手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 2

天一

 玉ひで公演

 一昨日(16日)は、玉ひでの公演でした。初めが若手の演技で、前田は紙卵の手順。早稲田康平さんは、シルクや、ジャンボカードを使ったカード当てを演じました。今回から入った戸崎卓也さんはコーンとボール。これは珍しい演技です。こうした作品はこの先も是非残して頂きたいと思います。

 私は、傘手順をフルに演じ、その後、札焼き、おわんと玉、間に前田の金輪が入って、蝶で終わりました。この手順は私がイベントに頼まれたときのフル手順です。普通に演じて50分かかります。今回、お正月の初公演ですので、先ず、メイン手順を演じました。次回からは何作か差し替えて演じます。何にしても舞台に出る機会が少なくなり、こうして玉ひでに出ることが貴重です。この先もずっと演じ続けて行きます。

 

天一 2

 そもそも天一一家が世話になった阿波黒崎村の西光寺とはどこにあるのかと言うと、兵庫県、淡路島、徳島県とつながる高速道路が、四国に入ってすぐのところで、私は一度行ったことがありますが、今でも人が少なく、山がちで、向かいは鳴門海峡で、恐らく江戸時代なら、半農半漁、農と言っても殆ど米は取れないでしょう。多くは、塩田を作って生計を立てるような村だったと思います。

 天一は唯阿上人から厳しく学問を仕込まれたのですが、いかんせん狭い村の中で暮らすのは退屈だったのでしょう。悪さの限りをして、結果勘当されましたが、当人はむしろ大喜びで寺を離れたのだと思います。

 子供のころから人を驚かすことに好きな天一が、いかにして奇術師になったかと言うのは誠に興味ある話です。現代とは違い、奇術の情報は皆無です。黒崎村にいては、芝居も来なかったでしょう。ましてや手妻の一座など見ることもありません。天一は寺を離れ、引野村の安楽寺に身を寄せます。その近くに六坊と言う寺があり、六人の山伏がいて、村で狐が憑(つ)いた人があると、秘法で落としてやったりしていました。

 これは面白いと、天一は毎日出かけ、山伏の手伝いをしたりしてやがて仲良くなります。そして、印の結び方、狐落とし、剣伏せ、不動の金縛り、天狗寄せ、下馬落とし、などを学び、秘術の九字の呪文を習います。

 天一にすればこれで超能力を手に入れた気持ちになって有頂天です。早速、あれこれ試してみますが、どれもうまく行きません。村はずれの山に籠って、夜じゅう呪文を唱え、天狗寄せを試みますが、結局天狗は現れませんでした。

 これで真言の秘術は当てにならないことを知り、諦めたようです。それから先は、悪い仲間と共に、かすり、強請り、たかり坊主になって、村々を回って行きます。天一は、人生の成功を手に入れた後、半生を「新古文林」で語る中で、自ら強請り、たかりの話をあけすけなく話しています。何とも呆気羅漢とした性格です。

 葬式があると、押しかけて、死人が生前に来ていた着物をもらい受け、それを質屋に流して、酒や肴に替えたり、大きな家に上がり込んで修行僧を装い、寄付を求めたり、およそ世の中に役に立たないようなことばかりをして日々を送っていました。

 それが災いしたのか、讃岐(香川県)に行くと、ひどい下痢に罹り、身動きできなくなり、ぐれ宿(安い木賃宿)で寝付いてしまいます。仲間は看病もせずいなくなり、一人で不安に襲われます。「きっとこのまま死ぬんだ」と思い、「そうなら最後に経を読もう」。と、普門品(ふもんぼん=観音様を信仰するお経)を連日唱えていました。すると、村の人が伝え聞いて、

 「あのぐれ宿に泊まっている坊主は、まじめに毎日経を読んでいる」。と、天一を認めてくれて、様々な食べ物を差し入れしてくれたのです。それを食べると、すっかり下痢は収まります。つまり、ろくなものを食べないで酒ばかり飲んでいたから下痢をしたのでしょう。

 ここで天一が、普門品(ふもんぼん)を熱心に読んだと言うのがキーワードになります。日頃悪さをしていても、しっかり修行した証を見せれば、人は認めてくれるのです。ところで、普門品と言う、観音様を讃える経をなぜ天一が熱心に唱えていたのかと言えば、観音様とは天一にとっては亡き母親、音羽のことなのでしょう。

 

 天一は8歳で死別した母親のことを生涯忘れることが出来なかったようです。天一は、後に、音羽と名乗る手妻師に弟子入りして、自らも音羽を名乗ります。そればかりか、娘や、弟子にまで音羽の名前をつけます。

 貧困の中でろくな食べ物もなく、医者にも見せず、衰弱して亡くなって行く母親を、8歳の天一はどうすることもできず、ただただ現実を眺めながら悲しみに暮れていたのでしょう。その後も悲しみは消えることはなく、気持ちを紛らわすために、たかり坊主となってからも普門品を唱えることを忘れなかったのです。

