手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

知ると知識は違います 2

 今日(26日)は日本舞踊の浴衣浚いです。午後に家を出て根津に行きます。昨晩、鏡の前で一人で踊りの稽古をしてみて、恥ずかしくなりました。以前はもう少し巧いと思っていたのですが、なんだかふにゃふにゃしていて踊りにすら見えません。「偉いことになった。こうまで下手だったか」。少し自己嫌悪に陥りました。午後は気持ちを引き締めてなるべくちゃんと踊ります。

 私はこれまで三人の舞踊家から踊りを習いました。初めは藤間勘加寿(かんかす)先生で、私は18歳、まだ上板橋の親の家にいたころに習い始めました。先生は、駅前の呉服屋さんの娘さんで、初心者の私を丁寧に教えてくださいました。

 私が結婚をして、常盤台のマンションに引っ越してからしばらく踊りから離れていました。三十代になって、伍代夏子さんに水芸を指導するときに、狂言方で手伝いに来ていた藤間章吾先生と知り合い、休憩時間に色々話を聞いていると、とんでもなく舞台のこと、舞踊のことに詳しい人でしたのでこれは仲間になろう思い、入門しました。

 実際、章吾先生のお陰で、水芸の菖蒲の精の振りや、色々振り付けをお願いし、私の舞台は形が整ってゆきました。平成10年、私が、芸術祭大賞を受賞した時に、その数日後、年の暮れに国立小劇場で舞踊の発表会に出演して、「浮かれ坊主」を踊りました。

 この踊りは、六代目菊五郎が、踊りの神髄を見せるために殆ど褌一丁で舞台に出て来て、江戸の風俗を表現したもので、裸ですから体のバランスが一目瞭然で、ごまかしの効かない踊りです。手数も多くとんでもなく難しい踊りでした。囃子が鳴って、私が褌一丁で舞台に出て来ると、客席から「よう、芸術祭大賞」と声がかかりました。国立の舞台で持ち上げられて、何とも気持ちの良い瞬間でした。

 

 話は少し戻りますが、娘に舞踊を習わせようと考えていた折に、杉並に子供を教えるのが上手な先生がいると聞き、娘は藤間豊治(とよはる)先生の所に通わせました。豊治先生は、何遍でも同じことを繰り返し繰り返し根気よく教える先生で、確かに初心者にはわかりやすい先生です。

 章吾先生の所は国立に出たあと、数年して辞めてしまいました。辞めた理由は、先生の家の近所の駐車場がなくなってしまったことです。当時私は仕事の途中で踊りに通うことが多かったため、いつも車で先生の所に通っていたのです。それが駐車場がなくなり、やむなく路上駐車していたら、二度立て続けにレッカー移動されてしまいました。車にはマジックの道具や衣装が積んでありますから、取りに行かないわけにはいきません。然し、警察署まで取りに行って、それからホテルのパーティーなどに出ると、出番ギリギリです。そんなことが続いて、何となく縁遠くなり、辞めてしまいました。

 

 やがて娘が大きくなって、一人で夜道に通うのも危険と思い、私も豊治先生に入門して娘と一緒に通うことにしました。ここでも10年くらい通いました。

 その後、章吾先生の家の近所に地下鉄が引けて、電車で通えるようになり、章吾先生のところに戻りました。巧さと言い、知識と言い日本の舞踊界ではトップの人です。

 弟子の前田も通っています。前田には少し厳しいかもしれません。初心者に優しい先生ではないのです。毎回ガンガン怒られています。でもここで学べることは幸せです。

 と言うわけで、間に休みがありましたが、私は何のかんのと48年くらい舞踊をしています。ですが、少しも巧くなりません。ちょうど熱い豆腐に上に鰹節を乗せると鰹節が踊りを踊りますが、私の踊りはあの鰹節のような踊りです。ふにゃふにゃしています。

 

知ると知識は違います

 知っていることは知識に昇華してこそ自分の人生の役に立ちます。一つことを縦糸と横糸を探し出して、どんな成り立ちかを知ってこそ知識となるのです。

 マジックでも、よくアマチュアの親父さんが、自宅の押し入れ一杯に道具を買い込んで、自慢している人がいます。一人で自慢しているなら結構なのですが、そんな人が私の会や、マジックショウにやってきて、出るマジシャン、出るマジシャンを見ながら、「あれ、あの道具わし持っている。あれも知っている」。と自慢する人がいますが、百害あって一利ない困ったアマチュアです。

