手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

どう残す。どう生かす 1

どう残す。どう生かす 1

 

 30代になってからの私は、それまでスライハンドやイリュージョンを演じていたものを、手妻中心に仕事を変えて行きました。それはバブルが弾けて大きな仕事が一本もかかってこなくなったからです。

 但し、手妻や水芸の仕事は来ました。それはほかに演じるマジシャンがいなかったため、ほぼ独占だったのです。年間20本程度でしたが、必ず水芸か手妻の仕事の依頼があったのです。

 つまり20本と言う数は、最も底堅い手妻の支持者と言うことになります。そうなら私はこれを基盤に自分の生活を考えてゆけば生きていけるわけです。しかしバブル期に年間120本以上イリュージョンで活動していたものが、いきなり20本で生きて行けるかと言えばそれは無理でした。

 しかも水芸は売値が高く、おいそれと仕事が決まるものではありません。日頃はほぼ開店休業の状況で、ポツンポツンと来る水芸だけを頼りに生きているのでは、あまりに消極的です。やがてはその20本も消えて行くでしょう。

 

 毎日時間は有り余るほどあります。これを生かさない手はありません。そこで、かねてからやってみたかった手妻のアレンジや創作を徹底的に行いました。

 手妻は不思議で、美しく、面白いものがたくさんあるのですが、それを演じて、仕事として行くとなると、問題は山ほどありました。長い歴史があると言えば響きはいいのですが、長い間に垢がこびりついてしまい、お客様にも、演じるマジシャンにも、興味がわかないようなカビの生えたような作品が多かったのです。

 そこで手妻の改良を始めました。ここからの5年間は、手妻を現代に甦らせるための仕事です。私自身はとても充実した日々でした。

 とは言え、毎日毎日アトリエに閉じこもって地味な道具つくりや、稽古ばかりをしていました。その上、収入が少ないところへもって来て、弟子の生活の面倒は見なければなりません。手妻の改良には随分費用も掛かりましたので、生きて行くには大変な日々でした。

 とは言え、バブルのころは、漠然と手妻の不自然さを知っていても、どうにかしなければいけないと思っているばかりだったものを、いよいよ真剣に直してゆく作業をしたわけですので。38歳から44歳くらいの人生は中身の濃いものでした。今考えるとこの時の生活の仕方が、今のコロナ禍の生活とよく似ています。

 私が何を改良し、創作して行ったをご紹介して行きましょう。

 

 夫婦引き出し

 この作品は、手妻の中ではきわめて個性的な「仕掛け物」の手妻で、このタネに類するものは海外にはありません。海外に持って行くと、とても面白がられます。然し問題がいくつかあります。

 まず手順が稚劣です。玉を引き出しの中にいれて、すぐに引き出しを出すと玉が消えています。これはとても不思議です。

 消えた玉は懐(ふところ)から出て来ます。これは、不思議でも何でもありません。懐は改めてはいないのですから、初めから玉を懐に入れていたのだとお客様は思うでしょう。事実その通りなのです。この動作が二回、全く同じに繰り返されます。

 その上で、今度は出てきた二つの玉を袖の中に入れます。すると、玉は引き出しに移り、引き出しから二つ出て来ます。袖から引き出しに玉が移ったという現象なのですが、出てくる玉は不思議ですが、袖は本当に消えたかどうか改めをしていませんので、マジックとしては成り立っていません。

 素材はいいのに手順が未熟です。こうしたマジックが今日、仕事として成り立つかどうかと考えると微妙だと思います。少なくとも若い人たちは興味を示さないでしょう。

 そこで、ハンドリングを大きく作り直しました。玉が出たり消えたり、色が変わったりする現象に作り直しました。その過程で、もう一つの大きな改良を加えました。

 それは夫婦引き出しの最大の問題点と言えるもので、夫婦引き出しは、上下二つの引き出しから出来ていますが、玉が出たり消えたりするのは、下の引き出しだけで、上の引き出しは全くマジックの役に立ってはいないのです。下で消えた玉が上に上がってくるなどのハンドリングがないのです。なぜないのかと言うなら、それは引き出しの仕掛けの都合なのです。

 二つ引き出しがありながら、上の引き出しは全く手妻としては使われてはいません。然し、からくりとしては、上に引き出しがあるからこそ、下の玉が出たり消えたりします。これはどうにももどかしい仕掛けです。ここを改良しなければ、引き出しは生き残れません。そこで、私は、消えた玉が上から出てくるように手順を作り直しました。二百数十年の引き出しの手妻の歴史で初めて、上の引き出しから玉を出したわけです。

 さらに、玉の段が終わると、後半の延べ紙の段に変わります。引き出しに水を入れて、水が延べ紙に変化します。この延べ紙から、さらに長い延べ紙を出し、そこから傘が出てお終いとなります。

