手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ルーキー新一さん 2

ルーキー新一さん 2

 

晦日

 事務所は29日の大掃除で終わり、30日から正月2日まで4日間休みです。今日はさすがに尋ねて来る人もなく静かな大晦日です。

 いつもなら、正月のイベントの用意で、大道具を出して、修理などをしている時です。場合によっては大晦日の晩に現場に入って、水芸の装置を組み立てていたりします。つまり年末も正月もないような状態なのですが、今年はコロナのお陰で何とも穏やかな大晦日です。

 

除夜の鐘

 大晦日の深夜零時から各地のお寺では除夜の鐘を撞きます。私は池上の生まれでしたから、本門寺さんの除夜の鐘を聞いて育ちました。高円寺に越してからは除夜の鐘も聞けないかなぁ、と思っていたら、高円寺さんが毎年除夜の鐘を撞いています。環7通りを隔てて反対側にお寺があるため、普段は高円寺さんの鐘は聞こえません。幸い大晦日はよく聞こえます。

 除夜の鐘は深夜12時から鐘を撞きますので、実際は新年の鐘になります。鐘は108回撞きます。108は煩悩の数だと言われています。煩悩とは、人の心に巣を食う役に立たないものです。欲望、怒り、嫉妬、そうしたどうでもいいものをすべて払って、新しい年を迎えようとするものです。因みの鐘の周りについている鋲も108つあるそうです。除夜の鐘をききながら、日頃意味のないことに煩わされている自分を知るだけでも鐘の音は価値があるのでしょう。

 ブログを書いた後に、「マキシマムエンターテインメント2.0」を読んでみます。

 

ルーキー新一さん 2

 

 ルーキーさんは、突然、昭和50年に東京に現れて、浅草松竹演芸場に出演します。7年前まではテレビに出まくっていて、昭和43年に恐喝事件で有罪になり、芸能界を締め出されたことは多くのお客様は知っています。

 背が低く、目がクリっとしていて、腹話術の人形のような顔をした、愛嬌のある芸人です。まだまだルーキー新一を覚えている人も多かったのです。そして、テレビ局のプロデューサーの中にも、ルーキーさんの芸を認めている人は多かったのです。

ところがテレビ局は、事件の噂を恐れてルーキーさんを使おうとしません。やむなく、ルーキーさんは漫才コンビを組んで、松竹演芸場に出演します。初めは白羽大介さんと言う人と組んだと思います。白羽さんは達初な人でした。一年くらいでコンビが変わり、二人目が弟子のミッキー修さんでした。ミッキーさんは全く素人から出てきた人で、弟子を使って漫才をしても遜色がなく、ルーキーさんの舞台は見事なものでした。

 演芸場は、ルーキーさんの出演を快く迎えました。前科があろうとなかろうと、面白ければそれでいいのです。実際演芸場のお客様の評判は上々で、東京の芸人とは格の違いをみせました。テレビのコメディ番組で一世を風靡し、やがて座長となって劇団を維持し、千人も入るような劇場を連日、自身の看板で満席にするような芸人が、松竹演芸場の数ある漫才の一本になって出るのは全く以て勿体ない話でした。

 

 昭和52(1977)年、東京と名古屋で、親父の芸能生活35周年記念と私の藤山新太郎改名披露をいたしました。その時、ゲストでルーキーさんに出演していただきました。この催しは、親父の自主公演でしたので、普通の演芸をしただけでは面白くありません。出演者が演芸をした後に、私の手妻あり、口上あり、お終いは、出演者全員で歌謡ショウをやることになりました。親父も私も歌を歌いました。

 ルーキーさんは初め、漫才以外で舞台に出るのは嫌だと言って断っていたのですが、余りに歌謡ショウが受けるのを見て、自身もやりたくなってきたのでしょう。急遽出ることになり、タキシード姿で、白粉を塗って、歌を歌ったのですが、これが、股旅物の歌謡曲をメドレーにして、間に浪曲が入り、それをきっちりバンドが演奏して構成のできているカセットテープを持っていて、それは見事な歌でした。無論お客様は大喝采です。ルーキーさんのお陰で分厚いショウになりました。漫才ももちろんでしたが、歌謡ショウの受け方を見ると、ルーキーさんと言う人の才能を嫌と言うほど見せつけられました。

 私は、この時期付き合っていたツービートの北野たけしさんと、ルーキー新一さんは、全く性格の違う人ではありましたが、笑いの天才としてこの二人は、私の人生で知り得た最高の人だと思っています。

 そのルーキーさんは、漫才では結構仕事も忙しかったのですが、やはり元のコメディアンとしての立場に戻りたかったのでしょう、松竹演芸場で芝居の一座を立ち上げます。澤田先生に協力をしてもらい、座員を募集し、芝居を地方に売り込み、興行して回るようになります。

 当時、若い娘や息子が芝居に凝って劇団に入り、親がそれを支援すると言うパターンは多かったのです。そうした座員を集め、親に切符を売ってもらい、座員も切符を売り、芝居を維持していました。地方公演などは、親の地元に座員である娘が錦を飾ると言う触れ込みで、芝居を書き換えて、娘の出番を多くして、喜劇を作り直します。

