手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

時流を読む 5

時流を読む 5

 

タンバ快進撃

 一昨日(27日)は富士、昨日は名古屋の指導でした。指導は3時に終わり、4時からは名古屋駅で辻井さんと待ち合わせて、軽く一杯と言うことになりました。柳ケ瀬の飲食店がどこも休業になっていますので、辻井さんはやむなく名古屋に出てきたわけです。

 駅の14階に神田の藪そばが出店していますので、そこで菊正の樽酒を頼み、卵焼きや、焼き鳥でちびちび始めました。まったく昔ながらの江戸っ子の酒の飲み方です。

 そこで出た話は、一週間前に、将魔さんが主宰するマジックショウが一宮で開催され、そのショウの内容が良かったこと、将魔さんが、国から支援金をもらい、その費用でアワードを作り、各賞の受賞者を表彰し、同時に演技をしたそうです。

 出演者は、タンバ、上口龍生、片山幸宏、鈴木大河、桂川新平、などなど。つい3か月前に将魔さんと柳ケ瀬で飲んだおり、将魔さんが近々ショウをすると聞いていましたが、国から支援金をもらってアワードを企画するとは知りませんでした。然し、いい金の使い方です。出演者にとっても、お客様にとっても良い刺激になったと思います。

 

 中でもタンバさんの面白さがとびぬけていて、その日の一番人気だったそうです。彼のことは、ネットなどで、イギリスの番組で好評を博したことなどを私も見ています。まだSAMジャパンが健在だったころ、彼はフラフープの演技で入賞して、その流れで、マジックキャッスルに推薦し、一緒に出演したことがあります。

 タンバさんは渚先生のところで10年も弟子修行していて、このままでは永久に下働きに終わるんじゃないかと心配していたのですが、ある時期から海外の仕事先に積極的に出て行って、オーディションを受けるなどして、海外の舞台チャンスをつかもうとしていたようです。

 私は彼の活動を知って、「ようやく、コンベンションに頼らないプロマジシャンが出てきた」。と思い、期待しました。その後、マジックセッションなどの出演依頼をお願いしたのですが、時間が合わず、出演の機会を逃しています。然し、どこに出てもいいのです。こうした人がどんどん知られて、知名度を上げて行ったなら素晴らしいと思います。

 彼の演技は風船呑み、かみそり呑み、フラフープ、どれも昔からあるマジックばかりですが、彼のこだわりと自分流の演技の読み込みが作品を飛び越えています。このため何を演じてもタンバ流になっていて、たちまちお客様は理屈を飛び越えてタンバの世界に引きずり込まれてしまいます。

 いつもおどおどしていて、物静かな男がどうしてこうまで強い個性を持つに至ったのかは謎ですが、彼の生き方こそが、まさに私が今回「時流を読む」で長々お話ししている話の答えそのものなのです。実にタンバさんは今の時流にタイムリーな出現の仕方をしたと思います。昨日の飲み会は私としても充実した内容の話でした。

 

時流を読む 5

 

 「時流を読む」、も長くなりました。いろいろ書いたことをまとめてみると、

以下の3つに要約されます。すなわち、

 1、マジック愛好家の評価ばかりを求めない。

 2、コンベンションやマジックの会合から抜け出て、一般客をつかむ。

 3、不思議から少し離れてマジックを芸能として見直す。そして自分を見つめる。

 

 先に、私はマジシャンはマギー司郎さんの生き方をもっと見るべきだ。と書きましたが、今見るなら間違いなくタンバさんを見るべきでしょう。多くのマジシャンが不思議の上に不思議を重ねて、必死にお客様の興味を集めようとしていますが、実はお客様はそれ程多く不思議が見たいわけではないのです。

 どんなにうまいラーメンでも、もう一杯出されたら敬遠されます。同様に、お客様にすればそういくつもの不思議が見たいわけではないのです。むしろ数見たなら、不思議の感動は薄れてしまいます。私が観客としてマジックショウを見に行くときも、マジシャンが次々に繰り出す不思議が「お客様の許容の限界を超えているなぁ」、と思うことがしばしばあります。

 どんなに一作一作のマジックの出来が良かったとしても、種がばれずに上手に演じられたとしても、お客様にすれば、マジックを見続けていると、延々とルールを知らないゲームに引きずり込まれ、一方的にたたかれまくっているような、被害者意識に襲われて来るのです。