 実は、前半の玉の段と、水と延べ紙の段はまったくつながりがありません。それは、夫婦引き出しと言う作品が完成した文化文政の時代からの矛盾だったのです。

 元々は、引き出しは、玉の出る、消えると言うからくり箱と、無双引き出しと言う別の取り出し物の仕掛けを無理無理一つの仕掛けに組み込んだものなのです。なぜそんなことをしたのかと考えると、恐らく、玉が出る消えるだけでは地味で、受けが弱かったからでしょう。

 そこで後半に水を使って、延べ紙が出る段を足して、更に傘出しに発展させれば派手な一芸として成り立つと言うことで、二つの現象を合わせて引き出しの演技を作ったのでしょう。

 然しこれだと玉と水の兼ね合いが何も説明されていません。そこでいろいろ考えて、出て来た玉を小さなグラスに入れて、筒をかぶせると、玉が消えて、水になる。と言う作品を考えて見ました。筒はぎりぎりグラスのサイズですから水の入る余地はありません。しかも水が出た後、筒の中を改めても、玉はありません。見るととても不思議な仕掛けです。この作品はゼロから発想しました。「玉水変化の筒」と名付けて、夫婦引き出しと一緒に手順を作ってみました。

 これにより、玉の段と水の段がつながり、夫婦引き出しに整合性が生まれたと考えています。手順も、よりマジック的に不思議を加味しましたので、引き出しが持っていた矛盾はありません。今でもこの手順を演じるセミプロや、私の一門は大勢います。

 

 然しこれを作りつつ、私は、からくりからからくりへの移動の物足りなさを感じていました。できれば正味手先の技だけで不思議が見せられる新しい引き出しが欲しい、と考えるようになりました。これがのちに、手提げが付いて、煙管を加えながら演じる、二つ引き出しに発展して行きます。その話は明日お話ししましょう。

続く

どう残す。どう生かす 1

どう残す。どう生かす 1

 

 30代になってからの私は、それまでスライハンドやイリュージョンを演じていたものを、手妻中心に仕事を変えて行きました。それはバブルが弾けて大きな仕事が一本もかかってこなくなったからです。

 但し、手妻や水芸の仕事は来ました。それはほかに演じるマジシャンがいなかったため、ほぼ独占だったのです。年間20本程度でしたが、必ず水芸か手妻の仕事の依頼があったのです。

 つまり20本と言う数は、最も底堅い手妻の支持者と言うことになります。そうなら私はこれを基盤に自分の生活を考えてゆけば生きていけると知りました。しかしバブル期に年間120本以上イリュージョンで活動していたものが、いきなり20本で生きて行けるかと言えばそれは無理でした。

 しかも水芸は売値が高く、おいそれと仕事が決まるものではありません。日頃はほぼ開店休業の状況で、ポツンポツンと来る水芸だけをしているのでは、あまりに消極的です。やがてはその20本も消えて行くでしょう。

 

 毎日時間は有り余るほどあります。これを生かさない手はありません。そこで、かねてからやってみたかった手妻のアレンジを徹底的に行いました。

 手妻は不思議で、美しく、面白いものがたくさんあるのですが、それを演じて、仕事として行くとなると、問題は山ほどありました。長い歴史があると言えば響きはいいのですが、長い間に垢がこびりついてしまい、お客様にも、演じるマジシャンにも、興味がわかないような作品が多かったのです。

 そこで手妻の改良を始めました。ここからの5年間は、手妻を現代に認知させるための仕事をしました。私自身はとても充実した日々でした。

 とは言え、毎日毎日アトリエに閉じこもって地味な活動をしていましたし、収入が少ないところへもって来て、弟子の生活の面倒は見なければなりませんし、手妻の改良に細かな費用が随分掛かりましたので、生きて行くには大変な日々でした。

 ただし、バブルのころは、漠然と手妻の不自然さをどうにかしなければいけないと考えていたもとを、いよいよ真剣に直してゆく作業をしましたので。38歳から44歳くらいの人生は中身の濃いものでした。

 私が何を直して行ったかいくつかご紹介してゆきましょう。

 

 夫婦引き出し

 この作品は、手妻の中ではきわめて個性的な「仕掛け物」の手妻で、このタネに類するものは海外にはありません。海外に持っていって演じると、とても面白がられます。然し問題がいくつかあります。

 まず手順が稚劣です。玉を引き出しの中にいれて、すぐに引き出しを出すと玉が消えています。これはとても不思議です。

 消えた玉は懐(ふところ)から出て来ます。これは、不思議でも何でもありません。懐は改めてはいないのですから、初めから玉を懐に入れていたのだとお客様は思うでしょう。事実その通りなのです。この動作が二回、全く同じに繰り返されます。

