉じ込めたり、跳び箱の中に閉じ込めたり、性的ないたずらをしたり、うんこを食べさせたりしたことを、後に雑誌に面白半分に載せていたことで、かなり批判を集めています。

 雑誌の掲載は何十年も前のことで、当時から雑誌を読んだ読者が批判をしていたようです。

 それが最近になって、過去の雑誌記事の噂がネットで広がり、抗議の輪が広がったようですが、雑誌の掲載時も、また、その後のネットの騒ぎになってからも小山田さんからの謝罪はなく、考えを改めることもしなかったためにネットは一層炎上し、辞任要求の騒ぎになったようです。

 

 オリンピックがパラリンピックを同時にに開催している以上。身体障害者に危害を加える人が担当役員をすると言うのは問題外です。

 雑誌記事を読むと、日常、執拗にいじめを繰り返していたらしく、子供のいじめというレベルを超えて、抵抗のできない障害者に対して差別をし、虐待をしています。

 「40年以上経ったことだから時効だ」。と言えばその通りですが、だからと言って何事もなく見過ごすことはできません。内容が度を越して明らかに犯罪です。

 

 小山田さんをなぜオリンピック委員会がチェックをしなかったのか、と問う人がいますが、それは結果論です。大勢の役員の、子供の頃にまで遡って何もかも調べることなど実際にはできません。それよりも、事件が公になってからも、オリンピック委員会は、小山田さんをかばい立てするような行為に出て、話をうやむやに済ませようとしていました。このことの方が問題です。

 

 今月15日には問題が大きくなり、16日に小山田さんが謝罪していますが、その時点で、ことの顛末はオリンピック委員会も把握していたはずです。にもかかわらず、武藤敏郎オリンピックの事務総長が、開催間際だからと言う理由で、「当人も反省していますので、このまま続投します」。と言ったことは明らかに判断の間違いです。

 主催者はパラリンピック身体障害者のためにしている活動であることに認識がないのです。あまりに、障害者に対する配慮が欠けています。

 この事件で、フランスやイギリスの新聞が大きく問題として取り上げていました。当然のことです。日本のオリンピック関係者が障害者にたいしてあまりに鈍感なのです。

 鈍感なことは、マスコミも同様です。どこのテレビ局も、武藤事務局長が小山田さんの続投を決めたときに、「小山田さんは辞任すべきだ」。と言った局がありません。19日になって小山田さん自身が辞任するまで、武藤さんと同じく不問にしようとしていたのです。

 そうした点ではマスコミは武藤事務局長を責めることはできません。19日の辞任の時点ですら、この問題が、どれほど障害者を傷つける行為であったか、誰も障害者にたいして配慮しなかったのです。

 「昔のことだから許してやれ」。と言う人もあるでしょう。実際、40年も前のことで、未成年の時に犯した間違いを、40年経って責任を問われるのも行き過ぎだと言う見方はあります。

 然し、今回の件に関しては小山田さんのした行為は、子供のしたいたずらの域を超えています。障害者に対しての虐待です。また、小山田さんがその後、反省することなく、面白半分に雑誌に暴露していることが看過できません。

 その後きっちりした謝罪をして相手が納得しているならともかく、長い間全く反省もなく、今の今になって、わが身が危うくなってから初めて謝罪して、「この先被害者に合って償いをしたい」。などと言っても、全くその場しのぎの対応にしか見えません。自身のしたことに気付いていないのです。

 

 小山田さんが辞任したことは当然です。然し、今の今になってこのドタバタ劇はどうしたものか。開会式の音楽をどうするのでしょうか。私は、50年前に使った三波春夫さんの唄ったオリンピック音頭でもいいと思います。あれは名曲です。今あれを使えばまた流行るかも知れません。

 新たに何かを作り直すのではなく、この際、あるもので間に合わせて、余計な金をかけないことを願います。それでなくても、オリンピック予算は当初の七千億円から、一兆四千億円に跳ね上がっています。

 当初は既存の50年前の設備を使って金のかからないオリンピックをすると言っていたではありませんか。ふたを開ければ何もかも新築です。競技場に至っては、イランの女性に無駄な設計費用をむしり取られています。この出費はこの先の日本国民の税負担を大きくします。

