手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

銭湯に行く

銭湯に行く

 

 昨日(26日)、何十年ぶりかで銭湯に行きました。なぜ銭湯に出かけたのかについては少し説明が必要です。10日ほど前から、家の改装で、台所、風呂場、洗面所と言った、水回りのすべてを改装する工事が始まりました。

 今住んでいる家が31年を過ぎて、水回りがすべて傷んで来たのです。それでも私が見た限りでは、まだ暮らしにくいと言うほどではないのですが、女房は昨年からすでに改装をする気持ち満々で、システムキッチンのショウルームを見て歩いています。

 私とすれば、コロナ禍の中で、舞台の依頼が激減していて資金にゆとりがないので、もう一、二年待ってから改築したほうがいいのではと言ったのですが、女房は聞き入れません。水回りの改築と言うのは、小さな家が一軒建つほどの費用が掛かります。一体私の家のどこに、そんな費用があるのでしょうか。日頃、私の収入から細かにへそくっていたのでしょうか。

 いずれにしましても、一昨年、30年の家のローンが終わって、やれやれと思っていたすぐ後で改築です。世の中上手くできています。ローンが終わるのを見越して、物が壊れるのです。私の関与しないところで大工さんがやってきて、女房と話をして、どんどん改築がされて行きました。

 10日ほど前から、職人が入ってきて、キッチンの撤去が始まりました。私の家は三階にキッチンも、風呂場もあります。キッチンの流し台は大きくて、階段から降ろすことが出来ません。そこで、いくつかに分解して階段から降ろしたようです。翌日には新しいキッチンがやってきました。これは分割できません。やむなく窓の外から吊って入れました。大工事です。キッチンが入ると、壁を直し、ダクトや、配管を直し、連日職人が入ります。

 この間、キッチンに収まっていた、食器や、調理器具が居間に所狭しと並びました。居間だけでは足らずに、二階の応接間にまで並びました。足の踏み場もありません。それでいて、水やガスは使えませんから、食事は、電熱プレートや携帯ガスコンロを使い煮炊きをします。食器を洗うのは風呂場です。食事はなんとかできても、キッチンと同様に洗面所が使えません。風呂場で全て済ませます。顔を洗うのも歯磨きをするのも風呂場ですることになります。これが思いのほか不便です。

 そうして一週間。ようやく大きく豪華なシステムキッチンが完成しました。キッチンは水道もガスもつながりました。女房は大喜びです。外に出ている食器類は追々片付くとは思いますが、今のところ放置されたままです。部屋が混乱状態で、次の風呂場と洗面所の改築です。

 洗面所は取り外し、風呂桶は切断して、小さくして階段から降ろしました。来週に風呂場のユニットが入り、そのあとに壁や風呂場の天井の工事をします。キッチンが出来たことで、食事は平常に戻りましたが、今週は風呂に入れません。そこで銭湯に出かけたわけです。何とも不便な毎日です。

 

 さて、銭湯は何十年ぶりでしょうか。私が30年前に高円寺に引っ越して来たころは、家のすぐ近くに銭湯がありました。それが数年のうちに廃業してしまいました。今どきは学生の生活するアパートでも風呂場がついています。銭湯もやって行けないのでしょう。

 高円寺の純情商店街と並列して庚申(こうしん)通り商店街と言う通りがあり、その中ほどに小杉湯と言う銭湯があります。今回始めて行く銭湯です。こここの建物はなかなか豪壮な造りで、昔通りの入母屋造りの屋根で、屋根下の中央に鯉が泳いでいる彫り物があって、その下の欄間には富士山が彫り込まれているという凝った建築物です。戦前の作りでしょうか。中には昔ながらに木札の下駄箱があり、番台で男湯女湯と別れています。中に入って脱衣所を見ると、天井は格天井でこれも立派な造りです。

 私は子供の頃の印象が強かったのか、子供の頃に行った銭湯の脱衣所はもっと広かったように思いましたが、今見ると、そう広いとも思えません。部屋の中の人は流し場の人も合わせると優に40人近くいます。

 銭湯は不況だと言いますがどうしてどうして、高円寺では大盛況です。私がやってきたのは夕方6時30分。確かに混む時間ではありますが、これほど多くの人が利用しているとは思いませんでした。

 多くは高齢者で、子供はいませんでした。かつて風呂屋は子供の遊び場でした。学生が少しいます。特に目立ったのはインド系やネパール系(多分そうだと思います)の人たちです。こうした人たちを銭湯で見ることはかつてなかったことです。

 流しにコルゲンコーワの黄色い風呂桶があります。昔と変わ江いません。湯舟は四つに仕切られていて、牛乳風呂や泡風呂、熱い風呂、ぬるい風呂などあります。泡ぶろに入ってみます。背中から、足元から激しく泡が吹き上げて来て、マッサージになります。これはとても具合が良いと感心しました。