 始めのうち、一つ二つは面白そうだと、ゆとりをもって見ているお客様も、「カードを一枚引いてください」。と言うセリフが繰り返し続くと、お客様は自分がマジシャンの引き立て役に立たされているということに気付きます。それはお客様が好んでなろうとした立場ではありません。やがて、今の状況がばかばかしくなって来ます。

 ところがマジシャンは自らそうした状況を作ったにもかかわらず、お客様がこの状況をアンフェアだと思っていることに気付かないのです。マジシャンはお客様はマジックが好きだと信じて疑いを持ちません。

 ここで確実な話をしましょう。マジックショウが10分を過ぎたときに、お客様はこの先に起こるマジックがどんなものかは予測できません、しかし結末は知っています。結果はマジシャンの優越に終わるということをです。

 これはマジシャンにとって都合のいい状況でも、お客様にとって一番嫌な状況かも知れないのです。私がしばしばマジックを見ていると、お客様はとっくに飽きてしまっているにもかかわらず、これでもかと不思議を見せ続けているマジシャンを見ることがあります。これはすなわち、うまいラーメンだからと言って、もう一杯、もう一杯と出してくるラーメン屋さんのようなもので、そうしたラーメン屋さんは決して流行らないでしょう。そんなラーメン屋さんが世の中に存在しないのはお分かりのはずです。然し、マジックショウではこれが普通に存在するのです。これでマジシャンが安泰に生きてゆけると思いますか。

 

 ではなぜそうしたマジシャンがたくさんいるのかと言うなら、恐らくマジック以外のことに興味のないマジシャンが多いからだと思います。マジシャンの興味がマジックだけで、ほかの芸能に理解がない。世相にも疎い。なおかつお客様のことを考えていない。こうした人がひたすらマジックを見せ続けて、結果マジックをつまらなくしているのです。

 思い出してください。30年前、私がイリュージョンチームをもって活動していた時に、ある日突然、「なぜ人を浮かせなければいけないか。なぜ人に剣を刺さねばならないか。なぜ人を消さなければいけないか」。と思い悩んだ末に、今していることがすべてばかばかしくなったという話を。この時私は芸能が何であるかに気付いたのです。明日はそのまとめをお話ししましょう。

続く

 

時流を読む 4

時流を読む 4

 

江戸末期のコレラ地震、黒船

 1853(嘉永6)年にアメリカからペリーが艦隊を引き連れて日本にやってきて、開国を迫ります。政府は渋々翌年にアメリカと和親条約を結びます。この辺りは教科書で学んだ通りのことです。

 外国との貿易を始めると、日本国内の産業はバランスを崩し、急に食糧難に陥り、天井知らずの物価高が起きます、なぜ貿易をすると日本が物価高になるのかと言うと、

 当時の日本は、食料も衣類も、日本国内で使う分だけ作っていたために、物に余分はなかったのです。それがいきなり貿易をするようになれば、ほかの生産を犠牲にしなければなりません。落語に、風が吹くと桶屋が儲かるという話があります。あれは決して笑い話ではありません。実際の世の中の仕組みをうまく語っています。

 例えば絹を売るとすると、蚕を育てなければなりません。蚕は桑の葉を食べます。そこで桑の木を大量に植えることになります。そのため麦畑や大豆の畑をつぶさなければなりません。働く人の数もゆとりはありませんから、人が絹を増産すればほかの仕事はできなくなります。当然、田畑も不足します。結果食料が不足します。そうなると麦や大豆の価格が一遍に値上がりするというわけです。

 貿易をいきなり拡大すれば国内需要がひっ迫するわけです。方や絹を売って大儲けをする人がある反面。食料が値上がりして生活して行けない人が続出したのです。これが当時の人々の不安の種につながってゆきます。

 そんな時期に嘉永から安政にかけて、日本各地で地震が頻発します。最悪の事態は、1855(安政2)年に、江戸に大地震が起きます。当時の地震はすぐに火災に結び付き、江戸の町の大半を焼き尽くします。一晩で財産を失う人、子供を身売りしてその場をしのぐ人が続出します。庶民の不安に一層拍車をかけます。

 そこへもって、1858(安政5)年に日本中にコレラが蔓延します。コレラは実は1822(文政5)年に一度流行しています。この時のコレラは長崎で発症し、九州を襲い、東へ伸びてきましたが、江戸に至らず、その後沈静化しました。

 コレラコレラ菌により感染します。主に水や食べ物を介して広がります。このことは江戸時代の医者も理解していたようで、盛んに生水を飲まないようにと注意を呼び掛けています。罹ると三日のうちに死亡してしまい、当時の人はあまりに呆気ない死を見てこれをコロリと呼びました。狐狼狸(コロリ=きつねおおかみたぬきと書いてコロリと呼んだのです)。