 

 いろいろな問題はあっても、オリンピックをやめると言うのは間違いです。せっかく縁あって開催するなら、世界中のアスリートが気持ちよくスポーツが出来るよう、みんなで協力しましょう。そして、オリンピックが開催できる経済力を備えた日本に生まれたことを、みんなで喜びましょう。

 うまく行かないことがあっても、上げ足を取って邪魔するのではなく、みんなで何とかうまく行くことを考えましょう。

続く

新太郎のこと

新太郎のこと

 

 新太郎と言っても私ではありません。私の祖父は新太郎と言いました。芸人ではありません。銅古屋と言って、銅板を使って台所の流しを作ったり、箱火鉢の内側を作る職人でした。それがやがてブリキ板を使って雨樋を作ったり、店の看板を作ったり、お寺の屋根に銅板を張ったりする仕事を始めました。

 これは随分いい仕事になったようで、狭い家の中に常に2,3人若い衆を雇って、作業していました。

 普通なら、そこそこいい金を残して家族に楽をさせてやれたはずですが、酒と博打が好きで、人並み優れた稼ぎをしていながら、家は常に金がなかったようです。

 

 その新太郎が、太平洋戦争がはじまると、物資が不足し、仕事も不安定になってきます。そこで、一人満州に出かけたそうです。どこに行ったかはあまり詳しいことは分かりませんが、大連や、朝鮮の京城(けいじょう=今のソウル)にいたようです。当時日本人が多く住んでいて、朝鮮も大連も、戦争被害はありませんので、町は安定していて仕事は多く、天国のような暮らしだったそうです。

 然し朝鮮人も中国人も、町はどこも不衛生で、その生活態度は目を覆うような暮らし方をしていたそうです。

 朝鮮は日本の領土だったために、暮らしぶりは比較的まともだったようですが、それでも、道端で男も女も、道の脇の溝にしゃがんで排便していたそうです。さすがに京城の大通りでは排便はなかったようですが、大連の汚さは驚くばかりだったそうです。

 メインストリートでも何でも、道端で平気で排便をする人がたくさんいたそうです。便は誰もかたずける人はありませんから、あちこちに人糞がうず高く積もっています。

 電信柱は、1mくらいのところがどれもてかてか光っています。なぜ光っているのかと思っていると、道を歩く中国人が手鼻をかみ、手に付いた鼻水を電信柱にこねたくっていたのです。それが一人ではないため、どの電信柱も光っていたのです。

 ほとんどの中国人は風呂に入らず、毎日同じ服を着ています。人を雇って荷物を運ぼうとしても、その日は来ても翌日は来なかったり、来て働いているかと思うと、仕事の道具を盗んで逃げたり。盗んだ道具は町の古道具市場で既に売られていたり。全く信用できなかったのです。

 中国人の金持ちの家を覗くと、中では、朝から阿片を呑んでいて、長い煙管を一日口に咥えて横たわっています。生活に困ることはないのでそうしているのでしょうが、何もなさずに日がな阿片を呑んでいる姿は、新太郎のような酒と博打の好きな男ですら、「これは亡国の民だ」。と思ったそうです。

 商人にブリキ板を注文すると、仕入れに手付金が必要だから半金を先にくれ。と言います。中国人に先に金を支払うことは危ないからよせ。とみんなから言われていたのですが、中国人が必死に懇願するため、やむなく支払うと、物が届かず、相手は逃げてしまいました。

 あとで街中で出会って道具の催促をすると、とぼけて人違いだと言い張ります。嘘やごまかしが日常で、全く信用できない連中だったそうです。

 新太郎は、中国人を見て、「結局イギリス人や、フランス人に土地を奪われたのは、イギリス人やフランス人が無謀だからではなく、中国人がだらしない生活をしているからかすめ取られるのだ」。と思ったそうです。

 結局新太郎は、いい仕事を手に入れながらも、だまされたり、ごまかされたりして、無一文になって戦争末期に帰国をします。

 

 大連にいたときには食べることには心配はなかったのですが、日本に戻ると、食べる物がありません。空襲があちこちでありましたから、屋根の仕事は不自由しなかったのですが、稼いだ金はあっても食料や資材が手に入らないのです。

