手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

どう残す。どう生かす 3

どう残す。どう生かす 3

 

 蒸籠(せいろう)

 蒸籠とは、饅頭や、茶わん蒸しをふかすときに使う、木枠です。四面が枠(わく)になっていて、底板は簾(すだれ)が敷いてあり、簾の上に饅頭を乗せて。鍋の上に乗せ、鍋の中の水を沸騰させて、湯気で饅頭をふかします。何も私がここで蒸籠の説明をする必要はないのですが、あの木枠を用いて、中から品物が出てくる手妻を考案したのです。

 時代は、元禄を過ぎた頃でしょうか。1700年くらいから蒸籠が見られるようになりました。それまで取り出し手妻と言えば、緒小桶(をごけ)と呼ばれる二本筒で、部屋に置く屑籠のような、小さな桶を二つ、入れ子にして、交互に改めて品物を出しました。西洋にもある二本筒のマジックがそれです。

 然し、蒸籠が出来ると、道具が簡易で、しかも中を完全に改められる蒸籠のほうが不思議であったらしく、をごけは次第に演じられることがなくなって行きます。をごけは、これはこれで面白い手妻なのですが、それを復活させた話はまたあとでお話ししましょう。

 

 蒸籠は古くは組み上げ蒸籠などと言って伝授本に紹介されています。四枚の板を舞台の上で、はめ込んで箱をこしらえます。実際の蒸籠もそのように組み込んで作ってありますので、単純に板を組んで蒸籠を作って見せたのでしょう。そうして作り上げた蒸籠に、底板(簾ではなく平らな板です)を当てて、中から古裂(こぎれ)や、人形など様々な品物を出したのです。

 実際にこのやり方で演技をすると、箱を作るまでが時間がかかり、その間がダレ場になってしまいますので、今、組み上げ蒸籠をする人はいません。箱はできた状態で始まります。但し蒸籠は、仕掛けの場所が狭く、殆ど品物を出せません。そのため、始めにシルクを3,4枚出した後、それをテーブルにおいて、あとでシルクを掴み取って来るときに、人形や、くす玉などを一緒に持ってきて、蒸籠に入れます。

 たくさん品物を出そうとすれば、何度も掴み取りをして来なければならず。結果として同じハンドリングを繰り返すことになります。古典芸の限界がそこにあります。西洋マジックでいうスチールの手段が限られているのです。

 手妻の世界では、昔は、外から入ってくる人は限られていて、弟子か、子供に一子相伝で扱い方を教えていたため、古いやり方を改めることをせずに、これが昔からのやり方だと、殆ど原作のまま残されて来たのです。昭和の40年くらいまでは、こうした蒸籠を演じる人がたくさんいました。

 然し、西洋奇術が氾濫するようになると、手妻のネタどりは如何せん欠点が目立ちます。演者の都合で演技が展開され、不思議さが感じられないものが多々出て来ます。

 蒸籠の原案では、テーブルに預けた3枚のハンカチを品物と一緒に持ってくるまではいいのですが、ハンカチと品物を蒸籠の中に入れ、そのあとで、ハンカチだけ再度摘んで、また元のテーブルに戻してしまいます。これでは一体何の用事でハンカチを蒸籠に戻したのかがわかりません。

 ハンカチは蒸籠の中に残しておくとそのあと取り出すくす玉や、人形の邪魔になるため戻したのでしょうが、ハンカチを持ってきた意味が不明です。こうした手順が200年以上続けられて来たゆえに、手妻は矛盾に満ちています。

 理屈に合わないことは継承せずに、話がすっきり通るように直さなければいけません。

 

 そこで私は蒸籠の改良を始めました。蒸籠には四面の板があるのですから、その板を一面だけ使うのではなく、四面始めから取り出し物を仕込んでおけばほとんどつかみ取りの必要はなくなります。更に底板にも取り出し物を仕込んでおけば品物の出る量は飛躍的に増大します。但しそのためには品物を入れておいても飛び出さないようなストッパーの考案が必要です。いろいろ工夫してそれを作り上げました。

 そこで出来たのが、「五宝蒸籠」でした。五宝と言うのは、五種類の宝物が出る蒸籠と言う意味ですが、同時に、五か所に仕掛けが隠してある蒸籠と言う意味もあります。この蒸籠一つで、テーブル上はいっぱいに品物が飾られて、しかも反物から傘出しまで続けると、舞台一面、傘や花や人形でいっぱいになります。初めに小さな黒い箱が一つあっただけなのに、お終いは舞台一面華やかに飾り付けて終わります。

 今どきプロダクションマジック(物が出てくるマジック)は、昔ほどマジック関係者の間では評価されずらくなっていますが、物が出てくることの喜びは根源的なもので、多くの人の心の奥にはこれを喜ぶ気持ちがあります。