 隣の高齢者が同じようにマッサージの泡ぶろに浸かっています。私と目が合った時にニッコリされましたので、私もにっこり表情を返しました。その老人は頭髪がほとんどなく、なんとも年寄り顔をしています、ここで何気に声をかけようかと思いましたが、よくよく気を付けなければいけません。

 以前に老人と話をしていて、「お爺さんはお幾つですか」。と尋ねたら「60です」。と言われたことがあります。私よりも五つも若かったのです。私よりも若い人を捕まえて「お爺さん」は失礼です。頭が禿げているからと言って、年寄りと見るのは間違いです。考えて見たなら私も若くはないのです。どうも人の年取ったのは目につきますが、自分の年取ったのには気づきません。うっかりしたことも言えず黙ってしまいました。

 さて風呂屋を出て、「帰りに駅前の立ち飲み屋で一杯やろうか」。と歩いていると、商店街の魚屋できびなごの刺身を売っています。これは珍しい、鹿児島ならわかりますが、高円寺できびなごの刺身とは。きびなごは小さな魚で背中が銀色をしてキラキラ輝いています。一匹ずつさばいて、骨を取るのはとても手間仕事です。「よしこれを買って家で呑もう」。刺身を買い、缶ビールを二本買い、家で娘と飲もうと素直に帰りました。

 帰ると、娘は残業で遅くなるそうで、やむなく一人で呑み始めました。然し、風呂上がりにきびなごで一杯飲めて幸せな一日でした。

続く

古民家リノベーション 3

  古民家リノベーション  3 

 

  古民家を考える上で、畳座敷と言うのは最も重要な部屋になります。私の借りていた古民家は、群馬では五っ十(ごっと)の家と言い、代表的な農家の作りをしていました。五っ十とは、横幅十間(18m)、奥行き五間(9m)の家で、かなり大きな作りです。玄関は家の真ん中にあり、家は南に広く開け放たれて作られています。

 玄関を上がると、南向きに八畳の座敷があり、その奥に、六畳の座敷があります。さらに西側、左手にも同様な八畳の座敷があり、その奥に六畳の座敷があります。二つの八畳は、南の廊下でつながっています。これが代表的な田の字作りの座敷です。

 ちなみに、真ん中の八畳の右隣は、板の間になっていて、囲炉裏があり、奥には台所があります。囲炉裏のある板の間の右側は、土間です。南側からは土足で入れて、板の間、台所を抜けて、裏口につながっています。

 その土間の右側、東の端は物置の部屋があったり、かつて牛を飼っていた部屋があります。総体に、東側は家族の生活の場であり、西の端の八畳間は客間になります。田の字つくりは、現代の、リノベーションする人たちには敬遠されがちで、どんどんフローリングされ、リビングに作り変えられています。

 日本家屋の問題点を挙げるなら、襖一枚で仕切られていて、プライバシーが守られないことです。鍵のかかる部屋がないのです。それゆえに、一部を壁で仕切った部屋に作り替えるのは致し方ないと思います。但しこれは現代人が考える問題点で、昔の人は少しも問題とは考えなかったのです。

 正月や、お盆の時期に親せきが大勢集まるときなどは、田の字の襖をすべて取り払い、大きな座敷にして使っていたわけです。また、夏の暑い時期は、同様に襖を取り払って、代わりに御簾(みす)を吊ったり、簾戸(すど)または御簾戸(みすど)と言う、細竹を横に並べた造りの、向う側が透けて見える戸を部屋の仕切りに使っていました。

 御簾も御簾戸もかなり贅沢なものですが、続きの和室のある家なら、是非夏場は御簾戸を取り付けてほしいと思います。御簾や、御簾戸を付けると、日本の座敷のすばらしさが良くわかります。無論すべて透けて見えてしまうのですから、プライバシーなどありませんが、家全体が夏場の装いになることの美しさを堪能できます。四室の和室がすべて御簾戸になると、日本の家屋と言うのは、南方のアジアの家と同じだと言うことがよくわかります。

 

 さて、一番西にある八畳間には床の間や違い棚がこしらえてあります。高級な家によっては南向きに書院(作り付けの机)が作られている場合もあります。この家の中で最も費用のかかっている部屋です。床の間や床柱は、明らかに他の木とは違う高級な木を使用しています。多くは、黒柿や、桑の木と言った、一本の柱だけで数十万円もするような高価な木を使います。

 床の間には花瓶を飾ったり、掛け軸を掛けたりします。ほとんど唯一と言っていいほどに日常から離れて、文化を感じさせるスペースです。

 我々は普段床の間を見て、どこにでもある、ごく普通の暮らしだと思いがちですが、ごく一般的な農家ですら、床の間があって、花瓶や掛け軸がかかっていると言うのは相当に高度な文化を有した国民なのです。

 実は、世界を見渡しても、多くの国では庶民は生活に追われて、搾取されるばかりで、花瓶や書を愛でる文化など育たなかったのです。それが出来た人は支配者階級であって、村や町で唯一、ほんの一握りの人たちだったのです。