 幸い親父(私の父)、は劇団を作って、農村や、軍隊の慰問を熱心にしていましたので、週末になると、会社を休んで慰問に出かけ。米や、小豆、大豆、酒などを山ほど抱えて帰ってきますした。お陰で、よその家よりも随分食料には恵まれていたようです。

 当時親父は東京計器に勤めていて、戦闘機のメーターなどを作っていました。軍需産業で儲かっていました。慰問から帰るたびに、課長にコメや酒を持って行くと、課長は大喜びで、親父がいない間は、毎日タイムレコーダを押してくれていて、休みの日も出勤になっていました。親父に文句を言うどころか。「次はどこへ行くの。いつ」。と聞いてきたそうです。

 

 新太郎は、大陸から帰ると、仕事をするために時々朝鮮人を使ったそうです。何しろ日本人の男はみんな戦争に出てしまい、人手が足らないのです。当時、日本にいる朝鮮人は、随分生活に困窮していたそうです。多くは日雇いのような仕事をして生活していたそうです。

 新太郎は、物資が不足しているために、ブリキ屋が必要な、ブリキも半田も、塩酸もなかなか手に入りません。

 そこで、物は試しに朝鮮人に、「ブリキ板はないか、半田はないか」と尋ねると、どこでどう工面したのか、数日のうちに持ってきたそうです。彼らは独自のルートを持っていたのです。塩酸でも、簡単に手に入れたそうです。

 仕事の際の荷物担ぎでも、何でもします。その都度、日本人と同じ手間賃を支払うと、涙を流して感謝したようです。

 日本国内では、朝鮮人を、嘘やごまかしが日常で信用できないと言って嫌う人が多かったようですが、新太郎そうした差別はしなかったのです。少なくとも大連の中国人よりも、日本国内の朝鮮人の方が信頼できると思ったそうです。

 食糧難は戦後になって戦地に行っていた兵隊が帰国をしてからの方がひどく、日本中飢餓がやってきます。新太郎は朝鮮人の家に行くと、崩れかかったような借家の中に子供が5人も6人も一緒に暮らしています。新太郎は、訪ねて行くたびに子供たちに親父が慰問に出かけてもらって来た、小豆で作ったおはぎなどのお菓子や、ノートや鉛筆を持って行って渡したそうです。

 朝鮮の家族は感謝をして、新太郎の仕事は率先して手伝ったそうです。時に、肉が手に入ったからと言って、届けてくれることもあり、肉などこの半年の間食べたこともなかったため、新太郎一家は久々すき焼きをして盛り上がったようです。

 然し、後で昨日の肉が一体何の肉なのかと、家族で考えたときに、どうも犬の肉ではないかと言うことになり、以後は肉はもらわないようにしたそうです。

 

 いずれも戦前から戦後すぐの私の知らない時代の話ですが、私が子供のころ、新太郎さんが話していたことを今朝思い出して書きました。80年前の話です。

続く

 

 

 

 

馬刺しと地鶏焼き

馬刺しと地鶏焼き

 

 一昨日(17日)は玉ひで公演がありました。いつもの通り、12時から食事、12時30分から若手のマジックショウ。

 一本目は前田将太。陰陽水火の術、真田紐の焼き継ぎと紐抜けです。大分手慣れて来ました。随所に表情がついてきています。これも毎回私の舞台の際に必ず出番を作っている成果でしょうか。玉ひでにも一回目から、毎回出演している効果は大きいと思います。

 ただし数日前に頭をパーマにしました。どうも手妻でパーマは違和感があります(もっとも私もパーマをかけていた時期がありましたので、文句も言えません)。何でもしてみたいのでしょう。

 

 二本目はせとなさん。冒頭喋りがあり、クロースアップでカード当てを演じ、そこからカードのロールダウンが始まりステージ手順に移行して行きます。まだ試作の演技ですから、良いの悪いのと言っても意味はないでしょう。スライハンドと喋りのコラボには常に違和感が残ります。これが自然に移行できればせとなさん独自の世界が開けると思います。もう少し時間がかかりそうです。

 