 関係者なら出てくるところがわかっているため、それをレベルが低いと言って否定しがちですが、それは間違いです。プロダクションマジックは、多くの人が想像している手妻のイメージを具現していると思います。

 しかも、ただ単に物を出すのでなく、ハンカチの扱いなどのわずかな所作の中にも古い手が残っていて、独特の雰囲気を作っています。これは文化として残さなければいけません。要は、古いハンドリングは尊重し、不思議でない部分は不思議を加味して、作り直せばいいのです。

 

 私は、手妻のアレンジをしていていつも思うのですが、アレンジをする人に最も求められていることは、芸能に対する愛情なのだと思います。愛情なくして、古典を見ていると、何もかもが未熟に思えます。実際未熟な部分も多々あるのです。

 然しだからと言って、駄目だ、つまらないと言ってしまうとその時点で古典はつぶれてしまいます。ちょうど赤ん坊や子供を育てるときにように、未熟は未熟として認めても、そこに愛情を注いでゆとりを持って見守ってやると、本来持っている素晴らしい素材が生き生きとしてきます。

 駄目から始めるのではなく、長い歴史の奥底にある先人の工夫をいかにして引っ張り上げやるか。その気持ちがなければ古典は生きないのです。

 私の師匠などが蒸籠を演じていたときには、30㎝のシルクが数枚出たり消えたりしていました。今時のアマチュアでさえ、45㎝程度のシルクを使うでしょう。プロなら60㎝を使うはずです。然し、昭和40年代までの奇術師は30㎝だったのです。今見たら木箱から30㎝のシルクが出たところで冴えない現象です。

 然し、当時の奇術師としては精いっぱいの投資だったのでしょう。然しそのシルクの扱いはなかなかきれいでした。昔の手妻は素朴で地味なものでしたが、それはそれでなかなか味わい深いものでした。今思い出すとなぜか涙がこぼれます。

続く

 

どう残す。どう生かす 2

どう残す。どう生かす 2

 タイトルの「どう残す。どう生かす」。は私が講演するときのテーマです。私が長く続けて来た手妻の活動は、「いかにして残すか」。を目的にしているわけではありません。仮に手妻がこの先に残ったとしても、博物館や、資料館に道具だけ残されて、ガラスケースの中に展示されているのでは、芸能としての手妻は死滅したも同じなのです。

 ちょうど昆虫が、虫ピンで手足を刺されて、品種別に飾られているのと同じで、そこにあるのは死んだ昆虫にすぎません。芸能も同じです。生き生きとした状態でお客様に見てもらえないのでは芸能ではないのです。つまり芸能は「どう残すか」ではなく、「どう生かすか」が大切なのです。

 どう生かすかの「生かす」方法は、手段は一つではありません。ただ単に私が手妻を演じていれば、それで残ると言うものではありません。古いから、古典だからと言って、みんなが大切にしてくれて、熱心に見てくれるものではありません。

 ほとんどのお客様にとって、手妻が残ろうが消えようが、そんなことはどうでもいいことで、何とか手妻が残るように助けてあげようとする奇特な人はほぼ皆無です。私が50年以上かけて活動してきたことは、世間から見たならどうでもいいことなのです。

 それを価値あるものにするのが私の仕事です。そのため、昔の手妻を残しつつ、わずかなマイナーチェンジを加えたり、手順を変えたり、時に新たに種仕掛けを加えたり、作り直したりして、作品をより明確に、見ていて面白いものにすることが大切なのです。

 しかも、出来上がった作品が、私のアレンジで手妻が何倍も面白いものになり、お客様が喜んでくださって、まるで二百年、三百年前からそのやり方でやっていたかのごとく、作品の邪魔をせずに、古さになじんで、効果をあげていたなら。私の務めは成功したことになります。話が長くなりましたが、作品のアレンジの話を続けましょう。

 

二つ引き出し

 上下に引き出しのある小箱は、手妻の世界では「夫婦(めおと)引き出し」と、呼びますが、これは帰天斎の流派の呼び方です。この手の引き出しは、指物(家具製作者)の世界では本来、「二つ引き出し」と、呼びます。

 私の一門では、従来の夫婦引き出しと区別して、手提げの付いた引き出しを二つ引き出しと呼んでいます。

 私が30代の末に、夫婦引き出しをアレンジしているときに、既に構想の中に二つ引き出しのアイディアが浮かんでいました。すぐにでも製作に入りたかったのですが、矢継ぎ早に新規製作をしていては費用がかかりすぎます。なかなか夫婦引き出しと、二つ引き出しを同時に製作はかかれませんでした。

 何しろ、夫婦引き出しと二つ引き出しでは根本の仕掛けが違います。実際にバルサ板で見本を作り、思考錯誤を繰り返してみると、何とかできるようになりました。下に入れた玉が消えて、二階の引き出しから出て来ます。

