手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

台北の福建炒飯

 今日(10日)は富士の指導です。然し、今日は簡単には行けないかもしれません。日中は台風が一番激しい時間だと思います。新幹線が動いてくれることを願っています。余裕を見て、2時間ほど早く東京駅に行くようにします。

 晩には岐阜に行き、柳ケ瀬で食事をします。このところこのスケジュールが定着しました。月に一度、辻井さんと峯村さんとの飲食会が楽しみです。

 明日は名古屋の指導です。今回は大阪には行かず、名古屋から帰ります。

 

台北の福建炒飯(たいぺいのふっけんちゃーはん)

 もう20年以上前のことですが、台北でレクチュアーをしに行ったおりに、時間を作ってあちこち食事をしました。台北はどこで食事をしてもおいしい店が多く、朝昼晩の食事たびに新しい店を探すのが楽しみでした。

 朝は屋台でお粥を食べました。お粥の中に油で揚げた細長いパンが入っています。何でもない食事ですが、このお粥のスープと塩加減が絶品です。そして揚げパンをお粥につけながら食べるのですが、この味が忘れられません。結局台北にいる間は毎朝屋台のお粥を食べました。

 昼はヤオハンデパートの近くの食堂で、ビーフンを食べました。ビーフンは既に炒めてある真っ白な麺に、お好みでトッピングを乗せます。私は肉野菜炒めを乗せて食べました。サービスにスープが付きました。肉野菜炒めの乘ったビーフンは、東京の台湾料理屋で食べたものとそう違わない味でした。

 驚いたのはおまけに付いてきたスープです。白湯(ぱいたん)スープに小さな白身の魚が一切れ入っています。魚はほんの3㎝角ほどのもので、大したものではないのですが、素晴らしかったのは白湯スープです。薄い塩味で、それでいてコクがあり、私の知る限り、おまけで付いてきたスープの中で、これ以上旨いスープは後にも先にも飲んだことがありません。これを只で飲ませる料理人の技は大したものです。

 数年後台湾でマジックコンベンションが開催され、私は蝶と水芸を演じました。その時に母親を連れて行きました。

 晩に、新市街の方にある香港飯店と言う大きな店に行きました。生のエビを是非食べてくれと店が勧めますので、エビとビールを頼みました。生のエビが深い皿に入っていてそれを剥いて、たれをつけて食べる料理が出ました。一度に20匹くらい生きたエビが出てきて、それを手で剥いて食べるのですが、いちいち殻を剥かなければいけません。手間がかかるのでなかなか食べきれません。それでもビールのつまみには最高です。残しては勿体ないので全部食べました。

 さて、その後で、何か炒め物を2,3品食べたいのですが、エビをたくさん食べたため、あまり多くは食べられません。何か適当に腹にたまって、量の少ないものはないかとメニューを見ていると、福建炒飯(ふっけんちゃーはん)と書かれたものが目に留まりました。炒飯の上にあんかけの炒め物が乗っています。「これなら量も少なくて、炒め物と一緒に飯が食べられるからちょうどいい」。早速福建炒飯を頼みました。

 炒飯は珍しくはありませんが、福建炒飯と言うのは初めてです。出てきたものは、大きな皿に、かなり立派な炒め物がどっさりかかっています。肉と野菜の中に袋茸(ふくろたけ)と言うウズラの卵くらいのサイズのキノコがたくさん入っていました。キノコの味はあまりはっきりしたものではなかったのですが、触感が素晴らしく、肉や野菜と併せて食べると旨さを感じました。炒めものは醤油味で炒めてありますが、ほのかに甘みがあり、それぞれの野菜がシャキシャキしています。

 少し食べて行くと炒飯が出て来ました。炒飯は卵と一緒に炒めてあり、飯が卵で黄色くコーティングされています。飯自体には具がなく、唯一卵が合わせてあるだけです。この炒飯とあんかけの炒めものを口に含んだ時の相性が絶品で、

 「あぁ、世の中にこんな食べ物があることを知らなかった。もし今晩ここにきてこれを食べなかったら、一生この味を知らずに終わっていただろう。そうなら人生で大きな損をしたことになる。今日、福建炒飯を知ったことは何て幸せなことだろう」。

 と、正直思いました。たかが炒めものの乘った炒飯です。然し、今も忘れられないほど見事な味でした。

 

 その後、日本に戻ってから福建炒飯を探しましたが、なかなか見当たりません。たまにあっても食べてみるとがっかりです。台北で食べたあの味わいはどこにも見当たらないのです。いつしか私は日本で福建炒飯を食べることを諦めました。

 

 落語に目黒のサンマと言う話があります。将軍様が今の目黒のあたりで鷹狩りをして、昼に百姓家によって飯を所望します。百姓は、飯だけでは失礼と、焼き立てのサンマを添えて出します。鷹狩をした後の将軍様は空腹で、その上焼き立てのサンマですから、旨い、旨いと腹いっぱい食べます。