 床の間や違い棚に、生活に関係のない宝物を飾っておける生活と言うのは、日本以外の庶民には手の届かない生活だったのです。

 ぜひ、古民家に住んだなら、床の間や違い棚を生かした暮らしをしてみて下さい。ただ、残念ながら、リノベーションのビデオを見ていると、床の間はどんどん壊されて、クローゼットに作り替えられたりしています。「あぁ、なんと勿体ない」。文化の象徴が壊されて行きます。床柱は破材として捨てられて行きます。「その木は黒柿だよ」。と叫びたくなります。

 壊す前に、どういう理由で床の間や違い棚が作られているか、もう一度考えて見てほしいと思います。

 

 西奥の八畳間は客間だと言いました。通常主(あるじ)は、床の間を背にして座ります。お客様はその向かいに座ります。八畳間の西奥に主が座り、お客様は部屋の中央から50㎝くらい東に座ることになります。この位置が重要です。

 実は、ここにお客様が座ると言うことを想定して、部屋の床の間も、違い棚も、庭の造作も、すべてお客様のために作られているのです。この位置を「お正客(おしょうきゃく)の位置」、と言います。一番大切なお客様の座る位置です。

 試しに、そこに座ってみてください。正座をして、部屋を眺めてみると、床の間に飾った掛け軸も、花瓶も、違い棚も、書院も、なぜこの高さに棚があるのかがよくわかります。すべてお客様の目の高さに合わせてあるのです。

 まずお客様は、床の間に目が行きます。掛け軸を見て主の趣味を知ります。その下にある花瓶には季節の花が活けられています。右には違い棚があり。棚の下の段には香炉などの小物があり、上の段には玉手箱のような宝物があります。順にお客様の目の位置を計算して物が並んでいます。

 左を見ると、漆で塗られた机があり、小窓があって、凝った造りの障子が入っています。書院です。ここまで作られているなら完璧な客間です。

 庭を見ると、遠くに山や松並木が見えたりします。実は家を建てるときに、お正客の座る位置を想定して、家の配置や客間の位置を決めます。客間から外の景色がどう見えるかがとても大切だったのです。山も松並木も、景色を壊さないように、障子のガラスの部分から景色がすっぽり収まるように、お正客の目の位置を計算してガラスを嵌めます。外の景色を絵画の構図と考えるわけです。また、障子を開け放ったときに、その風景がそっくり広がって見えるような配慮をします。

 手前の庭には池などあって、その奥に石灯篭を置きますが、灯篭はお正客の正面に来るように設置します。石灯篭の明かりを灯す穴は当然お正客の目の高さです。昔なら実際、灯篭に蝋燭を立てて、外から障子紙を張って、庭の明かりに使ったのです。お客様の来る時間を見計らって、蝋燭一本お客様のために灯したわけです。江戸時代、蝋燭はとても高価だったので、蝋燭一本の明かりは、最大のもてなしだったのです。

 すべては人の目からどう見えるかを計算して家を建てたわけです。それを勝手に畳を剥がして、フローリングにして、床の間を壊して、応接セットを置いてしまっては、すべての計算が狂ってしまいます。

 何のために古民家に住むのか、それは日本文化の奥を知るためではないのですか。壊す前に日本人の心の優しさを知った上で、古民家に暮らしてほしいと思います。

続く

 

 

 

古民家リノベーション 2

古民家リノベーション 2 

 

 古民家の基本的なつくりをお話ししましょう。多くの古民家は、高い屋根を持ち、屋根と天井の間には広い空間があります。現代ならそこに二階を作るところですが、それをしません。これは夏の強い日差しを部屋に直接持ち込まないように、天井裏に緩衝地を設け空気を十分冷やし、少しずつ部屋に空気を降ろしていたわけです。

 床下もそれと同じで、大概の古民家は、地面から少なくとも30㎝は高くして床を張っています。これは主に湿気を防ぐためのもので、床下は四方が抜けていて風通しが良くなっています。まだエアコンのなかった時代は、とにかく暑い夏を何とか凌がなければなりませんでした。そのため、天上の上を高くして暑さをしのぎ、床下を風通し良くして湿気を防いだのです。

 畳は中に藁床が出来ていて、藁はたくさんの湿気を吸い、乾燥した日には湿気を吐き出して周囲の温度を下げています。空気調整によって、夏場は涼しく、冬場は暖かくしています。畳は裸足で触れると夏はひんやりしていて、冬は暖かです。

 壁も同様で、壁は大概土壁を使っていますが、土は、湿気を吸います。湿度の高い日は湿気を吸い、乾燥した暑い日には吸い取った湿気を吐き出して、室内の温度を下げていたのです。これは襖や障子も同じで、紙は湿気を吸い、保湿して、部屋が乾燥すると湿気を吐き出します。この作用によって、室内の温度を保っていたのです。