 三本目は早稲田康平さん。冒頭から喋りがしっかりしてきました。声もよく通るようになりました。見ていると、一つ一つの演技をきっちり演じるようになってきています。

 これまで、早稲田さんの演技は、常に軽く流しているように見えましたが、この日は、一つ一つの面白さを如何に伝えるかを注視するようになっています。大きな進歩です。

 新聞紙の復活。三本ロープ。ブックテスト。よくあるマジックをつなげていますが、この日のお客様が全くマジックを知らない人たちのようで、何を見せてもよく受けました。これは演じていて張り合いがあります。お客様に助けられ、演技が上手に見えました。

 

 後半、休憩をはさんで私の演技、冒頭は紙片の曲。卵の袋から、紙卵です。二十年以上も演じています。この頃では弟子が演じることが多いため、私がすることは稀です。然したまに演じると、面白い演技です。

 柱抜き(サムタイ)。今ちょうど前田に教えているさ中です。これは演じるたびにケースバイケースで対処の変わる手順ですので、手妻の中では難曲中の難曲と言えます。

 それでもしっかり覚えたなら、一生モノの名作です。私のところで修行をしたいと望む人の多くは、サムタイと蝶を覚えることが眼目であるはずです。今までサムタイは10人近くに教えましたが、奥の奥まで教えたのは3人だけです。せっかく習い覚えたのなら、確実にものにして、大切に演じてもらいたいと思います。

 植瓜術(しょっかじつ)。前回少し書きました。15分のセリフ劇です。全編せりふですので、話術の技量が求められます。お客様が退屈しないように聞かせることが技の第一です。几帳面な前田が忠実にセリフを語ります。無論それでいいのですが、この芸は、その昔、大道で通行人に見せている、という風景を再現したものなのですから、それほど立派な人間が大道でもの売りをしたりはしません。もう少し雑な人物を演じてほしいものです。まぁ、あまり過度な要求をすると、前田もパニックになりますので、無理には言いませんが、少し遊びの要素を心得て演じると面白みが増します。

 昼日中(ひるひなか)、うだうだと冗談を言いながら、道行く人と語らい、芽が出て、弦が伸びて、瓜が生ったならめでたく終了です。私の演じる手妻の中でも特殊な演技です。何とか後世に残したい作品です。

 蝶。私はこの作品があるから、お客様を集められます。何にしても誰それの何、と指名していただけるような作品があれば人は必ず見に来てくれます。有難いことです。

 蝶を演じてこの日はお開き。

 

 さて終演後、私は高円寺に戻って歯医者を予約しています。そのあとで、女房が舞踊の発表会に行くために留守をしますので、夜は一人で食事をしなければなりません。誰か食事の相手を探そうと考えたときに、今日の舞台を見て出来が良かった早稲田さんに声ををかけました。

 晩の7時に高円寺で待ち合わせをして、九州丸と言う居酒屋に向かいました。ここはその名の通り九州の食材をたくさん用意しています。熊本出身の早稲田さんにはちょうどいいかと思い入りました。店の中は満席です。

 馬刺し、地鶏の炭火焼き、冷ややっこ、焼き鳥四種。さつま揚げ。どれも九州の名産です。中でも馬刺しは脂が少なく、赤みのさっぱりとした身で、にんにく醤油でいただくと、にんにくのお陰で急に食欲がわいてきました。ハイボールが進みます。私は何日もアルコールを飲んでいませんので。この晩はハイボール三杯で酔いが回りました。

 そのあと、私のアトリエで家呑みです。ビールとハイボールでマジックの話をしました。

 早稲田さんは若いせいか私よりはピッチが速く、随分飲みます。私は、せいぜい週に一度呑む程度ですので、最近はすっかり弱くなってしまいました。10時半に飲み会を終えました。

 

 さて、早稲田さんにしろ、ザッキーさんにしろ、ここまでは何とか無事に上がってきましたが、ここから先は、自分の得意技を作り上げなければいけません。自分の何が人の役に立つのか。自分自身をしっかり見つめて、答えを出して行くことが試練になります。この一年、或いは二年後、苦しみの中から何を探し出すのかが、当人の人生を決定します。難しい時期に差し掛かっています。

 無論私にできることは協力をしますが、最終的な答えは、自分でどうにかしなければなりません。一年後はどのような活動をしているでしょうか。注目して行きたいと思います。

続く