 城に戻ってもサンマの味が忘れられません。そこで料理人にサンマを所望します。江戸時代は脂の多い魚は傷みが早いため、身分の高い人は食べなかったのです。そこで料理人は、サンマを仕入れて、油抜きをし、味を加えて煮魚にして出します。それを一口食べて、あの時の百姓家で食べたサンマとあまりに味が違うため、料理人を呼んで、「何だこのサンマは、どこのサンマか」、と尋ねると、「銚子沖で取れたものでございます」。すると将軍様は、「何、銚子、銚子はいかん、サンマは目黒に限る」。

 あの落語と同じです。福建炒飯は台北の香港飯店に限る。お後が宜しいようで。

続く

 

 

 

鰻は野田岩か尾花か

 明日から富士と名古屋の指導に出かけますが、台風が心配です。ひょっとすると延期になるかもしれません。午後に判断を立てようと思います。

 

 17日の玉ひではまだお席があります。目の前でマジックと手妻を楽しむにはまたとない場所です。どうぞご興味ございましたらお越しください。

 

鰻は野田岩か尾花か

 食べ物の話をします。外で食事をすると言うことは、味がいいことは勿論ですが、店の雰囲気が楽しめることはとても大切です。長く続けている店は細部にまでこだわって店が拵えてあって、何度か出かけて行くうちに、「あぁ、こんなところにも工夫がしてあるんだなぁ」。と納得することがあります。50年100年と続いた店はそれなりに独特の雰囲気を醸し出しています。

 さて、東京で鰻を食べるとしたらどこがいいでしょうか。多くの人がすすめるのは、飯倉にある野田岩か、南千住の尾花と言ったところでしょうか。どちらも鰻好きにとってはよく知られた店ですが、店の雰囲気も、味も両極端な店です。

 野田岩は東京タワーの裏手近くにある店で、ここのたれはこってり甘いので有名です。その昔の江戸のアッパークラスの生活をしていた人にとっては、甘みは必要欠くべからざるものだったようで、江戸の料理の好みは、高級店であればあるほど甘みが強かったようです。卵焼きにしても、関西が塩味なのに対して、江戸の卵焼きはお菓子のように甘く作ります。正月の伊達巻も、煮豆もきんとんもべたアマです。

 砂糖が高価だった江戸時代には甘いものイコール高級品だったのでしょう。野田岩はその昔は大名や、旗本などの高給武士の暮らす町の近くにあったためか、昔ながらの伝統のまま、たれはかなり甘めです。

 私の好みからすると、余り甘いたれは好きではないのですが、ここの鰻は別格です。鰻の質と言い、焼き具合と言い、たれの甘みと言い、甘みも、ただ甘いだけでなくしっかりと奥行きを感じさせます。このたれなら少々甘くても十分納得です。

 野田岩は江戸時代から、かれこれ180年くらい続いているお店です。五代目の親父が今も調理場で若い衆をにらんでいます。毎日、細かく焼き具合をチェックしているのです。その甲斐あって上がってくる鰻の焼き具合は均等で見事です。

 時に天然鰻も入ってきます。値段はかなり張りますが、一度は天然を食べる価値はあります。脂の乘り具合は養殖鰻のほうが脂が乗っています。なんせ養殖は毎日たくさん餌を与えていますからよく太っています。一方、天然はあちこち動き回って餌を探しますので身がスマートです。しかも、水草などを食べているせいか背中の皮が緑色をしています。味は天然のほうがさっぱりしていて香りがあります。旨さを言うならやはり天然のほうが味が複雑で旨いと思います。

 いずれにしても身の厚い鰻が見事に焼かれていて、飯の上に乗っている姿はほれぼれします。酒を飲みながら、ちびちびと鰻を箸で割いて、口に乗せた途端にほぐれます。極上の触感です。店も古めかしくて雰囲気があります。値段が少々高めなことはやむを得ないとしても、「やはり東京ではここが一番かなぁ」。と思わせる店です。

 

 と、野田岩だけ見たなら野田岩がいいと言うことになりますが、南千住の尾花に行くと、また様子が変わります。南千住は、かつては水戸街道の第一番目の宿場町でした。

 今では浅草からタクシーでいくらもかからないくらい近い所ですが、昔は江戸ではなく郊外都市だったわけです。その水戸街道に、小塚っ原と言う処刑場があり、かつてはここに罪人の首が並べられていました。そのすぐ近くに尾花があります。

 店は広い敷地に平屋が建っており、昼も夜も一度門を閉ざして店を閉め、その都度お客様は外で行列をして開店を待ちます。予約はありません。開店後にゆっくり行けばよさそうなものですが、人気店のため、その後もずっと行列は続きます。このやり方が店の好みがわかれる理由です。接待には不向きな店なのです。