 古民家の多くは、南側を広く開放し、しかも長い縁側を設けています。屋根の庇(ひさし)は大きく長く、たっぷり縁側の先まで軒が張り出しています。これも夏の日差しを遮るためのもので、直接外の熱気が入らないようにしてあります。日本の民家はすべて夏の暑い日差しを避けるために考えられています。逆に寒い冬は、襖で部屋を囲い、火鉢や、囲炉裏で暖を取りました。然し、今日の感覚では火鉢では暖にならないでしょう。やはり寒いです。昔の人は日が暮れると食事を済ませ、さっさと布団に入って寝てしまったのでしょう。

 話を戻して、夏には庇の先に簾(すだれ)を吊るしますが、この簾は優れた働きをします。軒先の簾から、部屋の障子までの間の空間の温度を簾が守ります。すなわち、天井裏と同じく、空気の緩衝地を作っているのです。守られた空気は軒下で温度を下げ、外から吹いてくる風も、約半分は簾で遮り、こぼれたそよ風が、部屋の中に入ってきたときに、温度の下がった軒下の空気を一緒に部屋に送り込むことで外気との温度差の違う空気を運んできます。

 実際大きな屋根の古民家に座っていると、真夏の猛暑の時でも随分外気と温度が違います。お寺の本堂などで座っていると、真夏でもひんやりします。長い庇。大きな天井裏と言った緩衝地が室内の温度を下げているわけです。ビルの窓から直に入ってくる風とは随分違います。

 

 古民家を愛して、そこに住もうとするなら、昔の人の工夫を理解してほしいと思います。この先、いつまでも電機や石油が使い放題という時代が続くわけはありません。近い将来昔に戻って、わずかな工夫をして生きて行くような時代が必ず来るでしょう。その時のために、過去の知恵を知っていなければなりません。

 ところが残念ながら、youtubeで、古民家のリノベーションをしている人の改築の様子を見ていると、昔の人の工夫を破壊しているものを多く見ます。

 先ず、多くの場合、畳を剥がして、ベニヤ板を敷き、床を張ってフローリングをしてしまいます。確かに、多くの古民家は、田の字式に四つの畳の部屋がつながってあります。現代で四室すべてが畳と言うのは使いにくいと思います。然し四室をフローリングにするのではなく、せめて二室をフローリングにして、あと二室は畳を残したらいいと思います。

 まず、古民家を改築するのに、ベニヤと壁紙は駄目です。特にベニヤは。薄い板を接着剤で張り合わせて作ってあります。あれを湿気の多い日本の建築に使うと、5年か10年の内にはみんな接着が剥げて、のしイカのような薄い板になってパリパリほつれてしまいます。安い家具の背板などもそうです。一枚板なら何十年でも壊れませんが、安い家具は背板が波打ってきたり、板自体が剥がれてきます。ベニヤは日本の建築には適さないのです。

 フローリングは見た目もきれいですが、古民家の冬場は寒く、床下から冷気が上がってきます。西洋の家なら床に靴を履いて生活しますので、寒さは感じないと思いますが、靴下で冬の古民家の床を歩いていると寒さが応えます。後になって畳のありがたさがわかるでしょう。

 更に、天井を取り外してしまって、天井を高くして、建物の梁などが直接見えるように作る家が頻繁に出て来ますが、確かに大胆で見栄えの良い家にはなりますが、それをすると、夏は蒸し暑く、冬は空間が広くなり、光熱費が余計にかかって、いくら暖炉で火を焚いても少しも温まらない結果になります。天井板と言うのは必需品なのです。

 

 ビニール製の壁紙も同じです。土壁にベニヤを張って、その上にビニール製の壁紙を張れば、見た目は奇麗に安く仕上がりますが、ビニールは湿気を吸わないため、水滴が付着して壁紙のつなぎ目から接着剤が剝げてきます。そこに水が溜まって、カビが生えます。そうなると壁紙が剥がれて来たり、つなぎ目の色が変わって行きます。せっかく奇麗に直しても5年10年で汚れてきます。

 アパートなら、エアコンもあるでしょうから、ベニヤも壁紙もそうすぐには劣化しないでしょうが、古民家ですとたちまち劣化が始まります。自然に土壁が湿気を吸い取っていたのとはわけが違ってくるのです。

 古民家に住むなら、古民家の何が優れているかを知っていなければなりません。建物だけ古いつくりで、中をアパートのように作り変えてしまっても、何のために古民家で暮らすのかの意味がなくなってしまいます。単に不便ばかりを手に入れて暮らしているように見えます。

 こうした人たちの生き方を見ていると、和妻を演じるマジシャンが、吊しの着物を浅草あたりで買ってきて、闇雲に傘を出している人の手順を思い出します。伝統を受け継ぎたいなら、伝統の仕組みを知ることから始めたらよいのに、そこを無視して、好き勝手に和妻を演じても、そうした演技に支持者は現れないでしょう。

 趣味でしているなら何も言うことはありませんが、食べて行くことはできないでしょう。なぜ売れないかと考えたなら、売れない理由は明らかなのです。古民家のリノベーションも、和妻と同じです。明日はもう少し詳しく和の生活について書いてみたいと思います。