 喜劇は1時間程度しかありませんから、演芸も何組か頼んで、演芸と喜劇のショウの二本立てで地方の市民会館で公演します。その演芸の一本として、私の親父がりルーキー劇団と一緒に出掛けます。親父は屋久島まで出かけて漫談をしたようです。日本各地で公演をしますが、言ってみれば人の褌で相撲を取っているわけですから、地元の親父さんが巧く切符を売ってくれればいいのですが、さほど売れなかったとなると、なん十人もの座員裏方ゲストが、経費をかけてやってきて、身動き取れなくなります。そうなると、たちまち劇団内部の雰囲気が悪くなります。

 一座の払いが出来なくなり、ゲストのギャラも半分に減らされたりします。それでも支払いができたならまだましです。帰りの費用もないとなると、地元の親父さんに頼み込んで借金をして帰ってくるようになります。然し、その借金は返す当てがありません。次々と地方公演を取って興行しますが、借金を返すほどには稼げません。借金は大きくなります。やがてルーキーさんは身動きできなくなって行きます。

 それまでルーキーさんの奥さんがマネージメントをしていましたが、マネージメントとは名ばかりで、口先だけで嘘八百を言って、スポンサーから金を引き出させるようなことばかりしていました。それがあっちに言い訳、こっちに言い訳で、にっちもさっちも行かなくなり、奥さんが詐欺罪で捕まります。

 私が見ていても奥さんは決して根の悪い人ではなかったのです。ルーキーさんを再び世に出してやりたい一心で一座を売り込んでいたのですが、喜劇と言う世界が既に下火になっていたのに、ルーキー新一と言うレッドカードを持った人がその看板で興行することが土台無理な話だったのです。おとなしく漫才だけしていれば天才芸人として全うできたのです。私は奥さんは主人想いな人だったと思います。奥さんは罪をすべて自分がかぶったのです。

 奥さんが逮捕されてからはルーキーさんは身動きが取れず、ほどなくルーキーさんは病でなくなります。昭和55(1980)年、享年44歳。あれほど才能があって、あれほど客席を沸かせた人が、なぜこうも寂しい一生を終えるのでしょうか。

 亡くなった時は、私の親父も、演芸場の澄田課長も、澤田先生も、「あんなうまい芸人はいなかった」。と、その才能を惜しみました。今、澤田先生はそのルーキーさんの伝記を書いています。完成したならぜひ拝読したいと願っています。

続く

ルーキー新一さん 1

年末正月の過ごし方

 今年の年末正月は、本を読んで過ごそうかと思います。先ず、先日紹介した、「日本奇術文化史」それに田代さんが訳した、ケン・ウエーバーの「マキシマムエンターテインメント2.0「」です。両著とも大作で、正月2日までで読み切れるとは思えませんが、楽しみに読んでみます。

 年末正月のイベントやパーティーは全く発生していません。こんなことは私にとっては生まれて初めてです。私の所は、手妻が中心ですので、正月のイベントは毎年、相当に忙しいのですが、まったく動かないのは困ります。しかし何を言っても無駄なことです。こんな時は充電をするのがいいのでしょう。次に挑戦するために知識を身に付けることです。

 勉強する時間がなければ、新しいことは出来ません。チャンスが来たとしても、駒がなければ、チャンスを生かすこともできません。この4日間はひたすら本を読んでみようと思います。

 

ルーキー新一さん 1

 先週、澤田隆治先生と話をした時に、「今、ルーキー新一を書いているんだ」。と仰っていました。「へぇ、今度はルーキーさんですか」。私の目からは、澤田先生のしていることはもの好きにしか思えません。と言うのも澤田先生は、今年の夏に、戦前、戦後に関西方面で大活躍したコメディアン、永田キングを調べて、380ページにも及ぶ大作を本にして出されました。

 関西ではエノケン榎本健一)と並ぶほどの人気を博したコメディアンだったそうで、戦後すぐに放送の世界に入った澤田先生からすると、永田キングさんは当時は超大物芸人だったそうです。然し、今では人の噂から消えてしまっています。そんな芸人に、なぜ自費をつぎ込んでまで本にするのか。澤田先生に尋ねると。

 「それは君と同じや、君が、松旭斎天一を書いて本にしたり、手妻の歴史を本にして出すのと同じで、仕事としてやったら割に合わんことや。でも、誰かが書かんと、歴史も、スターの功績も残らんのや」。

 そう言われて、澤田先生がなぜ私に懇意にしてくれるのかがわかりました。私と澤田先生には共通点があるのです。澤田先生にはコメディと言うジャンルを世間に認知させたいと言う願望があるのです。それは私がマジック界、或いは、手妻の世界を世間に認知してもらいたいと思う気持ちと同じなのでしょう。

 コメディ、喜劇は、いくら多くの観客を集めても、一世を風靡するような人気を誇っても、テレビで高視聴率を取ったとしても、終わってしまった後には何も残りません。

 せめてこういう芸人がいた、その人はこんな大きな仕事をしたと言う実績をどこかに書き残しておいてあげたい。澤田先生は、そうした思いから、多くの著述を残しているのです。