 実際当時の人にはコロリの原因はわからず、狐や狸の仕業と考える人もいたのでしょう。得体のしれないただただ恐ろしい病気だったのでしょう。1858年のコレラは江戸に入り込み、猛威を奮いました。7月には江戸の入ってきて死者が増大し、江戸では毎日500人を超す死者が出たそうです。浮世絵の安藤広重コレラに罹り9月6日に亡くなっています。これが明治になるわずか10年前のことです。

 

 歴史の勉強はこれくらいにして、この時代に人々はどう生きたのかと考えるなら、今日のコロナウイルスとは違い、外出を控えるとか、飲食を控えるなどと言うことはなかったようです。但し屋台の食べ物は危険視していたようです。原因のわからない病気のせいで人は厭世的になり、すべてをあきらめる、刹那的な生き方をする人が続出しました。それはある意味やむを得ないことかもしれません。

 なぜなら、外国が押し掛けて来て脅しをかけてくる。地震が起きて多くの人が死ぬ、コロリが蔓延して焼き場が間に合わない程に人が死ぬ。こうしたことは人一人がいくら対処して生きようとしたところでとても解決のできないことばかりだからです。

 当時の人々はただただ世の中に流されつつ、狼狽えていただけだったのでしょう。それは庶民だけではなく、政治を仕切る幕府自体も、何をどうしていいのかわからなかったはずです。誰一人この先どんな時代になるのかわからないまま不安を抱えて生きていたのです。そうなると人は先のことを考えなくなります。

 

 ところがそんな時代こそ芸能にとっては大きなチャンスだったのでしょう。当時の江戸、京、大坂は爛熟した江戸末期の文化が花盛りで、緩んだ政治を幸いと、興行は野放しの状態になり、活況を呈します。黙阿弥はやくざ者や、盗賊の芝居を書き続け、いかにして善男善女が盗賊の道にはまって、悪事をするようになって行ったかをまるで悪事を肯定するがごとく芝居で表現して見せたのです。

 それを見た庶民は、盗賊を否定するどころか、彼らに共鳴し、自分の境遇に置き換えて熱狂したのです。無論、結末は勧善懲悪に終わるのですが、庶民は結末を見たくて芝居に通うのではなく、悪事を働く人間の性の悪さを面白がって見ていたのです。

 そんな中で、曲独楽の早竹虎吉や、竹沢藤次、手妻の二代目柳川一蝶斎などは興行で当たり続けます。先の時代のわからない庶民は、今この時の楽しみのために惜しげもなく金を支払って快楽を求めようとします。

 この時期、初代の一蝶斎は存命でしたが、高齢のために、殆ど舞台に出なかったようです。弟子は何十人もいて、蝶の芸は日本各地で演じられていたようです。さて、その日に食べる金にも困っているような庶民が、なけなしの銭を払って小屋掛けに入り、二代目一蝶斎の飛ばす紙の蝶を見て、一体人は何を思ったのでしょうか、私の興味は尽きません。ただ、ぎりぎりの境遇の中で見る芸能はきっと光輝いて見えたことでしょう。

 翻(ひるがえ)って考えるに、コロナに時代に、我々は光り輝く舞台をお客様に提供しているでしょうか。将来の見えない時代に希望を提供しているでしょうか。そう考えると、もっともっとやるべきことはあるように思います。

続く

 

 明日は日曜日ですのでブログは休みます。

時流を読む 3

時流を読む 3

 

 以前にあるマジシャンと話をしていた時に、「藤山さんは昔、宇宙服着て鳩出し

をしていましたよねぇ。それがある日突然着物を着て、和妻をやりだしたのはなんでなんですか」。

 この時私は、人から見たら私はそう見えるのかなぁ。と改めて認識しました。確かに40代半ばまではスペースイリュージョンと称して銀色の燕尾服を着て鳩を出していました。そして今は手妻を演じています。知らない人が見たならある日突然、100%生き方を変えたように見えるでしょう。

 私とすれば、手妻は子供のころからしていましたし、舞踊も、長唄も十代から稽古をしていました。イリュージョンはその時代のマジシャンとして、ベストの活動だと考えてやっていたのでした。イリュージョンのお陰でチームも持てましたし、事務所も家も持てたのですから、有難いことでした。そしてそこから手妻に移行したことも、突然変身したわけではなく、以前からの活動をより充実させて行った結果だったのです。