 店に入ると、大きな下駄箱があり、靴を脱いで、上がり框(かまち)を過ぎると、大きな入れ込みになっていて、広間に四人が座れるテーブルが所狭しと配置されています。このあたりは江戸時代の宿場の鰻屋そのものです。その卓がお客様の入場とともにすぐに満卓になります。さてここから、お客様から注文を取り、それから生きた鰻を捌いて、蒸しにかけ、焼いて行きます。どうせすぐに一杯になる店ですから、事前に捌いて、蒸すまではしておいてもよさそうなものですが、ここはそれをしません。あくまで、お客様が来てから鰻を〆ます。

 そのため、注文してから焼き上がるまで小一時間かかります。これを我慢できない人はここの鰻は食べられません。

 この長い時間をどうするかと言うと、酒と鯉の洗いを頼みます。洗いと言うのは刺身のことです。脂の多い鯉の身を水で洗って、少し脂気を取ります。それを酢味噌でいただきます。川魚は臭いのではないかと思う人もあるかと思いますが、決してそんなことはありません。育ちのよい鯉は臭みなどありません。芸人と同じです。

 広い入れ込み座敷で、鯉をつまみながら酒をちびちび飲んでいるとまるで江戸時代の宿場町で旅の疲れをいやしているかのような錯覚に陥ります。今の東京では全く体験できないような独自の世界です。

 やがて重箱が運ばれてきます。蓋を開ければ飯が見えない程に大きな鰻が見事に焼き上げられています。分厚い身は箸で簡単に捌けます。一口ほおばると、かなり醤油の効いた辛めのたれです。実はこの辛めのたれこそが江戸庶民の味です。野田岩の甘いたれはアッパークラスの大名、旗本の好みです。庶民はこの辛いたれにこそ魅力を感じていたのです。どちらがいいかは個人の好みに任せるとして、今となっては尾花の、これほどピリッと締まったたれはなかなか出会えません。

 開店前に門前で待たされて、店に入っても焼き上がりまで一時間待たされて、待って、待って、出てきた味は文句なく上等の鰻です。悔しいけれどここでなければ味わえない鰻なのです。鰻ファンなら一度は食べてみる価値はあります。

 弟子の大樹が卒業間際に連れて行った店が尾花でした。無論大樹は大感動していました。弟子の間は酒は禁止でしたが、この時から解禁になり、大樹が酒を飲みながら鯉の洗いを旨そうに食べていたのがつい昨日のことのように思い出されます。大樹のすれば卒業と、尾花の鰻の味わいと二重の喜びを経験したことになります。人生の中のいい思い出となったでしょう。

続く

浅草 並木の藪

 10月30日のヤングマジシャンズセッションは、もう80%くらい切符が売れています。コロナの状況下としは誠にいい成績です。一時は日にちも二転三転して、開催できるかどうかも分かりませんでしたが、周囲のマジックショウが軒並み中止されている現状で、開催できることは幸いです。峯村健二と伝々の顔合わせが楽しみです。面白い公演になると思います。

 

東洋館

 浅草の東洋館で水芸ができないかと言う依頼がきました。東洋館は何百回も出演していますが、あの舞台で水芸の経験はありません。社長に電話をしたのですが、今一つ要領を得ません。そこで昨日(7日)午後に東洋館に行ってみました。

 水芸は水の高さがほぼ4m上がります。水圧を下げることもできますが、下げてしまうと効果は半減します。なるべくめいっぱい水を吹き上げたいと思います。

 調べてみると、確かに天井高は4mあります。然し、照明機械や、文字(もんじ)と言う、寸法の短いカーテンが飾られていて、部分的には3.2mくらいしかありません。これは舞台の手直しが必要です。これからいろいろ打ち合わせをする必要があります。

 

 東洋館は今はお笑いの劇場になっていますが、初めはここはフランス座と言って、ストリップを見せていました。元々は、一階がストリップで、4階に落語の寄席があったのです。私が学生の頃円生師匠の道具屋を見たと言うのはここのことです。いつ覗いてもお客様の少ない寄席でした。

 そこにはよく柳家つばめと言う師匠が出ていました。インテリ噺家とかいうキャッチフレーズを持っていたと思います。新作落語をしていました。眼鏡をかけていて、もっちゃりと話すのが特徴のようでした。あまり面白い人とは思いませんでしたが、私が寄席を覗くたびに出会いました。

 見ていてワクワクするのは志ん朝師匠でした。テンポが良くて、軽くって、実に爽快な話っぷりでした。時々聞かせてくれる長い話、船徳や、愛宕山などは絶品でした。

 お兄さんの馬生師匠は逆にしっとりとした話し方で、名人の風格のある人でした。但し、親父さんの志ん生師匠を真似て、酒を飲んで高座に上がることがあり、それでろれつが回らなくなり、噺がうろうろすることがありました。それが愛嬌になったのなら親父譲りと言えたかもしれませんが、馬生師匠は只の下手に見えました。私はまだ学生でしたが、この差が芸人にとって決定的だと直感しました。