 それは澤田先生が、大学を卒業して、放送局に入って、たまたま与えられた仕事が、演芸番組や、喜劇の番組で、そこから多くの芸人を知り合い。「てなもんや三度笠」や、「スチャラカ社員」、「ごろんぼ波止場」などの驚異的な視聴率番組を作り出し、それによって、澤田隆治と言う名が日本中に知れ渡り、名プロデューサーとして今もテレビの歴史の中で語り継がれているがゆえに、縁あって知り合った芸人の名前を残す行為を、ご自身の仕事の集大生ととしてなさっているのでしょう。

 然し、澤田先生ほど大きな名前を持っている人であっても、死んだ芸人、人気の去った芸人を本にするのは至難です。恐らく本の買い手は少ないでしょう。芸能の文化史とはいっても、お笑いや、喜劇は一般の評価が低く、市町村の図書館などが買ってくれる可能性も少ないのです。多くの人は決して笑いや喜劇に対して、過去を振り返ろうとはしないのです。

 澤田先生は、「歌舞伎や能は人間国宝になる。笑いの芸はそれより評価が低いとされている、同じ笑いの世界でも、狂言は国宝が出る。然し、喜劇からは国宝が出ない。藤田まことも、森繁久彌も国宝にはならない。私はそれが残念なんや」。と言いました。

 

 その澤田先生の書いている、ルーキー新一さんですが、私はルーキー新一さんと晩年の5年間松竹演芸場でご縁がありました。晩年と言っても、ルーキーさんは44歳で亡くなりましたから、私が初めてルーキーさんに会ったのは、ルーキーさんが39歳だったのです。私にすれば20年も年上の人でしたから、全く意識が無かったのですが、ルーキーさんは39歳で既に芸能から弾かれていて仕事がなかったのです。

 私の親父は誰よりもルーキーさんの芸を買っていました。しょっちゅう二人で酒を飲んでいましたし、ルーキーさんの舞台は頻繁にカセットテープで録音をして、家で何度も聞いていました。「こんなにうまい芸人はいない」。といつも感心していたのです。

実際私もルーキーさんの舞台を舞台袖や客席の後ろで見るのが楽しみでした。これほど巧くて、人を引き込む力のある人を、東京に芸人から見たことがなかったのです。 と、話はどんどん進んで行きますが、ここで少し話を整理します。

 

 師は昭和10(1935)年、大阪に生まれます。子供のころから人を笑わせる天才で、当時のラジオ番組の「漫才教室」素人のチャレンジコーナーの常連だったそうです。ルーキーさんは実の弟の正児さんとコンビを組んで、子供のころから素人漫才をして、ラジオで沸かせていたのです。ちなみに正児は後のレッツゴー三匹のリーダー正児さんです。そしてその時番組を担当していたのが澤田先生です。

 澤田先生がコメディ番組に乗り出すと、学校を卒業して、そろばん塾の先生をしていたルーキーさんは、澤田先生に引っ張り出されて、番組に出してもらえるようになり、たちまち人気者になります。

 服の胸をつまみながら、「いや~ん、いや~ん」、と言う格好をするのが有名になり、一躍スターになります。昭和40年には吉本新喜劇の座長に収まります。然し吉本と仕事の面で対立して、ルーキー新一爆笑劇団を設立します。人気者の独立ですから話題になり、当初は大入りを繰り返します。そのさ中に、ルーキーさんは恐喝事件を起こします。

 詳細は不明ですが、一座が巡業中、旅館の風呂場を覗いていたファンがいたのを見つけ、座員とともに攻め立てて、金で和解をする話に持って行ったところ、それが恐喝に当たるとされて裁判で敗訴。芸能界を追われます。昭和43年のことです。

 それまでずっと大阪で活動していたルーキーさんですが、行く経知れずとなり、その後、昭和50年に、突然東京に現れます。浅草松竹演芸場で、ルーキー新一、ミッキー修と言うコンビを組んで漫才を始めたのです。ここから私や親父とルーキーさんとの浅からぬ縁が生まれます。その話はまた明日。

続く

大掃除

大掃除

マーシャル緒方へ行く

 昨日(28日)は、踊りの稽古の後、床屋さん(マーシャル緒方)に行きました。中目黒にあります。もう40年同じところに通っています。このところ、コロナウイルスの影響で、外出しない人が多く、そのため、3か月も床屋さんに行かない人もあるそうです。当然床屋さんの売り上げも大幅ダウンだそうです。コロナはいろいろなところに影響があるようです。

 町を歩いていても、いつもの年末の慌ただしさがありません。正月飾りも最小限にされているように見えます。江戸時代末期にはやった、コレラの時も、江戸っ子はこんな風に、さびれた年末を経験していたのでしょうか。芸能に生きる我々は、多少なりとも人に希望を与えるような何かをしなければいけないと思います。

