手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マジシャンの想いで

マジシャンの想いで

 

 昨日(4月12日)、マジシャンの安田悠二さんが亡くなりました。半年ほど前から癌で入院しているとは伺っていました。私とは20代の頃からお付き合いで、国内でも海外でも、会うと酒を飲みながら、深夜まで話をした仲間でした。然し、恥ずかしながら、彼の年齢も、彼のプライベートな情報も知ることがありませんでした。マジックでつながり、マジックで終わった仲間でした。

 今こうして思い出してみると、彼は私より4,5歳年下だったように思います。初めて会った時から、礼儀正しい人で、義理堅く上下関係を守る人でした。そのことはそのまま彼の厳しい人生の中で学んだ生き方だったのでしょう。

 

 彼は在日朝鮮人であることを隠しませんでしたので、あえて申し上げますが、ご両親が在日朝鮮人で、悠二さんは日本で生まれています。本名は、安聖悠(アン・ソンウー)と聞いています。一時期この名前で舞台にも立っていました。子供の頃は東大阪に住んでいて、屑鉄拾いなどして相当に大変な生活をしていたようです。そのころの苦労はいろいろ聞いていますがここでは書きません。

 それゆえかどうか体も鍛えていて、喧嘩は強そうでした。私の向うっ気の強さなどはまったくのはったりで、どこで駆け引きをしようかと、始めから妥協が見えますが、彼はいざとなれば命を捨てて戦う男だなと思わせる秘めた闘志が見えました。つまり喧嘩をしてはいけない相手なのです。

 私がイリュージョンを始めたころ、彼もイリュージョンをやりだして、独自のアイディアで作品を作り、かなり評判を得ていました。何分彼は、大阪で活動をされていたので、仕事で出会うことはありませんでした。

 イリュージョンと言うと既製品を使う人の多い中で、彼はマジックを独自に読み込んでゆく姿勢が立派で、私とは波長が合い、度々会ってはいろいろな話をしました。私が大阪でショウをすると、よく私の舞台を見に来ました。会えば喫茶店で話をしました。

 1991年FISM横浜で彼はコンテストに出て、イリュージョン部門で入賞しました。その時私はFISMのゲスト出演でした。横浜で一緒に一杯やって世間話をしました。

 ある時は名古屋のUGMの山本さんの家に泊まり込んで、夜明かしで話をしたこともありました。彼はマジック界の裏情報をたくさん仕入れていて、飛び切り面白い話をたくさん持っていました。私もいろいろ情報を持っていましたので、一緒に飲むと裏話合戦になりました。

 

 いつのころからか知りませんが、韓国の東釜山(ひがしぷさん)大学にマジック学科が出来て、彼はそこの講師に収まりました。このころの韓国はまだまだマジックのレベルが低く、日本の協力が必要でした。

 当時の韓国では、テレビなどで五月雨式に入ってくる情報が頼りで、若い韓国のマジシャンはマジックを体系的に理解することが出来ませんでした。無論、戦前の日本統治時代からマジシャンはいましたし、戦後もキャバレー時代があって、それなりに活躍していたマジシャンもいたのですが、1990年代以降に起こった韓国のマジックブームは、過去の歴史を切り離して、コンベンションに出場するマジシャンを、若い人が追いかけるようになり、そこから新たなスターが生まれて行きました。リ・ウンギョルなどがその先頭に立っていました。FISMで入賞し、在日朝鮮系で朝鮮語を話す安田さんは、韓国国内のマジックの講師として、最も求められる指導家だったのでしょう。

 あるとき彼は、私の書いた「手妻のはなし(新潮社刊)」を、大学に何冊か購入させて、それをテキストとして講義に使っていると言いました。

 「でもこれは日本のマジックの歴史書であって、韓国のものとは違うでしょう」。と言うと、「講義は、アジアのマジックと言うくくりで話しています。日本の歴史を語るのではなく、アジアのマジックの発展過程をここから調べて話しているのです。何分、マジックの本で、年月日がはっきり書かれているものが少ないのです。実際こうした本はほかにないので、とても大学の授業には役に立っています」。

 思わぬところで私の本が役に立ったのは喜ばしいことですし、彼が私の本を読んでいてくれたことはうれしく思いました。

 その後、いろいろないきさつから韓国がFISMを誘致することになり、彼がその代表者に選ばれます。内部では一つにまとめるために随分苦労があったようです。彼としては、FISM釜山大会に北朝鮮を入れたいと考えていたようですが、内部の対立でそれがかなわず、彼は途中で役員を降りる結果になります。

