手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

踊り をどるなら 3

踊り をどるなら 3

 

 まったく舞踊に興味のない人を舞踊の会に誘ってその感想を聞くと、「うまさの基準がわからない」。とか、「名人、上手の舞踊がなぜ名人と言われるのかわからない」。などと言う反応が返ってきます。

 西洋の舞踊、例えば、バレーやジャズダンスなどと日本舞踊を比べると、大勢の人が曲にぴったり合わせて細かな振りを踊る西洋の舞踏は、上手いかまずいかは一目でわかります。西洋の舞踏は、一人で踊っていても、カウントが細かく決められていて、きっちりカウントにはめているか否かは素人が見てもわかります。

 方や日本舞踊を見ると、もちろんカウントは決められてはいますが、曲そのものがゆったりとしたものが多い上に、細かなカウントが厳密ではありません。演者の裁量に幅があります。

 振りは様々あって、それ自体は市井風俗を真似ていて、演じ分ける才能を求められるでしょうが、如何せん今の時代と程遠い生活を映した振りがついていますので、何を表現しようとしているのかが理解しにくいものがあります。

 しかも長唄、清元と言った唄の歌詞が、何を語ろうとしているのかがわかりにくく、初心者にはまごつくばかりです。決して江戸時代の話し言葉がわかりにくいわけではないのですが、如何せん使わない言葉や、今はなくなった職業を語っていたりするともう聞く人には何を言っているのかわかりません。

 「松の位の外八文字」長唄の松の緑と言う曲に出てくる歌詞ですが、始めに聞いたときには何のことかさっぱりわかりませんでした。遊郭の吉原にいた花魁の最高位の女性が、松の位です。すなわち絶世の美女です。

 この花魁が、吉原をお練りをして歩くときに、ぽっくりのような高下駄を履きます。下駄があまりに高いものですから、持ち上げて歩くことが出来ず、左足を前に出すときには、左足をゆっくり半円を描くように下駄を地面に滑らして回しながら前に出し、次に右足をゆっくり半円を描くように前に出して歩いて行きます。これが外八文字と言う歩き方です。

 つまり絶世の美人の花魁が、吉原をお練りをして歩いている姿を言っているのです。しかし現代においてそれを歌詞から想像できる人は限られています。

 歌詞が良くわからないまま、所作が演じられると、一体何を表現しようとしているのかがわからない場合があります。

 上手い人が踊ると、きっちり役になり切っていますし、一つ一つの所作がちゃんとできていて、意味が伝わってきます。江戸の世界がきっちり見えてきます。然し、歌詞の表現するところがわからないと、何もわからなくなります。古典芸能の難しさは年々表現する世界が今と離れて行ってしまうことです。それゆえに理解者を減らして行っています。

 

 もう一つ申し上げると、日本舞踊のお師匠さんと言うのは、どこまでがプロでどこまでがアマチュアなのか、基準が曖昧なところがあります。マジシャンの場合、一般から依頼される舞台を引き受けて月に数本、或いは十数本活動しています。それが成り立っていることは、マジック界では当然と思われていますが、舞踊家は、自宅で生徒さんを取って、指導をするのが仕事の主になっています、これはプロの指導家だと思います。年に一、二度、市民会館などで、舞踊を踊っている、と言うのは、プロの舞踊家としては余りに舞台回数が少ないのではないかと思います。

 舞踊が芸能の一ジャンルであるなら、発表会で舞踊をきっちり踊ることも大切ですが、本来は魅力溢れる個人の舞踊家が現れて、その舞踊家が見たくて、人が大勢劇場に押し掛ける状況にならなければ、本当のプロとは言えないのではないかと思います。

 大劇場での発表会を見ても、客席は生徒さんの家族が来ている場合が多く、一般客が入場料を支払って入ってくる人は稀です。身内が集まって、認め合う緩い社会の中での活動が、半世紀以上も前から出来上がってしまっています。

 なぜもっともっと一般客を相手にした仕事を取らないのかと思います。私が活動している玉ひででの自主公演のようなものを舞踊家もしたらいいのにと思います。どんなところにでも出て行って、一人でも多くの一般客を相手に踊りを見せなければ、新たな観客はつかめないだろうと思います。

 この10年は日本舞踊を習う生徒さんの数が大きく減少していると聞きます。支持者が減って行くことをただ嘆いていてもどうにもなりません。もっともっと前に出て言って仕事を開拓して行けばいいのにと思います。

 

 然し、一般客を相手にしているから、マジックは優秀で、日本舞踊は劣っていると言うわけではありません。舞踊は現代の芸能にありながら、稀有な程純粋です。純粋に芸能を追求した結果、きわめて純度の高い感動が生まれるのです。但し、その感動を評価できる審美眼を備えた、理解ある観客が必要です。優しく温かく、気長に見てやらなければそ舞踊の良さが理解できないのです。残念ながら、その理解ある観客が近年減少しています。

 明日はそのあたりのことを詳しくお話ししましょう。

続く

踊り をどるなら 2

踊り をどるなら 2

 