 これが幸いして、普門品によって村人から命を助けられます。天一は、これを観音様のお陰と感謝して、お礼参りを思い立ちます。

 

 江戸末期に、「観音霊験記」と言う、一種の旅行マップが販売されます。これは西国三十三カ寺が詳しく書かれており、どうも天一はこの本をどこかで見て、そのルートに沿ってお参りを考えたようです。四国を出て、播州兵庫県)の書写山丹波の穴王寺(けつおうじ)、あちこち回って、京都に入ります。

 このころ、京都では、西国の大名が倒幕で兵を上げ、次々と街道を通って京都に入り宿はどこも満員だったようです。そもそもかすり坊主が人にたかって旅をしていたわけですから、まともな宿には泊まれません。やむなく霙(みぞれ)の降る中を葦簀(よしず)囲いの掛け茶屋で夜を明かし、余りの寒さで死ぬ思いだったと書いています。

 私は、「新古文林」のこの場が好きです。世間のごみのような生き方をしているニセ坊主が、おりしも明治維新に遭遇して、次から次とやってくる西国の侍の行列を眺めながら、凍える思いで葦簀の中で必死に耐えて夜を明かす姿。葦簀から眺めた明治維新が、天一にはどう映ったのか、興味が尽きません。後の世に名を成す人でも、若いうちは、どうしようもない生活をしているのです。そして、その暮らしの中から何を見て学ぶかが、その人の人生を決めるわけです。

 この時が明治維新なら、慶応4(1868)年。天一15歳です。

 とにかく天一は、美濃の谷汲(たにくみ)までお参りをして、それから来た道を戻って、帰路、淡路島に行きます。淡路を超えればそこは黒崎の西光寺です。無論勘当されていますので、寺には戻れません。近くには仲間もいたことでしょう。仲間を頼って何か仕事を探そうと考えたのでしょう。

 ところが淡路島の片田村(淡路島の西南)に竹の子の岩吉と言う、名前を聞くだけでも怪しい仲間が住んでいました。この岩吉と再会することで天一の人生は大きく変わって行きます。竹の子の岩吉や、この後出て来る異人妾(いじんめかけ)のお秀など、世の中の底辺の人間が次々出て来て、読んでいてワクワクします。その話はまた明日。

続く

天一

天一

 私は今から10年前に松旭斎天一の人生をまとめて、「天一一代」と言う本を出しました。日本の歴史の中で、最も成功した奇術師と言えば、江戸時代なら柳川一蝶斎、明治時代なら、松旭斎天一、大正昭和なら松旭斎天勝です。

 天勝は亡くなった後も、芝居になったり、小説になったりして、今日まで長く語られていますが、悲しいかな、他の奇術師は、誰も書こうとはしません。そこで私は手始めに、天一を調べ、天一の人生を一冊の本にしようと考えました。

 そして、資料集めのために天一の生まれた地、福井に何度も行きました。そのご縁で知り合った方々とは今も交流があり、年に一度、天一祭と言う催しを福井市内で開催し、私は毎年福井に出かけています。

 天一は自伝の中で、嘉永5(1853)年、「越前福井で武士の家に生まれた」。と言っていましたが、調べてみると、福井藩士ではなく、福井藩の家老、狛(こま)家の家来、牧野と言う家に生まれています。狛家は、大名町と呼ばれる大踊りの交差点、福井銀行本店の所に大きな屋敷を構えていました。

 そこで、日本奇術協会では、大名町に石碑を立てることにしました。今も福井銀行の玄関を出た左側の並木に天一の碑が立っています。奇術協会が石碑を立てたのはこれが後にも先にも初めてのことでしょう。

 牧野は、祖父も父も剣道の腕前が優れ、街なかに道場を開いていました。天一も、もし何事もなければ、親の道場を継いで、剣の道で生きて行ったことでしょう。ところが、天一5歳の時に何かの理由で父親海平が不始末をし、家は取り潰しになります。天一は後年、事件を、酒の席での失敗と言っていますが、本当のところは分かりません。

 ここから天一の長い流浪の旅が始まります。翌、万延元(1860)年、両親と天一、姉、それに叔父と妻、叔父の息子と妹の7人は、海平の弟が、阿波(徳島県)の鳴門で寺の住職をしており、その唯阿上人を頼って阿波に行きます。

 武士の家では、子供が多いと長男は後を継ぎ、あとは、養子に出すか、家に残って後継ぎの家来になるか、寺に入って坊さんになるかのいずれかを選択しなければなりません。唯阿上人は末弟でしたので坊さんの道を選んだわけです。

 阿波での生活は相当に厳しいものだったようです。寺としても、自分たちが生きて行くのさえギリギリの状況だったと思いますが、親戚だと言う理由でいきなり7人もの人が増えたのではどうにもならなかったでしょう。翌年には貧困の中を母親の音羽が亡くなり、更に翌年に父親が亡くなりました。天一のみがすくすくと育ったのです。