 彼の人生や、これまでの実績を思えば、FISMに北朝鮮を入れたい気持ちはよくわかります。彼とすれば絶対に引けないところだったのでしょう。然し、国情の違いはいかんともしがたかったようです。

 ここで彼が自我の主張を抑え、釜山のスポンサーと妥協をしていたら、彼は「韓国のマジック界の父」としてその名を残したでしょう。然し、彼の想いは韓国だけでなく、朝鮮半島全体の融和にあったのだと思います。彼は名よりも血を重んじたのです。彼の行動を見るとこの結果はいかにも彼らしく、同時に同情を禁じえません。

 それでもFISM釜山は成功し、韓国のマジック界は大きく発展しました。然し、これ以降彼は少し韓国国内の地位が下がったように思えました。東釜山大学のマジック学科も廃止され、その立場は一層小さくなったように思います。

 元々、日本国内での彼の立ち位置は常に微妙なものだったと思います。朝鮮籍を語ることで、舞台の本数も、活動も狭められていたでしょう。傍から見ても彼の生き方は苦労が見えましたが、それもこれも、今、彼がこうして幕を閉じて思うことは、彼の人生は必然だったのです。

 北朝鮮の国籍を隠さずにマジック活動をしてきたことも、FISMで入賞したことも、そして、日韓の懸け橋となって韓国のマジック界の発展に寄与したことも、FISMを釜山に誘致したことも、すべて、安田悠二さんがいなければ誰もなしえなかったことです。このことのために自分が生まれて来たんだと言うことを、当人も自分の過去を振り返ってかみしめていたことと思います。

 折々に会って話をするだけの至って浅いご縁ではありましたが、その人生は一本筋が通っていて立派だったと思います。どなたかが追悼文を書けばもっと詳細に文章を書くでしょうが、このまま彼の名前が消えてしまうことはもったいないと思うので、私の知る範囲で書きました。合掌。

 

 

寒の戻り

寒の戻り

 

 昨日(4月10日)、日中は春の陽気で良い天気でしたが、夕方から急に冷え込み、ジャケット一枚で歩くには少し寒いくらいでした。これを「寒の戻り」と言うのでしょう。朝の陽気を信じて軽装で外出した人には厳しい帰り道になったのではないかと思います。

 私は朝から家に籠りっきりで、この日はマジックを習いに来る人が3組、5人の指導をしました。朝10時から穂積美幸さんにシルクとロープの手順を指導。12時から群馬から習いの来る高校生のローマ君に、手妻の陰陽水火の術を指導。2時からは、ザッキーさん、早稲田さん、古林さんの3人に12本リングを指導しました。

 12本リングの指導は今回試験をして、全員合格しました。以後は外で披露しても構いません。この芸はどこで演じてもお客様の反応がいいものです。きっとそれぞれの得意芸になるでしょう。

 そのあと、卵の袋の指導を始めました。手妻のレパートリーの中にも卵の袋はありますがそれとは少しハンドリングが違います。これは私が20代、30代のころに得意にしていたお客様を舞台に上げて、お喋りをしながら演じる洋服での卵の袋の手順です。

 12本リング、サムタイ、卵の袋は、私が一人の演技をしていたころの得意芸でした。正直申し上げてこれでマンションが買えたのです。どれも何千回と演じました。人生の中でこうした手順を手にれられたことは、マジシャンとして活動するうえでは幸運だったと言えます。

 然し、その後になって、私が和のマジックの専門になってしまいましたので、今となっては、どれも演じることがありません。そのため頼まれれば指導しています。但し、習う人も、ここまで習うには相当基礎を積んでいる人でないと教えられません。私の指導では中級から上級者の扱いです。

 そのため、基礎指導の人とは一緒には指導できません。そこで受講者を分けなければなりません。結局1日がかりの指導になりました。

 

 夜には、6時から歯医者さんの予約をしていたので駅前まで行きました。随分と冷え込んできたので、コートを羽織って行きました。ザッキーさんと、早稲田さんと、古林さんが昨日の私のブログを見ていて、駅前の立ち飲みに興味を示していましたので、一緒に立ち飲み屋さんへ行きました。私は彼らに一杯だけアルコールをプレゼントして歯の治療に出かけました。私は少々疲れていましたので、一杯飲みたかったのですが、治療前に私が酒を飲むことはできません。

 その治療が随分長くかかり、7時を少し過ぎてしまいました。「あぁ、もう彼らはいないだろうなぁ、と思って、店をのぞいてみると、ガラス製のシャッターの中でザッキーさんと早稲田さんが残って飲んでいました。

