手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

緊急事態宣言

緊急事態宣言

 

 問題の根は何か

 物事の根本がよくわからないまま、世間の騒ぎに乗せられて、みんな生活に大きな支障をきたしています。問題の根は何かがよくわかりません。医師が大騒ぎしていることをここに並べてみましょう。

 1、病床数が足らなくて、医療が崩壊寸前だ。

 2、感染者が激増して、このままでは危険。死者が増える。

 3、変異したウイルスが猛威を振るう。

 

1、医師が病床数が足らないから医療が崩壊する。とテレビで訴えかけています。一体誰に訴えているのでしょうか。1年前からコロナウイルスの騒動が始まって、今に至って、病床数が増えないのは、誰に問題があるのですか。病床数に関しては、イギリスや、フランス以上のベッド数を持っている日本が、イギリス、フランスの10数%しかいないコロナの感染者を受け入れられないのは、病院が感染者を拒否しているからではないのですか。特殊な設備がないなどの理由を盾にして、いつまでたっても病院自体を改善しないから病床数が足らないのではありませんか。

 それなら、医療崩壊をテレビで叫ぶのではなくて、身内の医師に喚起すべきことでしょう。現実には、医療体制の整った大病院は、患者が押し掛け、スタッフが不足して、ひっ迫している状況であるのに、一般の町医者は、みんなが手洗いうがいをするために、風邪を引いたり、インフルエンザにかかる患者が激減して、病院は閑古鳥だと聞きます。

 そうであるなら、設備の整わない町の病院の医師と、看護婦を、大病院や、コロナ患者の収容施設に移ってもらって、初期の感染者の対応をしてもらえば、まだまだ緊急事態に至るほどではないのではありませんか。

 

2、感染者の激増

 日本の感染者は累計で25万9000人。ドイツは、170万人です。死者はドイツが35000人、日本は3821人です。死者数で言うならドイツの10分の1です。数で見て、日本がどれくらいの感染者に至ったなら、非常事態になるのかが全く示されていないまま、非常事態宣言を出すのは意味がわかりません。

 

 これまでの1年間の死者数が3800人と言うのは、特別な数字ではなく、緊急事態ですらありません。交通事故の死者が4000人とも5000人ともいわれている中で、一つのウイルスの死者が3800人は、自然死と同じレベルです。実際、コロナに罹って亡くなる人の平均寿命は日本人の一般的な平均寿命よりも高齢なのです。コロナだから早死にしたと言う話ではないのです。

 そもそも、人がなくなる原因は、老化プラス、持病、それに風邪や肺炎、インフルエンザ等に罹って体調が悪化したときに寿命を終える人が圧倒的に多いのです。今回は、風邪や肺炎がコロナウイルスであるだけで、コロナは風邪の一種であるわけですから、ことさら大騒ぎして死者の数を数えるほどの話ではないはずです。

 羽田雄一郎参議院議員が病院に行く途中で急死したと言うニュースは、ニュース自体に問題ありです。あの死に方は明らかに心筋梗塞です。元々心筋梗塞の持病があった羽田さんが、コロナに罹り、心筋梗塞で亡くなったと言うのが原因でしょう。死因は心筋梗塞です。そうでなければそんなに簡単にコロナ患者は亡くなりません。

 

 数年前に、インフルエンザが毎日4万人感染者を出していた時から思えば、コロナが一日3000人を超えたことでなぜ大騒ぎをするのかがわかりません。実際、昨年のコロナ感染者、累計25万人のうち、20万人以上が回復して仕事をしています。重症患者は800人弱です。日本の人口を考えると、風邪の感染者よりもはるかに少ないくらいです。なぜこれを大騒ぎするのかがわかりません。

 

3、変異したウイルスが猛威を振るう

 またぞろテレビが喜ぶネタが入って来て大騒ぎをしていますが、コロナが変異すると言っても、別の病気になるわけではありません。コロナはコロナです。ワクチンが出来れば、本来のコロナも、変異したコロナも同じように殲滅できます。大騒ぎをせずに冷静に見守ることです。