 その上で、今度は出てきた二つの玉を袖の中に入れます。すると、玉は引き出しに移り、引き出しから二つ出て来ます。袖から引き出しに玉が移ったという現象なのですが、出てくる玉は不思議ですが、袖は本当に消えたかどうか改めをしていませんので、マジックとしては成り立っていません。

 こうしたマジックが今日、仕事として成り立つかどうかと考えると微妙だと思います。少なくとも若い人たちは興味を示さないでしょう。

 そこで、ハンドリングを改め、玉が出たり消えたり、色が変わったりする現象に作り直しました。その過程で、もう一つの改良を加えました。

 それは夫婦引き出しの最大の問題点と言えるもので、夫婦引き出しは、上下二つの引き出しから出来ていますが、玉が出たり消えたりするのは、下の引き出しだけで、上の引き出しは改めこそしますが、全く役に立ってはいないのです。下で消えた玉が上に上がってくるなどのハンドリングがありません。なぜないのかと言うなら、それは引き出しの仕掛けの都合なのです。

 二つ引き出しがありながら、上の引き出しは全く手妻としては使われてはいません。然し、からくりとしては、上に引き出しがあるからこそ、下の玉は出たり消えたりします。これはどうにももどかしい仕掛けです。ここを改良しなければ、引き出しは生き残れないでしょう。そこで、私は、消えた玉が上から出てくるように手順を作り直しました。

 二百数十年の引き出しの手妻の歴史で初めて、上の引き出しから玉が出たことになります。さらに、玉の段が終わると、そのあとは、引き出しに水を入れて、水が延べ紙に変化します。この延べ紙から、さらに長い延べ紙を出し、そこから傘が出てお終いとなります。

 実は、前半の玉の段と、水と延べ紙の段はまったくつながりがありません。それは、夫婦引き出しと言う作品が完成した部下文政の時代からの矛盾だったのです。

 元々は、引き出しは、玉の出る、消えると言うからくり箱と、無双引き出しと言う別の仕掛けの引き出しを無理無理一つの仕掛けに組み込んだものなのです。なぜそんなことをしたのかと考えると、恐らく、玉が出る消えるだけでは地味で、受けが弱かったからでしょう。

 そこで後半に水を使って、延べ紙が出る段を足して、更に傘出しに発展させれば派手な一芸として成り立つと言うことで、二つの現象を合わせて引き出しを作ったのでしょう。

 然しこれだと玉と水の兼ね合いが何も説明されていません。そこでいろいろ考えて、出て来た玉を小さなグラスに入れて、筒をかぶせると、玉が消えて、水になる。と言う作品を考えて見ました。筒はぎりぎりグラスのサイズですし、水が出た後、筒の中を改めても、玉はありません。この作品を考えて、「玉水変化の筒」と題して夫婦引き出しに付けて手順を作ってみました。

 これにより、玉の段と水の段がつながり、夫婦引き出しに整合性が生まれたと考えています。手順も、よりマジック的に不思議を加味しましたので、未消化な感じはありません。今でもこの手順を演じるセミプロや、私の一門は大勢います。

 

 然しこれを作りつつ、私はからくりからからくりへの移動ではなく、ショウ見ハンドリングだけで不思議を見せる新しい引き出し後ほしいと考えるようになりました。これが手提げが付いて、煙管を加えながら演じる、二つ引き出しに発展してゆきます。その話は明日お話ししましょう。

続く

差し入れと言わないで

差し入れと言わないで

 

 私のところで修行するとまず、直される言葉は「差し入れ」です。楽屋にお客様がお菓子などを持ってきて下さったときに「差し入れをいただきました」。などと言ってはいけません。「楽屋見舞い(がくやみまい)が届きました」。と言います。

 差し入れと言うのは、刑務所の受刑者を面会に行くときに、家族や、友人が、面会所で、ガラス板の仕切りを挟んで話をします。そのガラス板のところに映画館の券売所のような小さな穴が開いていて、そこから持ってきた品物を受刑者に「差し入れ」るために、これを差し入れと言います。

 なぜかこんな特殊な言葉が普及して、人に土産を持って行く時に、普通に差し入れと言う人がありますが、それは間違いです。古い芸人さんたちは、若手が物知らずないい方をすると「そんなことを言ったら笑われるよ」。と、必ず直させました。私も弟子には注意しています。

 楽屋に物を持って行くときは熨斗紙(のしがみ)に「楽屋見舞い」と書きます。病院の場合は「病気見舞い」、或いは「お見舞い」です。文字の頭に病気と付くことを嫌う人もありますので、あえて病気とは書かない場合が多いのです。選挙のときは「陣中見舞い」です。