続く

 

 

古民家リノベーション

古民家リノベーション

 

 最近、youtubeで、自分たちで古民家をリノベーションして、そこに住むと言う人たちが増えています。実際に古民家を改修したり改築している過程を画像で撮って出している人も結構います。

 もう誰も住まなくなったようなぼろぼろの古民家を、ただ同然で買い取って、それを直して住むと言うのは、安価で家が手に入る上、自由にリノベーション出来ますから、一見面白そうではあります。しかも、限界集落のような、人が住まなくなった集落に若い人が移住するのであれば、地元の市町村にとっては、住人を増やすにはもってこいの企画で、願ったりかなったりだと思います。

 

 私は十数年前から、群馬の猿ヶ京にある古民家を借りて、季節ごとにの出かけてはそこでマジックの合宿をしていました。これが日常生活に変化をもたらす意味で、とても面白く、本当ならば毎月でも泊りに行きたいところですが、様々な理由で毎月は出かけられません。

 当初、借りた家は江戸時代の末期に建てられた古民家で、囲炉裏(いろり)に火を起こし、そこで鍋を炊き、みんなで囲炉裏を囲んで食事をすると言う生活をしていました。ところが、その古民家を町が使いたいと言うので、私は近くに移ることになりました。

 移った先は、元芸者の置屋(おきや)で、かつて、温泉町である猿ヶ京にはたくさんの芸者がいました。その芸者が、各ホテルの宴会場に行く前に、置屋に集合して、踊りや、三味線の稽古をして、衣装を着替え、それから各ホテルに出かけていた場所です。

 然し、それも昭和の時代とともに終わりました、今では猿ヶ京温泉の宿泊客で、芸者を上げて宴会する旦那もいなくなってしまいました。芸者がいなくなって久しく置屋は空き家となりました。そこを私がそっくり借り受けろことになりました。

 何よりいい点は、二階に幅、四間半(8m)ほどもある舞台があることです。大きな舞台が魅力です。ここを使わないかと言われたときは私は自身の強運を疑いました。勿論すぐさま置屋を借りることにしました。

 建物は昭和40年くらいの作りで、既に50数年経っていますが、まだ壊れた個所はありません。宴会が最も華やかだった時代に建てられたのでしょう。外壁はモルタルで、歴史的な建物ではありません。前に借りていた藁屋根の家からすれば、面白みのない家ではあります。でも、みんなで二階の宴会場に寝起きして、そこの舞台で稽古できるのは楽しい経験です。

 

 古民家に暮らすと言うのは、全く別の生活が出来て楽しい生活です。然し、もし私のブログをお読みの方で、古民家を購入して、家の改築を考えておられる方がいらっしゃったら、僭越ですが、いくつかのことをアドバイスいたします。ついつい初めに買うときは、いいことばかりを考えてしまいますが、広い敷地の大きな家を持つと言うことはいろいろ大変なことがあります。まず改築に関することのみお話しします。

 

膨大な費用

 改築をどんなふうにするかによってかかる費用が変わります。屋根が藁や萱葺(かやぶき)だったとすると、それは大変に費用がかかります。およそ30年に一回萱を吹き替えなければなりません。その萱が昔ならどこにでも自生していたでしょうが、今ではよほどの田舎でも萱を見ることがありません。萱葺職人も日本に何人と言う状況です。

 さらに、萱葺作業は多くの村人の協力が必要です。然し限界集落では手伝ってくれる地元の人もほとんどいない状況です。実際、それがために、限界集落にある萱葺の家は荒れるに任せて放置されているのです。

 そうなら、屋根をそっくり取り換えよう。となるとまたまた大きな費用が必要です。大きな家の屋根は面積も大きく、簡単に屋根の張替えなどできません。先ず屋根の状況を見て、雨漏りがするようなら、それは相当に修理費用が掛かることを覚悟しなければいけません。

 

 同様に床です。むしろ手をかけるとすると、床にこそ費用が掛かるでしょう。床は畳をはがし、床板をはがすと。骨組みの根太(ねだ)が見えてきます。これが、150年も経った家だと大かたは白アリに食われて、木がスカスカになっています。そんな家は、畳の上を歩くとなんとなく、少し沈み込む場所があります。それがあったら要注意です。家はほぼ腐っています。根太から柱から取り替えないと、家は十年もしないうちに傾きます。これを手掛けるとするとほぼ全面改装になります。屋根と同様、300万から500万円くらいの費用が掛かります。

 

 壁、壁は古い家は土をこねて、竹製のすのこに塗りたくって、柱と柱の間に立てつけています。今この仕事をする職人が殆どいません。左官屋さんの仕事ですが、今では左官の仕事が変わってしまっています。寺院建築の専門家を呼ばなければ修復が出来ないのです。古民家は、どこもかしこも土壁が壊れている場合がほとんどです。柱と壁に隙間が出来ています。放っておけば冬場に隙間風が吹いて、室内がものすごく寒くなります。