 昨日私が、二つの引き出しがありながら、上の引き出しを一切使わないのはおかしい。と言ったことは、そのまま私の疑問だったのです。それを、からくりを大幅改良することで作り直して見たわけです。

 作品に疑問を抱くことは誰でもすることと思いますが、そうならどう改良するかという段になると、なかなか良い考えは出て来ません。多くの人は結局諦めて、昔の型で演じてしまいます。それを疑問の隅々まで考え抜いて答えを出すことは苦労の連続です。その頃の私は何かに取り憑かれたかのように夢中になって改良を続けていました。

 更に、二つ引き出しには手提げを付けることを思いつきました。手提げを付けることで直接箱を手で持ちません。演者は手提げを手に持っているだけで、全く箱に触れない状態で玉を出したり消したりします。これは実際不可能です。

 発想は更に発展し、直接道具に手を触れないことを強調するために、玉を持つときも、煙管で玉を掬い取って示すように工夫してみました。マジックに使う、マジックウォンドを発展させて、煙管で玉を持ったら面白いだろうと考えました。なぜ煙管なのかと言えば、手提げの小箱が煙草盆に似ていたからです。

 そこで、煙管の雁首を少し大きく作り直して、小さな盃(さかづき)を乗せたような形状のものを作り、玉の出す消すを手で持たずに、煙管の先で取り、雁首に玉を乗せることで示せるように工夫しました。こんなやり方は古典にはなかったことです。

 然し、いかにも手妻の世界にはありそうな振りを考えて見ました。こうしたハンドリングをこしらえたときに、内心「これで引き出しは百年先まで残せたぞ」と密かに確信しました。

 先ず煙管の先に玉が乗るような細工と言うものはどこにもありません。そのため、飾り職人に銀細工で作ってもらいました。たった一つの雁首を作るのですから、とても費用がかかります。然し、値段などどうでもいいのです。

 小箱は、漆を塗り、金蒔絵を施して作りました。その道具に、白く輝いた煙管の上に赤玉を乗せて、見得や振りを付けると、まるで江戸時代の手妻師がそこにいるかのようで、とても個性ある世界が生まれました。これです。こうした世界を作り出して見せたかったのです。種仕掛けだけでなく、たたずまいが人の心を掴むのです。それが古典芸能を生かすことになります。私が思い描いていた通りのものが出来ました。

 煙管を使った引き出しはどこで演じても評判が良く、効果絶大でした。煙管を使うと、本来、引き出しの演技は、小さな現象であるにもかかわらず、1000人の舞台で見ても玉の出た、消えた、が良くわかります。また、鈍く光る銀煙管が高級感を出して、独特の世界を作り出します。44歳で作り上げたこの作品は私のヒット作になりました。

 実は、大樹や、前田も密かに銀煙管を使った二つ引き出しに憧れていたらしく、一昨年は大樹が二つ引き出しを作りました。もう既にあちこちの舞台で演じています。また、前田も、昨年、文化庁から道具製作のための支援金をもらい、二つ引き出しを作りました。自分で作るとなると、数十万円もかかる装置ですので、国の支援は有り難いと思います。

 前田にとっては、この道に入ったらぜひやりたかった手妻の一つであったらしく、念願の道具を手に入れたことになります。前田も年内には二つ引き出しをすることになるでしょう。贅沢な話です。

 但し、二つ引き出しは、一般には出していません。アマチュアさんに出すと、そこから情報が洩れて、これを真似て商品化する人が出ますので、私の一門が所有するのみです。

 私とすれば。若い人が、大金を投じても真似たい。作りたい。と思うような作品が出来たことを幸せに思います。「あげる」と言っても欲しがらないような古い道具がある中で、なんとしても手に入れたいと思う作品があることは、手妻の世界を大きく、価値を引き上げたことになります。そうした作品を残せたことに自負しています。

続く 

どう残す。どう生かす 1

どう残す。どう生かす 1

 

 30代になってからの私は、それまでスライハンドやイリュージョンを演じていたものを、手妻中心に仕事を変えて行きました。それはバブルが弾けて大きな仕事が一本もかかってこなくなったからです。

 但し、手妻や水芸の仕事は来ました。それはほかに演じるマジシャンがいなかったため、ほぼ独占だったのです。年間20本程度でしたが、必ず水芸か手妻の仕事の依頼があったのです。

 つまり20本と言う数は、最も底堅い手妻の支持者と言うことになります。そうなら私はこれを基盤に自分の生活を考えてゆけば生きていけるわけです。しかしバブル期に年間120本以上イリュージョンで活動していたものが、いきなり20本で生きて行けるかと言えばそれは無理でした。