 私の楽屋にお菓子など届けてくださるお客様の中に、丁寧に熨斗紙に「差し入れ」と書く人があります。これはもらう側が困ります。まぁ、善意に解釈して「私を見舞ってくださっているんだ」と、判断して、何も言わずにいただきます。

 

 見舞いは、例えば火災のあった家に品物を送るときは「火事見舞い」。と、書きます。水害のあったところには害は書かずに「水見舞い」。と、書きます。「水見舞い」とはいい言葉です。出産祝いも、出るという文字があまりに生々しいので「お産見舞い」。と書くようです。

 何分見舞いとは災難を被った人を勇気づけるために、品物を送るわけですから、熨斗紙に書く言葉は、よくなる方向を示すような文字を使うことが正しいのでしょう。

 

 もう一つ必ず直す言葉は、「黒衣(くろご)」です。黒衣は世間一般ではすでに黒子と書いて「くろこ」と呼んでいます。今や多勢に無勢、衆寡敵せずの状態ですが、それでも私の一門では必ず黒衣(くろご)と呼んでいます。

 黒い着物を着て舞台の上で目立たなく動く、影の仕事をする人を、黒いころも、で黒衣(くろご)です。これをくろこ、とは言いません。ましてや漢字で黒子とは書きません。黒子と書くとほくろと読みます。でも今の時代にほくろを黒子とは書かないし、読めない人が多いため、黒子の文字が死語になっています。そこでくろごを黒子にあてたのでしょうか。

 いずれにしても全く違う意味です。特に私のところでは実際黒衣を使いますので、文字は黒衣と書き、それを必ず「くろご」と発音します。

 発音の際には、くろごの「ご」は鼻濁音で、ngoと発音します。口中で「ご」と言うのではなく、喉の奥からngoと発音します。nはほとんどわからない程度の発音です。これは東京の発音だと思います。

 学校と言うときはgakkoとそのまま発音しますが、gの言葉が単語の途中で出てくる場合は鼻濁音に変化します。例えば、小学校はsyo ngakkoと発音し、鼻濁音が入ります。ご飯はごはんですが、晩御飯の「ご」は鼻濁音です。

 但し、黒子(くろこ=ほんらいはほくろ)は、文字も読みもどんどん浸食してきて、今や黒衣(くろご)は消えつつあります。せめて私のところだけでも残そうと、あまり意味のない抵抗を続けています。

 駒形橋はこまかた橋であって、こまがた橋ではありません。私がこまかた橋と言うと、ご丁寧に「こまがた橋でしょ」、と但す人があります。間違いを正されるなら素直に聞きますが、正しいことを間違った言葉に正されるのは心外です。しかも、こまがたの「が」が鼻濁音になっていません。二重に間違っています。でもこれも、いつか「かた発音」が消えて行き、「がた派」に占領されて行くのでしょう。正義は必ず勝つと言うものではないようです。

 

 先月、富士の指導で、若狭通いの水をしたときに、セリフに中で、「此方の水を彼方の方に、移してごらんに入れます」。と言うのを、私は今まで彼方を「あなた」と発音していたのですが、生徒さんが「かなた」、と発音されて急に自信がなくなり、「あぁ、確かに彼方はかなたと読むから、まぁ、かなたでもいいか」。と、安易にかなたを認めてしまいました。然しそのあと、新幹線の中で、「かなた、かなた」と何度も発音しているうちに、やはりこれはあなただと思い、自宅に帰ってから辞書で調べると、やはりあなたが正解でした。一昨日の富士の指導であなたと訂正しました。

 ドイツのカールブッセの詩で「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」。と言うものがあり、これを三遊亭円歌師匠が授業中という落語で使っていました。若狭通いの水の口上は古い言い回しですので、これはあなたでよいはずです。

 ちなみに若狭通いの水の口上は、「大和の国、奈良は東大寺の二月堂の傍に若狭井という井戸がございます。この井戸は、毎年二月は十と五日、海の潮が満ちる頃、遠く若狭の国よりこの井戸へ、水が通うとございます。いささかこの儀を象(かたど)りまして、此方の水を彼方の方へ、水を移してごらんに入れましょう」。と言うところのあなたです。

 仕掛けは単純ですが、セリフの良さと、御幣(ごへい)などのもっともらしい小道具を使うところが古風で面白いために、最近人気が出てきて、今これを習いたがる人が増えています。一昔前なら、マジシャンはセリフを言うことが不得意で、手妻の口上などは嫌う人が多かったのですが、今は口上が面白いと言う人が増えました。時代が少し変わってきたようです。良い流れになってきたと思います。

続く

 

昔の老人 2

昔の老人 2

 