 テレビは連日コロナで大騒ぎをしているうちに、世の中の景気が悪くなり、このところはスポンサーを降りる企業が続出しているそうです。景気が悪くなれば、企業はコマーシャルも出せません。テレビ局は自らの首を自らの手で絞めているのです。

 

 要らぬ話題を撒いて、感染者を差別するようなことになるほうが問題です、日本では、自殺者が、3000人を超えています。コロナの死者を上回っているのです。心無い人の中傷や、会社や飲食店を廃業に追い込んだことでの自殺者が激増しています。

 コロナよりもむしろこちらのほうが問題です。国は、飲食店に休業を申し込んだならしっかりした手当の面倒を見なければ、人は生きては行けません。こちらのケアを優先してこそ初めて対策を講じていると言えるはずです。

 同様にタレントです。まったく仕事が発生しない現実を前に、いかにしたらいいか、頭を抱えている歌手、俳優、マジシャンは山ほどいます。彼らに保証が回って来るのはいつのことでしょう。才能ある人を失業させて、この先又景気が良くなったからと言って、彼らを使おうとしても、おいそれと有能な人が育つものではありません。

 今、タレントを面倒見ておかなければ、日本の芸能界は死滅します。ホテルやレストランが閉店しては、タレントも生きては行けないのです。歌舞伎と言えども観客数は激減し、この先の公演も不安です。そうなっては役者も芝居に集中できないでしょう。不倫でもしなければやってられないのかもしれません。と、またここでおかしな弁護をすると、また文句を言ってくる人があります。気を付けなければいけません。

 コロナも解決できず、飲食店従事者を失業させて、自殺に追い込んで、この国は一体何をしようと言うのでしょうか。

続く 

虎屋の羊羹

虎屋の羊羹

 

新年会

 一昨日は、恒例の新年会を中止し、代わりに、大樹と、石井裕と、前田と私の4人で、寿司屋で一杯やりました。それぞれの顔を見て、コロナの状況下でも、何とか生きて行っているようで安心しました。

 全く、年末のパーティーも、新年のイベントも発生しない状況では、マジシャンが生きて行くことは難しく、誰もが苦しんでいると思います。この先もしばらくは展望はないだろうと考えると、お先真っ暗です。私にもう少し力があれば、仲間を助けてやれるのでしょうが、今は自分が生きて行くことでやっとです。

 昭和の天皇陛下が倒れられたときも似たような状況でしたが、それでも半年のことでした。平成になったとたんにたちまち舞台仕事は復活して、山のように依頼が来たのです。平成5年以降にバブルが弾けたときは、大きく生活の仕方を変えなければなりませんでしたが、それでも、舞台の依頼が一本も来ないと言うことはありませんでした。神戸の震災の時も、東日本大地震の時も、仕事は大きく減りましたが、全く舞台がないと言うことはなかったのです。

 今回のことは、人生の中での最大の試練になるかもしれません。

 

虎屋の羊羹

 石井裕が土産に虎屋の羊羹を持って来てくれました。虎屋の羊羹は最高級の羊羹です。羊羹が二竿箱に収まって、羊羹自身は竹皮に包まれています。恐らく数百年前からこの姿なのでしょう。江戸時代は砂糖が入手しずらく、砂糖をふんだんに使った羊羹は超高級品で、羊羹一本が一分(現在の25000円)、したとか、江戸の一流菓子屋の鈴木越後では二分(50000円)したなどと聞いています。

 当然、庶民の口に入るものではなく、生涯に一切れでも食べられたなら最高の幸せと言う位の菓子です。虎屋は今も相変わらず高級品で、先ず重さが違います。通常の羊羹よりもずしりと重いのです。1.5㎝に切って、二つ、皿にのせて出てきたものを、フォークで切って食べますが、なかなか切れません。がっしりと固まっていて、簡単にフォークが入らないのです。それを一口舌の上に乗せ、ゆっくり味わいますが、黒砂糖の甘みが強く、それでいて小豆の香りがしっかりと感じられます。夜の梅、と、竹皮に書かれています。これは漆黒の羊羹にうっすら小豆の粒が見えるところが、夜に眺めた梅の花にたとえて名付けたものと聞いています。