 その後、東洋館の経営者が、「これからはストリップの時代ではない」。と悟って、演芸ホールを一階に移し、ストリップを4階にしました。このころエレベータボーイをしていたのが北野武さんです。ストリップ小屋でコントの修行をしていたのです。

 やがて、ストリップもやめて、東洋館と名前を変えて、演芸場にしたのです。そのため、舞台はほぼストリップ時代のままで、客席に貼り出したスペースもあり、カラフルな照明なども今も残されています。

 

 天井高を図りつつ、客席を見ると、客席は20人ほどでしょうか。そばにいた漫才さんに、「これじゃぁ、やって行けないね」。と言うと。「それでも2か月前までは閉鎖していたんですから、舞台に上がれるだけでも嬉しいです」。と返事が返ってきました。

20人のお客さんでは劇場の借り賃も出ません。出演者が何となく暗い顔をしているのは収入に問題があるのでしょうか。にゃんこ金魚の二人が舞台脇にいたので、「噺家の寄席はどうなの」、と聞くと「同じですよ。上野の鈴本も一日10人何て言う時がありますから」。「10人の客さんで30人の噺家が出演していたんじゃぁ、生きて行けないね」。「厳しいと思います」。どこも大変なんだなぁ、と思いました。

 

 あれこれ苦労して舞台の寸法取りをしたころに前田がやってきました。本当は前田に高い所に上ってもらい、舞台高を計ってもらおうとしたのですが、30日の切符の手配などで遅れて、今、東洋館にやってきたのです。然し、もう寸法取りは済んでしまいました。とにかく陰気臭い東洋館を後にしました。

 

浅草 並木の藪

 久々浅草に来たので、色々買い物をしようと思い、あちこち歩いたのですが、休みの店があったり、いいものが揃わなかったりで結局、無駄足になってしまいました。どうも東洋館で陰気な神様を背負って来てしまったようです。これは験直しをしなければいけません。「そうだ、並木の藪に行ってみよう」。

 並木通りに近づくといつもの藪の行列が見えません。「あれ、休みかなぁ」。と、思っていると開いています。中に入るとお客さんは二組だけ。寂しいものです。ざるを二枚頼んで、菊正の樽酒を注文しました。

 「行列が見えないからやっていないのかと思ったよ」。「最近の平日はこんなものです」。「へぇ、藪でもそんななんだ」。菊正の樽が枡に盛ってやってきます。蕎麦味噌が付いています。前田にもサービスで一つ余計に来ました。そばの実が炒ってあってコリコリしています。そのそばに飴のように甘く煮詰めた味噌が絡めてあります。ちびろちびりと舐めながら菊正を一口づつ流し込んでいきます。前田は修行中ですから、菊正は飲めません。私が巧そうに飲むのを見ているだけです。

 枡に顔を近づけると、木の香りがプーンと薫ってきます。樽酒の証しです。菊正は甘口の酒です。この甘い酒が、並木の藪の辛いつゆにぴったり合うのです。夕暮れ時に、樽酒を飲んで、藪のそばを食べる、こんな贅沢ができるのは最高の幸せです。菊正を少し飲んではゆっくり息をします。すると腹の中の樽の木の香が鼻に戻ってきます。これが気持ちがいいのです。

 やがてそばがきます。薄い茶色のそばは昔の通りです。噛むと腰があって、そばの香りが口の中に広がります。つゆをそばに全部つけないで、七分ほどつけて啜ると、つゆの旨味と蕎麦の香りが両方味わえます。それを口の中で混合わせると一層旨く感じます。そこへ菊正を少し含みます。贅沢です。

 前田はしみじみ「巧いそばですねぇ」。と言いました。この男は結局浅草にそばを食べに来ただけです。楽な弟子です。まぁ、このところ大阪の仕事など立て続けに忙しかったので、今日はいい思いをさせてやります。

 外に出るとしとしとと雨が降っています。然し陽気がいいせいか雨が邪魔になりません。私は久々に日中に酒を飲んで、藪のそばを食べて上機嫌です。「こんな日があってもいい。こんな日があるから幸せなんだ」。蕎麦と酒一合で手に入る幸せなお話、まずはこれまで、です。

続く

猿ヶ京の稽古場

 今月の玉ひでの公演は、10月17日です。11時半から入場できます。12時から、親子丼のセットを食べて、12時半から若手のショウがあります。私の手妻は1時半から致します。どうぞ振るってご参加ください。お席はまだございます。

 

 来月11月14日と15日に猿ヶ京の稽古場でマジックの合宿をします。以前にお話ししましたが、猿ヶ京は温泉街で、今も10軒以上の温泉宿や、ホテルが営業しています。

 場所は群馬県の北部で、山を越えたらもう新潟県です。三国街道と言う、江戸時代の街道筋にある温泉町です。かつての三国街道は今は17号線となって、多くの車が新潟県に向かうために利用していました。特に冬場は、三国トンネルを超えた先に苗場があり、スキー客が苗場スキー場に行くために渋滞したところです。