 天一は唯阿上人から読み書きを習い、一通りの教育を受けます。勉強のできる子供だったようですが、無類のいたずら好きで、しかもそのいたずらが度を越していました。

寺の本堂に屋根に上がって、棟瓦の上で逆立ちをして見せたり、仲間の坊主と一緒に、弘法大師の真似をして、鳴門の海沿いの絶壁にある洞穴に籠って断食をして見たり。

面白がって始めた断食でしたが、食べ物もなく、空腹で動けなくなり、あわや命を落とすところまで行きました。

 そこを漁師が船を漕いでいると、風に乗って鐘の音がしました。そのわずかな音に誘われ、洞穴から天一を救出して、寸でのところで助かりました。

 この時代にお陰参りと言うものが流行し、空からお札が振ってきて、村人がそれを見つけると、「それ神様のお告げだ」。と言って、「えぇじゃないか、えぇじゃないか」。と踊り出し、村人がそっくり一文の金も持たずに、伊勢参りに出かけてしまいまうと言う、何とも無謀な信仰が日本中の流行になって、街道と言う街道にお陰参りの一行が連なるようになります。

 その噂を伝え聞いて、天一はこれは面白いと、お陰参りを試してみようと考え、先ず白い着物を自分で縫い、狐の仕業に成りすまし、本堂の屋根から、自分で書いたお札を撒きます。お札だけでは信憑性が薄いのではないかと余計なことを考え、賽銭箱から小銭を盗み、銭まで撒きます。すると、お参りに来た村人がそれを拾い、驚いて、「それ、神のお告げだ」。と大騒ぎを始めます。

 唯阿上人は、自分の寺でお札がまかれると言うことを怪しみ、これは日ごろ屋根に上がって逆立ちをしている天一の仕業と推測し、天一を捕まえて白状させます。こうした悪さが繰り返されて、ついに唯阿上人は持て余し、天一を勘当します。これが天一13,4の頃です。

 ここからは、「新古文林」と言う雑誌に、天一自らが半生を書いたものがあります。天一自身が語ったものを文章にしたため、内容は怪しい部分がたくさんあります。然し読み物としてはまことに楽しいものです。以後、天一は托鉢坊主に化けて日本中を旅することになるのですが、すみません。今日は玉ひでの公演があって、もうじき出かけなければいけません。天一の度はずれた修行はまた明日。

続く

 

 

スウェーデンはどこへ

スウェーデンはどこへ

 

玉ひで公演

 明日(16日)は今年初めての玉ひでの公演です。今年も毎月一回公演いたします。

私の演技の前には、前田、早稲田康一さん、戸崎卓也さんが出演します。戸崎さんは、今回が初めてですが、今後も、二か月に一回ずつ出演していただきます。玉ひでも時節柄、座席数を半分にして、消毒、検温などを徹底して公演しています。

 何にしても現在、舞台のできる場所が不足しています。私も、若いマジシャンも、このままでは演技を披露すべき場所がないまま消滅してしまいます。そうならないために、毎月の公演をしています。2月22日には久々に神田明神エドッコスタジオが復活します。何とか私のつてで、舞台ができるように工夫しています。

 どうぞマジック愛好家の皆様、一度足をお運びください。

 

 

スウェーデンはどこへ

 昨年3月、欧州各国がコロナウイルスの影響で、ロックダウンをする中で、スウェーデンのみが、「ロックダウンには根拠がない」。として、ロックダウンを否定して、国家間の行き来も規制せず、飲食店の営業も大きな規制を設けず、比較的自由な経済活動をしていました。

 スウェーデンには、ヨハン・ジェセック教授と言う、世界的に権威のある細菌学の教授がいて、教授の提言を受け入れて、国としてはあまり規制を掛けずに、経済を守りつつ、コロナの対策を考える方法を模索したのです。そのことはスウェーデン国民も支持していて、これまで緩い規制で日々を送っていたのです。

 ところが、第二波の感染が大きくなり、12月に至って、スウェーデン国王のグスタフ王が異例の声明を出し「スウェーデン方式は間違いだったのではないか」。と言うのです。日本と同様に、王(日本では天皇)が政治に口を挟まないことは慣例として守られていただけに、国内で波紋を呼び、スウェーデン方式は修正を余儀なくされています。

 然し、だからと言って多くのスウェーデン国民がロックダウンを望んでいるわけではありません。修正はあっても依然として、ジェセック教授は支持されています。と言うのも、今のコロナの大流行が続くのは、恐らく3月までだろうと予測されているためです。つまり温かくなれば、ウイルスは自然に減少すると考えられているのです。