 芸能芸術の世界では、一人、「鬼滅の刃」が興行成績を歴代一位にして、気を吐いています。私の見た感想は以前にお伝えしましたのでここでは書きません。なんにせよ。人に勇気と希望を与えることは素晴らしいことです。低迷している邦画の世界の中で成功を収めたことを心よりお祝い申し上げます。

 

近代日本奇術文化史

 総ページ数660ページに及ぶ、百科事典並みのサイズの文化史が東京堂出版から11月に出ました。噂はきいていましたが、一昨日(27日)届きました。昨日午前中にさっそく読んでみました。

 タイトルは一列で、近代日本奇術文化史となっていますが、一見すると日本奇術、つまり手妻の文化史のように読めますが、そうではありません。ここは近代日本で一度句読点を打って、奇術文化史と言う内容です。つまり明治以降の日本の奇術家、歴史について、活動から、演技の内容など細かく調べて書かれています。

 著者は、河合勝氏、長野栄俊氏、森下洋平氏、の三人の共著のようです。明治以降の奇術史を細かく精査し、時系列など見直したうえで客観的に構成されています。

 恐らく、伝記や、小説のように書かれていた近代奇術師の実像が、初めて科学的に書かれたものだと思います。私は20年前に、「手妻のはなし」、を書き、そこで2000年に及ぶ手妻の歴史を書きました。その後「天一一代」、で、幕末期から明治時代を代表する奇術師として、松旭斎天一の一生を書きました。そして、明治大正昭和の奇術師、アダチ龍光、引田天功、伊藤一葉、島田晴夫、の4人を書いた「タネも仕掛けもありません」、を出しました。

 研究家でもなく、作家でもない私がなぜそんな本を出したのかと言うと、誰も書かなかったからです。大学の文学部の教授は、歌舞伎や、落語の文化史は書きますが、手妻やマジックの文化史を書こうとしないのです。

 以前東大文学部の教授にお会いしてお話を伺った時に、「マジックの文化史は、どうしても種仕掛けに関わってきて、外部の者には、その内容が理解できないため書きにくい」。と仰っていました。そうなのでしょう。

 例えば、5枚カードなどと言う言葉がさりげなく出て来るマジックの世界ですから、5枚カードが何を意味するのか、それの得意だったマジシャンが、どういう理由で得意なのか、誰から習ったのかと調べて行くと、膨大な日数を必要とします。たった一言でも大変な作業です。ましてや、その5枚カードがどこの国の誰が始めたものなのか、などと調べて行くことは、外部の人にとっては不可能に近いことなのでしょう。

 そうであるなら、ここはマジシャンである私の仕事ではないかと、40代半ば以降、私は文章にしてマジックを書伝える活動をしてきました。幸い、手妻のはなしは6000部出ました。日本中の多くの図書館にも置かれています。それなりに一般の読者にまで手妻の内容や歴史が理解されたものと思います。

 然しながら、私はプレイヤーであって、研究家ではないのです。研究は、私の専門分野ではありません。内容も、科学的とは言い難い部分もあります。面白さを優先して書いたのです。ここは優れた研究家が出たのなら、そちらにお任せすべきことでしょう。

 話を戻して、近代日本奇術文化史は内容の濃いエポックメーキングな作品と言えます。ご興味の方があればぜひ購入されることをお勧めします。と言いたいところですが、価格が2万円です。内容の細かさ、ここまでかかった労力を思えば、2万円は安いくらいだと思います。

 今時高級な食事をすれば一食でそれくらいします。旅館に泊まっても普通に2万円はかかります。然し、2万円です。食べ物や、遊びには平気で2万円出す人でも、本一冊に2万円となると躊躇します。恐らくこれを購入する人は奇術に相当熱心な人でも限られるでしょう、一般のお客様はもっと少ないかもしれません。

 もっともっと多くの人に薦めたいと思いますが、内容も価格も、一般的とは言えない書籍です。いわば孤高の書なのです。よくぞ東京堂出版がこれを出したと思います。企業としては決して勝算あってしていることとは思えません。その崇高な精神に敬意を表したいと思います。と、長々価格のことを申し上げましたが、どうぞその点をご理解の上、奇術界発展のためにご協力くださるよう、関係者でもない私からもよろしくお買い上げくださるようお願いします。

 

大掃除

 今日(29日)は大掃除です。前田と、学生さんが二人手伝いに来てくれます。4人でアトリエと2階の事務所を掃除します。毎年のことです。アトリエが15畳分あります。二階事務所が14畳分あります。道具がたくさんあります。半日掃除をするだけでも相当な体力を使います。それでもこれを済ませると、一年が終わったと言う実感がわきます。来年こそは良い年になるように、願っています。願うだけでなく実際に行動して行きます。コロナに敗けてはいけません。活路はどこかにあるのです。どうぞ来年もご期待ください。

続く

生贄作り

生贄作り

 さて、世の中は、不思議なことが次々に起こります。医師がテレビで度々、「医療活動が限界にきている」。と言います。本当でしょうか。コロナウイルスが突然今、爆発的に増えたのならそれも理解できますが、既に1年もコロナが蔓延していて、それに対して国が10兆円もの緊急予算を出していながら、病床数も、看護師、看護婦も増えず、緊急医療センターもできないのはなぜなのですか。