 つまり、屋根も床も壁も、元の状態に戻すとなると軽く見積もっても一千万円くらいかかります。古民家をただ同然で手に入れたとしても、快適に住めるように直すにはとんでもなく費用が掛かるのです。

 そのため長年住んでいた老人が、家を手放して、施設に入る際に、改修費が出せないため、ただ同然で家を手放すことになります。今、日本中で古民家が投げ売りされているのはこうした理由からです。

 

 さて、そうした家を若い人が買い取って、自分の好みで改築をするのは自由なのですが、その改築の仕方が目を覆いたくなるようなことをしています。柱にペンキを塗ったり、土壁を壊して、コンパネ(ベニヤ板)を張り、上から壁紙を張ったり、床もコンパネを張って、その上にビニールの床に似せたクッションフロアを張ったりしています。新建材を使うことはやむを得ないとしても、もう少し何とかやる方法があるだろうと思いますが、せっかく百五十年続いた古民家が台無しになって行きます。

 その姿を見ることは、ちょうど、手妻を知らない人が手妻を演じ、着物を着てひたすら傘を出す姿と重なって見えます。それが古典の芸かと言えば、古典であるはずがなく、当人が何がしたいのかすらわかりません。せめて和の芸をするなら、最低の知識を学んでから手妻をすればいいものを、結局好き勝手に演じて、伝統を無視しています。そうして一体何がしたいのか、首をかしげてしまいます。来週は、古民家に暮らすことは何がいいのか、その辺を詳しくお話ししましょう。

続く

 

明日はブログはお休みします。

 

コロナの耐乏生活

コロナの耐乏生活

 

 いよいよ政府は緊急事態宣言をさらに延長して、6月いっぱいまで伸ばしそうな気配です。これがどんな結果になるかは後でお話ししますが、これまで何とか耐えてきた飲食店などは、壊滅的な打撃を受けて、次々倒産することになりそうです。

 オリンピックまでに劇的に感染者を減らしたいと考えるなら、法律を改正して、日本全体でロックダウンをする以外解決法はないと思います。但しその際、しっかりとした国民へに保証をしなければなりません。

 国民への生活保証をせず、国民の善意だけを当てにして、自粛要請ばかり求め続けるのは得策ではありません。明らかに今の状態は国民に無理を押し付けています、それでいて、コロナの感染防止にも役立っていません。いくら緊急事態宣言を延長しても、今の感染者が半分以下になることは難しいと思います。なぜなら、国民は自粛にうんざりしているからです。

 昨日(5月22日)に沖縄県が、緊急事態宣言に加えてもらいたいと政府に要請しました。この申し出は受け入れられるでしょう。これで、沖縄県も8時以降の外出自粛や、飲食店の時間短縮になります。沖縄という島の中での自粛ですから、島民は逃げ場がありません。きっとストレスが溜まって別のところにはけ口が移るだろうと思われます。

 店で呑めなければ仲間同士で集まって密かに酒盛りをすることになるでしょう。そうなれば、衛生管理していた店で飲むのでなく、管理のゆるい仲間同士で呑むのですから、一層感染を増やす結果になるでしょう。

 

 マジックの世界でも、トリットさんが全国チェーンで手品屋さんと言う、マジックショウを見せる飲食店を展開していますが、コロナ禍で店の運営が難しくなり、次々に休業をしましたが、沖縄店だけがこれまで営業ができ、しかもお客様の入りも良かったようです。この話は、伝々さんが実際、沖縄店で三か月出演していて、随分賑わっていた話を聞きました。

 トリットさんは、いわば最後の牙城である沖縄店に移って営業をしていたようですが、緊急自粛でこの先が心配です。

 

 二年前の年末までは、誰もコロナのことなど考えもしないで、大量に押しかけてくるアジアの観光客相手に飲食店や観光地は大賑わいでした。旅行会社も、ホテルも、飛行機会社も、新幹線も、飲食店もどこもかしこも活況を呈していたのです。無論芸能に携わる者も多くの仕事を持って活動を続けていました。

 つい最近まで、民泊と言う言葉が流行り、古民家などを買い取って、おしゃれに直して、海外の人を宿泊させる設備などをしきりに作っていました。テレビでも盛んに民泊の施設を特集していました。それが今や民泊の人気はがた落ちで、きれいに直した古民家があちこちで売りに出されています。

 私などは、一昨年の年末に、大阪で長期の仕事が決まりそうだったので、もしこの仕事が決まったなら、私も弟子もスタッフ数名も、大阪に長期滞在しなければなりません。そうなると、ホテル泊まりでは経費が掛かりすぎますので、民泊の町家を一軒丸ごと年間契約して、そこでスタッフが生活をして行くことを考え、大阪市内のあちこちの町家を物色していたさ中でした。