 「お待ちしていました」。と言って迎えてくれましたが、別に義理堅く、歯の治療をする私を待たなくてもいいのです。一杯飲んだらおとなしく帰ったらいいのです。立飲みと言うのはそういうところですから。

 外はだいぶ寒くなってきています。店はガラス戸を閉めて、ガラス戸とカウンターの間、幅がせいぜい40㎝の隙間で、二人はまるで満員電車のつり革につかまっているような狭い空間で呑んでいました。この極限の状態でも飲みたいとする酒飲みの執念はあっぱれです。などと言いながら、私も、その空間に割り込みました。

 それにしても狭い。これ以上狭い空間もありません。まるでゴキブリが冷蔵庫の裏に張り付いて生活しているような感覚です。然し不思議と居心地がいいのです。冷蔵庫の裏なら電気の熱がありますから暖かです。ここも中は幸い暖かです。なんとなくゴキブリが冷蔵庫の裏に住み着きたくなる料簡がわかってきました。考えてみれば男はこうしたどうしようもないほどの狭い空間が好きです。結局、私もなんだかんだと能書きをたれながらも2日間連続で立飲みをすることになりました。もはや常連です。

 

 コロナ禍にあって、仕事がないと嘆いているなら、今、自身のレパートリーを増やしておくことは有効です。マジック活動を続けていると、10年に一度は必ず仕事の依頼のないときがあるのです。そんな時にじたばたしても、どうなるものでもありません。ないときはみんなないのです。

 プロ活動をしている人、或いはこれからプロになろうと言う人は、そうした時期が必ず来ると言うことを覚悟しておかなければいけません。一年、二年分の生活費を貯金している人は立派です。それが出来なくても、とにかくアルバイトをして生きる分は稼いで、余力で次の時代に備えてレパートリーを増やすために指導を受ける時間が作れる人は次の時代に生き残ることができます。

 

 どうやらザッキーさんも早稲田さんも今の指導を受ける状況を喜んでいます。ほぼ個人レッスンのような状況で、事細かに私の50年以上の蓄積を習えるのですから、価値はあるはずです。私が元気なうちにしっかり学んでおくといいのです。そして稽古帰りに一杯飲めることは幸せな人生です。

 私が20代の頃は、習いに行く傍から師匠連中が亡くなって行きました。上手く習えたものもありましたが、今思えば、「あぁ、あれも習っておくべきだった。あのことも聞いておくべきだった」。と思うことばかりです。いなくなっては何一つ習うことはできません。人が人と出会うときは、そこに必然があります。その必然を生かせる人のみが次の時代の切符を手に入れられるのです。

 夜8時を前に私は帰ることにしました、だいぶ寒くなりましたが、ハイボールが効いていますからあまり寒くはありません。ご機嫌で帰りましたが、この生活は癖になりそうです。ついつい数百円で呑めるとなると、まるで、コンビニで袋菓子を買うような気持で酒が飲めますので、体には要注意です。然し、幸せです。幸不幸は紙一重か。

続く

 

明日はブログをお休みします。

 

 

 

 

 

 

 

春はうれしや

春はうれしや

 

 昨日(9日)は女房とシステムキッチンのショウルームに行ってきました。場所は練馬ですので遠くはありませんが、電車で行くのは乗り換えが不便ですので、車で行きました。どうも、最近、自宅で使用している台所も洗面所も風呂場もあちこち故障が出てきて、どこも使用するのに不便なため、そっくり買い替えることにしたようです。

 然し、簡単に言って水回りを取り換えるのには大きな費用が掛かります。今、コロナ禍のさ中で我家にそんなことができるのかどうか。私のほうが心配になりますが、女房は既にその気です。きっと長年ため込んだへそくりがあるのでしょう。

 確かに今の家は31年経っていますので、あれこれ壊れてきても致し方ありません。洗面所は、蛇口も、シャワーもまともに水が出なくなっています。仕方なく、洗顔は風呂場で用を足しています。

 台所も、コンロの鍋を乗せる台が一つ壊れてしまって、鍋を乗せると傾くようになってしまいました。それを前田が真鍮とねじで修理して何とか直しましたが、女房は前田の手作りに不満です。今年に入ってから、買い替えの話が本格化しました。

 32年前、高円寺の家を建てる時にも、どこかのショウルームを見て歩きました。その時には最新式のものを買って家に備えたのです。当時としては何もかもが最新式で自慢だったのです。