 持っている、知っているは自慢にならないのです。どんな単純なマジックでも、演じる人によって、魔法に変わるのです。押し入れにしまっているだけでは何も魔法は生まれません。道具を取り出して、稽古をしなければ身につきません。とことんわかって演じなければ芸にはなりません。時に技量のあるマジシャンから習いなおしてみることです。まるで目から鱗が落ちるかのようにマジックに対する見方が変わってきます。

 作品を深く知り、成り立ちを知って初めてマジックが生きて来ます。買った道具はさっさとしまい込み、新たな道具を求めて、ネットのカタログを漁ったり、マジックショップのケースを覗き込んでばかりいても、芸術、芸能は手に入りません。そんな人はどこかで自分がしなければならないことから逃げているのです。

 私はいつも思いますが、今のアマチュアマジシャンの成り立ちは、根本が間違いだと思います。まず金に飽かして道具を買い漁って、種ばかり先に知ってしまう姿勢が間違いです。初めに種を知るから、マジックを舐めてかかります。それでいいマジシャンが育ちますか。マジックは道具ではないのです。道具なんて初めはいらないのです。

 ロープ、シルク、コイン、カード、シンブルがあればそれで十分です。これだけあれば、一年みっちり基礎を学ぶことが出来ます。(実際私の弟子の指導はこうした基礎指導を一年みっちりやります)。大学のマジックラブに所属していて、そこでスターだった人が、私の所に弟子入りすると、ロープ一本の基礎からじっくり始めます。初めはそれを馬鹿にします。こんなことのために弟子になったのではない。と不満顔です。

 然し、始めて見てすぐに気づきます。自分が何も知らなかったことが。ロープを結ぶこと、持つこと、ほどくこと、一つ一つに考えがあってしています。その一つ一つのことごとくを知らないのです。いや、知ってはいます。然し、ちゃんと稽古をしたことがないのです。みんなDVDを見ただけでスルーしているのです。何一つ学ばず、全く身についていない自分を知るのです。マジックを舐めていたのです。その時初めて、自分がマジックに向き合う姿勢が間違っていたことに気付きます。

 プロの道と言うのは特別、人のやらない、レベルの高いことをすることではありません。話は逆です。アマチュアが見落としてしまうようなこと、アマチュアが馬鹿にしてやらないようなことを一つ一つ地道にやって見て、体に叩き込みつつ本質を見つけだして、理解してゆくことがプロの道なのです。「知るは知識にあらず、その経緯がわかって初めて知識となり、生かされる」のです。

 私はよく弟子に言います。「普通のことが普通に出来て、それでお客様が喜んでくれたならそれが名人だ」と。多くの人は名人とは人のできないことができる人のことだと思っています。そうではないのです。何でもないことをして見せて、それで巧いと人をうならせたら名人なのです。名人とは知るを知識に昇華させた人のことなのです。

続く

 

 

知ると知識は違います

 明日は踊りの浴衣浚い(ゆかたざらい=仮発表会)です。コロナの影響で、夏に催していたものが今になってしまいました。場所は、不忍通りふれあい館、(文京区、根津2-20-7)14時30分から開催です。入場無料です。素人さんのお浚い会ですから、無料は当然です。私は二番目の出演です。お暇でしたらお越しください。あまり期待をしないでください。

 

 10月3日は、大阪道頓堀、ZAZAでの大阪マジシャンズセッションです。峯村健二さん、黒川智紀さん、キタノ大地さん、私、前田、他、プロアマ一緒になっての公演です。これもコロナの影響で、春の催しが10月になってしまいました。何とか年に一回でもマジックの催しができるように奮闘しています。よろしかったらご支援ください。お申し込みは東京イリュージョンまで。

 10月30日の東京ヤングマジシャンズセッション。こちらは、伝々さん、峯村健二さん、私、前田、ほか学生の精鋭、またはOBが出演します。いいメンバーですのでこちらもご参加ください。