 踊りはフリガナを振ると「おどり」と書きますが、明治以前は、「をどり」と表記しました。単語の頭に「を」を使うのは今では不自然に感じますが、実際はそう使いました。発音も、おどりを「うぉどり」と発音していたのでしょう。50音の発音の中に、今では使われていない発音があったのです。顕著なのは、や行と、わ行です。や行は今では、や、ゆ、よ、の三つしか残っていませんが、恐らく、間に、yぃ、yぇ、と発音するものがあったはずです。その頃の発音は、いゃ、いぃ、いゅ、いぇ、いょ、と言っていたのではないかと思います。

 実際に、「いぇ」は今も残されていて、「へ」と表記されます。「東京へ行く」、と言うときの「へ」です。これも、明治以前の人が発音すると、「東京いぇ行く」と発音していたのでしょう。今でも私のところでは、「へ」は、「いぇ」と発音しています。金輪のセリフ「上から切り込み、下いぇと抜ける」。と発音します。この辺りをきっちり発音仕分けると、手妻がより古風なものに感じられます。

 日本の通貨の単位は円ですが、これも明治以前は、「いぇん」と発音していたようです。アルファベット表記ではYENと書きますから。江戸時代の日本人が円と言うときに、海外の人には「いぇん」と聞こえたのでしょう。九州の佐賀県や、福岡県あたりの人が、鉛筆を「いぇんぴつ」と発音したのを聞いたことがあります。私はこれを単なる訛りかと思っていましたが、発音としては、「いぇんぴつ」のほうが正しいのでしょう。

 話は妙なことにこだわって、なかなか「をどり」の核心に行きません。でももう少し話させて下さい。わ行は、一番残っていない行ですが、これも恐らく。ヴぁ、ヴぃ、ヴぅ、ヴぇ、ヴぉ、という発音があったはずです。英語で言う下唇を噛んで発音するw発音に近いものです。

 今にち、「ヴゎ」は下唇をかまずにそのまま「わ」と発音して残っています。「ヴぃ」は古くは、「ゐ」、とか「ヰ」と言った変体仮名を当てていました。古い本に変体仮名で書かれた「ゐ、ヰ」が出て来たら、それは本来「い」ではなく、「ヴぃ」と発音していたのです。同様に、「ヴぇ」は「ゑ」と書いていたようです。今変体仮名はあまり使いませんが、今から150年くらい前までは、厳密に発音を区別していたのだと思います。

 そして「ヴぉ」です。「ヴぉ」は「を」と表記します。発音は今では「お」も「を」も同じになってしまいましたが、人によっては今でも厳密に「うぉ」と発音する人がいます。私らも「を」は丁寧に「うぉ」と発音するようにしています。

 

 私は、「おどり」をなぜ「をどり」と発音するのかについて、まったく私見ですが考えがあります。つまり、冒頭に「を」の字が来ると、跳ねた発音になります。この跳ねた音と言うのが、踊りの原点なのではないかと思います。

 実際文章や単語で、「を」の字が出て来ると、そこに喚起を呼び起こす場合が多いように思います。アクセントと考えてもよいと思います。何らかの注目を集めるときに「を」が使われます。つまりをは、喚起を呼び起こし、注目を集めて、跳ねた音が「を」です。

 踊りは、をどり、をどる、をどれや、と、「を」を基に形作って行きますので、その基となる「を」を、注目とか、喚起とかの意味を嵌めて考えたなら、「をどり」の意味は伝わるのではないかと思います。

 

 ただし、能の世界では踊りとは言わず、舞と言います。日本舞踊でも京舞のような古い流派では、踊りとは言わずに舞を舞うと言います。その違いは私にはわかりませんが、舞うと言う言葉に対して、踊ると言うのは俗に感じるのかも知れません。

 日本の芸能は、伝統的に、あとから出て来た芸能を軽く見る風習があります。暗黙の身分制度と言っていいかもしれません。能役者は、歌舞伎役者を軽く見て、歌舞伎役者は新劇役者を軽く見ます。新劇役者は映画俳優を軽く見て、映画俳優はテレビ俳優を軽く見ます。テレビ俳優は、youtuberを軽んじます。なぜそうするのかわかりませんが、人は他人を差別したいのでしょう。差別による優越が、曖昧模糊とした芸能の世界で唯一のよりどころなのかもしれません。

 日本舞踊も、舞を舞う人と、踊りを踊る人を区別して考えているのでしょう。然し、いつの時代でもそうですが、確実に、古い時代の人は勢力を失って行き、新しく生まれた人たちが活躍して行きます。そのことは、今のテレビ界とyoutube界を見比べたなら明らかです。今やテレビは風前の灯火です。

 一つの社会は、発展してゆく過程で、理想的な形式を考え出します。ある時期、形式によって、その社会は大きな発展をしますが、いつしか、形式に縛られるようになり、身動きが取れなくなって行きます。自分たちにとって都合のいいやり方が徐々にその社会が形骸化して行って、結果として現実社会を反映できなくなって行きます。そうなると一つの社会の衰退がはじまります。