 しかも、ワクチンが開発されれば、人の動揺もおさまり、徐々に通常の生活に戻って行くだろうと予測している人が多いのです。

 そうならあと二か月、スウェーデン方式が維持されれば、その結論が出るはずなのですが、周囲の反対者に押され、国王に危惧され、修正を余儀なくされています。

 

 もともとスウェーデン方式と言うのは、イギリスフランスのような、ロックダウン方式に反対してできたものです。「ロックダウンは意味がない、一時的に感染者が減少しても、ロックダウンを解除すればすぐにまた感染者が増える」。と言うものです。実際、夏に感染者が減少した後も、秋になって、またぞろ感染者が増えて行ったわけですから、ロックダウンは社会が疲弊するばかりで、効果は大して望めなかったことになります。

 実際多くの研究家の間でも、ロックダウンは失敗だったとする人が多いのです。日本は、ロックダウンこそしませんでしたが、自主規制と言う、半ば強制的な規制のお陰で、学校が休校になり、その後遺症は今も続いています。大学では未だ授業が殆ど再開されていません。そのため、クラブ活動も出来ず、スポーツ界も、またマジック界も、次の新人が出て来ないまま、継承も発展もままならずにクラブの維持すら危うくなるような打撃を受けています。

 コロナウイルスは、そもそも感染しにくいウイルスです。しかも若者に感染しくいウイルスです。それは初めから言われていたことなのに、学校を休校する理由なんてなかったのです。

 しかも、日本の場合は、ロックダウンではなく、自粛要請です。自分の判断で自粛をしているわけで、国の決定ではありませんから、保証が出ません。おかしな話です。自粛要請をするくらいなら、むしろロックダウンをしてもらったほうが、被害者の救済には役立ったはずです。自粛要請はあまりに中途半端な判断です。

 多くのマジシャンは、自粛要請で、10万円の支援金を貰いましたが、1年で10万円では生活ができません。生活できないまま、また今年に至って緊急事態宣言が出ています。どうやって生きて行ったらいいのでしょう。言葉ばかりが先行して、人の生活が無視されては生きては行けません。

 そうなら、スウェーデンのように、緩い規制で国の経済を守りつつ、コロナに対応して行くことのほうが賢明なはずです。何にしても今のやり方は中途半端です。飲食店の支援にしても、一軒一日6万円と言うのは、夫婦で営業している飲み屋さんならその支援金でやって行けるでしょうが、何人も人を使っている飲食店では何の足しにもなりません。その状況で、8時以降、営業をしてはいけない、営業したら店の名前を公表する、罰金を設ける。とは、何を言っているのでしょうか。

 罰則ばかりが先行して、保証が全くできていないではありませんか。飲食店に関連して、農家、出入りの企業、芸人はどうなりますか。

 

 コロナが爆発的に発生して、危険な状況にあると言いますが、本当ですか。昨年一年間の日本の死亡者の数は、コロナが流行する以前よりも減少しているのです。なぜ減少しているかと言うなら答えは明らかで、みんながうがい手洗い、マスクをするために、風邪や、肺炎、インフルエンザが流行らなくなってしまったからです。

 それは誠にめでたいことです。然し、その分、コロナが爆発的に増えたかと言うと他のウイルスが縮小した分を超えるほどには増えていないのです。

 更に、コロナウイルスで亡くなった人の平均年齢は、日本人が他の病気で亡くなる人達よりも高齢なのです。そうであるなら、コロナの死者は、ほとんどの場合が、高齢者か、持病がある人たちが亡くなっているのです。その人たちは、コロナだから亡くなったとは言い切れません。風邪でも肺炎でも、罹ればかなりの確率で命を落とす人たちなのではありませんか。

 無論みんながみんなそうだとは言えません。然し、数年前、インフルエンザが日に4万人も感染していた時でも、年末正月の宴会は続いていましたし、テレビはインフルエンザの感染者数をニュースにはしなかったのです。これから考えるなら、今のコロナの報道の仕方は異常です。この先、2月末にワクチンが出回り、3月になって、暖かくなれば、感染者は自然減少するでしょう。多くの医師もそう考えているようです。

 もう少し冷静にコロナを見守る気持ちが必要だと思います。

続く

 

カムイコタンの初雪 3

カムイコタンの初雪

 

 北海道を年に2回、キャバレー出演で回り始めたのとほぼ同じころ、九州四国中国地方のショウの出演をしているうちに、この地域のアマチュアさんと親しくなり、指導をすると、予想以上に喜ばれ、「年に2,3回指導で来てくれませんか」。と言う依頼を受けました。この時代、ステージマジックを指導するプロは殆どいなかったのです。

 前にもお話した通り、当時のプロは、15分の手順を2本持っていれば、20年でも30年でも生活して行けたのです。このため、自身の手順以外のマジックを研究すると言う人が少なかったのです。