 そのスキー客が、スキーの行き帰りに温泉に寄って、宿泊したり、温泉に浸ったりして休憩するなどして随分にぎわったようです。ところが、山の東側に関越自動車道が出来て、東京新潟間はあっという間に高速道路でつながってしまいました。これが昭和60(1985)年のことで、これによって、猿ヶ京は忘れられた存在になって行きます。更には、スキーブームが去り、苗場に観光客が来なくなります。なお且つ、温泉ブームも、去って、温泉客は減少します。

 この観客減少に歯止めをかけるべく、竹下総理大臣が提唱したふるさと創生資金を投入して、猿ヶ京は町の改造を始めます。その改造プランを引き受けたのが、当時の読売広告社で専務をしていた宮澤伊勢男さんでした。(この人が後に会社を退社して私のマネージメントをするようになります)。

 宮沢さんは、三国街道を昔の風景に復活させて、水車を作ったり、小川を作ったり休憩所を作ったりしました。広い公園を作って吊り橋をこしらえたり、蛍が生息する池を作りました。高校生や大学生の体育部が合宿しやすいように、グラウンドを整備したり、テニス場を作りました。然し、一度お客さんが離れた猿ヶ京にはなかなか人は戻りませんでした。

 

 話は10年前のことですが、私は以前から古民家で生活してみたいと考えていました。藁葺き屋根の家で、囲炉裏で火で煮炊きして、生活することに憧れを持っていました。

宮沢さんに相談すると、早速猿ヶ京の中から江戸時代の家を紹介してもらいました。三国街道沿いで素晴らしい佇まいです。私は早速借りることにしました。

 そこへ毎年3,4回泊まり込みで合宿をしていました。家は水道も引いてありますし、トイレも簡易水洗便所になっています。誠に快適です。ここを7年間借りました。やがて、町がこの家を街道の休憩所にしたいから出てくれないかと言われ、そうなら別の家を提供してほしいと話すと、芸者の検番を紹介してくれました。

 

 これが今の稽古場です。ここは古い家ではありませんが、二階に大きな舞台があります。芸者衆が、ホテルの宴会場に行く前に、ここで集合して、衣装を着替え、三味線や、踊りの稽古をして夜にホテルに向かいます。昭和30年、40年代は、たくさん芸者がいて賑わっていたのでしょうが、平成になると、観光客が減少して、宴会の数も減って行きます。そしてついに町に芸者衆がいなくなります。

 この10年は見番は空き家になっていました。この先見番が復活する可能性はありません。建物は木造のモルタル建築です。築40年を超えています。まだしっかりしてはいますが、それでも古さは誰が見てもわかります。この建物を生かす方法は見当たりません。そこを3年前から私が借りることになりました。

 私は見番の一階の倉庫に、使わない大道具をたくさん運びました。これで高円寺の一階の倉庫にあった大道具が大幅に減りました。部屋中掃除をして、台所用品や、布団、机、椅子、火鉢などを運びました。これで何とか生活ができます。片付いてみると、前の古民家は壁と柱の間に隙間が多く、夏でも夜は寒かったのですが、そうした心配はなくなりました。何にしても広い舞台があるのが魅力です。

 手妻にしろ、マジックにしろ、全く舞台の感覚で稽古が出来ます。これは得難い稽古場です。舞台の雰囲気をつかみつつ稽古が出来ます。いい物件を手に入れました。と言うわけで、毎年3回くらいここで稽古をしています。

 稽古場の向かいには町営温泉があって、広々として、しかも綺麗な施設です。稽古の後は露天ぶろや、サウナなどで汗を流しています。露天風呂からは赤谷湖が見えます。これはダムによって堰き止められた人工湖ですが、利根川の上流の水で美しく、周囲の山も、春は桜で、秋は紅葉で、とてもいい景色です。この露天風呂に横たわって、周囲の紅葉を眺めていると、余計なことを忘れて、気分爽快になります。

 夜はみんなで鍋をしたり、たこ焼きをしたりして一杯やります。私もこの時は酒を飲みます。これがとても楽しいひと時です。

 

 次回は11月14日15日です。費用は、2日間合計5時間のレッスンで10000円、食事代は4食で3000円。周囲の散策などありです。交通費は、車でお越しの場合は自費のみです。私らと一緒の車に乗る場合は、一人3000円程度のレンタカーとガソリン代と高速運賃の費用を割り勘で支払っていただきます。泊りは稽古場の広間に寝るのでしたら無料です。近くのホテルに泊まるのでしたら、ホテルをご紹介します。

 ご興味ございましたらお知らせください。習いたいマジックは事前にお知らせください。無理なものもありますのでその際はご相談します。たくさんの人と一緒になって稽古をするのは楽しいものです。しかも多くの情報が手に入り、自身のマジックが充実します。どうぞご参加ください。

続く

 