 然し、確立された社会がみすみす崩れ去って行くのは勿体ない話です。価値のないものなら消えても仕方のないことですが、それが、日本人に、或いは世界の人に多大な影響を与えるものなら何とか残したいと思います。そこで、古典の形式などから、何が災いし、何が残したいものなのかを考えて、残せるものなら残して行かなければいけません。明日は舞踊を通して、古典の素晴らしさや、限界のお話をしましょう。

続く

 

うなぎを食す

うなぎを食す

 

 昨日(5月1日)ようやく風呂場が完成しました。丸一週間銭湯に通っていたため、昨晩、風呂に入って、「風呂のある生活がなんと贅沢なことか」、と改めて有難みを感じました。内壁はタイル張りの壁をすべて剥がし、琺瑯(ほうろう)引きの鋼板を四面に貼りました。お陰で壁はつやつやして、まるでホテルの浴室のようです。現代ではそうして風呂場の壁を作るようです。

 タイルでは隙間にカビが生えて汚れが取れないため、大きな鋼板を全面にに貼ることで湿気やカビに対抗する方法を考えたようです。白系統の壁で、浴槽はピンクです。ピンクの浴槽と言うのはどうかと思いますが、昨晩入った印象では、壁も浴槽も床も何もかもが新しくて快適です。

 風呂場は良くなりましたが、3階のトイレ、洗面所は改装中で全く使用できません。洗面所はすべての壁紙を剥がすため、流しから棚から、洗濯機から居間に移しました。これによって居間はまったく身動きできません。今日には壁紙が貼られ、新たな洗面棚が入ってくるので、部屋の混乱も解決するのでしょう。

 洗面所の後は、3階のトイレ、2階のトイレを新規にするそうです。結局すべての水回りは新規です。私は、2階の事務所のトイレなどは別段傷んでもいないので、そのままでいいように思いますが、女房はすべてやる気です。ピンクのトイレにならなければいいがと思います。

 

 さて、風呂場は良くなりましたが、そのために台所と居間が物置に変わってしまいました。これでは食事が出来ません。そこで晩飯は外で食べることにしました。女房に希望を聞くと「うなぎが食べたい」、と言います。「贅沢だなぁ」。「今月誕生日だから、そのお祝いでいいから、うなぎにしたい」。

 誕生日の前倒しだそうです。そうなら反対もできません。二人で高円寺の駅まで歩いてうなぎ屋さんに入りました。席について、「すみれはどうする。土産を持って帰る?」。と聞くと、会社帰りの途中で近くの病院にいるみたいです。携帯に電話をすると、30分くらいで来ると言います。一緒に食事ができるなら好都合です。うなぎは3人前注文して、私はハイボールを注文しました。

 高円寺はどこの飲食店もアルコールは出しませんが、ここは出ました。幸いです。晩にアルコールがなければ飲食店も売り上げが大きく響くでしょう。今や飲食店は生きるか死ぬかの瀬戸際に立っています。政府や都の言うことをまともに聞いていては店が倒産してしまいます。反旗を翻して酒を出す飲食店も少なくないようです。生きるためならやむを得ません。

 ただし、酒を出す店は都の要請を断ったわけですから、補助金が出ません。補助金を選ぶか、アルコールを選ぶかは微妙な判断です。聞くところによると、補助金は申請してもなかなか渋くて、毎月すんなり出さないようです。出すものを出さずに締め付けばかりきつくすれば、人は嫌気がさします。かくして、緊急事態宣言は尻抜けになって行きます。

 

 奇しくも親子三人でうなぎが食べられることになりました。こんな日があってもいいのでしょう。家を大改装し、親子でうなぎを食べている姿を傍から見たなら、随分儲かっている家族に思われるでしょう。すべては借金ですが、金持ちに見えたならそれも財産のうちかもしれません。

 ところで、ふと20年前、女房のお母さんが東京に出て来た折に食事に招待し、「何が好物ですか」、と尋ねると「うなぎ」と言ったのを思い出しました。それなら東京の最高のうなぎ屋さんにお連れしようと、飯倉片町の野田岩に行きました。

 お母さんはあのトロリと甘いたれで焼いたうなぎをとても喜んで、「人生で一番おいしいうなぎだった」。と言いました。結局私が女房のお母さんに親孝行したのは後にも先にもこの時だけでした。「また東京に来ることがあればいろいろなところにお連れしますよ」。と言いましたが、秋田から東京に出て来ることは一大決心のようで、そのあとはついぞ果たせませんでした。そして昨年亡くなりました。

 人の縁とは淡く儚いものです。それだけに今この時を大切に生きなければいけないのでしょう。今している何気ないことが、もう二度と出来ないことになるかも知れないのです。女房と娘は脇で、「おいしい、おいしい」と言ってうな重を食べています。庶民の喜びはささやかなものです。贅沢だと言っても所詮小さな重箱一つの話です。困難な望みではありません。二人の姿を横目で見ながら、ハイボールを飲んでいると、今、この時を幸せと言うのかなぁ。と、つい自問しています。