 「看護師、看護婦はいきなり増やせない」。と言うでしょう。そうなら、定年退職した看護婦や、看護師に声をかけて、職場に復帰して貰ってはいかがですか。1000人や2000人は増えるのではありませんか。問題を国民に問うのではなく、根本は医師の活動の仕方にあるのではないですか。それを国民に押し付けて、医療崩壊だとを煽られても、国民は何をどうしてよいのか、首をかしげてしまいます。

 同時に、こうした事態に至ったなら、ウイルスに特化した看護師、勧募譜を緊急に養成し、その間の受講生の生活の面倒を国が見て、5千人でも1万人でも看護師看護婦を養成してはいかがですか。

 アメリカは日本の数十倍の感染者がいて、対応しているではありませんか。なぜ日本がアメリカよりもはるかに小さな数の感染者の対応ができないのですか。 

 そもそも、感染者の数を増やしているのは、GOTOキャンペーンと飲食店ホテルでしょうか。GOTOキャンペーンをやめても一向に感染者が減らないのはどう言う理由ですか。感染源をデーターにしたグラフを見ると、感染者が圧倒的に多いのが、会社、病院、学校、自宅、です。飲食店、ホテルはそれよりずっと少ない数です。

 実際、冷静に考えたなら、一時間、二時間飲食をすることよりも、同じ会社で何百人もの社員が8時間以上も同じ部屋にいるほうが、はるかに感染率は高まるはずです。同様に病院であり、学校です。自宅然りです。

 マスコミは、コロナウイルスが増えると、真っ先に飲食店を攻撃します。わずか10坪程度のバーや、レストランに出かけて、カメラをオーナーに向けて、なぜ自粛をしないかと攻め立てます。正義はテレビ局にあります。言われたオーナーは苦しそうに、自粛を了解しつつ、「このままでは店がつぶれます」。と嘆きます。

 その嘆きにテレビは耳を貸しません。あくまで自粛を守らない飲食店を犯人に仕立てて、正義を突きつけ、自分が正義の味方になって攻め立てます。かくしてテレビ局は、飲食店がつぶれて行くであろう行為を放送し続けて正義を語ります。それを番組の、居並ぶタレントがお追従で同調します。毎朝、毎日同じストーリーが流されます。誰一人正義の陰で涙を流している人は助けません。

 テレビは、決して院内感染を特集しません。大会社の社内も感染源であることを特集しません。何よりも、山手線や中央線のラッシュを感染源と語ったことは一度もないのです。マスコミが公平であるなら、10坪の飲食店と、山手線の車両とどちらがコロナの感染者を増やしているのか、明らかにすべきです。

 医師によっては、「電車バスなどでの移動手段での感染者は少ない」。と言う人がいます。そうならGOTOキャンペーンはどれほど影響があるのでしょうか。ほとんど影響はないのではありませんか。無理無理GOTOキャンペーンを止めさせたのは、政治の圧力ではないのですか。全く不可解です。

 結局、コロナウイルスは、ニュースにしていい人たちと、ニュースにして流してはいけない人たちがいるようです。

 かつて、コロナが流行り始めた時には、真っ先にホストクラブが叩かれました。今考えたならおかしなことです。日本でホストクラブが与える影響などと言うものは微々たるものです。それが今年の初めは、まるでコロナの感染源であるかのようにホストたちが叩かれまくったのです。私はそれを見て、「立場の弱い人と言うのはこうまで叩かれるのか」。と思いました。然しそれも沈静化しました。話題が飽きられたのでしょう。もうニュースとしての面白みはなくなったのです。興味本位で生贄にされたのです。

 そしてライブハウスです。わずか30人50人しか入らないようなライブハウスが、まるで悪の巣窟のようにマスコミは叩いたのです。多くのライブハウスはあえなく倒産、休業です。本来被害者であるはずのライブハウスが生贄になりました。

 次は小劇場です。50人100人と言う零細の劇場からクラスターが起こったとして、俳優から演出家、作者、劇場に至るまで、テレビカメラが執拗に追い続け、彼らに謝罪させたのです。不思議な話です。なぜこの芝居に出演していた役者が謝らなければいけないのでしょうか。なぜ作者が謝らなければいけないのでしょうか。彼らこそ被害者だったのではありませんか。それを追い続けるテレビカメラはなぜそんなことをするのですか。抵抗のできない弱者を生贄にすることがニュースですか。

 

 そして今は宴会に出かける政治家を攻め立てています。10人20人の宴会に出たか出ないかで執拗に攻め立てています。コロナと飲食との因果関係など曖昧なまま、テレビ局は正義を振りかざしています。

 その結果が、年の瀬に来て自殺者の増加です。誰が自殺に追い込んだのですか、テレビはまったく自然現象のように自殺者を報道しています。これは自然現象ですか。飲食店を執拗に攻め立てて、休業に追い込んだのは誰ですか。