 つまり、「今まではイリュージョンの時代だった。これからは手妻だ」。と言って素早く乗り換えたわけではありません。私としては理路整然と、なるべくしてそうなって行ったのですが、ここでご理解いただきたいことは、洋服を着物に着替えて、小道具を取り換えたなら、イリュージョ二ストが手妻師に変われるというものではないのです。

 

 今、和妻を演じる人が増えていますが、鳩の代わりに傘に置き換えて、シルクやセンスをどんどんテンポよく出すことが和妻だ、と考えて和妻をしている人がいます。果たしてそうした演技に多くの支持者がいるかどうか。お客様は和妻からそうしたスタイルを求めているのかどうか。

 その発想は、小道具を和の素材に置き換えただけで、西洋マジックの手法で西洋マジックを演じているのと同じことなのです。なぜ西洋マジックが飽きられてきたのか、そのことの答えを出していないように思います。そしてなぜ和妻を人が見たがるようになったのか。そこを突き詰めていないまま、西洋奇術を小道具の置き換えだけで和妻にしてしまうと言うのは安易です。それでは大して仕事は取れないように思います。無論、どんな考えで和妻をする人がいてもいいのですが。

 どうも多くのマジシャンは、流行で和妻を捉えようとします。そのことはかつて、超魔術が流行ったときに、みんなサングラスをして、袖まくりをしてESPカードのあて物をしていたのと同じことで、真似ることが何となく流行に乗っているように見えて、新しく感じるからそうしているのでしょう。然し、そうした人たちは流れが去れば自然に手妻の世界から去って行く人なのだと思います。

 ある意味それはそれでいいのです。但し、彼らの考える流行と、私が言う、「平成の時代は、伝統芸能の回帰に時代であり、日本人が立ち止まって物を真剣に考えるようになった時代だ」。ということとは大きく違います。これはファッション(流行)を言っているのではなく、人の進歩を言っているのです。

 多くのお客様が、マジックにもう一つ深みのある芸はないかと探したときに、そこに手妻があったわけです。その手妻がどんなものであるか、手妻の目指していたものがなんであるかをわからなければ、いくら着物を着て手妻を演じても報われないでしょう。私の仕事は実際の演技を演じながら、手妻とは何かを語って行くことです。それは宇宙服から着物に着かえたと言うのとはずいぶん違う考え方なのです。

 

 その後、50代になって、私の手妻研究は、新潮選書から「手妻のはなし」という本を出して、一つにまとめました。これは資料集めに5年をかけ、書き上げるのに1年を要した大作でした。今もう一度こんな本を出してくれと言われても、もう体力が持ちません。いいときに大きな仕事をしたと思っています。

 この本はその後の講演活動などで随分役に立ちました。著作を持っているということは、講演依頼には有利ですので、効果は絶大でした。いずれにしても、30代まではイベントに出演するタレントとして活動を続けてきましたが、その後は講演と手妻で活動をしています。そうした私のスタイルが、平成の時代にはぴったりはまったのでしょうか。今日まで比較的に安泰に生きてゆくことができました。

 

 さて、時代は平成を終え令和になりました。令和は平成とは大きく変わらない時代だろうと考えていたら、突然コロナ騒動があり、世界中が大きく転換せざるを得ない時代に至りました。

 それは。ちょうど昭和から平成になったときに、すぐバブルがはじけて、拡大してきた経済に急ブレーキがかかったように、令和になった途端、世界中の人がコロナウイルスによって交流や、経済活動が壊滅的な打撃をこうむってしまいました。コロナが騒がれる1年3か月前までは観光業界は業績が上り調子で、飛行機会社も新幹線もホテルも活況を呈していたのです。

 マジシャンも例外ではなく、アメリカでもヨーロッパでもアジアも日本も、マジシャンの舞台はほぼ全滅の状況です。人集めのために成り立っていた仕事が、人を集めてはいけないというのでは何もできません。こんな時代にどういう活動をして生き残りを考えたらいいのでしょうか。

 実は今と同じような状況が、江戸の末期にもあったのです。その時手妻師はどう生きたのか、それはまた明日お話ししましょう。

続く

 

 

時流を読む 2

時流を読む 2

 

 もし、プロマジシャンとして生きようと考えるなら、お客様というものがどんなものなのか、何を求めているのかを知らなければいけません。多くのマジシャンは観客はみんなマジックが好きだと信じていますが、私が60年近くマジックをしてきてわかったことは、マジックの好きな人わずかだということです。