名人の話

 昨日(5日)、テレビ出演の仕事がきました。巧くまとまるといいと思います。仕事の少ない時に、依頼が来ると、希望が生まれます。仕事がない、収入がないといって、困った顔をしていても、いいことはありません。世の中はなるようにしかならないのです。自分の運命は天に任せて、自分はなすべきことをしていればいいのです。稽古をして、新作を練って、それで時間があったら遊んでいればいいのです。

 あまり悩み続けていてもいいことはありません。悩みと言うのは、結局、どうにも解決の付かないことを、繰り返し繰り返し、頭の中で巡っているだけで、同じ話が自分を攻め立てるだけです。そこからは何の解決策にも生まれません。そうならむしろ何も考えないほうが健康にいいはずです。

 同じ考えるなら、少しでも世の中がよくなることを考えるべきです。自分にとっても仲間にとっても、お客様にとってもいいことを考えるのです。ダメはいくら考えてもダメです。ダメから良くなることは何もないのです。

 

夢のお告げはどうなった

 先月の末に、私の親父が夢に現れた話をしました。私は死んだ人が夢に出ると、その一週間後から10日後の間に何か天変地異が起こると言いました。然し、今回も何も起こりません。「あれは親父ではなかったのか。親父でないなら、なぜ私は後ろを向いた人を見て親父と思ったのか」。よくわかりません。結局外れたことは事実です。お騒がせしてすみません。もう今後、夢の話は封印しようと思います。

 それでも、夢から強烈なインスピレーションを感じたなら、またお話しするかもしれません。今回、親父の画像はぼやけていました。鮮明な画像の夢を見た時に、もう一度お話しします。結局懲りていないのですね。

 

名人の話

 ここに上げる名人は、誰もが知っている人ではありません。私自身その人が誰だったのか、名前すらも思い出せないのです。まだ私が中学生の時でした。私はまだ子供でしたが、タキシードをこしらえて、マジックを演じて、小さなイベントに出演して、得意になっていました。でも技量も何もありません。ただ見てくれのいい子供でしたから、仕事がよく舞い込んできたのです。

 ある時、墨田区あたりの子供会に出演しました、子供ばかり50人程度の集まりです。小学校の教室でショウをしました。出演者は、私と、腹話術をする年を取った芸人さんでした。その時は相当歳の人かと思っていましたが、今になって思えば、今の私よりもよっぽど若い人だったかもしれません。

 私は楽屋であいさつをしましたが、その腹話術師は子供である私が見ても場末感のある芸人さんでした。痩せて無口な人でした。額には深いしわが幾つもありました。服装が、ガスの集金人のような、地味なオープンシャツに、これまた地味な上着を着ていました。こうしたなりを見ると、まだ私の親父はあか抜けていると思いました。学校の教室を楽屋にあてがわれ、広い部屋で、二人でセットをしましたが、この芸人さんは、部屋の隅に座って、人形を出して人形の汚れを拭いていました。もっと真ん中で作業をすればいいのに、特に私に話しかけることもなかったので、私も何も言いませんでした。

 ショウは隣の教室で始まりました。私が先に演じました。ショウが始まると、これが厄介な仕事でした、子供は仲間同士ですし、地元ですから我が物顔で、初めから大騒ぎです。主催者が制してもなかなかいうことを聞きません。勝手に歩き回ったり、私のテーブルの上の道具をいじったり、私の演じるマジックに野次を飛ばして、それをみんなで大笑いしたり、とにかく最悪の仕事場でした。

 それでも子供を上手くあしらう技術があれば、いい場を作れるのでしょうが、なんせ自分がまだ中学生ですから、そんな気の利いたことはできません。結局騒がれるだけ騒がれて、いじられるだけいじられて終わりました。

 そして次が、腹話術です。腹話術師は、上着だけ取り換えて、少し派手な衣装で出て来ました。椅子に座って、人形を膝に抱えゆっくり話を始めました。

 その間私は楽屋で道具をかたずけていました。心の中では不出来な舞台を悔やんでいます。子供にいじられて散々だったからです。こんな状況ではどんな人が出ても結局うまく行かないだろうと考えていました。然し、隣の部屋では子供がシーンとなって、腹話術の話を聞いています。そのうち、少しずつ笑い声が聞こえます。聞き耳を立てて聞いていると、そのネタは腹話術師がよく使うパターンのネタです。

「シンちゃん君は何歳なの」、「僕は6歳だよ」。「それじゃぁ小学校に行ってるの」、「うん勿論」。「勉強は面白いかい」、「面白いよ」。「なんの時間が楽しいの」、「給食の時間」。「おいおい、給食は勉強じゃないよ、他には」、「休み時間」、「休み時間も勉強じゃぁない、他は」「体育の時間」。「頭使わない時間ばかりだなぁ」。

 こんな調子のありきたりのネタでした。しかもゆっくりゆっくり噛んで含めるように話しています。こんなネタで今どきの子供が喜ぶのか、と思っていましたが、それが声を出して笑っています。この日は私と腹話術師で1時間のショウの予定だったのですが、私がうまく行かなかったために20分しか持ちませんでした。それを腹話術師は、40分演じ続けて、子供を飽きさせず。お終いには子供みんなが拍手をして終わりました。きっちり1時間のショウにまとめて終わりました。