 

 私も本来は、カロリーの高いものや、アルコールは控えなければいけないのですが、実は、昨日朝、糖尿病の定期検査に行ったら、数値が改善されていました。私は元々血圧が安定しており、血管に問題はありません。糖分、脂肪分をもう少し抑えたなら何の問題もないのです。それに気をよくして、久々この晩はアルコールを飲みました。ハイボールを二杯。何ともおとなしい酒です。

 帰り道も女房娘は大満足です。然し、よく考えて見ると、今日はまだ6月1日です。女房の誕生日は6月28日です。ほぼ一か月先です。誕生日の前倒しなどと言ってご馳走をしましたが、誕生日が近づけばまた何か別のものが食べたいと言い出さないとは限りません。そうそう贅沢はさせられません。

 そうなら、延び延びになっている猿ヶ京の合宿を7月にせずに、前倒しして、6月末に持っていったら、誕生日を交わすことが出来ます。いや、それだと梅雨のさ中で雨ばかり降って、山歩きもできません。

 やはり猿ヶ京は7月がいいでしょう。そうなら、月末の富士や、大阪の指導の日数を少し伸ばして、福井の天一祭の下見を加えたらいいかもしれません。帰りに焼き鯖寿司を買って帰って、誕生日の代わりだよ。と言えば、これは安上がりです。これに決めましょう。

 と言うわけで、月末は大阪の指導から福井の下見に行こうと考えています。ちなみの天一祭は11月27日、フェニックスホールで開催します。前日26日は大阪でヤングマジシャンズセッションです。道頓堀のZAZAで開催します。今から予定をしておいてください。

 

踊り をどるなら 2 は明日書きます。

続く

 

 

 

 

踊り をどるなら 1

踊り をどるなら 1

 

 舞踊は18の時から稽古を続けています。先生もこれまで何人か変わりました。初めは、上板橋の呉服屋のお嬢さんで、藤間勘加寿(ふじまかんかす)先生と言う若い先生に習いました。十年ほど習って、先生が引っ越されたのでそのまま稽古は終わってしまいました。

 その後33歳くらいになってから、今の藤間章吾先生に習いに行くようになりました。この先生は本郷にお住いで、若手の中でも創作舞踊など、果敢に挑戦している実力派の先生で、毎年国立劇場で発表会をなさっています。45歳くらいまで章吾先生に習っていたのですが、娘が生まれて娘が小学校に入ると舞踊に通う様になり、杉並の永福町のお師匠さんで、藤間豊治先生のもとに通うようになりました。

 このお師匠さんは女性の先生で、初心者や子供を教えることが上手な先生です。何度も何度も同じことを繰り返し話して、根気よく教えて行くタイプです。同じ杉並区内ですが私の家からかなり離れていますので、幼い娘を車で連れて行かなければなりません。そうなら、私も一緒に豊治師匠に習うことの方が便利かと思い、習うことにしました。この時期の私の弟子は、晃太郎も、大樹もみんな豊治師匠に学んでいます。章吾先生には申し訳ありませんが、しばらく章吾先生から離れました。

 その後60歳になってから、また章吾先生のところに戻りました。今はずっと章吾先生のところに通い続けています。弟子の前田も同様に通っています。

 

 私のところでは、長唄、三味線(同じ師匠に習います。杵家七三先生)鳴り物(鼓、太鼓、梅屋巴先生)、日本舞踊、この三つは必須で勉強します。長唄の方は声質によりますので、向き不向きがありますが、それでも、発声の練習と思って通うと、舞台でよく声が通るようになります。声の出し方がわかると、舞台で小声でつぶやいてもきっちり客席の隅まで聞こえるようになります。手妻に限らず舞台人にとっては長唄は必須です。

 三味線は、演奏がうまくなることを目指すだけでなく、BGMが背景で鳴っているときに、よく聞こえるようになります。邦楽の方々と打ち合わせをするときに、曲目などがすぐに言えるようになります。きっかけを出す際も、どこで上げて(フェルマータ)、どこで絞める(コード)かを説明できます。今、手妻をされる人で、邦楽ときっちり打ち合わせができる人がいなくなってしまいました。これは手妻師の怠慢なのです。

 鳴り物は、耳に邦楽のリズム感をたたき込むのに役立ちます。三味線のリズムと太鼓、鼓のリズムは時としてかなり違います。太鼓、鼓は能から入って来たリズムが多用されますので、時々とんでもなく古いリズムが使われていたりします。

 そもそも能は、四拍子(しびょうし=鼓、小鼓、太鼓、笛の四つの楽器で拍子を刻みます)と、謡(うたい=合唱団、または語りの集団)によって構成されます。能の謡は、うたいとは言ってもほとんど語りにしか聞こえません。まるでお経のように聞こえます。現代の人が聞くと能の音楽は、リズム楽器と語りで構成されているように聞こえます。