 10月の玉ひでは、17日です。親子丼を食べながら、若手のマジックショウを見ます。後半は私の公演です。ちなみに、11月は21日、12月は19日です。

いずれも東京イリュージョン、info@tokyoillusion.co.jp、5378-2882まで。

 

知ると知識は違います。

 この数年はクイズ番組に東京大学の学生や、京大の学生が多数出演して、クイズ番組を制覇して、テレビ局内では流行にさえなっています。回答者は相当に多くの本や雑誌を読んでいて、一度読んだ物は能にインプットされていて、全て記憶をしているのでしょう。全く驚くべき脳の容量です。私などは、一日5個か10個の記憶をしても、晩にはすべて綺麗に忘れ去っています。

 知っているということは何かと便利で、優れた才能だとは思いますが、その能力は認めた上で申し上げますが、知っているということは知識ではありません。知ると知識はどう違うのかと言うお話をします。

 

 実際、クイズ番組のようにあらかじめの答えから逆算した問題に対して、それに答える能力は、記憶力のいい人が勝るのはその通りですが、社会で生きて行くうえで、記憶力のいい、悪いは実はあまり重要な能力ではありません。

 日常に起こる問題は、答えのわからない難問が山積みです。それに対してどう解決するかに個人の能力が試されます。知識であるとか、経験であるとか、答えを見つけだす直観力であるとか、未知な分野から解決策を見出す様々な才能が求められるのです。

 そこで知識についてですが、知識がただ知っていることなら、識と言う文字は必要ありません。知っているということが学問になるのは、識があるからです。識とは何か。

識の文字は、言遍(ごんべん)に、音と矛(ほこ)です。似たような文字で職業の職は、耳遍に音と矛です。織物の織は糸遍に音と矛です。

 共通している音と矛は何を意味しているのかと言うと、縦横、つまり経緯(けいいはそもそも縦横の意味)です。職業の職のたて糸経は、(その道の歴史や未来、後輩の育成や、新作の開発など、歴史と将来を見据えた活動)を理解して行動すること。それに、緯は、(仲間とのつながり、商売の相手先との付き合い)、これが横糸です。それら両方を理解して活動することで職業が成り立っています。

 織物の織るも、同じで、たて糸と横糸を編んでゆくから、布地が生まれます。知識の識も同様です。知っているというだけでは知識になりません。知っていることから法則を見出して、未知なる問題から答えが出せてこそ知識なのです。

 

 例えば、山手線の東京駅の南側の次の駅は、有楽町です。東京の人なら誰でも知っています。でもこれは知識ではありません。生活上知っているだけなのです。なぜなら、東京の次が有楽町だと分かっても、有楽町の次がどこの駅かは、有楽町からは割り出せないでしょう。同様に、大阪の環状線の玉造の駅の次の駅はどこかと問われたら、東京の人は答えられないのです。すなわちこれは知識ではないのです。

 数学の数式は、ルールを理解すれば、はるか先まで計算ができます。数式のルール、これが知識の経緯なのです。物事を、単に知っているか否かだけなら、動物の多くはいろいろな経験から物事を知っています。人間はそこから経験を超えた予測を見出す能力があることです。

 音遍に矛は元々は「印す」と言う意味だそうです。印すとは何かというと、バッテンを意味します。昔の人は山歩きをしているときに、来た道を見失わないように、道の木々に印をします。その時の印と言うのは、バッテンのことです。なぜ人がバッテンを印すかと言うと、獣が木を傷つけるときは、さっと一筋引っ掻くだけです。器用な獣がいてバッテンをすると言うことはまずないのです。バッテンとは何か目的があってする行為なのです。すなわち人間の仕業です。

 バッテンを描くことで人間は目印を見出したわけです。このバッテンこそが後に経緯に発展し、知識になって行きます。

 

 私は東大生がクイズに出て、その知る能力で人気者になることは素晴らしいとは思いますが、見方によっては才能の無駄遣いだと思います。また多くの日本人が、東大生の知っている、とか、記憶力だけを誉めそやしてしまうことは極めて危険なことだと思います。こんなことで世の中が渡って行けるなら、東大生にとって社会はちょろいものです。

 然し、世界的に見ても日本の大学の学力が大きく下がっています。知っていることは立派でも、それが、知識につながっていなのではないか。ゆえに世界の評価が低いのではないかないかと、私はクイズ番組を見て一人で勘繰っています。