 しかも水芸は売値が高く、おいそれと仕事が決まるものではありません。日頃はほぼ開店休業の状況で、ポツンポツンと来る水芸だけを頼りに生きているのでは、あまりに消極的です。やがてはその20本も消えて行くでしょう。

 

 毎日時間は有り余るほどあります。これを生かさない手はありません。そこで、かねてからやってみたかった手妻のアレンジや創作を徹底的に行いました。

 手妻は不思議で、美しく、面白いものがたくさんあるのですが、それを演じて、仕事として行くとなると、問題は山ほどありました。長い歴史があると言えば響きはいいのですが、長い間に垢がこびりついてしまい、お客様にも、演じるマジシャンにも、興味がわかないようなカビの生えたような作品が多かったのです。

 そこで手妻の改良を始めました。ここからの5年間は、手妻を現代に甦らせるための仕事です。私自身はとても充実した日々でした。

 とは言え、毎日毎日アトリエに閉じこもって地味な道具つくりや、稽古ばかりをしていました。その上、収入が少ないところへもって来て、弟子の生活の面倒は見なければなりません。手妻の改良には随分費用も掛かりましたので、生きて行くには大変な日々でした。

 とは言え、バブルのころは、漠然と手妻の不自然さを知っていても、どうにかしなければいけないと思っているばかりだったものを、いよいよ真剣に直してゆく作業をしたわけですので。38歳から44歳くらいの人生は中身の濃いものでした。今考えるとこの時の生活の仕方が、今のコロナ禍の生活とよく似ています。

 私が何を改良し、創作して行ったをご紹介して行きましょう。

 

 夫婦引き出し

 この作品は、手妻の中ではきわめて個性的な「仕掛け物」の手妻で、このタネに類するものは海外にはありません。海外に持って行くと、とても面白がられます。然し問題がいくつかあります。

 まず手順が稚劣です。玉を引き出しの中にいれて、すぐに引き出しを出すと玉が消えています。これはとても不思議です。

 消えた玉は懐(ふところ)から出て来ます。これは、不思議でも何でもありません。懐は改めてはいないのですから、初めから玉を懐に入れていたのだとお客様は思うでしょう。事実その通りなのです。この動作が二回、全く同じに繰り返されます。

 その上で、今度は出てきた二つの玉を袖の中に入れます。すると、玉は引き出しに移り、引き出しから二つ出て来ます。袖から引き出しに玉が移ったという現象なのですが、出てくる玉は不思議ですが、袖は本当に消えたかどうか改めをしていませんので、マジックとしては成り立っていません。

 素材はいいのに手順が未熟です。こうしたマジックが今日、仕事として成り立つかどうかと考えると微妙だと思います。少なくとも若い人たちは興味を示さないでしょう。

 そこで、ハンドリングを大きく作り直しました。玉が出たり消えたり、色が変わったりする現象に作り直しました。その過程で、もう一つの大きな改良を加えました。

 それは夫婦引き出しの最大の問題点と言えるもので、夫婦引き出しは、上下二つの引き出しから出来ていますが、玉が出たり消えたりするのは、下の引き出しだけで、上の引き出しは全くマジックの役に立ってはいないのです。下で消えた玉が上に上がってくるなどのハンドリングがないのです。なぜないのかと言うなら、それは引き出しの仕掛けの都合なのです。

 二つ引き出しがありながら、上の引き出しは全く手妻としては使われてはいません。然し、からくりとしては、上に引き出しがあるからこそ、下の玉が出たり消えたりします。これはどうにももどかしい仕掛けです。ここを改良しなければ、引き出しは生き残れません。そこで、私は、消えた玉が上から出てくるように手順を作り直しました。二百数十年の引き出しの手妻の歴史で初めて、上の引き出しから玉を出したわけです。

 さらに、玉の段が終わると、後半の延べ紙の段に変わります。引き出しに水を入れて、水が延べ紙に変化します。この延べ紙から、さらに長い延べ紙を出し、そこから傘が出てお終いとなります。

 実は、前半の玉の段と、水と延べ紙の段はまったくつながりがありません。それは、夫婦引き出しと言う作品が完成した文化文政の時代からの矛盾だったのです。

 元々は、引き出しは、玉の出る、消えると言うからくり箱と、無双引き出しと言う別の取り出し物の仕掛けを無理無理一つの仕掛けに組み込んだものなのです。なぜそんなことをしたのかと考えると、恐らく、玉が出る消えるだけでは地味で、受けが弱かったからでしょう。

 そこで後半に水を使って、延べ紙が出る段を足して、更に傘出しに発展させれば派手な一芸として成り立つと言うことで、二つの現象を合わせて引き出しの演技を作ったのでしょう。