 自殺して行く人の多くは、パートで働く女性や若者の男性です。彼らはなぜ死ななければならなかったのですか。飲食店が休業すれば、そこでわずかなパート収入で働く人たちは失業します。彼ら彼女らには家のローンや、学費のローンがあります。それが一瞬にして返済不可能になります。一度無収入になれば、借金の返済は容赦なく押し寄せて来ます。弱者はそれに抗することが出来ません。

 私は半年前に、「こうしてこうすりゃこうなることと、知りつつこうしてこうなった」。と言うタイトルでブログを書きました。このまままでは年末には死者がたくさん出ると申し上げました。ガースーさんはそれを知っているからGOTOキャンペーンの中止を渋ったのです。然し、マスコミや医師がGOTOキャンペーンを叩きまくってやむなく中止をしました。結果は、コロナ感染者は増え、自殺者も増えています。

 もう一度申し上げます。コロナはワクチンや特効薬が出ない限り減少しないのです。自粛によって一時的な減少はあってもそれは見せかけです。結局、政治家も医師もコロナの前には無力、無策なのです。策がないから「出るな、歩くな、家にいろ」。と言います。それで国民は生きて行けますか。今しなければいけないことは、一時しのぎの政策を打つよりも、国民に普通の生活を求めることです。初詣、結構です、温泉旅館、いいじゃないですか。忘年会、新年会、是非やるべきです。

 手洗い、マスク、消毒を守って、アクリル板で囲いまでしているレストランは、山手線に乗るよりも衛生的です。それを生贄にするのはおよしなさい。20人の宴会に出た政治家が謝罪しなければならないなら、山手線から降りてきた乗客は全員謝罪しなければならないはずです。勤め人が満員電車に乗らなければ生活して行けないように、政治家はこまめにパーティーに出なければ、選挙民の心をつなぐことは出来ないのです。勤め人も政治家も互いに生きるためにしていることです。アンバランスな報道はおやめなさい。不確実な推測で他者を責めることはおよしなさい。

 社会全体がヒステリーになって、身近な人を生贄にすることに躍起になっています。幾ら人を攻め立てても、コロナ感染は収まりません。当然です。原因はコロナにあって、人ではないからです。感染者が1000人になろうとも、このまま生活して行く以外生きる道はないのです。

続く

 

 

 

女剣劇 浅香光代さん

女剣劇 浅香光代さん

 12月13日に浅香光代さんが亡くなりました。私の知っている浅香さんは、テレビで野村沙知代さんと、言い争いをして、それが裁判沙汰にまでなった騒ぎからでした。互いが威勢が良くて、男勝りですから、二人の喧嘩は話題になり、連日お昼のワイドショウ番組をにぎわせました。それも平成12,3年くらいのことでしょうか。

 このお婆さんは私が、年に春と秋の二回、両国のシティコアと言うビルの敷地内で、両国伝統祭と言う催しをしていた時に、何度かお手伝いをお願いし、その折、打ち上げの宴会の席で色々お話を伺いました。

 浅香さんが活躍したのは昭和20年から30年代でした。女剣劇と言う看板で、当時の浅草常盤座を連日一杯にしていた女座長だったのです。常盤座は、私がよく出ていた松竹演芸場の向かいにあり、松竹演芸場よりも一回り大きな劇場でした。私の知る限りはもう映画館になっていましたが、昭和30年代まではここで女剣劇をしていたと、親父が言っていました。

 従って、女剣劇が大流行していた時代を私は知りません。そもそも女剣劇とは何かというと、今も続いているやくざの股旅物の芝居をする一座のことのようです。

 浅香さんは子供のころから旅回りの芝居に出ていて、美人だったために一座の看板女優として人気があったようです。それが座長が病気で亡くなり、一座は解散かと言う段になって、座員から浅香さんに座長になってくれと頼まれたそうです。その時浅香さんは16歳。昭和19年のことです。

 当時、女の座長は珍しく、やっている芝居の内容が、やくざ者ですから、16歳の娘が男役になって着物を尻っぱしょりをして、腿まで見せて立ち回りをすることが珍しかったのです。下着をつけてはいますが、見得を切ると型によっては腿の奥まで見えてしまいます。それが色っぽいと、お客様がわんさか押しかけて、大人気です。男勝りとは言っても10代の女性です。足は真っ白で、セクシーだったのです。とにかく一座は大当たりで、浅草の常盤座を根城にして大活躍をします。それが昭和30年代まで続きます。

 その後は地方公演をして一座を支えて行きますが、やがて大衆演劇にお客様が離れて行きます。その後は、殺陣(たて=立ち廻り)の指導をしたり、浅香流と言う舞踊の流派を起こして日本舞踊を指導したり、色々活動をしていました。

 浅草の寿町の交差点に事務所を構え、かなりのお客様を集めて舞踊の指導などしていたようです。いつのころからか、テレビのワイドショウに出演するようになり、威勢のいい下町言葉でズバリズバリ物を言うおばさんとして再び脚光を浴びます。

 何にしてもあの呆気羅漢とした性格は最大の武器です。そばにいると強いオーラに吸い込まれます。「あぁ、こういう人が千人の劇場を満杯にする座長なんだなぁ」、と納得させられます。