 

 マジックの世界を見ても、韓国や、台湾が力をつけてきていることは事実ですが、韓国も、台湾も、国際情勢如何でいともたやすく崩壊する可能性を秘めた国です。香港なども現実にこの先香港と言う自治国が残るかどうかも分かりません。その動向を決めるであろう中国は、アメリカと犬猿の仲です。この先アジアがどうなるのか。このことはFISMが、無事開催されるか否かと言う問題よりも大きく、我々の生活にも影響する大問題です。

 この先5年以内にアジアで局地戦争は起こるでしょうか。北朝鮮は破れかぶれな原子爆弾を発射するでしょうか。韓国はこの先経済が破綻したら国が維持できるでしょうか。香港の今の困窮を世界が助けてあげられますか。仮に香港が崩れた時に、台湾はどうなりますか。アメリカは本気で台湾を助けますか、中国と全面戦争をしますか、その時日本は黙って見ていますか。或いはアジア、中東などで大きな戦争に発展する可能性はあるのでしょうか。その時日本がどう対応したらいいのでしょうか。

 恐れ入りますが、クイズに出演している東大の学生さんにご意見をお伺いしたいところです。

続く

 

 

大腸検査その3

 昨日の続きです。結局午前中に薬品の入った水を2リットル飲みました。いくら甘味や、塩味が付いているとは言え、2リットルの水はなかなか飲めるものではありません。相当に無理して飲みました。すると、30分もしないうちに、強烈な便意を感じました。

 トイレに駆け込むと、水便です。全くホースで水を撒くような、勢いのある便が流れました。この水便は昨日とは違って、薄い黄色でした。もう体内の宿便は流れたのでしょうか。始末の悪いことに、放出した後に立ち上がると、また腹のどこからかぐるぐると音がして便意を催します。やむなくしゃがむと水便が放出されます。こうなるとなかなかトイレから抜け出せません。それが朝の9時半くらいです。

 さて、それから30分に一回トイレに駆け込みます。合計5回のトイレでした。こんな状況ですと、座っていても、立ってかたずけをしていても便意を催すのではないかと不安になります。私のアトリエは一階にあります。トイレは二階です。催してトイレに駆け込むためには二階に上がらなければなりません。これが簡単ではありません。

 便意は突然来ます。「そら来た」と、席を立って、ドアまで行き、二階に上がろうとするのですが、水便は容赦ありません。二階の階段の前で既に便意が最高潮に達します。「いや、ここで放出してはいけない。何とか二階まで上がらなければ」。そう思ってきつく肛門を〆ます。そして、階段を上がるために片足を上げます。右足を揚げる動作と、肛門は連結していて、階段のステップを上ろうとすると、肛門にゆるみが出て肛門に水圧が押し寄せます。「まずい、漏れる」。そこで、一層肛門を引き締め、手すりにつかまって、右足を女の子の縄跳びのように、ひざ下からチャールストンのように足を回してステップを上ります。その足を軸にして、肛門をずらさないようにして、そっと左足を持ち上げます。「よしこれで一歩上がれた」。

 然し、まだ13段あります。一歩一歩気持ちを引き締めてゆっくり上がって行きます。うまい具合です。この調子でやれば問題はありません。ところが、私の慎重な動作に大腸がしびれを切らしたのか、一層きつい便意が襲ってきます。「むむっ、これはまずい」。相手は大量の水便です。私の肛門の筋力には限界があります。意志は強くても肛門の皮膚に意志はありません。いよいよ階段の途中で大放出か。いやいや、ここであわててはいけません。

 長く生きていれば、物事の潮時が見えて来ます。便意は潮の干満に似て、少し時間が過ぎれば嘘のように引くものです。ここで、便のことばかり考えるから、便意が調子に乗るのです。ここが人生の駆け引きです。

 私は階段の途中ですっと立って、便意を我慢しつつ、別のことを考えます。ガースー政権の外交はうまく行くのだろうか、とか、山口達也の飲酒運転はこれでタレント生命が断たれるのだろうか、とか、余計なことを考えます。

 すると一瞬、便意が薄れました。「しめた、相手が忘れかけているこのときがチャンスだ」。素早く階段を上がり、二階の玄関に達します。「ここまでくればあと2m、もう大丈夫だ」。と思った瞬間、大腸に心の油断を見破られました。更なる強烈な便意が襲い掛かります。