 然しこれだと玉と水の兼ね合いが何も説明されていません。そこでいろいろ考えて、出て来た玉を小さなグラスに入れて、筒をかぶせると、玉が消えて、水になる。と言う作品を考えて見ました。筒はぎりぎりグラスのサイズですから水の入る余地はありません。しかも水が出た後、筒の中を改めても、玉はありません。見るととても不思議な仕掛けです。この作品はゼロから発想しました。「玉水変化の筒」と名付けて、夫婦引き出しと一緒に手順を作ってみました。

 これにより、玉の段と水の段がつながり、夫婦引き出しに整合性が生まれたと考えています。手順も、よりマジック的に不思議を加味しましたので、引き出しが持っていた矛盾はありません。今でもこの手順を演じるセミプロや、私の一門は大勢います。

 

 然しこれを作りつつ、私は、からくりからからくりへの移動の物足りなさを感じていました。できれば正味手先の技だけで不思議が見せられる新しい引き出しが欲しい、と考えるようになりました。これがのちに、手提げが付いて、煙管を加えながら演じる、二つ引き出しに発展して行きます。その話は明日お話ししましょう。

続く

どう残す。どう生かす 1

どう残す。どう生かす 1

 

 30代になってからの私は、それまでスライハンドやイリュージョンを演じていたものを、手妻中心に仕事を変えて行きました。それはバブルが弾けて大きな仕事が一本もかかってこなくなったからです。

 但し、手妻や水芸の仕事は来ました。それはほかに演じるマジシャンがいなかったため、ほぼ独占だったのです。年間20本程度でしたが、必ず水芸か手妻の仕事の依頼があったのです。

 つまり20本と言う数は、最も底堅い手妻の支持者と言うことになります。そうなら私はこれを基盤に自分の生活を考えてゆけば生きていけると知りました。しかしバブル期に年間120本以上イリュージョンで活動していたものが、いきなり20本で生きて行けるかと言えばそれは無理でした。

 しかも水芸は売値が高く、おいそれと仕事が決まるものではありません。日頃はほぼ開店休業の状況で、ポツンポツンと来る水芸だけをしているのでは、あまりに消極的です。やがてはその20本も消えて行くでしょう。

 

 毎日時間は有り余るほどあります。これを生かさない手はありません。そこで、かねてからやってみたかった手妻のアレンジを徹底的に行いました。

 手妻は不思議で、美しく、面白いものがたくさんあるのですが、それを演じて、仕事として行くとなると、問題は山ほどありました。長い歴史があると言えば響きはいいのですが、長い間に垢がこびりついてしまい、お客様にも、演じるマジシャンにも、興味がわかないような作品が多かったのです。

 そこで手妻の改良を始めました。ここからの5年間は、手妻を現代に認知させるための仕事をしました。私自身はとても充実した日々でした。

 とは言え、毎日毎日アトリエに閉じこもって地味な活動をしていましたし、収入が少ないところへもって来て、弟子の生活の面倒は見なければなりませんし、手妻の改良に細かな費用が随分掛かりましたので、生きて行くには大変な日々でした。

 ただし、バブルのころは、漠然と手妻の不自然さをどうにかしなければいけないと考えていたもとを、いよいよ真剣に直してゆく作業をしましたので。38歳から44歳くらいの人生は中身の濃いものでした。

 私が何を直して行ったかいくつかご紹介してゆきましょう。

 

 夫婦引き出し

 この作品は、手妻の中ではきわめて個性的な「仕掛け物」の手妻で、このタネに類するものは海外にはありません。海外に持っていって演じると、とても面白がられます。然し問題がいくつかあります。

 まず手順が稚劣です。玉を引き出しの中にいれて、すぐに引き出しを出すと玉が消えています。これはとても不思議です。

 消えた玉は懐(ふところ)から出て来ます。これは、不思議でも何でもありません。懐は改めてはいないのですから、初めから玉を懐に入れていたのだとお客様は思うでしょう。事実その通りなのです。この動作が二回、全く同じに繰り返されます。

 その上で、今度は出てきた二つの玉を袖の中に入れます。すると、玉は引き出しに移り、引き出しから二つ出て来ます。袖から引き出しに玉が移ったという現象なのですが、出てくる玉は不思議ですが、袖は本当に消えたかどうか改めをしていませんので、マジックとしては成り立っていません。

 こうしたマジックが今日、仕事として成り立つかどうかと考えると微妙だと思います。少なくとも若い人たちは興味を示さないでしょう。

 そこで、ハンドリングを改め、玉が出たり消えたり、色が変わったりする現象に作り直しました。その過程で、もう一つの改良を加えました。

 それは夫婦引き出しの最大の問題点と言えるもので、夫婦引き出しは、上下二つの引き出しから出来ていますが、玉が出たり消えたりするのは、下の引き出しだけで、上の引き出しは改めこそしますが、全く役に立ってはいないのです。下で消えた玉が上に上がってくるなどのハンドリングがありません。なぜないのかと言うなら、それは引き出しの仕掛けの都合なのです。