 さて私の祖父ですが、この人はブリキ職人でした。当時は、店の看板や屋根、雨樋などをブリキで作っていました。今なら既製品があるため、なかなかブリキ屋と言う職業も成り立ちにくいかもしれません。当時はすべて手作りが当たり前でしたから、かなり忙しく仕事をしていました。今ならブリキ屋と言いますが、当時は銅古屋(どうこや)と言いました。

 銅古と言うのは、銅板を使って半田鏝(はんだごて)でものを作る職人のことで、昔の木製の長火鉢の内側に銅板を張ったり、台所の流しを銅板で作ったりしていたのです。但し、流しを銅板で作る家と言うのはかなり裕福な家です。古くは銅板で仕事をしていたものを、その後ブリキが普及するとブリキ板で細工をするようになりました。

 それでもお寺の屋根を全部銅葺にするなんて言う仕事が来ると、最高にいい仕事で、若い衆を数人雇って何か月もかけてやっていました。銅板は切れ端が出るとそれはすべて職人の取り分になり、切れ端が高値で売れて、飲み代になります。お陰でお寺の銅葺仕事は毎晩酒盛りが出来たようです。

 その祖父ですが、私を大変に可愛がってくれました。その可愛がり方は猫っ可愛がりで、小遣いをくれたり、本を買ってくれたり、寿司屋に連れて行ってくれたり、毎日私が喜ぶことを工夫して遊んでくれました。

 然し、なんせ耳が少し遠く、大きな声を出さないと聞こえません。また、酔っぱらうと同じ話を何度も繰り返しました。下の歯は総入れ歯で、よく入れ歯を出して私に見せるのですが、汚らしくてそれを見るのが嫌でした。祖父は私が嫌がるのが面白いらしく、何かと言うと入れ歯を見せました。昔の年寄りはどうしてああも子供の嫌がることをするのでしょうか。

 祖父は小柄で太っていて、その体格は私の親父ががそっくり受け継ぎました。当時の年寄りはみんな小柄でした。祖父は着物にはおしゃれをしたようで、夏物も、浴衣ではなく、絽の着物などを持っていました。絽の着物でどこに行こうとしたのかは知りませんが、なかなか粋な人でした。

 祖父の遺品で紋付の羽織や袴、着物がありましたが、親父は体形が合っているにもかかわらず、一切着物は来ませんでした。そこで、私がもらいましたが、私には全く着られませんでした。

 

 祖父はいつも耳に百円玉か十円玉をはめていて、十円ならそれを小遣いにくれました。そのため私は祖父に会ったときには必ず耳を見る癖がついていました。それから、仕事先でお茶請けに出されるまんじゅうなどは、持って帰れば私が喜ぶことを知っていますから、食べずにチリ紙にくるんで腹巻の中に入れて持って帰ってきます。

 それをすぐに出せばいいものを、私が祖父の帰りを喜ぶ姿を見ながら「何か甘い匂いがしないかな」。などと言って菓子を持っていることを匂わせ「こっちの腹巻の方かな」、などと言って、関係ないほうを探らせて、散々じらしてから出します。子供が真剣にお菓子を探す姿が楽しいのでしょう。

 チリ紙にくるまった大福なら腹巻にしまっても、まだ問題なく食べられますが、たまにショートケーキなどの場合は、チリ紙の中で丸まってしまい、腹巻の中で汗臭い匂いにまみれてしまって不味そうな姿で出て来ます。

 無論、ショートケーキは食べたいのですが、いかんせん、丸まったショートケーキは食欲がわきません。もう少し子供の夢を考えてくれたらどれほど有り難いか、と思いました。こんな他愛もないことで孫と遊ぶのが祖父の喜びだったのです。

 と、こうして話すと、祖父は相当に年寄りに思えますが、あの時幾つだったのかと今考えると、実際には50代の末でした。50代で耳が遠くなり、顔には皴が寄り、酒を飲むと同じ話ばかり繰り返していたのです。それが63歳で亡くなっています。今の私よりもずっと年下だったのです。

 今の私に当時の祖父のしぐさや動作があるかと言うと、全くないように思います。(と、私は思っていますが、実際は年寄り臭いのかもしれません。案外同じ話を何度も家族や弟子にしているのかもしれません)。冷静に考えて、昔の人は老化が早かったと思います。

 祖父と同年齢の職人が訪ねて来て話をしている様子を見ても、やはりものすごい年寄りに見えました。額から頬から皴だらけで、歯は少し出っ歯で、金歯がいくつも並んでいました。今は少なくなりましたが、出っ歯、金歯の人はたくさんいました。

 その祖父の友人は、話をしながら、息を軽く吸い込み、口の両脇から奥歯に送るのが癖でした。息を吸い込むときに小さく「しっ」、と言う音が聞こえました。それが妙な調子がついて個性的な話し方でした。