 私は最近アルコールをあまり飲まなくなったため(本当は飲みたいのですが)、甘みを欲するようになりました。

娘のすみれと、女房の和子と、一緒に羊羹を食べて、ひと時の幸せを楽しみました。裕に感謝。

 

 さて、今日は、内視鏡の打ち合わせで、再々慈恵医大病院に行きます。才蔵のことなど書きたかったのですが、時間がありません。また明日にします。

続く

才蔵(さいぞう)1

才蔵(さいぞう)1

 手妻には才蔵と称する相方が出て来ます。手妻を演じる人は大夫と言います。大夫の対語が才蔵になります。大夫と才蔵は力関係では本来互角です。互いに力量がなければどちらの役も務まりません。

 才蔵を今日のアシスタントと考えるのは間違いです。単に道具を出す、ひっこめる、などの仕事以上のことをしなければならないからです。

 才蔵を後見(こうけん)と言い換えることも間違いです。後見と言うのは、歌舞伎や、日本舞踊で、踊り手の後ろに下がって座っていて、必要な時に小道具をさりげなく踊り手に渡す役の人です。文字の通り、目立たぬように後ろに控えていて、舞台の上にいながら、お客様に存在を感じさせないように、後ろを向いたままてじっと座って決して目立った動きをしないのが後見です。

 アシスタント、助手と言う立場の人も似たり寄ったりで、彼らは目立たぬように出て来て、道具を片付けたり、新しい道具を持ってきたりしますが、自身の存在の印象を残さないように余計な動きはしません。

 

 こうした人と、才蔵とは全く立場が違います。才蔵の仕事は多岐にわたります。口上を述べたり、横で大夫の手妻をからかったり(漫才のボケと突っ込みと同じ会話をします)。道具を片付けたり、太鼓を打って御簾内(みすうち=舞台の上手、または下手にある囃子方スペース)にいる三味線、囃子方に演奏のきっかけを伝えたり、時として何かの都合で大夫の出が遅れた時には、踊りを踊ったり、歌を歌ったり、声色(こわいろ=声帯模写)をしたり、と、あらゆる芸を見せてつながなければなりません。

 これは昨日今日入った弟子や助手でできる仕事ではなく、あれこれ芸をかじった人(元噺家、元役者、元漫才)が流れ流れて手妻の才蔵になることが多かったようです。中には、手妻の大夫をしていた人が年を取って、技量が落ちたり、顔がふけて人気がなくなると、才蔵に回って、三枚目を演じる人もあったと聞いています。

 

 実際、私が知る限りでも、昔奇術師だった人が、娘を大夫に仕立てて、自身が脇に回って三枚を演じていた人を何人も見ました。そうした場合は、舞台では大夫の方が立場が上ですが、楽屋では、大夫が才蔵の衣装を畳んだり、身の回り全てをやっていました。ギャラも、才蔵のほうが7・3の割で高額だったりします。才蔵の権限は大きく、才蔵は単純なアシスタントではないのです。

 この形式は日本の古典芸能全般に言えることで、大夫、才蔵の呼び名は、今では曲芸の世界にしか残っていませんが、かつては手妻の世界では普通に大夫、才蔵の関係は存在していました。

 江戸時代の蝶の名人柳川一蝶斎の才蔵役は、鉄漿坊主(おはぐろぼうず)と言う人が長く務めていました。三代目帰天斎正一の才蔵は息子さんの正楽が務めていました。

 正楽は元噺家で、喋りが達者でしたから、正一との掛け合いは見事でした。然し、太鼓は打たなかったようです。その掛け合いは、曲芸の大夫才蔵の語りそのもので、最も古い語りを残した太夫と才蔵でした。

 一徳斎美蝶の才蔵役は、弟さんの蝶二が務めていました。一徳斎美蝶は東京で見る最も古い形の手妻師でした(昭和40年代初頭に亡くなっています)。最後まで座布団に座って、座り芸に徹しました。もっとも、これが結果として、立って演じるパーティー会場には向かず、仕事の数を減らしていました。

 中央に台箱と言う、手妻独特のみかん箱ほどの箱状の机を置き、机の上には、手元灯り、(てもとあかり=手元がよく見えるように小さなろうそくに火をともしたもの。舞台が電気で明るく照らされていても、美蝶は生涯手元灯りをつけていました)。