 二つ引き出しがありながら、上の引き出しは全く手妻としては使われてはいません。然し、からくりとしては、上に引き出しがあるからこそ、下の玉は出たり消えたりします。これはどうにももどかしい仕掛けです。ここを改良しなければ、引き出しは生き残れないでしょう。そこで、私は、消えた玉が上から出てくるように手順を作り直しました。

 二百数十年の引き出しの手妻の歴史で初めて、上の引き出しから玉が出たことになります。さらに、玉の段が終わると、そのあとは、引き出しに水を入れて、水が延べ紙に変化します。この延べ紙から、さらに長い延べ紙を出し、そこから傘が出てお終いとなります。

 実は、前半の玉の段と、水と延べ紙の段はまったくつながりがありません。それは、夫婦引き出しと言う作品が完成した部下文政の時代からの矛盾だったのです。

 元々は、引き出しは、玉の出る、消えると言うからくり箱と、無双引き出しと言う別の仕掛けの引き出しを無理無理一つの仕掛けに組み込んだものなのです。なぜそんなことをしたのかと考えると、恐らく、玉が出る消えるだけでは地味で、受けが弱かったからでしょう。

 そこで後半に水を使って、延べ紙が出る段を足して、更に傘出しに発展させれば派手な一芸として成り立つと言うことで、二つの現象を合わせて引き出しを作ったのでしょう。

 然しこれだと玉と水の兼ね合いが何も説明されていません。そこでいろいろ考えて、出て来た玉を小さなグラスに入れて、筒をかぶせると、玉が消えて、水になる。と言う作品を考えて見ました。筒はぎりぎりグラスのサイズですし、水が出た後、筒の中を改めても、玉はありません。この作品を考えて、「玉水変化の筒」と題して夫婦引き出しに付けて手順を作ってみました。

 これにより、玉の段と水の段がつながり、夫婦引き出しに整合性が生まれたと考えています。手順も、よりマジック的に不思議を加味しましたので、未消化な感じはありません。今でもこの手順を演じるセミプロや、私の一門は大勢います。

 

 然しこれを作りつつ、私はからくりからからくりへの移動ではなく、ショウ見ハンドリングだけで不思議を見せる新しい引き出し後ほしいと考えるようになりました。これが手提げが付いて、煙管を加えながら演じる、二つ引き出しに発展してゆきます。その話は明日お話ししましょう。

続く

差し入れと言わないで

差し入れと言わないで

 

 私のところで修行するとまず、直される言葉は「差し入れ」です。楽屋にお客様がお菓子などを持ってきて下さったときに「差し入れをいただきました」。などと言ってはいけません。「楽屋見舞い(がくやみまい)が届きました」。と言います。

 差し入れと言うのは、刑務所の受刑者を面会に行くときに、家族や、友人が、面会所で、ガラス板の仕切りを挟んで話をします。そのガラス板のところに映画館の券売所のような小さな穴が開いていて、そこから持ってきた品物を受刑者に「差し入れ」るために、これを差し入れと言います。

 なぜかこんな特殊な言葉が普及して、人に土産を持って行く時に、普通に差し入れと言う人がありますが、それは間違いです。古い芸人さんたちは、若手が物知らずないい方をすると「そんなことを言ったら笑われるよ」。と、必ず直させました。私も弟子には注意しています。

 楽屋に物を持って行くときは熨斗紙(のしがみ)に「楽屋見舞い」と書きます。病院の場合は「病気見舞い」、或いは「お見舞い」です。文字の頭に病気と付くことを嫌う人もありますので、あえて病気とは書かない場合が多いのです。選挙のときは「陣中見舞い」です。

 私の楽屋にお菓子など届けてくださるお客様の中に、丁寧に熨斗紙に「差し入れ」と書く人があります。これはもらう側が困ります。まぁ、善意に解釈して「私を見舞ってくださっているんだ」と、判断して、何も言わずにいただきます。

 

 見舞いは、例えば火災のあった家に品物を送るときは「火事見舞い」。と、書きます。水害のあったところには害は書かずに「水見舞い」。と、書きます。「水見舞い」とはいい言葉です。出産祝いも、出るという文字があまりに生々しいので「お産見舞い」。と書くようです。

 何分見舞いとは災難を被った人を勇気づけるために、品物を送るわけですから、熨斗紙に書く言葉は、よくなる方向を示すような文字を使うことが正しいのでしょう。

 

 もう一つ必ず直す言葉は、「黒衣(くろご)」です。黒衣は世間一般ではすでに黒子と書いて「くろこ」と呼んでいます。今や多勢に無勢、衆寡敵せずの状態ですが、それでも私の一門では必ず黒衣(くろご)と呼んでいます。