 「あっしら職人はねぇ(しっ)、学問がありませんのでね(しっ)、体で覚えた仕事がすべてでさぁ(しっ)」。と言った話し方でした。こんな話し方をする人を現代で出会うことは先ずありません。

 ああした年寄りはどこへ行ってしまったのでしょうか。あの話し方、生き方は継承されないのでしょうか。いなくなると妙に寂しいものがあります。今の私よりもずっと若い人が老人臭く生きていたのを思い出すと、自分自身はとんでもなく古い時代を覗いていたんだなぁと、奇妙な気持ちになります。

 祖父は酒飲みで、一度脳溢血で倒れています。家族は祖父が長生きはできないとみんな思っていました。63歳で亡くなったときも、誰も早死にだとは言いませんでした。当時としては平均だったのでしょうか。働くだけ働いて、体が言うことを聞かなくなったら寿命が来た。そんな一生だったように思います。今の私よりもずっと楽しみの少ない人生だったと思います。

続く

 

 明日はブログをお休みします。

昔の老人

昔の老人

 

 老人とはそもそもが昔の人ですが、私が子供のころに見た老人と今の老人は随分違う人たちでした。それは話し方も、着ている服も、生活の仕方も、何から何まで子供とは違う人種に見えました。それだけに、子供のころは、年寄りと言う人種がいて、自分はそうした人にはならなものなのだと思い込んでいました。

 私が小学校に入ったのは昭和35年です。東京大田区の池上小学校です。今でも池上と言う町は、日蓮宗の本門寺があって、更にその末寺がたくさん並んでいて、お寺ばかりが目立つ町です。

 そのためか池上は昔も今もほとんど変わりません。閑静な町と言えば聞こえはいいのですが、およそ発展しない町です。そもそも池上線自体が地味で、同じ東急電鉄でも、東横線が華やいで見えるのに、池上線はおよそ話題になりません。

 若い男女が自由が丘で待ち合わせをするドラマはあり得ても、千鳥町や、洗足池で待ち合わせをして池上線に乗ってデートをするドラマを見たことがありません。私が子供の頃に乗った池上線は、どれも戦前に作られた車両で、内部は木製でした。外は鉄板を鋲で止めてあり、見るからに古い作りでした。急行も快速もありませんでした。

 祖父母も同じ池上で暮らしていましたので、幼いころは池上から外に出ることはあまりありませんでした。

 

 そのころ年寄りと言うと、みんな明治生まれでした(昭和35年の頃は昭和生まれの人はみんな若かったのです)。大正生まれでもまだ老人ではありませんでした。

 祖母は毎日着物を着ていましたし、祖父も職人でしたが、仕事から帰ると丹前(たんぜん)を着て、煙管(きせる)で煙草をふかしていました。私の親父ですら、家に帰ると丹前を着ていました。

 私は普段でも着物を着ますが。丹前は着たことがありません。分厚い綿の入った着物で、まるでこたつ布団で着物を作ったような作りでした。色は茶か紺、太い縞柄が多く、子供心に年寄り臭く思いました。

 小津安二郎監督の映画を見ると、当時のお父さんが家に帰るとワイシャツネクタイを脱いで丹前に着かえ、茶の間で新聞を読んでいる姿がよく出て来ます。サザエさんの漫画でも波平さんが来ている着物は丹前ではないかと思います。あの姿は昭和30年40年代までは普通に見る風景だったのです。

 丹前は、角帯のようなしっかりした帯は締めず、兵児帯(へこおび)か、腰ひもで結んで、たった一本の紐で着付けていますので、体は楽だったのでしょう。同様に、褞袍(どてら)と言う着物も聞いたことがあります。

 新国劇のやくざ者の芝居などを見ると、やくざの親分が着物の上に褞袍を羽織って、帯も締めずに、まるで花嫁姿の打掛のようにぞろっと引きずって奥の部屋から出てくる姿があります。昔は部屋の中が寒かったので、ああした綿入れが欠かせなかったのでしょう。然し、袖が大きく、裾を引きずっていますから何も仕事はできません。仕事をしなくてもいい人の衣装だったのでしょう。私は長いこと紐で結ばない、羽織る綿入れを褞袍と言うのかと思っていましたが、丹前も褞袍も同じものだそうです。何にしても丹前も褞袍も昭和40年代には消えたようです。

 丹前は、いわばナイトガウンです。今のガウンよりもずっと暖かく、しかも色柄が斬新です。丹前を復活させて、丹前を着る文化をもう一度見直したら、案外流行るかも知れません。先ず、複雑な帯の結びが必要ありませんし、簡単に脱げて風呂に入ったり、パジャマに着替えることが出来ますから、浴衣よりもはるかに便利です。

 要は、センスのいい柄を選んで、誰か二枚目のスターに着せたなら、きっと流行ると思います。

 