 

 野村沙知代(野球の野村監督の奥さん)さんとのやり取りでも、野村さんが浅香流の舞踊を習うことになった時に浅香さんは、「だってねぇ、あのしと(人がなまっている)は、しとから踊りを習っている癖に、毎回遅刻してきやがってね。遅刻したならすいませんのしとことでもあればこっちゃ別に何にも言わないのに、すました顔で黙って入って来るんだよ。失礼だよねぇ、あの女」。と言う調子。

 宴会の席で話をしていて、「あたしねぇ、あたしには四分の一、ロシア人の血が入っているんだよ。だからあたしの肌は真っ白。見てごらん」。といきなり勢いよくスカートをまくり、両ひざを付け根まで見せたのです。確かに真っ白でした。そこで私が、「師匠、一度師匠の膝で膝枕してもいいですか」。と言うと、いきなり私の首を掴んで私の頭を膝に押し付けて、「どうだい、気持ちいいだろ」。気持ちがいいも何も、首を押さえつけられているので苦しくて身動きできません。しかしここは師匠を立てて「うーん、気持ちいい」。と言うと「そうだろ、気持ちいいんだ、みんなそう言うよ」。

 これが宴会の席でのことです。殺陣をやっている若い連中が大勢見ていますから、みんな大喜びです。するとこれに機嫌をよくしたのか、「あたしの胸をごらんよ」、と今度はドレスの胸を広げて、おっぱいを出して、「あたしゃもう80過ぎているんだよ、でもおっぱいはピチピチだよ」。と自慢をします。確かに80過ぎのおっぱいには見えません。なるほど、この人がこの年まで一座を回してこれたのは、恵まれた容姿があったからなんだなぁ。と関心をしました。

 然し、感心しているだけでは座が盛り上がりませんから、「師匠、一度そのおっぱいに顔をうずめさせてくれませんか、そこでお母さーんと叫ばせてください」。すると浅香さんは、「よしっ」。と言って、私の首を掴み、私の顔をおっぱいの谷間にはめ込んで、「さぁ、言いな」。と抑え込みます。まるで女子プロレスのような状況ですが、せっかくですから私は「おかぁさーん」。と叫びました。すると浅香さんは、「そうかい気持ちいいのかい」。と満足そうでした。

 

 その浅香さんには数々のファンがいらしたのですが、その中で、大物政治家が浅香さんに惚れ込み、良い仲になって、ついには二人の子供まで作ってしまいました。結婚には至りませんでしたが、政治家はその後総理大臣になったため、何度か総理官邸まで遊びに行ったそうです。浅香さんはその人が誰であるかは一切言いません。息子二人も私生児として育てました。

 総理は、浅香さんの芸を讃えて旭日双光章と言う勲章を送りました。旅回り一座の座長としては破格の勲章です。浅香さんは何でもあけすけなくしゃべりますが、総理の名前だけは決して言いませんでした。陽気で、自由闊達な面白いお婆さんでした。こんな生き方ならぜひ経験してみたいと思うようないい芸人でした、然し、もうこんな人は二度と現れないでしょう。遥か彼方の昭和の良き時代に育った芸人でした。破格の芸人に接して、おっぱいに顔をうずめられたことは幸せでした。

続く

第九はなぜ偉大か

ドルチェ&ガッバーナ

 瑛人さんの歌う香水は、どうもお経に聞こえます。試しに般若心経に当てはめて歌って見ると上手くはまります。色即是空、空即是色、羯諦羯諦、波羅羯諦。仏教界も思い切って、お経を香水のメロディーに変えて唱えて見てはどうかと思います。瑛人さんを名誉僧侶にして、お寺を一つ任せてはいかがでしょう。西洋にはゴスペル音楽もあることですから、ここらで仏教界も大きな変化を遂げてもいいのかな、と思います。

 

第九はなぜ偉大か

 毎年暮れになるとクラシック界はどこも第九を演奏します。これは日本だけの習慣で、欧米の年末はハレルヤコーラスは演奏しますが、第九は演奏しません。そもそも、欧米の演奏会場は舞台サイズが小さなところが多く、第九のように、オーケストラと合唱団を大量に乗せるのが難しく、演奏する際も、コーラスを減らす場合が殆どだそうです。そのため迫力の点において、日本で聴く第九の演奏にはかなわないそうです。

 第九とはベートーベンが作曲した9曲の交響曲の最後の曲です。誰もが知っているジャジャジャジャーンは5番です。

 ベートーベンは他に戦争交響曲と言う作品を作っています。今日残っている「ウエリントンの勝利」がその戦争交響曲だと言われています。但し、ウエリントンの勝利は、交響曲の形式ではなく、言わば交響詩です。

 1800年代のドイツは小国の集団だったため、ナポレオン率いるフランス軍が勃興すると到底抗せず、支配下に置かれました。それが1812年にフランスがロシアに敗北し、1813年にイギリスに敗けるとドイツは歓喜に沸き立ち、各地で戦勝記念興行がなされました。