 その後ろに座って、手妻をします。演技は、手妻半分、曲芸半分で、皿回しや、箱積みなどの曲芸を演じた後、延べの繰り出しをして、延べの先に火を付けます。この時手元灯りが役に立ちます。火をつけると、小さな花火が吹き上がり、観客が拍手をした途端、延べの中から大きな番傘が出て、立膝で見得を切って演技を終えます。

 この間、上手にいる奥さんが三味線を弾き、下手には蝶二さんがイボ太鼓を打って、演技のメリハリを付けます。一徳斎美蝶は私の知る限り最も古い形の手妻師でした。

 

 いま、和妻、手妻を見直して、和服を着てマジックを演じる人はたくさん出て来ました。それそのものはいいことです。然し、多くは傘出しマジックで、それは島田晴夫師のオリジナルマジックで和妻ではありません。一徳斎美蝶や、帰天斎正一の内容とはあまりに違います。

 私が苦心しているところは、手妻本来のものをどう残すかです。ここを真剣に考えなければ、この先、手妻は形骸化し、何が手妻なのかもわからなくなってしまいます。

 話を戻して、才蔵を後見と考えることがまず間違いです。古くは散楽から、放下に至る過程で、手妻は、曲芸と同じ活動をしていました。曲芸の中では、曲芸は、一つの修行に過ぎず、他に7つくらいの芸の修行が必要でした。今、太神楽曲芸協会に所属している人たちは、学ぶべき8つの芸能を子供のころから受け継いでいて、そのどれもが演じられるようになっています。

 8つの芸能とは、曲芸、軽口(漫才、漫談の類)、舞踊、神楽舞、獅子舞、笛、太鼓、三味線、他にも、手妻、軽業なども昔の修行にはあったようです。それら全てをこなした上で、曲芸をしていたわけです。古くの手妻の一座も同じでした。表から裏まですべての用事をこなせて一人前だったわけです。それは、能も、落語も同じです。

 落語のような、一人芸でも、楽屋では師匠連に衣装を畳み、出囃子で太鼓を打たり、笛を吹いたり、いろいろしなければいけません。裏方一通りを覚えて、ようやく落語を語らせてもらえるわけです。

 曲芸や手妻はそうした修行の中から、太夫、才蔵の役割を作って行ったのです。ここまで話せばお分かりと思いますが、漫才も、こうした修行の中から生まれ、分派して行った芸能なのです。

 

 手妻がマジックだけできれば手妻師と言えるわけではありません。私の所では、太鼓、鼓、日本舞踊は必修で稽古をします。それから才蔵役の口上、掛け合いの喋りを覚えます。特に今、掛け合いをする手妻師がいなくなりましたので、そこを残さなければならないと考え、演目に掛け合いを必ず入れています。

 と言っても、あまり喋りの部分が長くなると冗長になりますので、スピードアップをして、無駄を省いて進行していますが、掛け合いを喜ぶお客様が多いため、ついつい話は脱線します。それはそれでありかな、と思っています。

 弟子も、掛け合いを覚えることで、笑いのツボがわかってきて、司会等をする際に自然にギャグを入れる感覚を覚えて、役に立っているようです。

 マジシャンの中には、「マジックさえ出来ればマジシャン」。と思い込んでいる人があります。然し、そんな人がテレビでインタビューを受けると、急にしどろもどろになって、ギャグを滑ったり、余計なことを言ってせっかくの自分の価値を下げてしまったりします。つまり、喋りを安易に考えているのです。こんなところに修行の薄さが見えてしまいます。昔の芸能の修行は今もその価値は十分にあるのです。明日はその修行の仕方をお話ししましょう。

続く

 

 

新年会

新年会

近代日本奇術文化史

 年末にお話ししましたように、暮れから正月にかけて、どこにも行かず、読書を続けています。「近代日本奇術文化史」。は簡単には読める本ではありませんが、およそ半分読みました。読み物の形式ではなく、百科事典のような形式で書かれています。

 従って、面白い、楽しい、ページをめくるたびに胸がわくわくすると言う本ではありません。むしろ本の厚みを眺めつつ、「まだこんなにあるのかぁ」。とため息をつくような思いで読んでいます。然し、内容は細部に至るまで丁寧に調べられています。今までわからなかったことがかなり明らかになっています。