 ところが、先月、ショウルームに出かけたときに、こまかくキッチンや風呂場のシステムを見てまわり、その進化に驚きました。キッチンに既に皿洗い気が収められていますし、レンジ。オーブンも機能に入っています。ゴミもいくつか分別できるようにビニール袋が収まっています。それでいて、キッチンのサイズは30年前とほとんど同じです。細かな雑貨も機能的にうまく収まるように工夫がされています。実に見事なパッケージングが出来ています。

「なるほどこれなら女房が欲しがるわけだ」。と納得がゆきました。この30年の進化は素直に認めなければいけません。

 

 そこへ行くとマジシャンのテーブルや、乗っている道具は進化していないなぁ、と思います。相変わらず手作りで、ベニヤにスプレーを塗ったもので済ませている人がたくさんいますし、中には布をガムテープで止めて風呂敷を巻いた状態でマジックテーブルにして済ませている人もいます。見るからにやっつけ仕事で、これでは世間のアッパークラスの人がマジックを見たときに、少しも本物の芸能と認めてはくれないでしょう。

 我々は、テーブル一つ作るにも、ただマジックショップで買ってくるのでなく、世間の人がどんなテーブルに興味を持っているか、メーカーはどんな苦労をして作っているのかを知る必要があります。

 

 話を戻して、女房はショウルームでの契約を済ませて、一日幸せそうでした。私は帰宅後、駅前に買い物に出ました。その帰りに、ふと、あの奥行き1mの店へ行ってみようと思いました。そうです、大風(おおかぜ)で店が倒壊した立ち食いそば屋です。

 蕎麦屋は倒れて初めて、店の奥行きが1mしかなかったことがわかってしまいました。間口が5間(9m)近くあるために、大きな店のように見えたのですが、表が立派なだけで全く奥行きのない店だったのです。世間ではドリフの舞台装置と呼んで笑っていたそうですが、全く舞台の大道具のような店でした。

 そこが倒壊して店をやめてそのあとに立ち飲み屋が出来たのです。つくりは黒を基調として、しゃれて出来ています。いくらしゃれても奥行きは変わりません。そこへ行ってみました。始めに、1000円でシールを買うのがルールだそうです。シールは百円玉がシールになっていて、百円ごとにはがして、飲み物を頼みます。ハイポールは400円(シール4枚)、つまみは200円とはがしてゆきます。少々面倒ではありますがルールに従います。

 ハイボールと、ウズラの串揚げを頼みました。カウンターはまったくの立ち飲みですが、立って呑んでいるとくたびれて来ますので、店と外との段差に、板を並べて、椅子代わりにしてあります。ここに腰を掛けると、今まで見ていた高円寺の景色がぐっと低くなり。まるで犬が眺めている世界にように感じます。

 長年高円寺に住んでいて、この姿勢で景色を見たことはなく、これはこれで新鮮でした。向かいの桃太郎寿司も、その上の中央線も、道行く人も、何を見ても新鮮に見えます。これまで普通に眺めていたものがどれも巨大に見えます。高円寺の景色を見て、巨大に感じたことはこの時が初めてです。一緒に立ち飲みをしていたサラリーマンと座って世間話をしながら飲みましたが、季節は春の盛りで、暑くもなく寒くもなく、ちょうどいい陽気です。

 ハイボールは紙コップで、中身は取り立てて大したものではありませんでした。然し、ウズラの串揚げは、その場で揚げたもので、しかも、醤油味にガーリックソルトが振ってあります。串に卵が3つ刺してあって、それが2本ついてきて200円です。これは安い。しかもうまいと思いました。つまみの味が気に入りました。毎日ここに入り浸るのも見た様が良くはありませんが、時々はここで呑もうと決心しました。

 呑み終わって、風に吹かれて、5分歩いて家に帰りました。いい気持ちです。直腸の手術の経過が良かったからこうして酒が飲めるのです。ありがたやありがたや。楽しみが増えました。

続く

コロナの一人歩き 3

コロナの一人歩き 3

 

 12日から一部の都市で「蔓延防止策」を施行するそうです。

 緊急事態宣言を解除して、蔓延防止策を施行するのは一体何の意味があるのでしょう。そもそも緊急事態宣言が解除された今は一体どんな状況なのですか。何でも自由にしていい時期なのですか。