 この機に乗じて1813年に作曲したものが戦争交響曲で、いわばご祝儀作品だったようです。曲はかなり通俗的で、フランス国歌とイギリス国歌が交錯し、激しくぶつかり合い、たくさんの銃声(本当の銃を使います)が響き渡り、全く音楽に興味のない人でもよく分かるような音楽になっています。それゆえ戦争交響曲は当時、ベートーベンの代表作として大人気で、頻繁に演奏されたそうです。

 音楽室に飾られているベートーベンは偏屈で、時代と無関係に生きてきた人のように見えますが、実際は時代の流れに敏感で、依頼者の意見も尊重し、頼まれれば幾らでも曲を書き直したそうです。 楽聖と呼ばれているベートーベンですら、一般大衆を否定しては生きられなかったのです。

  実際、ベートーベン以前の音楽家は、宮廷音楽家となり、開けても暮れても貴族のためにパーティー用の音楽を作曲し、演奏していたのです。それが台頭して来た大衆を相手に演奏会を開くことで収入を得るようになったのはベートーベンの頃からなのです。

 

 実際彼は室内楽をよく作り、その譜面の売り上げが生活の基盤となり、一般大衆を相手にした演奏会収入もまた収入源だったのです。レコードもラジオもない時代は、家庭内ではピアノやバイオリンの演奏が、ほぼ唯一の音楽だったわけですから、譜面の需要は大きかったのです。欧州でベートーベンの知名度は絶大で、音楽界に大きな影響を与えていました。その彼が、40代末ぐらいから、作品が書けなくなって行きます。

 その理由はロッシーニでした。イタリア人のロッシーニは、20代の前半にセビリアの理髪師を書き、オペラ界で一世を風靡します。彼の曲はどれも転換が早く、スピーディーで、面白く、メロディックで、出す曲、出す曲大ヒットです。ウィーンでの人気も絶大で、ベートーベンはもう過去の人に扱われるようになってしまいます。機を見るに敏な、べートーベンにとって、この状況は由々しき事だったのです。

 功成り名を挙げたベートーベンが流行作曲家のロッシーニを羨むと言うのはおかしなことですが、実際そうだったようです。そこでベートーベンは、起死回生の曲を構想します。自分の考えを直接観客に伝えるためには言葉が必要だと気付き、そのため合唱曲を作ろうと考えます。

 それもオペラのように技巧的な曲を作るのではなく、誰でも口ずさめるような平易な曲を考えます。音程もあまり幅広くなく、みんなで肩を組んで歌えるようなテーマ曲を考えます。その曲の詩は、昔から気に入っていたシラーの詩「歓喜に寄せて」を用います。更にベートーベンは歓喜の曲を第9交響曲の最終楽章に持って来ようと考えます。

 合唱とオーケストラの組み合わせは当時としては斬新です。と言うよりも、器楽合奏と声楽は一緒にしないのが当時の常識だったのです。それをあえて破ってでも自身の主義を訴えようとしたのがベートーベンの独創性です。

 

 第一楽章は、霧の中を暗中模索するような、混沌とした世界です。苦悩は一向に解決されません。第二楽章は苦しみや悩みと果敢に戦い続けます。しかし問題は解決されません。

 第三楽章に至って、ようやく静寂が生まれ、安らぎを手に入れます。何度も神の導きを受けて花園に引き込まれそうになります。ここまでで第9交響曲は50分を超えます。本来はこの静寂の中で第9が終わっても十分なのです。この三つの楽章の曲を作っただけでも、ベートーベンは世界に冠たる音楽家として名を残せたはずです。

 ところが、この後に第四楽章があります。冒頭に雷を落とします。緩く歓喜のテーマを演奏しますが途中でもう一度雷を落とします。そしてテノールが出て来て、「我々が求めているのはこのような音楽ではない」。とそれまでの音楽をすべてを否定します。

 これまで一時間付き合って聞いていた観客は、このような音楽は音楽ではないと言われて、訳が分からなくなります。然し、ここから高らかに歓喜の歌が始まります。曲は合唱とと全合奏で華麗に展開され幕を閉じます。75分にも及ぶ壮大な交響曲です。

 この曲を聞くときは、物のついでに聞いてはいけません。きっちりと第9を聞く気持ちで聞かなければ理解できません。その分大変な感動を得ます。

 

 シラーの歌詞の中に「共に一つとなって、我らを引き裂いていた厳しき波(を乗り越えて)われらは兄弟となる」。とあるところが、自由平等を語っているように聞こえます。封建時代に自由と平等は禁句です。貴族のいる社会は平等ではないのです。庶民が自由平等を唱えたなら革命につながります。

 オーストリアの宰相、メッテルニッヒはベートーベンを警戒し、スパイをつけて日々行動を探っていたと言われています。元々王侯貴族を嫌ったベートーベンは、心の奥に革命の意識を持っていたのかもしれません。そう遠くない将来に民主主義の時代が来ることを予測していた可能性があります。もしそうだとしたら、べートーベンは偉大な音楽家であると同時に優れた革命家なのかもしれません。機会があったら是非心して聞いてみてください。

続く