 私は、指導をするのではなく、仕事の合間に地方のプロやアマチュアを訪ね、珍しいマジックを知っている人や、資料を持っている人を訪ね、授業料を支払って、マジックを習っていました。当時、私のように、人を尋ねてあれこれマジックを習いに行く、と言う人は私の知る限り見当たりませんでした。

 海外に出かけた時も同様で、実力あるマジシャンにレッスン料を支払って、マジックを習いました。そうしたことが、徐々にではありますが、自身の知識を増やしていったと思います。

 学生だったころは指導を躊躇っていましたが、その後、指導を熱心にするようになりました。九州四国中国地方の12か所のマジッククラブとつながって、年に2回乃至3回、指導して回るようになりました。初めは、イベントやキャバレーの仕事が来ると、それを核にして指導をしていましたが、12か所のレクチャーコースができると、もう、交通費の心配をせずにいつでもツアーが出来ました。

 

 少し話がそれましたが、北海道は、一度出かけると、仕事の本数が多いため、安定して指導をして回ることが出来ました。私は、特別指導をすることに思い入れがあってしていたわけではありません。当時の私は収入が欲しかったのです。年に2回のリサイタルは、出費が大きく、一回に100万円以上の費用が掛かりました、二回で年間200万円です。簡単には作れません。海外旅行も費用が掛かりました。それを北海道と、九州の収入で賄っていたのです。

 私は大してうまいマジシャンではありませんでした。然し、人付き合いを大切にすることと、ちょっとした工夫を常に演技に取り入れることで、周囲の信用を得ていました。大した工夫ではないのですがキャバレーの社長さん等に可愛がられて、キャバレー以外でもよく仕事を貰いました。刑務所や、老人施設、孤児院の慰問などもしました。

 私はそこそこいい稼ぎをしているマジシャンだったのですが、常に収入は不足していました。「なぜこうもお金が足らないんだろう」。といつもあくせくしていました。でも考えて見たなら、こうしたことは私に限らず、何かを成したいと思う人は、常にお金が足らないのでしょう。

 北海道は大学在学中からキャバレーに出ていましたが、26くらいになって、いつまでも地方のキャバレーに出演し続けていていいのか。と自分自身を攻め立てる、もう一人の自分が心の中に生まれて来ました。「安易な仕事を続けていて、この先どうするのか。自分は本当は何がしたいのか」。と、心の声が聞こえてきます。

 その声は、アメリカでレクチャーツアーをしていた時にも聞こえました。北海道や九州でしていた指導旅行と同じことを規模を大きくしてアメリカでもやっていたのです。然し、私は指導家になることが目的ではありません。マジシャンとして、独自の世界を作りたかったのです。徐々に、キャバレーの仕事に限界を感じるようになりました。

 

 26歳の時に、岩内のキャバレーに出演しているときに、昼間が暇でしたから、丘の上にある道営温泉に行きました。日が暮れ始め、岩内湾を見渡せる湯船につかっていると、イカ釣り船の灯りが湾内のあちこちで灯されます。北海道ならではの光景です。

 そこへ、脱衣所から、武田鉄矢さんの唄で、思えば遠くへ来たもんだ。と言う歌が流れて来ました。「思えば遠くへ来たもんだ、この先どこまで行くのやら」。何の意識もないまま聞いていました。そしてなぜか涙が止まらなくなりました。

 今キャバレーに出演して、昼にマジック指導をする生き方には何の不足もありません、然しこれをよしとしていては先がない。ここは生き方を変えようと決心します。

 

 黙阿弥の芝居に、「いかけ松」と言う芝居があります。まじめな鋳掛屋(穴の開いた鍋に鋲を打って直す仕事)の松五郎が、仕事を終えて、夕暮れ時に両国橋を通ります。橋の下には屋形船が通っていて、よく見ると、自分と同じ年頃の若者が、何人もの芸者を上げて、屋形船を仕立てて遊んでいます。それをじっと見つめていた松五郎が、「あれも一生(と言って相手の姿を見つめ)・・・これも一生(と言って、汚れた身なりの自分の姿を見つめ)」つぶやきます。そこへ団扇太鼓を激しくたたいて、日蓮宗の一行が通りかかります。宗派と自分の境遇を掛けて、

「こいつは宗旨を(チョーン)替えにゃぁなるめぇ」。と言って序幕が閉まります。こうして松五郎は江戸一番の盗人になって行く、その発端が、両国橋の場です。

 この時、岩内湾を眺めていた私は、木頭こそ入りませんでしたが、この時にキャバレーを止める決心をしました。別段、盗人になろうと決心したわけではありません。

 

 その後、旭川のキャバレーに出演し、ここが北海道の最終日でした。頃は9月です。まだかろうじて冬にはならず、何とか夏タイヤで苫小牧まで帰れるだろうと考えていました。三日間のショウを終えて、深夜に国道を車で走っていると、カムイコタンにさし掛かります。随分と寂しい所です、道は緩い上り坂です。