 緊急事態宣言が解除されたと言っても、何一つ解除されたものはないではありませんか。深夜まで飲食店が営業できるわけではなし、劇場も席を空けずにお客さんを入れていいわけでもありません。花見もイベントも飛んだままで、何ら人集めが出来ません。少しも緊急事態が解除されていない状況で、今度は蔓延防止策が施行されて、何がどう変わると言うのですか。

 言葉が変わっても、宣言を解除しても、何も変わらないではありませんか。変わらないばかりか、罰則、罰金の話がちらほら出ています。

 緊急事態宣言も、蔓延防止策も、法律で定めたものではなく、自粛が根本であるなら、あくまで個人の善意で行っているわけです。そうなら、強制はできないはずです。何を以て罰則を設けるのですか、罰金は誰に対して支払う罰金なのですか。

 

 深夜までカラオケ店を営業している、マスクをしていない人が電車に乗る。だから罰金を求めますか。マスクをしていない人が、感染者でなかったなら、誰に何を感染させたことになりますか。カラオケ店で毎日お店を消毒して、従業員に感染者がいないなら、何を感染させたことになりますか。

 カラオケ店に来るお客様にはマスクをしてもらって、手洗いをしてもらって入店してもらっています。これでどうして罰金の対象になりますか。

 夜の8時までは営業していいが、10時11時まで営業はいけない。奇妙です。10時を過ぎるとウイルスが繁殖を始めますか。その根拠を説明してください。納得のゆく説明があれば人は従うでしょう。

 特定の、言いやすい人にばかりウイルスの責任を押しつけるのは弱者いじめです。まったく根拠のないことで特定の業種や人が虐(しいた)げられています。政府も地方自治体も、言いやすい企業や、言って通る相手にだけ厳しい規則を決めて、それで本当にコロナが蔓延しないと言う確証を問うていません。

 

 そもそも、緊急事態宣言も蔓延防止策も、全く人のためと言いながら、人々の生活を貶めています。言ってみれば緊急事態宣言は学校の校則と同じです。「頭の毛を染めてはいけない」「髪の毛で耳を隠してはいけない」。「マニキュアをしてはいけない」。「靴下は白または黒でなければいけない」。

 どれ一つをとっても個人の自由を侵しています。髪の毛に至っては人種差別です。そんなことを校則に載せている学校こそ自由の侵害であり、明らかな法律違反なのです。少なくとも先進国のする教育ではありません。

 毎朝校門前で、生徒をチェックして、髪の毛の寸法を測ったり、爪をベンジンで落とさせたりしている先生に、「なぜ、マニキュアを塗ってはいけないのか」。を問うてごらんなさい。生徒が言いにくいなら、父母が言ってあげるべきです。それに対して教師は誰一人応えられないはずです。

 自分がどんな格好をしようと個人の自由です。個人の自由は他人の自由を侵さない限り何をしても自由なのです。自由とはそういうことです。教師のしていることはかつての村社会の暮らしと同じです。少しでも豊かな生活をしている農家の子供を見つけると、嫉妬して嫌がらせやいじめをしたり、逆に自分より貧しい家庭の子供には罵声を浴びせて馬鹿にしたり、閉鎖的な村社会の業なのです。学校に対して、学生と言う弱い立場の者に強制や、同調を求めます。その根拠は薄弱です。服従させて悦に入っているだけです。

 庄屋さんのような本当の金持ちには媚びて、逆らいもしないくせに、自分の仲間が自分よりちょっと超えた生活をしたり、貧しかったりするとたちまちいじめの対象にする、あの村の人たちと同じです。

 

 「いや、今している自粛要請は、コロナの感染には必ず役に立っている」。そうでしょうか。手荒いマスクを徹底させて、仕切り板をセットして食事をしている、レストランや、ホテルでどうして感染者が増えますか。

 私がこれまで度々言って来た、山手線や中央線のラッシュ時の混雑のほうが明らかに感染の可能性があると思いませんか。ある時、テレビで、「電車の混雑は、別に中で人が話をするわけではないので、飛沫が飛ばないから安全だ」。と言っていましたが、そうでしょうか。人の顔が20㎝、10㎝と接近していれば、マスクの隙間から息がこぼれて、近くの人にその息を吸い込みます。これこそ感染を増やす原因でしょう。息が大丈夫だと言うなら、何をしても大丈夫でしょう。

 今、山手線や中央線を止めてしまったなら、日本の機能がそっくり奪われてしまうから、電車を止められずに弁護するのでしょう。つまり大きな感染源には何も言わず、飲食店のような弱者ばかりに責任を押し付けるのは、村の中で仲間の子供はいじめても、庄屋の子供には頭が上がらない江戸時代の農家と同じです。つまり緊急事態宣言は弱い者いじめです。世の中の役に立っていないのです。