 それを裏付ける理由は山ほどあります。現実に、みんなが本当にマジックが見たいのなら、どこの町にも一軒ずつくらいはマジックの劇場があるはずです。でも現実にはマジックの専門劇場はありません。なぜそれがないかを考えてみてください。

 「そうは言ってもマジックを見せるレストランや、バーがあるでしょう」。そうですあります。でもそこは食事をした人のサービスで見せている場所です。入場料を取って連日マジックを見せている場所ではありません。アルコールの好きな人がたまたま飲みに行ったらマジシャンがいただけのことです。無料のサービスなら拒否する人はまずいません。でもその人たちは熱狂的なファンとは言いません。

 彼ら、彼女らは、マジックを熱心に見るでしょう。でも、見終えたなら、もうほかのことを考えて、次の場所に行ってしまう人たちなのです。彼らがマジックを自分の生活の一部のように考えて、繰り返し、繰り返しマジシャンを追いかけてでも見たいと思ってもらうにはどうしたらいいでしょうか。

 

 その答えを私は、昨日申し上げた、江戸時代に手妻師に結論付けたのです。彼らは自分のしている手妻はもう何十年も変わらずに同じことを繰り返していたのです。見ているお客様はいい加減種仕掛けを知っていたのです。にもかかわらず、お客様は飽きずに手妻師を見続けていたのです。なぜそんな芸を見ていたのでしょうか。

 それがなぜかはマギー司郎さんを見ればよくわかるでしょう。マギーさんのマジックを見て不思議だと思う人はあまりいないと思います。何よりも初めからマギーさんに不思議を期待していないのです。でも人はマギーさんには時々会いたいのです。毎日見るのは嫌かもしれませんが、長いこと見ていないとまた見たくなります。

 あの人のように自分をさらけ出して、出来ないことを出来ないと正直に言って生きている人はお客様にとってはかわいいのです。そういう人になれば生きてゆく道が開けます。ただしここで私が言いたいことは、マジシャンはみんなマギー司郎になれというのではありません。マギーさんの長所は、マジックから離れて、自分を俯瞰の位置から眺めていることなのです。少しマジックから離れて演技をすることが大切だと言いたいのです。恐らく江戸時代の手妻師も、手妻を少し離れて眺めつつ、手妻を芸能の一つととらえ、様々な芸能を語ったり演じたりしつつ手妻を見せていたのだと思います。

 

 マジシャン自身はどうしてもマジックが好きなため、マジックの好きな人と話をしたがりますし、そうした人たちの間で認めてもらいたがる癖があります。しかし、プロで生きようとするなら、その時点でプロとして生きてゆくのは無理です。日本のマジック愛好家の数は極めてわずかだからです。

 私の子供のころはアマチュアの数は5万人と言われていましたが、今は10分の一になっているでしょう。既にマジックの大きな流れは去っています。どこのアマチュアマジッククラブも会員を減らしていますし、コンベンションは軒並み開催不能に陥っています。これは世界的に同じ状況です。

「藤山さんそうは言ってもネットでマジックを検索して見ている人は多いですよ」。その通りです。しかし、ネットのファンこそ気を付けて接しなければいけません。次の時代になると、とんでもない世間知らずでわがままなマジシャンが出てくるようになるでしょう。多くは種を知りたいだけのマニアであったり、自分が演じることにしか興味のない人であったり、まったく観客のことなど興味なくて自分の作品を見せたいだけの人等々。

 殆どの人は、決してマジシャンの演技を入場料を支払って見に来るファンではないのです。彼らはほとんど人を介してマジックをしていません。きわめて自分寄りな考え方しか考えていない人が多くみられます。それをいい悪いと言っているのではありません。どんな人がいてもいいのです。但し、そうした人たちがマジシャンを支えてくれるファンにはなり得ないと思います。

 ネットの世界でマジックファンを探すのは至難です。というよりも、繰り返しますがプロで生きるなら、マジック愛好家のみを相手にしていては生きてはいけません。他のジャンルのプロは、堂々一般観客を呼び込んで活動しているではありませんか。

 

 話はどんどん別の方向に進んでしまいました。元に戻しましょう。

 バブルがはじけて仕事が減り、私のイリュージョンチームに限界が見えた時、新たな仕事先を探さなければならず、随分苦しみました。その中で手妻がどういうものなのか、古い文献から色々調べて行くうちに、江戸時代の手妻師がどういった活動をしていたかが見えてきたのです。それを自身が演技を見せて実践しつつ、同時に舞台の上で江戸時代を語って行くと、仕事先からもっと江戸時代の芸能を語ってほしいという注文が来るようになりました。テレビの企画であるとか、企業を対象にした講演であるとか、市役所の文化講演会、はたまた大学の文化講座などから依頼が来たのです。