 黒い着物を着て舞台の上で目立たなく動く、影の仕事をする人を、黒いころも、で黒衣(くろご)です。これをくろこ、とは言いません。ましてや漢字で黒子とは書きません。黒子と書くとほくろと読みます。でも今の時代にほくろを黒子とは書かないし、読めない人が多いため、黒子の文字が死語になっています。そこでくろごを黒子にあてたのでしょうか。

 いずれにしても全く違う意味です。特に私のところでは実際黒衣を使いますので、文字は黒衣と書き、それを必ず「くろご」と発音します。

 発音の際には、くろごの「ご」は鼻濁音で、ngoと発音します。口中で「ご」と言うのではなく、喉の奥からngoと発音します。nはほとんどわからない程度の発音です。これは東京の発音だと思います。

 学校と言うときはgakkoとそのまま発音しますが、gの言葉が単語の途中で出てくる場合は鼻濁音に変化します。例えば、小学校はsyo ngakkoと発音し、鼻濁音が入ります。ご飯はごはんですが、晩御飯の「ご」は鼻濁音です。

 但し、黒子(くろこ=ほんらいはほくろ)は、文字も読みもどんどん浸食してきて、今や黒衣(くろご)は消えつつあります。せめて私のところだけでも残そうと、あまり意味のない抵抗を続けています。

 駒形橋はこまかた橋であって、こまがた橋ではありません。私がこまかた橋と言うと、ご丁寧に「こまがた橋でしょ」、と但す人があります。間違いを正されるなら素直に聞きますが、正しいことを間違った言葉に正されるのは心外です。しかも、こまがたの「が」が鼻濁音になっていません。二重に間違っています。でもこれも、いつか「かた発音」が消えて行き、「がた派」に占領されて行くのでしょう。正義は必ず勝つと言うものではないようです。

 

 先月、富士の指導で、若狭通いの水をしたときに、セリフに中で、「此方の水を彼方の方に、移してごらんに入れます」。と言うのを、私は今まで彼方を「あなた」と発音していたのですが、生徒さんが「かなた」、と発音されて急に自信がなくなり、「あぁ、確かに彼方はかなたと読むから、まぁ、かなたでもいいか」。と、安易にかなたを認めてしまいました。然しそのあと、新幹線の中で、「かなた、かなた」と何度も発音しているうちに、やはりこれはあなただと思い、自宅に帰ってから辞書で調べると、やはりあなたが正解でした。一昨日の富士の指導であなたと訂正しました。

 ドイツのカールブッセの詩で「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」。と言うものがあり、これを三遊亭円歌師匠が授業中という落語で使っていました。若狭通いの水の口上は古い言い回しですので、これはあなたでよいはずです。

 ちなみに若狭通いの水の口上は、「大和の国、奈良は東大寺の二月堂の傍に若狭井という井戸がございます。この井戸は、毎年二月は十と五日、海の潮が満ちる頃、遠く若狭の国よりこの井戸へ、水が通うとございます。いささかこの儀を象(かたど)りまして、此方の水を彼方の方へ、水を移してごらんに入れましょう」。と言うところのあなたです。

 仕掛けは単純ですが、セリフの良さと、御幣(ごへい)などのもっともらしい小道具を使うところが古風で面白いために、最近人気が出てきて、今これを習いたがる人が増えています。一昔前なら、マジシャンはセリフを言うことが不得意で、手妻の口上などは嫌う人が多かったのですが、今は口上が面白いと言う人が増えました。時代が少し変わってきたようです。良い流れになってきたと思います。

続く

 

昔の老人 2

昔の老人 2

 

 さて私の祖父ですが、この人はブリキ職人でした。当時は、店の看板や屋根、雨樋などをブリキで作っていました。今なら既製品があるため、なかなかブリキ屋と言う職業も成り立ちにくいかもしれません。当時はすべて手作りが当たり前でしたから、かなり忙しく仕事をしていました。今ならブリキ屋と言いますが、当時は銅古屋(どうこや)と言いました。

 銅古と言うのは、銅板を使って半田鏝(はんだごて)でものを作る職人のことで、昔の木製の長火鉢の内側に銅板を張ったり、台所の流しを銅板で作ったりしていたのです。但し、流しを銅板で作る家と言うのはかなり裕福な家です。古くは銅板で仕事をしていたものを、その後ブリキが普及するとブリキ板で細工をするようになりました。

 それでもお寺の屋根を全部銅葺にするなんて言う仕事が来ると、最高にいい仕事で、若い衆を数人雇って何か月もかけてやっていました。銅板は切れ端が出るとそれはすべて職人の取り分になり、切れ端が高値で売れて、飲み代になります。お陰でお寺の銅葺仕事は毎晩酒盛りが出来たようです。