 

 緊急事態宣言を劇的に重大事と認識させる方法は一つだけあります。それは、飲食店だけに一時金をばらまく今の方法は根本が間違いです。金を出すのではなく、金の入り口を閉めるのです。

 国家公務員や地方公務員の給料を10%20%カットするのです。今の状況では必ず国や地方都市の予算は足らなくなります。そうなれば自然に公務員の給料カットをせざるを得なくなります。それを前倒しですることです。そうすれば、国民全体が事の重大さに気付きます。飲食店の時短営業も、劇場の座席数の減少も、公務員が率先して返納するならやむなしと思うコンセンサスが生まれるでしょう。

 政治家や、役人が、隠れて飲食をして、それがたびたびバレてニュースになっているのは、彼らに危機感がないからです。国民がなぜ困っているのかが、税金を受け取っている側の人たちにはわかっていないのです。公務員に目が向かずに、末端の焼鳥屋やラーメン屋にばかりに責任を擦り付けて、国民に危機意識を持て、と、どうして言えますか。

 国民は、仕事が終われば飲みにも行けず、大学生は学校にも行けず、1年半もキャンパスに行けないまま授業料を払い続けています。その授業料も払えなくなり、アルバイトをしようにも仕事先がなくなり、もう生活は限界に達しています。

 こんな状況でまたぞろ蔓延防止策ですか。不可解です。江戸末期のコレラは、半年で10万人が死んでいます。

 当時江戸の人口は100万人です。一割の人が死んだならそれは緊急事態です。でも今のコロナはこの1年半、死者は少しも増えていません。死者は年間3000人4000人です。その数は正月に餅をのどに詰まらせて死んだ人の数と同じです。これでどうして緊急事態なのですか、なぜ日本中の飲食店を自粛しなければいけないのですか。なぜ1年半も大学や高校を休まなければいけないのですか。どなたか教えてください。

続く

コロナの一人歩き 2

コロナの一人歩き 2

 

 昨日は、久々出演の打ち合わせで日本橋に行きました。多くの経営者はコロナの影響で売り上げも厳しくなっています。何とか現状を打開しなければいけないとは誰もが考えています。

 それは私も同じで、干天慈雨(かんてんじう)と言う言葉がありますが、干からびた大地に雨が降ると、それまでしおれていた草木が急に元気を取り戻して、葉がつやつやしてきて、広い台地全体が生き生きしてきます。私にとって昨日の話はまさに恵みの雨です。幸い6月に2日間の仕事が決まりました。

 通常の不況ならば対処の仕様があるのですが、コロナ禍では何かしようとすると、マスコミや地方自治体が足を引っ張ります。人を集めるための工夫をしても、人を集めてはいけないと言われます。それでは芸能は死滅してしまいます。加えて、人の気持ちが内に籠ってしまい、なかなか陽気な反応をしません。かくして、人の集まるところはどこも開店休業状態で、日本中の店はガラガラ、物が売れない。みんな困っています。

 

 私の手妻も出演場所が極端に少なくなりました。自身の人生にこんな日々が来るとは考えもしませんでした。私の体調が悪くて仕事ができないなら致し方ありませんが、私は元気なのです。頼まれればいつでも手妻ができるのです。にもかかわらずイベントが発生しません。

 さて、この先はどうでしょう。恐らくオリンピックが過ぎるまではイベントは動き出さないでしょう。まぁ、ここまでは致し方ないとして、ならば夏が過ぎればよくなるかと言うと、まったく先のことは分からないのです。

 

 今、多くの芸能人やマジシャンは、どうしているのでしょう。アルバイトを探して、しばらくはほかのことをして生きているのでしょうか。この状況下で何とかショウを見せて生きて行く道はないものか。私は模索の日々を送っています。こんな時こそ私のような立場の者が、解決策を示して、多くの芸能人を引っ張り上げて行くべきなのでしょう。然し、現実は自分自身がどう生きて行くか、先が見えない状況です。

 何とか、日本全体を覆っている陰鬱な状況を打破しなければいけません。きっと解決の道はあるのです。

 

 こんな時、ふと親父のことを思い出します。親父は太平洋戦争のさなか、慰問団を作って、農村や、軍の慰問をしていました。都市部はどんどん寄席などが閉鎖してしまって、芸能は活動が出来なくなって行ったのです。