 その能で作られた作品が、室町時代末期になって、南方から三味線が入って来て、三味線のメロディーと合体します。日本の音楽の大革命が始まります。折から歌舞伎舞踊が盛んになり、能から題材を取って、三味線を取り入れた音楽が作られて行きます。

 これが今日の歌舞伎舞踊であり、日本舞踊に発展します。この時、能の拍子はそのまま移されました。その上に三味線音楽が付加されます。然し、能の拍子と三味線音楽は似て非なるものです。それが不思議な融合をして結び付いています。

 ここの説明はちょっと文章で書くのは難しいことですが、クラシック音楽で、フォ-レが作曲したアヴェ・マリアと言う曲があります。この曲は、ハープシコードで伴奏されていますが、この伴奏は、バッハの平均律クラヴィアと言う曲をそのまま演奏しています。つまり、名曲の平均律クラヴィアからヒントを得て、後年、フォーレ平均律クラヴィアに勝手にメロディを乗せたものがアヴェ・マリアなのです。

 曲は緩やかに歌でアヴェマリアを唄いますが、その底辺で伴奏している曲はバッハの平均律クラヴィアなのです。コードが合っているので不自然さはありませんが、だからぴったり合っているかと言えばピッタリではありません。そもそもが別の曲なのです。伴奏はまったくアヴェ・マリアとは無関係に進行します。然し、不思議な一致をしています。フォーレの時代の人が聞いたなら、とんでもなく古い時代の曲を聞いているように感じたでしょう。フォーレの音楽センスの勝利です。

 日本舞踊の音楽はこれとよく似たところがあって、元々三味線のために作られたわけではない古いリズムが底辺に流れ続けています。そこに当時としては新しい、南国的なメロディーを持った三味線音楽が乗っかっているのです。時に三味線のメロディーが主体になって進行したり、鼓や太鼓のリズムが主導権を握ったりして曲は複雑に絡み合って行きます。この時に、踊りながらも聞き分けが出来て来ると、舞踊はうまくなります。

 

 とか何とか言っても私の舞踊はお粗末です。何十年やっても少しも上手くなりません。特に60歳を過ぎてから記憶力が悪くなり、度々舞台の上で手を忘れます。仕方なく創作をします。なまじ何とかごまかしてしまう知恵があるために、忘れても止まらずに踊ることが出来ます。ところが勝手に作って踊っているうちに、どんどん元に戻れなくなって行くと心の中は大慌てになります。

 そんなことを本舞台で繰り返しているのですから、うまくなるはずがありません。私の舞踊はお粗末です。

 私は決してうまい舞踊を踊ろうとは考えていません。そんなことよりも、わずかな仕草から古風な振りが自然に出て来ることの方が大切なのです。さりげなく袖を持つとか、傘をさして彼方を眺めた姿に独特な世界が出来てくれば手妻に役立つわけです。そんなことのために毎週踊りに通っています。明日はもう少し詳しく舞踊についてお話ししましょう。

続く

古民家リノベーション 4

古民家リノベーション 4

 

 済みません、一日ブログを書かなかったら、メールやら、携帯電話などに、「体の調子でも悪いのですか」。「新太郎は病気か、死んだのか」。などと言う連絡を何件もいただきました。私の体調を気遣ってくれる人がいるのは有り難いことです。ご心配なく、元気です。

 

 これまで、いろいろ言いたいことを書いて、話が止まったままでいる記事が結構あります。今回は古民家リノベーションをまとめます。

 今建てられている新築の家を見ると、私の子供のころから比べるとはるかにクオリティの高い、美しい家が多く建っています。然し、その実、今の家が長く使えるかと言うと、どうもそう長くは持たない造りになっています。

 ちょうど私の家が、大改築をしているさ中ですので、毎日、大工さんの仕事を見ていると、実に当然のように、ベニヤの合板を使いますし、壁面はビニール製の壁紙を使います。すべては女房の判断でしていることですので、口出しをしないで見ていますが、この修理の仕方では20年と経たないうちにまた修理をしなければならなくなるだろうなと思います。

 

 私がこの家を建てた31年前には、当初の設計師のプランではベニヤ板などを使おうとしていたものを、自然素材にするように注文しました。私が意見を言うたびに建築費が跳ね上がるので、100%思いは達成できませんでしたが、4階の部屋壁はすべて板張りにしました。三階はフローリングの部屋なのですが、壁も天井も和室仕様で、壁は京壁で、薄緑色に左官屋さんに塗ってもらいました。それでも完全に本格的には出来ませんでした。本来のプランでは壁は土壁にして、上から漆喰を塗り、柱や梁は漆塗りにしたかったのです。でもビルの家でそれはあまりに経費が掛かるために断念しました。

 風呂場の天井板は檜の平板を使いました。壁も湯舟も檜にしたかったのですが、汚れやすいのと、カビが生えるのが難点で、諦めました。部分部分が私の考えで出来て、まずまず満足しましたが、今度大改修をするときには大胆の自然素材を使いたいと考えていたものが、目前にして女房に主導権を取られ、想いを達成できず残念です。