 「これ位の坂なら何でもない」。と思って上って行くと、雪が降ってきます。道は深夜で凍結しています。それでももうじき峠だと思っていると、車が止まり、徐々にバックしだします。アクセルを押してもタイヤは空回りするだけです。結局車は坂の始めまで戻ってしまいました。少し心が不安になって来ました。

 「よし、もう一度」。アクセルをふかし、再度上ります。この坂道はかなり長い直線です。峠を目前にして、またも車はバックします。国道で、しかも幹線道路です。もしトラックや乗用車が来たなら大事故になります。誰も来なくて不幸中の幸いでした。

 そこで一つ工夫をして、坂よりも前、200mくらいまで戻って、そこから加速をして上って見ました。以前の定山渓のスピンの一件もあります。あの危険を再度繰り返したら、今度は助けもないまま凍死してしまいます。

 幸い登り切りました、そこから苫小牧までの道は200キロ以上あります。深夜で、国道が凍結していて、行きかう車も殆どありません。それでも何とか無事に苫小牧までつきました。こうして私の北海道のキャバレーの仕事は終わりました。今では楽しい思い出です。

カムイコタンの初雪 終わり

カムイコタンの初雪 2

カムイコタンの初雪

 

 さて、北海道の仕事をするためには車で道内を回ることが最適だと判断しました。私は学校を出てすぐに中古のブルーバードのワゴン車を買い、どこにでも乗って行きました。この車はボロでしたが、故障もせずよく走りました。然し、北海道を乗り回すのは躊躇していたのですが思い切って車で行ってみることにしました。

 カーフェリーで東京を立ち、船中で一泊、翌日昼に苫小牧に付きます。そこから札幌に向かいます。途中、定山渓を超えます。9月の初めでしたので、まだ夏タイヤで大丈夫だろうと考えていましたが甘かったです。

 定山渓の峠の登りまでは雪もなかったのですが、下りになったところでいきなり 国道に雪が積もっていました。車は雪に足を取られ、慌ててブレーキを掛けましたが、ここはブレーキを掛けてはいけません。車がスピンして、車は二回転しました。ようやく止まったと思ったら、ガードレールに乗り上げて、車のボンネット部分がガードレールからはみ出していました。

 一瞬命が亡くなったかと思いました。周囲を見ると車はガードレールの上に乗り上げて崖で止まっていました。取り合えず車から出ようと思いましたが、自分自身がどういう状況にいるのかわかりません。ドアをそっと開けて下を見ると、運転手の座席位置は道路側にありました。いきなり崖に転落することはないようです。

 しばらくこのまま、どうするか考えていました。窓から見える景色は定山渓の崖で、秋の美しい景色です。遠くに札幌の町が見えます。多分あと20キロも行けば市内に着くでしょう。でもどうしていいかわかりません。

 

 するとそこに、劇団の座員を乗せたハイエースが通りかかりました。私は窓を開けて手を振りました。劇団員は降りてきて、「東京から来たんだね。今頃が雪の降り始めだからね、こういう事故はよくあるんだよ」。と言いながら、団員数人が車の先端を担いでくれて、車道に戻してくれました。見ると車は前が大きくつぶれていました。

 「ちょっとエンジンをかけてごらん」。と言われ、エンジンをかけると動きます。「大丈夫だ、良かったなぁ」。然し、ブレーキが全く効きません。すると、座長と思しき人が、つぶれたボンネットを開けて、「あぁ、ブレーキのばねが取れている」。と言って、どこをどうしたのか、ばねを取り付けてくれました。

 「ばねの頭が壊れてしまって、ばねが外れてしまったんだ、仕方ないからばねを引っ張って、途中で止めてある。ブレーキの効きはきついかもしれないけど、どうせあと一時間で札幌に着くから、そこで修理してもらったらいいよ」。そう言うと、一座の車はすぐに行ってしまいました。名刺ももらうことも出来ず、お礼もそこそこで、申し訳なく思いました。

 車はフロントが潰れて、ブレーキのばねは恐ろしくきつくなって、情けない恰好で、とにかく札幌の修理工場に行きました。荷物を持ってタクシーでホテルに行きました。翌日は札幌のキャバレーでしたから車の必要はありません。三日後に小樽に行きました。これは列車で行くしかありません。三日後、小樽から帰ると車の修理が済んでいました。車がスピンしたときは一体この先どうなるのかと思いましたが、それほどのこともなく、不幸中の幸いでした。

 さて、車で移動するようになって、フットワークが軽くなり、私は、昼間の空き時間に地元のアマチュアさんに指導をすることにしました。これは東京にいるときに事前に、トリックスと言うマジック用具のメーカーに頼んで、よくマジックの道具を買う顧客のリストを見せて貰い、手紙を出しておきました。すると、何人か、返事が来て、個人指導や、クラブの指導を求めてきたのです。