 これはまったく予想もしなかった活動につながりました。マジックをマジックとして語るのではなく、ほんの少し見る目を広げて、自分のしていることを文化の一つとして語ると共鳴する人たちがたくさんいることを知ったのです。

 この時私はある答えを見出しました。それは私の子供のころの手妻、あるいはマジックをしていた先輩たちは、手妻、マジックを文化として語ることなどしなかったのです。マジックの世界にどっぷりつかり、師匠に教わったことのみ忠実に演じることで生きてきたのです。然し、時代はそれだけでは満足しなくなっ時代に至ったのです。

 手妻、マジックを演じることは勿論ですが、それを文化としてとらえ、手妻師がどう生きていったか、と言う、どう生きる。どう創造する。そこを文化として語って欲しがる人たちがたくさんいたのです。そこから私の新たな人生が始まりました。

続く

 

時流を読む 1

時流を読む

 

歯科医院

 4日前に奥歯に詰めてあった小さな金属が取れてしまいました。ほんの数ミリの金属です。いつはめたのかも覚えていないほど前に治療したものです。よく働いてくれたと感謝です。このところ久々に舞台が忙しく、歯の治療に行くけませんでした。昨日は祝日で病院は休みでした。そこで今日、歯科医院に行ってきます。

 ついでに肩が痛くて仕方ありませんので、整形外科に行ってきます。今12本リングを習いに来る生徒さんがいますが、指導していると、12本を持って灯篭を作ってポーズをとるとリングの重みで右肩が痛みます。

 灯篭はクライマックスの型ですので、そこに近づくにつれて徐々に気持ちも高揚してきます。ここはきっちり決めてお客様に喜んでもらわなければなりません。ところが、私はお手本を演じていながら徐々に不安になります。肩はチクチク痛くなり、重いリングを片手で持って軽々ときめのポーズをとろうとしたときに、ぐきっと痛みが走ります。流れを崩さないように手を高く上げなければいけないのですが、それができません。

 体の調子のいいときは何でもないことなのですが、今日は朝からチクチクと肩が痛み出しています。やはり整形外科へ行かなければならないでしょう。歯の治療だの、肩の治療だの、病院の話ばかりで、どうも年寄り臭くて申し訳ありません。いや既に年寄りなのです。

 

立ち食いそば屋に次の店ができる

 昨日駅に行ったときに、大風で倒れた立ち食いそば屋の跡地にまた建物ができていました。敷地のサイズは変えようがありませんから、建て直しても奥行き1mの店舗ですが、今度は全体を黒く塗装し、アートっぽい建物になりました。アートは結構ですが、奥行き1mで一体どんな商売をするのでしょう。

 人は、あれがないからできない、これがないからできないと、できない理由を探して世の中に不満をぶつけて、結局自分は何もしない人が多いのですが、幅4間(7.2m)、奥行き1mの店に夢を感じて商売をしようとする人の気持ちが偉いと思います。商売が始まったら何とか支援したいと思います。

 

時流を読む 1

 28歳(1982年)くらいから、スペースイリュージョンというタイトルで、すべての道具をモノトーンに統一して、宇宙をテーマにショウを構成し直しました。当時のマジシャンの道具は、赤だの黄色だのと子供の積み木のような色で箱が塗ってありましたから、私の道具立ては、大人の雰囲気があって、しかも、どれも金属でメッキがしてあり高級感が出ていて仕事先にはとても好評でした。あたかも時はバブルの真っ盛りでしたので仕事は一気に忙しくなりました。

 ところが、そのさ中、33歳(1988年)に芸術祭賞を受賞してから、自分のしていることがばかばかしくなってきました。鳩が出る。箱から人が出る。人が宙に浮く、人が消える。そんなことをして何になる。何の意味もないではないか。と自分の芸を疑るようになります。実際にお客様を見ていると、いいお客様に巡り合うようになると、何となく私の演技に満足していないように感じられるのです。

 「お客様の心の奥にまで感動を伝えていないのではないか」。と思うようになりました。然し、これはマジシャンにとっては危険な考えなのです。マジックをしていて、意味がない、内容がないと言ったらすべてが否定されてしまうのです。トランプを当てる、人を浮かせる。どれも初めから意味などない行為なのです。