 ところが昨年、年明け早々にコロナが広がり、二月になるとあっという間に感染者を増やしました。結果呆気なくイベントの企画は消え失せました。その時はショックでした。但し、今になって思えば、何ら初期投資をしないうちに、企画が消えたことは幸いだったと言えます。

 これが大きな装置を発注してしまったり、スタッフを募集して、人を雇ってしまっていたり、民泊に年間契約を結んでしまっていたなら、補償などで大きな赤字を背負ったことになります。私とすれば、不幸中の幸いでした。

 世の中には、民泊のオーナーのように、きっと儲かるだろうと予測して不動産を買い、改築をして、いざ宣伝をかけようとした矢先にコロナにやられた人も少なからずあったと思います。オーナーは大損害を被ったでしょう。

 それがわずか一年半前のことです。さて、飲食店などはこの先どうなるでしょうか。私は、小さな飲食店を経営しているオーナーは、今が見切り時ではないかと思います。宅配などでうまくいっている店は良いとしても、毎月お客様が来なくて、家賃ばかりがかさんでいては、辛抱する意味がないのではないかと思います。建物のオーナーが、「今、店子がいなくなったら次が埋まらないから、只でもいいからしばらく使ってくれ」。と言うなら、借りっぱなしにしておいてもいいでしょう。

 そうでもない限り、家賃を支払って、従業員の人件費を支払って、維持する理由はありません。しかも、政府の政策が一貫しないで、自粛を求めておいて、ここへ来てさらなる自粛を求めて来て、何ら保証もなく平然としている状況では、自己資金を取り崩して頑張っていても、それは報われない結果になるでしょう。

 「見切り千両」と言う言葉があります。ここでやめたら大赤字だと言うときでも、その時見切ったことが、結果として、千両の損失を免れる。と言う意味です。千両とは今日の価格で三億円です。赤字が500万円1千万円と嵩(かさ)んでも、大局的に見て、その程度のうちに見切りをつけて、一旦撤退するのは、千両の赤字を被(こうむ)らない手段だと言う話です。昔はこれを見切り千両と言って、賢い選択だと考えたのです。

 苦労して頑張っているオーナーに申し上げるのは酷ですが、今無駄に家賃や人件費を支払うなら、一度店をたたんで、時期が良くなってから、新規の開店資金に回したほうがよっぽど建設的な金の使い方だと思います。

 私の見たところ、医師会も、都も、政府も、やっていることはめちゃくちゃです。この人たちの言うことを聞いていては、国民みんな無一文になってしまいます。それはマジシャンも同じです。マジシャンの多くは、個人営業ですから、自分だけ食べて行けたなら何とか生きては行けますが、少しでも人を使ったり大きく仕事をしているところではもう限界に来ています。

 さりとて、何もせずにじっとしていていいと言うものではありませんし、何か活動することで活路を見出さなければならないと誰もが思っているでしょうが、私がこの一年半を見ていても、個々の努力をことごとく、政府や都がつぶしています。これでは何とか工夫をして生きて行こうと言う人が出なくなってしまいます。

 さて、私は悩んでいます。コロナの解決までおよそ半年、それから人が安心して生活できるまでがまた半年。その上で、海外のお客様が来るようになって、それからイベントがぼちぼち発生するまで半年。早く見積もっても丸一年半。それまでどういった活動をしていったらいいものか。

 私は、9月4日にはマジックマイスターをします。10月25日には私のリサイタル公演をします。やるべきことは私の責任で致しますが、個人のマジシャンの活動には限界があります。願わくば政府が私の活動に妨げにならないようによろしくお願いする次第です。

続く

昭和の東京 3

昭和の東京 3

 

 私が子供の頃に住んでいた町は東京大田区の池上でした。銀座や新宿のような繁華な町ではありません。静かな住宅街でした。池上もはずれの一ノ蔵と言う地域の、大きな家の一角に家を借りて暮らしていました。

 ガスは通っていましたが、水は井戸でした。さすがに釣瓶で汲み上げるような仕組みではなく、手動式のポンプで汲み上げていましたが、それでも朝に一日に必要な水を汲み上げて、甕に水を貯めていました、毎朝の仕事でしたが、これは主婦にとってかなりの重労働です。

 私の祖母の家は池上の中心に住んでいましたが、そこも共同の井戸でした、周囲7,8件の家が共同で、一つの井戸を使っていました。井戸の周りで近所の主婦が盥を持って集まって、よく洗濯をしていました。井戸端会議と言う言葉がありますが、幼かった私には言葉の意味は説明されなくてもすぐわかりました。毎日祖母が近所の主婦と和気あいあいと洗濯をしながら世間話をしていたのです。

 水を汲むと言う何でもない作業が、私の子供のころまでは大変な作業でした。風呂は近所の銭湯に出かけていましたが、田舎では直風呂を使います、風呂のある家は贅沢かと言えば、決して贅沢ではなく、自宅の風呂桶に水を張る仕事がとんでもなく重労働です。