 特に、研究者の長野氏が、福井の人であるためか、地方新聞から、天一、天勝の活動を調べて資料として加えてあるために、地方都市での奇術師の活動が明らかになっています。今までになかった資料が数々出て来ました。

 また、秦豊吉が書いた「近代日本奇術史」の元原稿が、元々阿部徳蔵のもので、それを秦が受け継いだ経緯などがかなり詳しく書かれています。

 私にとっては新しいことが次々に出て来て、興味深かったのですが、さて、この本を読んで役に立ったとか、内容が素晴らしいなどと理解できる人が、日本中に何人いるだろうか。と考えると、そもそもが、理解者の少ないマジックの書物の中で、なおかつ、明治、大正、昭和初期の日本の奇術師の資料となると、コア中のコアな資料であるため、極く一部の人のための研究書であると言わざるを得ないでしょう。

 三人の作者の苦労を思えば、何とか世に出てもらいたいと思いますが、例えば、全国の市町村の図書館に置くにしても、価格の問題がネックとなって、なかなか購入してくれる市町村は少ないでしょう。やはり孤高の書なのでしょうか。

 

マキシマムエンターテインメント2.0

 同様に、マキシマムエンターテインメント2.0です。前書きだけでも50ページ、後書きが5ページ。前書きと後書きはとにかく読みました。ケン・ウエバーと言う人が、サイキックエンターティナーであり、催眠術師であり、いい稼ぎをして、いい顧客を持った人であることは分かりました。そして今は株の投資家であり、株の情報を顧客に流して、多くの会員を集めている人だと言うこともわかりました。

 文章を読む限り聡明な人で、やり手の企業家です。芸人臭さは微塵もありません。また、なぜ500ページにも及ぶ本(日本語訳で500ページなら、英語であれば、さらに一割、二割はページ数が多くなるはずです)を書いたかと言うことも、氏の経歴から見たなら、様々な講演で述べてきたことをまとめたものであろうと納得が行きました。

 まだ内容に至っていないので、いい、悪いは言えませんが、変なことを書く人ではないようです。もう少し読み続けてみます。

 

新年会

 今日(4日)は私の家で新年会を行う予定でしたが、コロナウイルスが広がっているさ中ですので、中止にしました。新年会は、高円寺に家を構えてから毎年続けて来ました。初めは弟子や、マジックを習いに来る生徒さん。仲間、が集まって、ささやかに料理を並べ、飲み会をしていたのですが、その後、家の表の環7通りに事務所を借りてからは、スペースが広くなったこともあり、住居と別になったために、気兼ねなく騒げると言うことで、昼から夜10時ころまで、ずっと宴会を続けていました。

 昼は、弟子と、マジックを習いに来る生徒さん。大学のマジッククラブの学生さんたち。それに仲間のマジシャンや、お付き合いの関係者が、一人、二人とやってきて、20席は一杯になります。それが入れ代わり立ち代わり延々とやってきて、宴会は続きます。多胡輝先生や、クロネコヤマトの元社長の都築さんなども見えました。

 夕方からは寄席を終えたお笑い芸人がやって来ました。ナイツやねづっちも来ました。その流れのまま10時ころまでわいわい騒いで、一日人が絶えませんでした。一番多かった年は一日で70人来ました。その都度人が来ると、乾杯しますので、その日一日の私のアルコールの量は相当なものです。私はたちまち糖尿病になりました。

 それからはアルコールを控えて、勧められる酒もなるべく飲まないようにしました。

それでも人が大勢来ることは楽しくて仕方がありませんでした。母親も毎年友達を連れてやって来ました。酒も飲まず、宴席が好きな人ではありませんでしたが、珍しい人が次々に来るのが面白いらしく、結構長い時間くつろいでいました。

 

 芸能と言うのは人気商売ですから、人が集まって来なければ値打ちがありません。たくさんの人が来ると言うのはそれだけで芸人であることの証しなのです。

 それが5年前、母親が入退院を繰り返すようになり、老人施設に入ることになりました。毎月費用が掛かるため、環7通りの事務所は閉鎖して事務所を自宅の二階に戻しました。一時は足の踏み場もないほどの家具で家の一、二階はいっぱいになりました。