 人はマジックを娯楽として見ているのですから、無理に意味づけをしたり、因果関係をこじつけようとすると、逆に煩雑になって娯楽の邪魔になります。一切悩まずに、パーッと派手な芸能が見たいと思っている人はたくさんいるのです。

 世の中はバブルの絶頂で、私のイリュージョンチームは順調でしたが、私一人は悩みの淵に立っていました。「もっと内容のある、見ごたえのある芸能がしたい」。と思いつつ、その答えが見つからず悩み続けていました。

 こんな時にいい指導家がいて引き上げてくれたならどれほど伸びたかわかりません。残念ながら私の周囲にはそうした人がいませんでした。いろいろ悩んで、当時水芸が評価されていましたので、水芸を核にして、手妻の充実を図れば発展があるのではないかと思い、徐々に手妻の方向にチームをシフトするようになったのです。

 さて、その手妻ですが、それまで何でも分かっていると思い込んで手妻を演じていましたが、よくよく考えてみると何一つわかってはいませんでした。自分が何もわかっていなかったと知っただけでも少し成長したのかもしれません。然し、そうならこの先どうしたらいいのか、どうしたらステップアップできるのかがわかりません。ここでもいい指導家がいないため苦しい思いをしました。

 

 古い文献や、聞き書きを見ると、昔の手妻師は、演技の決め、決めに様々な型を見せたり、演技の終わりに踊りを踊ったり、芝居をしたり、およそ手妻と関係のないことをしています。型は見得と同じことで、今でも行っていますが、昔はもっともっと当時の流行を取り入れて、市井風俗を表現することを目的にしていたようです。そうした芝居の過程に不思議があったわけです。

 あまり不思議を強調しないというのは、含蓄のある考え方で、江戸時代のように長い間、ものが発展しなかった時代に手妻を演じても、既にお客様はさんざん見た手妻から不思議を感じることはなかったのでしょう。もうお互いが訳知りの仲で手妻を演じていたわけですから、目新しい型を見せたり、話題を取り入れることでお客様の興味を得る以外生きるすべはなかったのだと思います。

 しかしそれが結果として独自のスタイルが生まれ、マジックの世界では稀有なほど不思議を強調しないマジックショウが出来上がったのです。

 通常マジシャンは、一つの不思議を演じるたびに、両手を伸ばして、観客にポーズをとります。それを見た観客は拍手を送りますが、よくよく考えてみるとおかしな行為です。不思議のたびにポーズをして拍手を送るというのは、そこで演技が中断されます。

 まるで、曲芸をした熊やアシカが一芸終わるたびにポーズをとって、角砂糖や鰯を欲しがるようなものです。お客様にとって大切なことは不思議かどうかではなく、演技に感動したかどうかが肝心なはずです。

 動物なら、途中途中で餌をもらわないと曲芸はできないでしょうが、人が人に演技していて、いちいち拍手を求めるのは演技が細切れになり、流れが乱されます。ところが手妻では不思議を強調せず、当然拍手も求めません。結果が不思議ではないのです。私は手妻の考え方が芸能として一格違うと気づき、そこから新たな研究が始まりました。38歳(1993年)のことでした。

続く

 

神田明神伝統芸能イベント

神田明神伝統芸能イベント

 

東儀秀樹さんの雅楽ロック

 昨日(22日)は神田明神地下にある江戸っ子スタジオで、伝統芸能のイベントをいたしました。今まで何度か出演したイベントですが、今回が一番大きな企画でした。神社の敷地内には店が出て、夜店の営業をしていました。江戸っ子スタジオのある伝統館の6階にはもう一つ劇場があり、そこにはアニメのキャラクターのショウがありました。

 私の出演する江戸っ子スタジオは、曲芸、落語、幇間芸(太鼓持ちの芸)、など5本の演目が並び、ほかにも、別イベントで東儀秀樹さんが篳篥(ひちりき=日本の古楽器)を演奏し、神田明神所属の雅楽演奏家と一緒に越天楽などを演奏しました。

 

 盛りだくさんの企画の中で私が出演したのですが、神田明神で既に3年以上この企画に出演しているため、ご存じのお客様も多く、ずいぶん熱烈な声援をいただきました。外国人もちらほら見えていましたので、インバウンドの効果も期待できるかもしれません。まぁ、実際のインバウンドの効果は、海外との交流が解除された後になりますが、それが早ければ7月あたりに解放されるかの威勢がありそうです。早くそうなって、元の活況が戻ってくることを望みます。

 