 私の行く先は、札幌、小樽、滝川、旭川、留萌、名寄、帯広、釧路、などです。廻っている間は無収入です。仕事を終えて東京に戻って初めて収入になります。

 一か月も回っていると持ってきた小遣いも心細くなってきます。ましてやこの時のようにいきなり初日に車を壊してしまうと、修理代だけでも大きな出費です。そんな時に、個人指導や、クラブ指導などがあるとずいぶん助かります。

 留萌には、マジッククラブがあって指導をしました、小さな町でしたが、15人のメンバーがいました。会員は誰からも習うことなく自分たちだけでマジックをしています。こうしたクラブにはありがちですが、ハンカチのフォールスノット(ニセ結び)が出来ません。基礎指導でしたがとても喜んでもらえました。

 別の日には川に鮭が遡上すると言うので会員さん見連れて行ってもらいました。川はさほど大きなものではないのですが、びっしり黒い鮭が群れを成して上っていました。網ですくえば軽く捕獲出来ますが、勝手に取ることは許されません。

 旭川ではマジックラブで指導をしました。会員は30人くらい。またクラブに所属しているお医者さんが個人指導を希望しましたので、翌日、病院に伺いました。休憩時間に院長室でマジックを指導します。今まで誰もプロが尋ねて来ることはなかったので、全く自己流のマジックす。少し教えると見違えるように上手くなりました。

 夜には、仲間のお医者さんとキャバレーに来てショウを見てくれました。翌日はその別のお医者さんの病院に行き、マジック指導をしました。結局連日お医者さんの指導をして、夜にはお店に来てくれました。

 名寄では中央病院の院長さんに呼ばれて、やはり院長室でご指導しました。この院長さんはリングのマジックが好きで、私の12本リングを気に入り、毎晩店に見に来てくれました。帯広でも、釧路でもアマチュアさんとお会いして、ご指導をしました。

 そうしたマジック愛好家とは、その後、年賀状や、手紙のやり取りをすることになり、半年後にまた、私が北海道に行くときには決まって店に来てくれました。今考えると、当時私よりも20年も30年も年上のアマチュアさんが随分面倒を見てくれました。

 当時のマジック愛好家は、お医者さん、政治家、弁護士、など、その町でかなりいい生活をしている人が多かったのです。そうした人たちが、応援してくれて、食事をご馳走してくれたり、病院のパーティーなどに招いてくれて、ショウを依頼されたり、随分親身になって世話をしてくれました。

 そこで得た収入は、北海道を回る経費になりましたし、また、毎年海外の世界大会に出かけるときの費用にもなりました。なんせ当時は一ドル280円でしたから、ちょっとアメリカに行っても40万円くらい経費がかかったのです。いくら北海道でいい稼ぎをしていると言っても、海外費用は簡単に作れるお金ではありませんでした。

 また当時、春と秋にはリサイタル公演をしていました。そこで新作のマジックを発表しなければならず、道具代、会場費など大きな費用が掛かりました。また衣装も年に一着は作りたい。和服も欲しい。お金はいくらでも必要でした。

 それら全てを賄うには、どうしてもアマチュアのお客様と仲良くして、支援してもらわなければなりません。そのため、私はいつも自分の情報を手紙にして、日本中のお客様とやり取りをしていました。それは今も続いています。

 私がこうして、文章を書くことをいとわないのも、若いころから手紙を毎日何通も書いていたためなのです。生活習慣なのです。

続く

カムイコタンの初雪 1

カムイコタンの初雪

 

 またも古い話になりますが、私が20代でキャバレーに出演していたころ、北海道のキャバレーには毎年2度ほど出かけていました。一度出かけると、約一か月、道内を回ることになります。大学を卒業してすぐのころ、私は東京で一日、一晩に二回キャバレーに出演して、一万円のギャラを貰っていました。

 当時は、日本中で200人くらいのマジシャンしかいませんでしたから、若くて、見てくれが良くて、スライハンドが出来て、燕尾服が似合えば、キャバレーは大忙しでした。私は毎月20日くらいキャバレーの仕事をし、寄席やパーティーの仕事も合わせると、30万円近い収入を得ていました。

 昭和52年ごろ、当時の大学出のサラリーマンの月収が5万円くらいの時、ただマジックができると言うだけの23歳の若者が30万の収入を上げていたのです。

 北海道に行くと、一か所のお店を三日ずつ、月火水、と出演し、翌日、別の町のキャバレーに行き、木金土、と三日出演します。場所は、小樽、旭川、帯広、釧路、あらゆる町に出かけます。そして、日曜日は札幌に行き、事務所が取ってくれているホテルに泊まって、その晩は休みです。

 当時すすき野の町を歩いていると、たくさんの芸人さんに会いました。勿論マジシャンもたくさん歩いていました。マジシャンやお笑い芸人を見つけては、よく一緒に飲みに出かけました。

 