 現代の家の作りは湿気を排除するばかりで、受け入れようとは考えていません。壁紙は、湿気をはじいて、表面に水滴を作っています。それを吸収するには、エアコンで乾燥させる以外にないのです。然し、部屋の中ならエアコンも有効ですが、トイレ、階段、外壁になると、湿気の対策はできません。結果湿気は水滴になり、床に落ち、床の隙間から内部に入り込んでベニヤを腐らせます。これでは百年と持つ家にはならないのです。

 ヨーロッパでは、モーツアルトが住んでいた家だの、ハイドンが演奏していた宮廷だのが残っていて、実際、今も観光名所になっていますが、悲しいかな、日本では、平賀源内の住んでいた家も、葛飾北斎の住んでいた家も残ってはいません。もっとも、残っていたとしても、北斎の家などは見るに堪えないような子汚い長屋でしょうが、

 それでも江戸時代の家なら、白アリと火事から守れたなら、家は残ります。大阪には、緒方洪庵が西洋医学を教えていた適塾の校舎がそっくり残っています。大阪も太平洋戦争の頃は空襲にあってほとんどの家が焼けてしまったのに、よくぞ残ったと思います。残念ながら現代の家は火災に合わなくても自然に劣化して行きます。もっと自然素材を生かして、長く使える家にしないとどんどん壊れてしまうのです。

 

 これから日本の家は、少子化に伴ってどんどん価値が下がって行くでしょう。今もうすでに地方都市では、信じられないような豪邸が二足三文で売り出されています。昭和に建てた豪邸が1000万円などと言う価格で出ています。但し劣化が激しく、床も壁もドアもベニヤでべこべこです。もう少しベニヤ板の使用を抑えて作ったならば、家は50年も100年ももったでしょうが、昭和の家はみんな表面の板が剥がれてしまいます。結果、価値が思いっきり下がります。

 ああした姿を見ると、「昭和の財産と言うのは結局ほとんど残らないのだなぁ」。と思います。それに比べて、江戸や明治期の古民家は白アリにやられなければしっかり残りますし、家の作りは素晴らしいものがあります。同じ住むなら、昭和の豪邸よりも、古民家を多少改修して住んだほうが絶対に価値があります。

 ただし、古民家は改修はとてつもなく費用が掛かります。そこで価値観を変えて考えたならよいのです。安い古民家を買って、安く買えた分を改築費用に充てるなら、いい家が出来ます。台所や風呂場トイレなどの水回りは完全に直して、更に鍵のかかる部屋を二室改修して、あとはなるべく古い家のまま、古い素材できれいに直したなら、申し分のない家になります。そんな家に住むことは令和の時代に暮らすものには最高の幸せではないかと思います。

 日本のように歴史の古い国に生まれたなら、歴史に背を向けて生きるのではなく、歴史を今に生かして、共存して生きることの方がずっと楽しく生きられるのではないかと思います。

 私はそれを実践するために、どこか田舎の古民家を買い、そこを改修して暮らしたいと思っていたのですが、今回のコロナで大分財産を使ってしまいました。やむを得ません。またこれから少しずつ稼いで夢を実現させたいと考えています。

続く

いろいろあって楽しい

いろいろあって楽しい

 一昨晩(28日)は、ザッキーさんが来て、ビヤ樽タンバリンを指導し、道具を譲りました。お客様から預かっていた品物で、希望者に販売したいと言うことでしたので、ザッキーさんに譲った次第です。彼はいままでカードや、ロープなど、手先のマジックをしていましたが、いよいよ大舞台のステージ物に挑戦です。

 このビヤ樽タンバリンは、私が20代の時に図面を引いて、鉄工所の渡部さんが作ったものです。私自身は一台手に入れただけですが、渡部さんはその後何台か作ったようで、アマチュアさんやプロさんに販売したようです。

 家に届いた、ビヤ樽タンバリンは、まるで数日前に出来上がったのではないかと思うほどの美品で、錆も、劣化もありませんでした。今から30年前に製作したときには、15万円くらいしたものですが、届いたものは、30年前の物より何か所か進化していましたので、恐らく15年前くらいの作品でしょう。何台か制作したうちの、渡部さんの最晩年の作品だと思います。

 もう渡部さんは亡くなりましたし、今これをどこかの鉄工所に頼んで作ってもらったなら、確実に30万円くらいはかかるでしょう。今となっては得難き道具です。

 

 それにしても素晴らしい出来です。直径30㎝くらいのタンバリンに新聞紙を張り、新聞の真ん中に蛇口を取り付けると、ビールやジュースがどんどん出て来ると言うものです。ビールが出た後は、中からシルクや、帯シルクが出て来て、更に、まとめた帯シルクから大きな旗が出たり、しまいには舞台一面の大幕が出ると言うイリュージョンです。帯や幕は付いてはいませんでしたが、銀色のメッキがつやつやで新品同様です。きっと舞台映えするでしょう。ザッキーさんには私の30代の舞台ビデオを見せつつ、仕掛けと演じ方のポイントを説明しました。