 戦争によって都市が疲弊して行ったのに対して、当時の農村は活気があったそうです。都市では食料が不足し、店に食料が並ばなくなって行きました。やむなく人々は食料を求めて都市から農村に買い出しに行きます。そうなると生産者は強いのです。米でも麦でも小豆でも、物を作っていると、向こうから買い手がやってくるのです。

 農村では黙っていても人が押し掛け、コメや野菜を求めに来ます。すると、日銭が入り、着物や帯が手に入り、にわか成金が続出します。然し農村では金の使い場所がありません。

 そんな時に、演芸を見せる慰問団が来ると、地方では楽しみが少ないため、学校や、施設での仮設舞台に人が押し掛けて、面白いように儲かったそうです。親父は金よりも、米や酒、小豆や大豆に変えて抱えられるだけ食料を持って東京に戻ったそうです。

 当時の親父の一座などと言うものは、恐らく素人演芸会のようなものだったのでしょうが、それでもどこで興行しても満席になったそうです。

 そんな状況は、敗戦後も続き、お陰で親父とその家族は食料に困ることもなかったそうです。

 言ってみれば戦争と言うのは都市間の戦いで、農村にいてはほとんど影響はなかったのです。アメリカと戦争をして大変だと言っても、多くの農村ではあまり実感はなかったでしょう。東京が空襲でやられたとしても農村に行けば興行はできたし、食料も手に入ったのです。

 この時代に芸能を見せると言うことは、人々に希望を提供することだったのでしょう。私のように戦争を知らないものからすると、その時代は規制が多くて生きずらい時代だったのではないかと思いますが、話は逆で、国の統制が厳しければ厳しいほど人は娯楽を求めます。見られない、見る場所がないとなると、入場料にプレミアがついて人は押しかけます。芸人は天国だったのです。

 そんな時代を聞かされて育ったものとしては、今の時代にどうしたら人に希望を与えられるのか、ついつい悩んでしまいます。私の親父がコロナの不況を経験したならどうしたでしょうか。親父ならきっと「何とかなるさ」。と言うでしょう。それに対して私が向きになって、「でもこのままじゃどうにもならないよ」。と言うでしょう。それでも親父は「何とかなるさ」。と言うでしょう。確かに何とかなるのは間違いないのです。

 太平洋戦争から考えても、コロナは大敵です。日本中どこに行っても人は怯えて家から出ようとしません。イベントは発生しません。海外からの観光客も来ません。無論こちらから海外に行くことも出来ません。八方ふさがりの状況です。

 せめて、アジアの中でコロナの被害が少なく、治安が安定している、シンガポールや、台湾、香港やマレーシア、くらいの国々とは交流を開始してもいいのではないかと思います。そうした国の人たちが来るだけでも、日本の観光はかなり潤うでしょう。

 何とか工夫をしないとこのままではどうにもならないところに行ってしまいます。

 

 日々何とかしなければ、どうしたらいいかと苦悶しています。親父のように、今が普通なんだ、今を基準に生きればいいんだ。と思えば何とかなるのは間違いないのです。ところが、私自身には欲があって、ついついよかったころに戻そうと必死になります。その結果、不満ばかりを感じてしまい、心のどこかで現実を受け入れられなくなっているのです。欲を捨てたらいいのでしょう。親父のように「何とかなるさ」。と言って暮らして行けば、何とかなるには違いないのですから。

続く

 

 

 

コロナの一人歩き

コロナの一人歩き

 

 今、関西地区で新種のコロナが広がり、またまた緊急事態宣言が出るかと言うところに行きそうですが、私がこれまで1年3か月、折に触れて申し上げてきたように、本当にコロナはそこまで危険なのか。あまりに過剰に反応しすぎてはいないか。と言うことを、医師の立場から意見を述べる先生が出てきました。

 慈恵医大病院の外科医で、大木隆生先生です。詳細は、先生の名前でyoutubeを検索してご覧ください。

 つい最近まで私も慈恵医大に入院していましたが、私は内視鏡の医療を受けていたため、外科の先生とは接触はありませんでした。然し、同じ建物の中に、ここまで明確にコロナに対する意見を言う先生がいたことに喝采を送りたいと思います。

 内容は、コロナに対する対応が過剰であること。病床数がひっ迫していると言っても現実にはひっ迫していないこと。酸素呼吸の機械が足らなくなると言いながらも、日本で酸素吸入をしているコロナ患者は60人しかいないこと。

 コロナの感染者が増加していると言いながらも、数年前にインフルエンザが蔓延していたころの患者数から比べたなら少ないこと。アメリカ、イギリス、フランス、と言った国々では感染者は深刻な問題ですが、日本をはじめとしたアジアでは決して多くはないこと。などなど、一つ一つを具体的に解説しながら、今の状況はコロナに対して過剰反応をしていると述べています。

 そのうえで、多くの飲食店や企業を休業に追い込むようなことをしていては、この先日本が大不況に陥り、それによって多くの自殺者を生むことになる。このことを放置して、目の前の患者だけを相手にしていても問題は解決をしない。

と、言ったことが述べられています。. 