 この時、私は生まれて初めて芸の力を目の当たりに実感しました。私が常々言う、「なんでもないことを何でもなく演じて、それでお客様が喜んでくれたらそれは名人だ」。と言うセリフはまさにこの年取った芸人さんに当てはまるものでした。

 この人が、演技を終えて戻ってきたときに、出る前より少し大きく感じられました。芸が人を大きくしたのです。然し、ほとんど無言で、上着を着替え、元のガスの集金人のような格好で、ちょっと私に挨拶をして去って行きました。実に謙虚な人で、地味で、か弱そうな人でした。「あんなに舞台で人を引き付ける力を持った芸人さんが、どうしてああまでつつましく生きているのだろう」。

 その時、14歳か、15歳だった私が見ても、「自分は決してああいうタイプの芸人にはならないだろう」。と思いました。「もっともっと自分を膨らませて、大きく派手に見せて生きて行ったらいいのに」。と思いました。舞台があまりに見事だっただけに、消えるようにして去って行った芸人の姿が哀愁を帯びていて、寂寥感すら感じました。今から50年前の話です。

 今こうして書いていても、芸って一体何だろうと思います。仮に人を超えた芸を身につけたのなら、もっと堂々と伸び伸び生きて行ったらいいのに、あの腹話術師の生き方はあまりに影が薄く、人に遠慮をして生きているかのように見えます。恐らく、芸の実力に比して手に入った果実はあまりに少なく、その生活は恵まれてはいないように思います。それでいいのだろうか。今考えても私には答えが出ません。私にはまだ腹話術師の境地に至っていないのでしょう。

続く

ZAZA公演と松茸狩り

 

 昨晩、遅くに岡山から帰りました。少し疲れました。それでも休むわけにはいきません。数日東京をあけると、することがたくさんあります。今日は朝から小道具を作っています。何とかアイディアを絞り出して、形にしなければなりません。幾つになっても新作はゼロからのスタートです。

 

ZAZA公演

 10月3日のZAZAの詳細をお伝えします。当日は100人のお客様でほぼ満員。開演前からお客様の熱気が伝わってきました。

 1本目は前田将太。和服で、真田紐、紐ぬけの手順。お終いは傘を出して、当人は気分よく終わりました。

 2本目は、シーナさん、彼女は大阪のプロ。豪華な振袖を拵えて、手妻の、連理の曲を演じました。これからどんどん和の手順を増やして、京都などのお座敷の仕事を取ろうと考えています。

 3本目は、嵯都志さんは京都のプロマジシャン。これまでクロースアップ専門だったものが、ステージを目指し、カード、シンブル、ウォンドの手順を、ウォンドを扇子に変えて、和のテイストを取り入れて手順をまとめました。もう少し細かな部分に自身のアイディアを加えると、かなりいい手順になるでしょう。

 4本目は小網健義さん、京都大学4年生。前回に続いて、四つ玉、カードの手順、然し前回とは大きく変わって、テーブルを使わずに、携帯電話の手順をベースに、カード、四つ玉がうまく取り込まれていました。演技中に電話を充電するところが新しく、学生らしい面白い演技でした。

 5本目は小原優里さん、四国から、香川大学の4年生。セッションに毎回出演していますが、毎回リングアクトです。然し、随分演出を変えて来ました。工夫の跡が見えるところが観客の反応が良い理由でしょうか。

 6本目は薦田天斗(こもだたかと)さん。関西大学の学生さんです。CDのアクトをスピーディーに演じました。学生らしい勢いのある演技でした。

 7本目はまほうの愛華さん。カードや四つ玉、お終いはフィックルファイヤーとカードの連続出しで、サコーさんの指導もよろしく、よくまとまっていました。

 8本目は私の傘出し手順。傘のお終いに人力車に乗って引っ込むところが今回の趣向。お客様に喜んでいただきました。そのあとお椀と玉。じゃべりで演じました。

 ここで休憩を入れて後半。

 9本目は黒川智紀さん。以前見た時よりも小さなアイデアが加味されていて、見ごたえがありました。私個人はあまりアマチュアイズムを押し出した演技は好きになれないのですが、見ているうちに、これはこれでありかなと納得しました。それほど手順に愛情が感じられましたし、しかも演技の出来が良かったのです。

 10本目はキタノ大地さん。今回の公演をずっと司会をしてくださってご苦労様でした。この晩の演技は、小箱から何度もお札の出るマジックをストーリーを語りながら演じました。お喋りは達者ですので心配はいりませんが、よくまとまっていました。

 11本目は峯村健二さん。スケッチブックの手順です。学生向きの手順なのでしょうか。来ていたお客様の内でも学生さんに特に受けが良かったようです。細部に至るまで考え抜かれていて、小さくよくまとまった手順です。