 祖母の着物姿は毎日見ていましたが、今の着物の着付けとはずいぶん違いました。先ず前の合わせ方が今よりずっと浅いのです。今の着物の着付けは言ってみればお姫様に着方です。襦袢の襟と着物の襟を首のすぐ下できっちり合わせて着付けます。きれいに着てはいますが、あれでは前が重なりすぎて足が動かしにくく、歩きにくいでしょう。

 昔の年寄りは、もっと浅く着ていて、襟は帯までざっくり開いていたように記憶します。帯も、ゆるく結んであって、全体が緩かったように思います。なんで私が祖母の着物の着方が浅かったことを覚えているのかと言うと、私は祖母とよく昼寝をしました。その時よく着物に手を入れて、おっぱいを掴んでいたそうです。

 「この子はいつまでも赤ちゃんだよ」。と言って祖母が笑っていたそうです。おっぱいを簡単につかめるのは襟のあわせが浅かった証拠です。祖母の髪形は適当に後ろで縛っていたように思いますが、祖母の仲間はもう少し日本髪らしく結っている人もいたように思います。但し髪結いはもうこの時期にはいなかったと思います。何にしても子供が見ると不思議な髪形でした。

 家事をしているときには、手ぬぐいを頭に巻いて、姉さん被りをしてはたきなどをかけていました。舞踊で姉さん被りを見ると、実に粋な感じがしますが、日常の姿はただ手ぬぐいを巻いただけですから、いいも悪いもありません。

 さらに着物の襟を汚さないように襟に手ぬぐいを折ってかぶせてありました。買い物に行くときには割烹着を上から着て、草履をはいて、買い物かごを片腕にかけて出かけて行きました。

 夕方に池上の商店街に行くと、そんな恰好をした主婦がたくさん歩いていて、通りは割烹着の白一色でした。知人と顔を合わせると、道の真ん中で何十分も世間話をしていました。当時は家に冷蔵庫のある家庭も少なかったので、毎回の買い物をする量はわずかで、卵は一個二個と買っていましたし、豆腐や油揚げは半丁半枚で買う人もいました。味噌汁の具にするだけなら半丁半枚で十分だったのでしょう。庶民の暮らしはつましかったのです。

 夏の浴衣(ゆかた)も、お中元やお歳暮で、もらった手ぬぐいを8枚か9枚集めると、一着浴衣が縫えました。私の親父が、手ぬぐいで縫い合わせた浴衣を漫談のネタにして、「胸のところは、秩父セメント(乳のしゃれ)の手ぬぐいで、お尻のところは東京ガスって染めてあった」。などと言っていました。それが笑いになるくらいだから、手ぬぐいを集めて浴衣を作るのは普通のことだったのでしょう。今そんな浴衣を着る人はいません。

 

 私が近所にお使いに行ったときなどには「お駄賃をあげよう」。と言って小遣いをくれました。お駄賃と言う言葉も今となっては年寄り言葉で、絶えて久しく思います。

 そのお駄賃は大概が十円でした。昭和35年の十円の威力は大したもので、森永のキャラメルも、グリコのおまけつきのキャラメルも、今川焼も十円、池上線の初乗りは子供五円。池上から蒲田まで往復で十円でした。明治製菓の茶色い包装紙の板チョコは二十円か三十円したと思います。子供の憧れでしたが、お駄賃では買えなかったのです。

 私が11歳で初めて舞台に立って、ギャラをもらった時に最初に買ったものは明治の板チョコでした。自分の働きで買えたチョコを一枚全部独りで食べたときは幸せでした。

続く

何とかなるさ

何とかなるさ

 

またも緊急事態宣言か

 さて、政府や自治体は緊急事態宣言を実施しそうな気配です。意味のあることとは思えません。結局、緊急事態宣言を出して、半月、或いは、一か月、人の流れを止めるだけで、解除すればまた感染者は増えます。一時的に感染者の数値を減らすことはできても、感染者を根絶することはできません。結果コロナを長引かせるだけにしかすぎません。

 しかも、緊急事態の規制は飲食店や観光地を名指しで制限します。今まで何とか命脈を保ってきた観光業者も、飲食店も、この先になるといよいよ立ち行かなくなって行くでしょう。

 更に今度は学校です。大学は既に休校の状態で、それが小中学校にまで及ぶと言うと、また昨年同様の自宅待機が繰返されます。勉強も人とのつながりも分断されて行きます。あれはやってはいけないことです。

 

 何度も申し上げますが、コロナを過大にとらえすぎています。多くの人にとっては感染してもほぼ風邪と同じ症状です。ごく一部の体力の衰えた老人や、持病のある人が感染すると症状は悪化しますが、それは風邪もインフルエンザも、肺炎も同じことです。