  

 指導の後、食事をしたり、酒を飲んで久々じっくりザッキーさんと話をしました。彼が何に悩み、何を求めているのかが聞けて楽しいひと時でした。同時に自分の30歳の頃がどうだったのかを思い出しました。

 思えば、今現在活動している、玉ひでの公演も、若手の指導も、ザッキーさんが私のところに尋ねて来て、相談を受けたときから始まったのです。二年前、ザッキーさんはプロになりたがっていました。今すぐにでも会社を辞めてプロになりたいが、いいだろうか。と尋ねてきたのです。

 思えば不思議な話でした。と言うのも、私はザッキーさんを知ってはいましたが、指導をしたわけでもなく、何度か私のステージハンドをしてもらったくらいの付き合いだったのです。どうしてそんな私に相談に来たのかがわかりません。

 とにかく、私は「早計だ」。と言いました。まず1年基礎を学んで、その間にもう一度考えたらよいと言いました。私がそういった手前、指導をすることになり、若い仲間を集めて毎月一回のレッスンが始まりました。二年前の秋のことです。指導は今も続いています。その後に玉ひでの公演が始まり、何人か、そこに出演できるようにしました。

 若い人は、出番を与えれば、すぐに舞台センスを身に着けて、手慣れてきます。私は舞台脇で見て、要所要所をアドバイスする程度ですが、一年前から見ると見違えるようにうまくなりました。要はそこまで入れ込んで指導する先輩がいるかどうかということなんでしょう。

 さて、ザッキーさんはこの修業期間にプロになるべく活動をしていましたが、そこへ大きな障害がやってきました。コロナです。コロナによって芸能の仕事が激減しました。今思えば、あの時私がプロになることを一年止めたのは正解だったと思います。いきなりプロ活動をしていたら、たちまちコロナにつぶされて、しかも、会社を辞めて無収入になっていたでしょう。

 プロの道は焦る必要はありません。徐々に周囲から持ち上げられて、技量を認められてからでも十分間に合うのです。大切なことは実力を身に着けることです。と言うわけで、ザッキーさんと奇しき縁でこうして深夜まで話をすることになりました。

 

 さて、昨日の朝(29日)は、ブログを書こうと朝6時半に起きたのですが、パソコンが朝から起動しにくく動きません。あれこれしているうちに、富士に指導に行く時間になってしまいました。そのまま東京駅から新幹線に、富士で半日指導をして、新幹線で戻り、中華屋さんで食事をして、夜8時半に帰宅をしました。

 何にしても家の中が工事現場なために、食事も落ち着いてできません。そのため外食をして戻ったわけです。すると、女房も、娘も、デパートの弁当を買って来て食事をしています。その弁当が随分豪華です。女性の好みそうな、おかずが奇麗にたくさん並んでいて、ご飯が炊き込みご飯になっています。

 しかも、女房と娘の弁当の種類が違います。互いがおかずを分け合って楽しそうに話をしながら食べています。私は一人仲間外れです。

 家の中はまだ工事中でしたが、風呂場の湯舟が新品のものに変えられていました。朝から大工事だったようです。

 さて、ブログを書こうと、パソコンを開けたら大変です。私のブログを期待しているお仲間が400人も覗きに来ていました。そうです。今日は何も書いていなかったのです。失礼しました。と言うわけで今ここにブログを書きました。今日は本当はブログは休みですが、昨日分として書きました。

続く

流れの変化

流れの変化

 

 さて、今日(28日)恐らく、緊急事態宣言が延長されることになるでしょう。これで、緊急事態宣言は更に三週間延長されることになります。

 困りました。ほとんどの芸能人は舞台活動がずっと止まったままです。多くの若いマジシャンはマジシャンとして生きて行くことを諦めています。出演のチャンスがないのですからそれも当然のことです。

 私もそうした人たちに何か勇気づけられる活動は出来ないか、といろいろ工夫して自主公演を催したりしていますが、私の出来ることなど小さなことばかりです。とても多くの人を食べさせて行くことなど出来ません。

 

 思えば時代の変わり目には大きな変化が来ます。令和になった途端の令和2年からいきなりコロナ騒動が始まったのは象徴的な出来事でした。

 31年前は、平成元年からバブルが弾け、世間の会社が倒産しだして、平成5年には大不況がやって来ました。これまで経験したことのないような不況が、平成10年近くまで続いたのです。今ではその時代を失われた10年とか、20年とか言いますが、別段何もかも失ったわけではありません。浮かれたバブルの時代から、日本人は反省をし、自分を見つめなおす時代が来たのです。実際、平成5年から10年くらいまでは芸能は、不況で、仕事が少なくてみんな困りましたが、そうした中にも活路はありました。

 バブルの時代には大きく派手なイリュージョンショウがもてはやされましたが、平成に入ると、超魔術が流行し、それに少し遅れてクロースアップマジックが流行り出しました。まるで恐竜時代が終わった後に、恐竜がトカゲや鳥に変化して生きて行ったようなものです。サイズの仕切り直しをしたのです。