 東儀秀樹さんは今回初めてお会いしました。もともとが宮内庁雅楽を演奏する家系に生まれ、実際若いころは雅楽演奏家をしていたのですが、そこから雅楽の楽器とギターやシンセサイザーなどとコラボした曲を作って発表するとたちまち多くの若い支持者を集め、人気が出たようです。

 雅楽という非常に閉鎖的な世界にあって、たった一人世に名前が出た人で、それだけに周囲の圧力も大きなものだったと思います。宮内庁を離れてからも、雅楽の研究をして、古楽器とロックなどのコラボをして、篳篥の面白さを伝えたことはご当人のセンスの良さを表していると思います。

 私は東儀さんと同じ時代を生き、同様に古典芸能の復活を考えていたものとして、この人の考え方はよくわかります。平成になって、急に、狂言であるとか、雅楽であるとか、およそこれまで人の話題に上がらなかった分野が脚光を浴びるようになって、そこからスターが生まれました。雅楽の世界からのスター出現などと言うのは格好のマスコミの話題になったと思います。手妻も規模は小さいながらも同様に、平成になると多くの方々から興味を持って迎えられ、随分とたくさんのお仕事をしました。

 平成というのは、昭和と比較すると、どちらかと言えば古典への回帰の時代であったとおもいます。歌舞伎や、能の公演にたくさんお客様が押し掛けるようになりましたし、相撲にも若いお客様が来るようになりました。歴史を持っているジャンルの公演が、みな支持されるようになった時代です。それは、イケイケで突進していた昭和に対して、平成が、もう一度日本と日本人を考え直そうとする、原点回帰を考える時代、すなわち自己を顧みる時代だったと思います。

 実際平成になった途端、手妻の仕事が増え、評価が一気に高まったのですから、手妻にとってはい時代でした。多くの先人が決して恵まれた生活をしてこなかったのを見知っていた私なぞは、本当にこんな認められ方をしていいのかと、わが身を疑うほどでした。私の活動は、平成に入ってからはずっと安定していました。

 

もうひと波来るかもしれない

 さて、昨日お話ししましたように、手妻を習いたいという人が増えてきています。たびたび相談も受けます。「見よう見まねで手妻の道具を買い集めて、手順を作ってやってみても、なかなかしっくりとした演技ができません。それを続けていても限界を感じます。やはり基礎からしかりと学ばなければどうにもならないと知りました」。

  「マジックも手妻もしたことはなかったのですが、手妻に見せられて、その奥深さに気付き、やってみたくなりました。ご指導お願いします」。

 こんなお話をいただくことが度々あります。アマチュアさんが何をどう稽古されようと自由ですが、まず学んでおかなければならないことはたくさんあるのです。

 それでも自身が自らのまずさに気付いて、基礎から学ぼうとすることは進歩です。そう考えようとしないアマチュアさんのほうが実はたくさんいるのですから。

 さすがに最近になって、ただ着物を着て傘を出すような演技が、どこかで徐々に否定されてきているのかもしれません。そんなものが和ではない。と日本人が認識し始めているのでしょうか。そうであるならいい時代が来たと思います。日本人の和の文化を見る目がランクアップしたのです。もしそうであるなら私は今の世の中の流れから、手妻にもう一つ大きな波が来るような予感がします。

 こうした流れは今まで何度か体験しています。私が、昭和63年に芸術祭賞を取ったとき、それから平成10年に芸術祭大賞を撮った時、ともに私は心の中で大きな世の中の波を感じていました。

 波とは何かといえば周囲が妙に手妻に対して暖かくなる時期があるのです。暖かいとはどういうことかというなら、急に仕事が増えだしてきたり、講演の講師に招かれて、文化としての手妻を語る機会が増えて来たり、弟子が押し掛けて着たり、テレビ局が特集を組んでくれたりと、私が考えもしないところで世の中が、私を使おうとし始めるのです。

 そのおかげで活動が多忙になります。そうした波を経験した立場から考えると、このコロナ禍の中で、どうやら、静かに大きな波がやってきているように思います。いいことです。私はあまり流行に乗るということを望んで生きてきたわけではありませんが、向こうから波が来たなら、大きな波には自然に乗らせていただこうと考えています。

 ところで、どうして手妻にばかり波が来て、マジックには大波が来ないのでしょうか。実はマジックそのものがもうとっくに卒業していなければいけないことをいまだに引きずっていて、自分の世界に閉じこもり、その中だけで生きてゆこうとしていることが成長を妨げているのです。そのお話は明日申し上げましょう。

続く