 半年してようやく整理はつきましたが、とてもかつての新年会が開ける状況ではありません。それでもこの数年は、当初やっていたような小さな形に戻して続けていました。

 今年は高円寺に移ってきて32年目になります。今となっては人生で一番長く暮らした家です。母親も親父も今はいません。娘は一度結婚をして出て行きましたが、この二年は戻ってきています。娘はまだ若いので、もう一花咲かせてもらいたいと思います。人生いろいろです。何はともあれ、私の舞台活動は続いていますし、弟子も生徒も大勢います。新年会も絶やさないようにします。

 と言うわけで、表立っての新年会は中止しましたが、全くやらないわけではなく、昼から弟子が来ます。人をたくさん集めて、そこからクラスターが出たとなると、また要らぬことを言う人が出て来ます。アトリエで宴会するのではなく、今日は寿司屋で弟子と一杯やろうと思います。こうして呑気に新年を迎えられることが幸せです。

続く

 

ヒョコ 式神

ヒョコ 式神

 昨年末から、前田はヒョコの稽古をしています。ヒョコと言うのは割りばしで作った人型が、ひとりでに立ち上がって歩いたり、踊りを踊ったり、丸めた紙が、手のひらで踊ったり、腕を伝って動いたり、様々な不思議を見せます。

 ヒョコの歴史は古く、平安時代の今昔物語(こんじゃくものがたり)の中に、陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明(あべのせいめい)が、人の形に切り抜いた紙を立ち上がらせたり歩かせたりした。とか、庭の枝折戸(しおりど=簡素な扉)が自然に開閉した。などと書かれています。ちなみに今昔物語の作者は相当にマジックが好きな人だったようで、巷(ちまた)の様々なマジックを細かく見聞きして描写しています。

 いずれにしましても、ヒョコの歴史は古く、恐らくマジックの中でベスト10に入るくらいの古い術だと思います。2000年くらいの歴史はあるかもしれません。類型の作品は世界中で演じられていて、日本でも古くは 式神(しきがみ)と言い、呪術(じゅじゅつ)の中の技の一つとしても見せていたようです。また、大道でもこれを見せる人は大勢いたようです。

 ヒョコは江戸時代の伝授本にも頻繁に出て来ます。羽織の紐が蛇のように動き出したり、紙で作った相撲取りがひとりでに相撲を取ったり、紙でできた雛(ひよこ)が餌を啄(ついば)みながら歩いたり、不思議な技が何十種類も書かれています。

 

 然し、今日これを継承している人がいません。全く絶えてしまっています。昭和30年代までは、大阪に、三井晃天坊(みついこうてんぼう)さんと言う奇術師がいて、この人がヒョコの名人と呼ばれていました。晃天坊さんは東京の松旭斎天洋さんと仲がよく、共に昭和の初年に日本で初めて、デパートで手品の種を販売するようになりました。天洋さんは、三越本店と三越の支店各店で手品を販売し、晃天坊さんは難波の高島屋で奇術を販売しました。

 私が小学生の頃、天洋さんが浅草の新世界デパートと言うところで手品の販売をしていたのを頻繁に見に行った記憶があります。当然同時期に活躍した晃天坊さんも、大阪高島屋で販売していたわけで、私が大阪の生まれならば、晃天坊さんのヒョコを見ることが出来たでしょう。然し、東京生まれであったがゆえに晃天坊さんの生の演技を見ることは出来ませんでした。

 その演技は天下一品だったそうです。中でもお客様から借りた煙草を、テーブルの上に置き、扇子で指図すると、煙草がころころと動き出し、またお客様が途中で、「止まれ」と言えば、煙草は止まったそうです。何度か演じた後で、「この煙草はどなた様の煙草ですか」。と尋ねて、その方角を扇子で指示すると、煙草がひとりでに4,5mも飛んでお客様の元に戻ったそうです。手妻研究家の山本慶一先生が、「あの芸は見事だった」。と、後年しきりに感心していました。奇術研究などにも写真が出ています。