 北海道は、ひと晩3回ショウを演じますし、地方公演と言うこともありますので、一日1万2千円貰えました。そして、25日間びっしり仕事をしますので、道内を一回りすれば2か月分の収入がありました。勤め人の何倍もの収入になって、知らない町に行き、毎日ショウをするのですから、こんな面白い事はありません。

 但し、一晩に3回の舞台と言うのが大変です。当時のマジシャンは1回15分の演技を2つ持っていました。本土の町の公演なら手順は2つあれば十分なのです。然し、北海道だけは3回やらなければなりません。

 なぜ3回なのかと言うと、北海道では夕方6時から店が開いて、12時まで6時間みっちり営業するのです。そしてその間6時間酒を飲み続けているお客様が少なからずいるのです。小さな町だと、他にキャバレーもなく、綺麗なお姉さんがいる店も少ないし、外は寒いので、一か所にお客様が入り浸るのです。

 そのお客様から、店はショウチャージを取るために、一晩3回ショウをするのです。多くのマジシャンは、1回目と2回目はショウの内容が違いますが、3回目は元の1回目の手順を演じます。ところが一か所に3日いるわけですから、お店のホステスは、同じショウを最大6回見ることになります。そうなると、ショウの興味が薄れ、ついつい雑談が増えて、お客様もショウに集中しなくなります。

 私はこれではいけないなと思い、三本目の手順を作りました。つまり、鳩出しとカード、ゾンビボールの手順。ロープ、シルク、12本リングの手順。そして和服を着た手妻の手順。更に、それぞれの手順の真ん中に喋りの演技が入りますが、それをすべて、3日間取り替えて、9手順作りました。そうなると、道具、衣装、譜面、自分の着替えで、荷物が膨大な量になりました。スーツケース2つ、鳩の篭、譜面の入ったバッグ。衣装ケース。全部で5つの荷物です。50キロ近かったと思います。それでも20代前半の私は元気だったのです。荷物の重さもなんとも感じません。

 ある時、雪で飛行機が遅れて、そのまま千歳から列車に乗り、札幌駅に着いたら、私が乗る北見行きの特急が発車3分前でした。これに乗り遅れると次の特急は三時間後になります。そうなると、北見のキャバレーの1回目のショウが間に合いません。

 そこで、列車が札幌駅に着いた途端、5つの荷物を持って北見行きのホームまで階段を上がり、全速力で高架を突っ走りました。今でもその時のことを思い出しますが、信じられないくらいホームが遠かったことを覚えています。とにかく高架を走っていると特急の発車ベルが鳴り始めました。「まずい」。あわてて、階段を飛び降りるようにして、特急に飛び乗った瞬間、特急のドアが閉まりました。間に合ったのです。

 間に合ったのですが、ドアの内側でへたり込み、そのまま30分間動けませんでした。火事場の馬鹿力と言いますが、まさにそれで、あまりに重い荷物を持ち続けて走ったため体が動きません。これほど苦しくつらい思をしたことはありませんでした。

 北見に着くと町はマイナス18度でした。人通りはありません。然し、お店は早くから満席でした。新規手順をたくさん持って行ったため、お店は大喜びです。特に3回目のショウは、着物ですから、ホステスは歓喜して見てくれました。

 すると三日目に、社長が、「あんた、評判いいから、明日も残ってマジックしてくれる?」と言います。「でも明日は日曜日ですよ」。「うちは一年中休みがないの、だからあんたが残ってくれたら、一日分は明日現金で渡すよ」。

 いい話です。そこですぐに札幌の事務所に日曜のホテルのキャンセルを伝えました。私は三日目も喋りの内容を変えて演じたため、店は喜んでくれました。そして、社長から封筒を貰ったのですが、開けて見ると、2万6千円も入っています。「どうしてこんなにくれるのだろう」。とにかく余分に貰ったお礼を社長に伝えると。「いや、一日分を渡しただけだよ」。と言います。

 そうなんです。よく考えて見たなら、私を使って札幌の芸能事務所が3割儲け、東京の事務所が3割儲けていますので、26000円の金が巡り巡って私には1万2千円になるのです。

 さてそれから、行く店、行く店、日曜日も使ってくれて、更に、4週間の予定が一週間伸びて、たくさん収入を作って東京に帰ってきました。しっかり仕事をすれば、十分報われることに気付き、それ以後、私は、車で荷物を運ぶことにしました。車でカーフェリーに乗り、苫小牧まで行き、道内を一か月ショウをして回るようになりました。

 事務所からもらう交通費は、車の経費を考えると、半額くらいにしかなりませんが、向こうに行ってしまえば、移動は楽ですし、何より、あの札幌駅の特急に乗るための全速力疾走がトラウマとなって、費用はいくらかかっても以後は車移動と決めました。

 ところが、そこで冬タイヤを持たずに走行したため事故を起こします。その話はまた明日。

続く