 同時に、日本人が、自分自身を見直すことに価値を見出して行った時代でもありました。歌舞伎や、能、狂言、落語と言った古典の芸能が急激に観客動員を伸ばし始めました。

 能などは、それまで年に数回、愛好家のために公演していたものが、急に世間に認知されて、重要が伸びて、薪能(たきぎのう)と言う、奇妙な形式の能が日本各地で開催されるようになります。能は昔から昼に演じられていたものが、わざわざ薪を焚いて、夜に演じるようになります。それが幽玄でいい。とお客様が喜び、神社の敷地内で入場料を取って行う能が流行し始めました。

 日本人が歌舞伎や、能に入場料を支払って見に行く時代が訪れたのです。落語も同様でした、一時期、寄席の観客が減少し、落語は低迷を続けました。落語家自身が「もう落語自体、世の中に認められることはないのではないか」、などと寂しそうに語っていた時代がありました。それがなぜか急に寄席に人が足を運び始めます。平成はそんな風に古典に回帰した時代でした。

 当然手妻もにわかに忙しくなりました。そんな時期に私は、イリュージョンから手妻に仕事を転換したわけですから、仕事は順調に伸びて行きました。この時、着物を着て手妻をすればいい仕事にありつけるのではと考えて、和妻、手妻に走った人がいました。とりあえず着物を買ってきて、傘を出せば仕事になると考えたようですが、恐らくそう恵まれた仕事は手に入れられなかったのではないかと思います。

 この時代の日本人が求めた和は、和風ではなく、和テイストでもなく、本物の和の文化だったのです。日本人は、着物を着て傘を出す芸能を求めていたわけではなく、和の本質は何なのかを語ってくれる芸能を求めていたのです。

 当然のごとく、和の文化がわかって、手妻の研究していた人でなければいい仕事を手に入れることはできませんでした。着物を着て傘さえ出せばと言う思い込みで和の手順を作っても、うまく行かなかったと思います。

 

 さて、私とすれば何とか、和の文化を理解してくれるお客様が増えて、そうしたお客様を相手にこのまま人生の晩年まで逃げ切れるかと考えていた矢先のコロナでした。世の中はそう甘いものではありません。時代が変わると、次の時代には決まって、未熟な部分を指摘されます。特に今回のコロナ禍では、徹底的に叩かれました。

 ここで世の中の人が何を求めているのかが読み切れなければ、生き残れません。結局幾つになっても原点に引き戻されて、いかに生きるべきかを問われます。特に今回のコロナ禍の試練は芸能そのものが存続できるかどうかの選択を迫られています。これほど厳しい時代が来るとは予想も出来ませんでした。

 思えば、平成の末から令和にかけての10年は、盤石な安定感を持って活動していた業種が、急激に不安定な立場に変わって行く時代だったように見えます。

 デパートはネット販売に押されて売り上げを下げています。テレビは、インターネットに押されて視聴率を下げています。新聞も同様にネットに押されて、発行部数を下げています。自動車も、今は最高売り上げを達成していますが、この先は不安です。なぜならみんな自動車を買わなくなっています。

 日本自体が、この50年間、なぜ豊かに生きて行けたのかと言えば、自動車が売れたからです。自動車は裾野の大きな産業で、自動車一台が売れると言うことは、エンジンが売れ、ラジエーターが売れ、クラッチ、ブレーキなどの機械部品が売れ、ヘッドライトが売れ、ラジオが売れ、クーラーが売れ、ナビが売れ、様々な電気器具が売れます。タイヤが売れ、ガラスが売れ。応接セットが売れます。

 製造業のあらゆる産業が、一台の自動車に乗っかって売れまくったのです。日本人は自動車に着目して、自動車業界が世界の信頼を勝ち取ったことで、多くの日本人が生きて来れたのです。

 戦前の日本の産業は、絹や繊維産業が主流でした。繊維製品を除くと、おもちゃだとか、マッチだとか、大した産業はなかったのです。戦後になって造船が栄え、同時に電気製品の、トランジスターラジオや、テレビが売れました。

 然し、何といっても自動車が売れたことが日本を大きくしたのです。世間のみんなが欲しがるようなもので、一つ100万円以上もする品物は他にはないのです。それがコンピュータの台頭で、これまでの価値観がどんどん変わって行きました。

          

 起業家は、自動車やコンピューターに代わる、一つ100万円以上出してもみんなが欲しがるような機械を探して血眼になっています。でも今の日本人の若い人たちは、自動車を欲しがりません、コンピューターもそこそこのもので満足しています。服にも小物にもブランドを求めなくなっています。みんな地味な生活に馴染んでいるのです。

 その人たちから100万円を引き出せる品物があるでしょうか。どうも物はどんどん価値を下げています。物には限界が見えています。ここらで発想の切り替えが必要なのでしょう。100万円の物ではなく、別の価値観を考える必要があると思います。そのことについてはまた明日お話ししましょう。

続く