 実際ご当人は、演技者として、お祭りなどで人前でヒョコを見せていました。演技を一通り見せた後は、ヒョコの仕掛けを売っていたのです。高島屋の売り場でも、マジックセットがあって、そのセットの中にはサムチップなどのハンカチ奇術とともに、ヒョコが入っていたそうです。

 実際、晃天坊さんの売り場では日に何十回とヒョコが演じられ、その都度たくさんのお客様が集まって、ヒョコの入ったマジックセットがよく売れたそうです。

 

 私は50代になって、ヒョコの継承者を探しました。大阪にも大勢マジシャンがいますので、一人くらいは晃天坊さんの継承者がいるのではないかと調べてみると、松旭斎滉洋師匠がヒョコを継いでいると知って、師匠を尋ねました。滉洋師は、晃天坊さんに憧れて弟子入りをします。滉洋の名前の滉は元は晃だったそうです。それが、東京に出て、天洋師の一門になり、晃天坊の晃と、天洋の洋を取って晃洋と名乗ります。(その後、サンズイを付けたのは字画数から変えたそうです)。

 実際、ホテルの一室で、私と弟子とでその技を習いました。聞けば驚きの数々でした。タネはマジックをする人なら誰でも知っているようなことですが、その仕掛けの中の秘密や、演じ方の秘密など、聞いていくうちに一冊の本ができるほどの芸の蓄積があったのです。

 私がよく言う「見た目や、ビデオだけでマジックを覚えようとしてはいけない」。と言うのはこのことです。古い作品には、外に公表していないたくさんの秘密が隠されているのです。そして、その一つ一つが物によっては千年もの間、口伝(くでん)で伝えられてきた秘密なのです。滉洋師匠がしっかりと晃天坊さんから正しいやり方を継承していてくれたことが幸いでした。お陰で1000年の歴史が絶えることなく私と私の弟子に継承されたのです。いくら感謝しても感謝しきれない感動のひと時でした。

 

 さて種仕掛けは分かっても、ヒョコにはいくつか実際に演じるためにネックとなっていることがあります。これは秘中の秘ですのでここでは書けませんが、今となってはその問題があるがゆえに継承者が現れないのです。そのため、どうしてもクリアしなければならない3つの問題を、何等かの方法で解決をつけなければならないこととなりました。そのため私はヒョコの解決に苦しむことになります。

 それでも、自分なりに解決をつけて、弟子の義太郎に教え、義太郎は一度私の公演でこれを演じています。その後、義太郎は廃業したため演じ手もなく、そのままになっていましたが、2018年の大阪の文楽劇場での公演の時に、キタノ大地さんがこれを演じています。これで確実に、晃天坊さん以来のヒョコの演技は復活したのです。何とかこの先、キタノさんの演技が大阪で定着したらいいと思います。

 さて、今度は前田です。前田がうまくやってくれて、これを得意技としてくれたなら、日本の手妻の歴史に残る技が一つ継承発展していったことになります。今年中に発表ができるでしょうか。その成果が楽しみです。

続く

 

明けてめでたや

明けてめでたや

 あけましておめでとうございます。本年も手妻の公演、マジックショウ、マジックセッション、マジックマイスター、マジック合宿など、様々まマジックの催しをして行きます。どうぞ、振るってお越しください。

 

 私は子供のころ、なぜ年が明けることがめでたいのか、わかりませんでした。大晦日から一晩寝ただけでどうして人がめでたいと言うのか、意味がわかりませんでした。

 やがて成長するにつれて、これは借金取りが関係することだと知りました。12月を師走と言います。なぜ師匠が走るのか。これは借金返済のためには師匠と言えどもあちこち奔走するから師走だそうです。

 江戸時代や明治時代位までは、お盆と師走の二回が、借りた金の返済日で、それまでは、酒でも、味噌、醤油でも大概のものは付けで済ませていたのです。特に12月はその年の最終返済日で、なんとか12月中に、積もり積もった借金を返さないと安心して正月が迎えられないために、誰もが苦労したのです。貸し金を取るほうも、何とか12月中に貸した金が取れないと、店がつぶれてしまいますので、これもまた必死だったのです。