 その祖父ですが、私を大変に可愛がってくれました。その可愛がり方は猫っ可愛がりで、小遣いをくれたり、本を買ってくれたり、寿司屋に連れて行ってくれたり、毎日私が喜ぶことを工夫して遊んでくれました。

 然し、なんせ耳が少し遠く、大きな声を出さないと聞こえません。また、酔っぱらうと同じ話を何度も繰り返しました。下の歯は総入れ歯で、よく入れ歯を出して私に見せるのですが、汚らしくてそれを見るのが嫌でした。祖父は私が嫌がるのが面白いらしく、何かと言うと入れ歯を見せました。昔の年寄りはどうしてああも子供の嫌がることをするのでしょうか。

 祖父は小柄で太っていて、その体格は私の親父ががそっくり受け継ぎました。当時の年寄りはみんな小柄でした。祖父は着物にはおしゃれをしたようで、夏物も、浴衣ではなく、絽の着物などを持っていました。絽の着物でどこに行こうとしたのかは知りませんが、なかなか粋な人でした。

 祖父の遺品で紋付の羽織や袴、着物がありましたが、親父は体形が合っているにもかかわらず、一切着物は来ませんでした。そこで、私がもらいましたが、私には全く着られませんでした。

 

 祖父はいつも耳に百円玉か十円玉をはめていて、十円ならそれを小遣いにくれました。そのため私は祖父に会ったときには必ず耳を見る癖がついていました。それから、仕事先でお茶請けに出されるまんじゅうなどは、持って帰れば私が喜ぶことを知っていますから、食べずにチリ紙にくるんで腹巻の中に入れて持って帰ってきます。

 それをすぐに出せばいいものを、私が祖父の帰りを喜ぶ姿を見ながら「何か甘い匂いがしないかな」。などと言って菓子を持っていることを匂わせ「こっちの腹巻の方かな」、などと言って、関係ないほうを探らせて、散々じらしてから出します。子供が真剣にお菓子を探す姿が楽しいのでしょう。

 チリ紙にくるまった大福なら腹巻にしまっても、まだ問題なく食べられますが、たまにショートケーキなどの場合は、チリ紙の中で丸まってしまい、腹巻の中で汗臭い匂いにまみれてしまって不味そうな姿で出て来ます。

 無論、ショートケーキは食べたいのですが、いかんせん、丸まったショートケーキは食欲がわきません。もう少し子供の夢を考えてくれたらどれほど有り難いか、と思いました。こんな他愛もないことで孫と遊ぶのが祖父の喜びだったのです。

 と、こうして話すと、祖父は相当に年寄りに思えますが、あの時幾つだったのかと今考えると、実際には50代の末でした。50代で耳が遠くなり、顔には皴が寄り、酒を飲むと同じ話ばかり繰り返していたのです。それが63歳で亡くなっています。今の私よりもずっと年下だったのです。

 今の私に当時の祖父のしぐさや動作があるかと言うと、全くないように思います。(と、私は思っていますが、実際は年寄り臭いのかもしれません。案外同じ話を何度も家族や弟子にしているのかもしれません)。冷静に考えて、昔の人は老化が早かったと思います。

 祖父と同年齢の職人が訪ねて来て話をしている様子を見ても、やはりものすごい年寄りに見えました。額から頬から皴だらけで、歯は少し出っ歯で、金歯がいくつも並んでいました。今は少なくなりましたが、出っ歯、金歯の人はたくさんいました。

 その祖父の友人は、話をしながら、息を軽く吸い込み、口の両脇から奥歯に送るのが癖でした。息を吸い込むときに小さく「しっ」、と言う音が聞こえました。それが妙な調子がついて個性的な話し方でした。

 「あっしら職人はねぇ(しっ)、学問がありませんのでね(しっ)、体で覚えた仕事がすべてでさぁ(しっ)」。と言った話し方でした。こんな話し方をする人を現代で出会うことは先ずありません。

 ああした年寄りはどこへ行ってしまったのでしょうか。あの話し方、生き方は継承されないのでしょうか。いなくなると妙に寂しいものがあります。今の私よりもずっと若い人が老人臭く生きていたのを思い出すと、自分自身はとんでもなく古い時代を覗いていたんだなぁと、奇妙な気持ちになります。

 祖父は酒飲みで、一度脳溢血で倒れています。家族は祖父が長生きはできないとみんな思っていました。63歳で亡くなったときも、誰も早死にだとは言いませんでした。当時としては平均だったのでしょうか。働くだけ働いて、体が言うことを聞かなくなったら寿命が来た。そんな一生だったように思います。今の私よりもずっと楽しみの少ない人生だったと思います。

続く

 

 明日はブログをお休みします。