 大阪で感染者が1000人を超えたから緊急事態宣言を出そうと騒いでいますが、1000人の感染者が、放っておけば10000人になるだろうと言うのはあり得ない話です。なぜあり得ないかと言えば、過去の1年4か月のデーターを見たならわかります。少し増えれば、また減って行き、それを繰り返しています。

 一時的には感染者が増えても、この先陽気が良くなれば収束します。昨年の推移を見ればよくわかると思います。なおかつ、ワクチンが徐々にではありますが普及しつつあります。方向は悪くはなっていないと思います。

 日本で生活する限り、この数値から極端な方向には進まないはずです。人に不安を煽るのではなく、極力日常の生活に戻ろことを心掛けるように政府も指導しないと、人の心がすさんで行きます。

 

 先の時代の読めない昨今ですが、確実に言えることは、この先のことは医者も政治家も、マスコミも、新聞も、誰にもわからないと言うことです。そうであるなら、何があっても自分で判断を立てて、自分の人生にとって、それがいいことか、間違ったことかを自分なりに判断を立てて、生きて行くほかはありません。

 テレビや、新聞に書かれたことを鵜呑みにしないことです。政治家も、医者もあてにはなりません。ましてやコメンテーターなどと言う人たちは全く信用できません。あくまで自分の判断が大切です。

 

 地震は大丈夫か

 このところ頻繁に地震があります。しかも、日本中あちこちで地震が頻発しています。どうも要約してみると、地震は日本の中でも四か所に絞られます。一つは仙台沖。二つ目は伊豆半島沖、三つめは奄美大島近辺。もう一つは茨城県沖。

 

私の家は東西南北がきっちり区画されているようで、仙台沖の地震の時には、南北に揺れます。伊豆沖でもやはり南北に揺れますが、揺れ方は穏やかです。

茨城県になると、建物が東西に揺れます。距離的にもこれが一番近いらしく、揺れが大きいのが特徴です。奄美諸島地震はまったく揺れを感じません。

 グラグラっと揺れが来ても、揺れの方角で、大体どこの地震かがわかるようになりました。危険だなとか感じるのは茨城県から起こる東西の揺れの地震です。家がきしむような揺れ方をします。これが来ると素早く窓やドアを開放します。

 昨年五月の時も、大地震が来るのではないかと言う予感がしました。予感は当たりませんでした。しかし今年はそうした予感はまだありません。但し、こうも頻繁に地震が来ると不安になります。そこで火災保険をかけなおすことにしました。自宅と猿ヶ京の倉庫の両方です。

 今私の持っているマジックや手妻の装置は、焼けてしまうともう二度と作り直すことはできません。ゼロから起こすとなるともう私自身の気力が起こらなくなるでしょう。せめて再生する費用だけでもあればまだ何とかなりますが、資金もなくなれば終わりです。

 大地震が来るかどうかと言うことは、全くわかりません。これは誰も読めないことです。でも、来ないとは言い切れません。願わくばオリンピックのさなかに来ないことを願います。

 

 オリンピックを成功させよう

 今年のオリンピック開催は日本にとっても試練となりました。どれほど規模が縮小されても、とにかくオリンピックが開催されたならそれは有意義だと思います。逆に、何らかの理由で開催されないとなると、いろいろな意味で世界全体に陰りが生まれます。

 誰もが良かれと思って努力をしていることが達成できないと言うのは不幸です。努力をしている人がいるならそれを周囲の人は認めて讃えるべきです。聖火ランナーも、「あまりみんなが集まって、騒ぎ立てないように」。などとテレビで言っている人がありますが、何を言っているのでしょう。

 近くに来たならみんなで応援すべきですし、拍手喝さいで迎えるべきです。やるならやる、やらないならやらない、やるとなったらみんなで支援すべきです。オリンピックが自国で開催されると言うことは極めて希少な経験です。ぜひとも何らかの形でオリンピックにかかわって、経験として残すべきです。子供たちにもそれを体験してもらうようにしたらよいでしょう。

 

 私も10歳の時に社会科見学で、バスに乗って、代々木体育館を見に行った記憶があります。私などは大田区の池上に住んでいて、周囲は寺ばかりの町でしたので、丹下健三さんの作った建物はあまりに斬新で、この世のものとは思えないような、まるで手塚治虫の漫画の世界の宇宙基地のように見えました。

 今考えても、昭和39年にあのようなデザインを描いて見せ、しかもそれを実際作ってしまったと言うのはすごい才能だと思います。オリンピックにしろ、万博にしろ、国を挙げてのイベントは、常識では考えられないような巨大で、奇抜な作品を見ることができます。ぜひ子供たちに、家に閉じこもってばかりいないで。日本に生まれたことのすばらしさを体験させてあげましょう。それは得難い体験なのです。

続く