 然しそれも大晦日までで、年が明けたら、貸しているほうも、借りているほうも、互いが顔を合わせると。「おめでとうございます」。と言い合って、金の請求はしませんでした。そんな野暮なことは誰も言わなかったのです。少なくとも正月が終わるまでは借金取りも来なかったのです。

 何とか正月を迎えてやれやれと、ほっと一息ついて正月を祝います。これが「おめでとう」です。後は必死に働いて、正月の間に借金を返す。こうして多くの庶民は生きてきたのです。つまり、逃げ切りのゴールがお正月だったのです。

 昭和になってもやはり年末の返済はあったのです。何とか借金を返済し、また貸した金を集金して、ようやくささやかな正月料理を買って家族で祝っていたのです。

 

 私は昭和60年に自分のマジックチームを東京イリュージョンと名付けて、有限会社を興して活動していました。30歳でした。それを平成2年に株式会社にしました、家は平成2年に今のビルを建てました。このころは仕事も順調で、何もかもうまく行っていたのです。ところが、平成5年にバブル不況がやって来ます。ここから生活が崩れ出します。毎月の返済ばかりが大きくて、仕事ががったり減ってしまったのですから、どうにもなりません。

 毎月毎月金が足らなくて苦労しました。このころ、トラックの運転手で、道端で段ボール箱を拾って、家に持って帰ると、中から一億円が出てきた。と言うニュースがありました。大貫さんと言い、結局一億円は持ち主が見つからないまま、大貫さんのものになりました。

 そのニュースを見て、私も道端に段ボール箱が落ちていないか、犬の散歩がてら必死になって探しました。然し見つかりませんでした。

 東京イリュージョンが、イリュ-ジョンの仕事が来ないのでは手も足も出ません。やむなく、どんなに小さな仕事でも引き受けて、一人ででも出かけて舞台に立ち、収入を得て、わずかなギャラをすぐに銀行に入金して、月々のローンの返済を間に合わせました。そんなことをしながら、何とか、事務所も、建物も維持して、「あぁ、今年一年もなんとか会社も、家ももったなぁ」。とほっとしたのです。

 そう言う生活をしていると、一年、一年が無事過越せただけでも喜びを感じました。そして初めて、親たちが、正月を迎えて「おめでとう」。と言い合うことの意味を知りました。

 

 「若いうちはたくさん苦労を積んだほうがいい」。と言います。それはその通りだと思います。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」。「苦労は芸の肥やしだ」。とも言います。そうなのでしょう。苦しんで、そこから学んだものはしっかり身に付きます。なかなか簡単には消え失せることはありません。

 但し、余りに苦労をし過ぎてもいけません。苦労が表に出過ぎては、顔が貧層になったり、しぐさに貧しさが見えたりして、舞台に立つ者にとってはいいことはありません。「苦労は肥やし」とは言っても、肥やしばかりかけてもいい野菜はできません。うんこに直に種を撒いても、野菜は育たないのです。

 芸人はどんなに苦しい思いをしていても、どこか呆気羅漢として生きていなければいけません。苦しさなんて何でもない。金なんてなくても面白いことはいくらでもある。今は何もなくても、この先、みんなを幸せにできる。そんな風に思って、今は形も何もなくても、フリーハンドで幸せを描ける人でなければ人は寄っては来ないのです。

 

 今は世界中の芸能芸術家がみんな仕事を失って困っています。然し、見ようによっては、世界中の芸人、有名な人も、才能豊かな人も、資金を持っている人も、皆仕事が止まってしまって、財産を使いつくして、何をどうしていいかわからなくなって、スタートラインに付いたことになります。

 初心者も名人も平等に、一旦ゼロに戻って、これから白紙の上にフリーで絵を描いて、自分の世界を作って行けるのです。これは大きなチャンスを秘めています。誰が初めに抜け出るのか。レースが始まるのです。こんなことは今までなかったことです。

 そう考えれば、これからの半年はとても重要な時間になります。こんな時代に生まれ合わせた我々は幸せ者です。今から、次の時代の芸能芸術を一から作って行きましょう。そこから生まれたものが未来の芸能芸術になります。なんてめでたい事でしょう。一夜明ければ、「明けましておめでとうございます」。めでたい日々の始まりです。

続く