 終わった後お客様は大満足。随分残られて、嬉しそうに出演者と話をしていました。あまり至近距離での接触はできませんが、みんな喜んで楽屋の前に集まりました。

 

 

松茸狩り。

 4日(日)の朝、岡山の社長、高上さんが持っている松茸山に行ってきました。ここは毎年今頃、松茸の取れるシーズンになるとお誘いがあります。新幹線で新大阪を9時に立ち、10時に岡山へ、そこから高上さんの車で岡山県の中央部、羅漢と言うところへ、そこから山に入り、中腹で車を降りて、靴を取り替え、安全服に着かえ、山に入りました。松茸を期待して、1時間半。傾斜のきつい山を這うように歩きましたが、今年はどうしたものか見つかりません。そもそも、10月4日ではまだ早いようです。松茸は20日ころでないと出ないそうです。

 それでも歩くうちに、あみ茸がたくさん生えていましたので松茸代わりに取りました。あみたけはマイタケのような柔らかなキノコで、味噌汁の実にしたり、バターで炒めて食べるとおいしいそうです。それを袋一杯取りました。午後2時に山の中で昼食。太巻き寿司でビールを頂きました。ピオーネのブドウもいただき、その甘さに驚きました。何にしてもビールがここちよく。飲んでいるうちに少し、昨日の疲れが出て来ました。

 更に帰り際に高上さんの知り合いの農家で、シャインマスカットを作っているお宅に行き、高上さんからマスカットを頂きました。今年はシャインマスカットが豊作だそうです。しかも、各企業などから大量の注文があったらしく、この日でほぼ完売したそうです。私はラッキーでした。

 帰りの途中、栗拾いをしたり、ミニトマトを頂いたり、随分お土産が増えて、両腕にぎっしり袋を抱え、岡山を後にしました。

 夜、7時30分の新幹線に乗って、東京は11時に着きました。自宅に戻ると11時40分でした。家族は寝ています。アルコールを飲みたいところですが、家では飲みません。しばらく起きて用事をして、1時過ぎに寝ました。

 今日(5日)の朝は。早速朝食に娘と女房がシャインマスカットを食べていました。頂いたシャインマスカットは特に高級品だそうで、甘みがものすごく強かったです。肝心のあみ茸には一瞥もくれず、マスカットばかりを喜んでいました。

 なんにしても、松茸狩りは不作でした。まぁ、こんな時もあります。また来年行こうと思います。何より、日頃歩かないので、足が弱っています。山歩きは健康にいいですし、山の空気を吸うのはとても爽快です。もっともっと日ごろから体にいいことをしなければいけません。つくづく私は不健康な生活をしていると思います。と言うわけで、関西の旅の3日間は日々充実して誠に幸せでした。

続く、

 

 

ZAZA大盛況

 昨日(3日)は大阪道頓堀ZAZAでの大阪マジシャンズセッションの公演でした。会場は100人の席(本当は150席なのですが、コロナの影響を考えて、席にゆとりを持たせました)が満席でした。お客様は早くから行列を作って待っていてくださいました。

 文化庁の芸術振興基金からもお2人見えました。千房さんの会長さんもお見えです。

 詳細はまた明日書きますが、私は一部のトリを取りました。二部は、頭に黒川智紀さん、そのあとキタノ大地さん、トリは峯村健二さん。黒川さんはいつものダイスの手順でしたが、細部まで考えがいきわたっていて、実に見ごたえのある手順でした。

 大学を卒業して、プロ活動を始めて、この時期はいろいろ大変だろうと思いますが、学生時代よりもいっそう内容が深まっていて、いい演技でした。北野さんは、司会をしていただきましたが、峯村さんの前にトークマジックをいたしました、キタノさんの手慣れた演技とサービス精神でこれもいい演技になりました。

 何よりも峯村さんは一番の喝采を得ました。今回はスケッチブックの手順です。この手順は頻繁に学生に真似されて、今や原形もとどめないまま、ぐちゃぐちゃになってしまっていますが、やはり本家本元は素晴らしいものです。

 音楽のカウントと、振りと演技が計算されていて、細かな部分までしっかり作り込まれています。スケッチブックにかかれたサングラスや、花が実物になったり、元の画用紙に戻ったりする単純な現象なのですが、実際彼のタイミングでこなすとなるとかなり高度な演技が必要です。

 それを峯村さんはノーミスでこなしてゆきます。大阪の観客はそれを細かく拾い上げ、細部の仕上がりに感心してため息を漏らしています。私はこの演技を横で見ていて、「あぁ、大阪でこの公演をしてよかったな」。と思いました。観客はマジックを求めていたのです。優れたマジックならみんな見たいのです。

 トリの演技が終わった後はものすごい拍手でした。コロナの影響で、終演後の見送りは一切ありませんでした。でもお客様は満足してくださいました。また来年も公演したいと思います。私はこれから岡山に行き、松茸を取りに行ってきます。もう出発の時間です。また明日ブログを書きます。

続く