 風呂に入ると言うのは、大仕事で、毎日は無理でした。事前に薪を割っておかなければなりませんし、水汲みが半端な量ではありません。せいぜい3日、4日に一遍、時に一週間に一遍が精一杯だったのです。

 井戸水は冷たいため、汲んだ水をすぐに風呂桶に入れると温まるまで時間がかかりますから、日中は、庭にたくさん桶や盥を並べ、そこに水を張って、天日で水を温めておきます。それを夕方風呂桶に移して、薪で風呂を焚きます。蒔割りから水汲みから、家族総出で仕事をして、ようやく風呂に入れたのです。

 そうした人たちが、年に一度、熱海や、湯河原の温泉に行って、ご馳走を食べて、風呂に入ると言うことが、どれほど有り難い体験だったかは言うまでもありません。現代の我々が、温泉に行って遊ぶことと、昭和30年代までの日本人が温泉に行くこととは全く別物の感動だったのです。

 

 と、私の話は長くなりましたが、水芸の水が吹き上がるのを見たときの、現代のお客様の感動と、江戸時代のお客様の感度は全く別物だったはずです。今のお客様なら、奇麗だ、不思議だと言って、見た様を感じるでしょうが。

  江戸時代、いや、つい60年前までは、水は汲んで来るもの、汲んだ水は担いで運んで来るものだったわけで、手妻師のほんのわずかな手先の呪(まじな)いで、水がシューっと吹き上がる手妻は、種仕掛けを問う以前に、理屈を飛び越えて、人々の憧れだったのです。

 「あんな風に、呪い一つでいとも簡単に水を出せたら、毎日の仕事がどれほど楽だろう」。と、水芸を見て多くの人は思ったことでしょう。つまり当時の手妻は、多くの人が「こうあってほしい」。と言う夢や憧れを実現して見せていたのです。しかもその憧れが生活に密着した労働からの解放だったわけですから、舞台に対する思いは、今では考えられないほどの大きな感動につながったのだと思います。

 江戸の柳川一蝶斎の水芸は、大きな桶に水を張り、明かりの付いた吊り灯篭を舞台の天井に吊るしてあり、紐を緩めて、桶の中に灯篭を沈め、しばらくして灯篭を上げてみると蝋燭が灯ったままと言う手妻(吊り灯籠)を演じ、そのあとで、桶の水に半紙を浸すとそこから炎が上がる(水中発火)。を演じました。

 そのあとで、桶の水を扇子で仰いでいると徐々に水の真ん中から水が吹き上がってきます。水は上がったり、下がったり、止まったりしますが、水芸はこれでお終いです。一筋の水が吹き上がると言うだけのもので、江戸時代の水芸は実に地味なものでした。

 

 現代の水芸の要となる演技は、一番初めに瓢箪から湯飲みに水を移し、湯呑を扇で煽いで一筋水を立ち昇らせるところです。これは一蝶斎以来の伝統的な水芸です。その後たくさんの場所から水が出ますが、先ず初めの一本が奇麗に吹き上がることが水芸の価値を決定します。

 次に重要なのが、途中の綾取りの段で、湯呑から吹き上がる水を、扇子で掬い取る段です。水を掬い取ると言う動作は、実際には不可能で、吹き上がる水に扇子をかざせば、扇子から上の水は消えてしまうはずです。それが扇子を突き抜けて吹き上がり、しかもそれを掬い取っても水が扇子の先から吹き上がったままと言うのは矛盾した演技です。

 然し、実際見ると矛盾でも何でもなく、実に美しいハンドリングです。この水の掬い取りは、明治初年の中村一登久(いっとく)が考え出した方法です。実はこの方法が生まれたために、水芸はこの後、100年生き延びることが出来たのです。

 一登久は湯呑から掬い取った水を、刀の中心に移しました。すると水は刀のの中心から吹き上がります。刀の中心から水が出ると言う装置は、一登久以前からあったのです。然し、湯呑の水と刀の水は何の関連性もなかったのです。

 水は、湯呑と刀の他にも、花瓶や、煙草盆に置いた煙管(きせる)の雁首(がんくび)から水が上がったりしました。然し、いくら水の出る箇所を増やしても、それらの水は何ら関連性がなかったのです。一登久以前の水芸は、あちこちから一通り水を出してしまうと他にすることがなく、そこでお終いになったのです。

 ところが、一登久は、扇子で水を掬う動作を考え、掬った水を他に移す動作を加えました。こうしたことであちこちから出る水が太夫の意思で有機的につながりました。そして水芸に手順が生まれました。更に一登久は、これを囃子に乗せて、振りを考えました。こうして水が出たり消えたり移ったりを囃子に乗せて、まるで舞踊を見るような演技を作り上げたのです。

 これが完成したのが明治13年ごろ。ここから水芸は飛躍的に発展し、派手で豪華な演技になって行ったのです。折から日本中に大きな劇場が出来て行き、手妻も劇場進出して行きます。芸能がより大きく派手な演出を求められるようになり、その流れに乗った一登久は大成功をします。

続く