 

 外科と感染病とでは専門分野が違いますが、それでも、今の状況が異常だと言うことを医師の立場で語ることは勇気あることと思います。

 私が良く言う、私の知人の医師(複数です)は、私にコロナの話をするときには必ず、「この話は私が行ったと言わないでくださいよ」。と、前置きをして、「コロナは風邪です」。と言います。これは知り合いの医師すべてがそう言います。「今の状況は過剰反応をしている」。と。然し、自らは決してそのことを言いません。なぜかと問うまでもありません。「○○病院の○○先生がそう言った」。と言えば、もし感染者が多少増えたときや、死者が増えたときに苦情が殺到するからです。

 今の時代は何か不測の事態が起きれば、必ずそのことで犯人探しをします。不測であれば誰も予想はできないはずなのですが、それを特定の人のせいにして騒ぎ立てます。それが直接自身が運営している病院に降りかかればたちまち廃業になってしまいますから、医師は軽々にものが言えないのです。

 国民全体がヒステリックになっています。然し、知人の医師は、オフレコで、「実際のデーターを見れば、コロナが大したウイルスではないことは明らかです。現実に、コロナの死者数によって、日本人が爆発的に死者を増やしているわけではないのです。むしろインフルエンザが流行していた数年前よりも、死者の数は減少していて、この一年だけでも日本人の平均寿命は延びているのです」。

 その意見に対して私が、「そうならなぜこうも毎日テレビが大騒ぎをして、国や地方自治体が自粛要請をするのですか」。「多分、マスコミが煽りすぎたのでしょう。煽ることでとんでもなく視聴率が跳ね上がったため、テレビ局はコロナの番組をやめられなくなってしまったのでしょう。その騒ぎに、国や地方自治体が引きずられて、自粛要請を繰り返しているのです」。

 「でも実際には大阪などで感染者が増えています」。「これを増えていると言えるかどうかです。大阪が700人を超えたから、さぁ大変だと言うのは、例えばフランスのように、毎日5万人の感染者を出している国から見たなら、何が大変なのか首をかしげてしまうでしょう。700人が何人になったら危険なのか、各都市の危険度の数値が出ていません。数が曖昧なまま、700人が危険だと言うのは根拠がないのです」。

 実際多くの医師は、コロナを風邪だと言っています。コロナはこの先、一定の感染者を出せばその後は収束して行くはずだと考えているようです。しかしだから「コロナは大したことはない」。と言えば、ネットなどで攻め込んで来る人たちがいますので、今は物が言えないのです。

 然し、そうして、日本人全体が、自らの生活を縛り付けて、過剰な自粛をしているうちに、飲食店やホテルは倒産し、劇場公演やコンサートは壊滅的な打撃を受け、広告代理店や、イベント会社は仕事が成り立たなくなっています。

それにつれて、農業従事者や、漁業関係者、食品販売、などなどありとあらゆる企業や個人が危機に瀕しています。これを放置したままにしていると、そこに勤めていた従業員やアルバイトは仕事を失い、芸人たちは出演場所がなくなり、新たなアルバイトを探して生きなければならなくなっています。然し、仕事先は減り、どんどん生きるすべが狭められ、このまま行けば国自体が大不況に陥ります。

 こんな状況がいいわけはありません。誰かがはっきりと物を言わなければ現状の打破はできないのです。そこへ現れた、大木隆生先生はご自身の危険も顧みず、正論を語っています。私のような手妻師が医療を語っても説得力はありません。医師として根拠のある発言をされる方が現れたことを素晴らしいと思います。この先もどんどんご意見をyoutubeに出していただきたいと思います。

 

 

玉ひでの公演

 今月の玉ひでは、17日です。私と、若手数本によるショウ、それに親子丼のセットです。親子丼は通常2時間待ちをして並ぶ状況ですが、私のショウをご覧になられる方々は待たずに食事ができます(事前にご予約ください)。詳細は東京イリュージョンをご覧ください。申し込みはあと4人ほどで締め切ります。