 「あぁっ、これはまずい。ここまで来て、便器がそこに見えていながら、もう一歩も足が前に出ない。そうだ、また別のことを考えよう」。又も山口達也の頭を刈り上げた顔を思い浮かべました、ところが、便意は収まるどころかとんでもなくきつくなりました。「やはり同じネタでごまかすことはできないか、どうしよう。よし、この上はやむなしだ。強硬突破だ。どうせ便器に座るまでは3秒とはかからない。それなら思い切って行こう」。と急ぎパンツを脱いで座りかけると、便意が怒涛の如く押し寄せててきました。然し、間一髪でセーフです。

 水便が勢いよく便器に流れました。安堵の思いと同時に別のことが脳裏をよぎりました。「山口達也ネタは二度はきかない。だから山口達也も今度と言う今度は助からない。世間に甘え続けていてはいつか限界が来る。私だって苦労して苦労してトイレにたどり着いたのだ。山口達也も私のように苦しんで、苦しんで自分の道を考えるべきだ」。私は排便をしつつ、山口達也の人生の甘さを諭しました。しかしよく考えてみれば、水便を垂れ流している親父が偉そうなことを言っても何ら説得力はありません。

 

 その後、午後2時半に世田谷健康センターに行きました。そこで紙製のパンツと甚平のような下着に着かえ、控室で待っていると、看護婦さんが二、三人集まってきました。そして、私の蝶々や、水芸を褒めてくれました。実は、前回来た折に、杉並区が作ってくれた宣伝名刺を渡したのです。名刺はスマホを当てると映像が流れ、私の手妻が映し出されるようになっています。それを皆さん見てくれたのです。

 そうやって褒めてくれるのは有り難いのですが、これから肛門に内視鏡を入れなければならない状況ですので、どうにもカリスマ性が薄れます。

 診察室に入ると、機械類は、ほとんどなく、内視鏡の映像を見る画面があるだけです。私はまず麻酔を腕に打たれました。点滴のようにして、少しずつ麻酔が流れる仕掛けです。ただ、この麻酔は罹っている意識はありません。気持ちも目も確かです。

 内視鏡は試験管のような透明な筒に内視鏡が入っていて、試験管のまま肛門にいれたようです。入った実感は全くありません。先生が、内視鏡を押したり引いたりを繰り返していましたが、特別痛みもありません。15分位うとうとして目を覚ますと、私が顔の角度を変えれば、私も画面を見ることに気付きました。そっと顔を動かして画面を眺めると、ピンク色の大腸の中がよく見えます。食べかすなどは全くありません。洗濯機の蛇腹のホールを中から眺めているようです。中は緩やかな襞(ひだ)が段々に続いていて、洞穴を探検しているようです。「よし、いいだろう」。と先生が言って、内視鏡は抜かれ、検査は終わりました。その後、寝台のまま別室に連れて行かれ、そこで30分休みました。私は麻酔が残っていたせいか気持ちよく寝てしまいました。

 その後健康センターを後にしました。ここで初めて空腹を覚えました。思えば昨晩から何も食べていないのです。然し、水を大量に飲んでいたせいかまったく空腹は感じませんでした。こってりと鰻か、焼き肉が食べたいと思いましたが、酒や、脂ものや刺激の強いものはだめと言われましたので、高円寺の寿司屋に行きました。

 シマアジの握りと金目鯛、のどぐろを立て続けに注文しました。シマアジは絶品でした。今朝、いかがわしい白い薬を飲んだため、味覚が衰えてはいないか心配でした。シマアジのさっぱりとした脂と、奥に残る独特の香りを感じました。味覚は健在です。

 金目のほどほどの脂も上品でした。のどぐろは期待しすぎたためか普通の味わいでした、むしろこはだの握りが当りでした。酢で締めた身が空っぽの胃袋に染み渡りました。酒はだめなのですが、これだけいい魚が並ぶとちょっと一杯やりたくなります。ハイボールなら罪もないだろうと勝手に判断して、一杯だけ飲みました。何のかんのと能書きをたれて、結局酒を飲み、寿司で一杯やれて最高です。腹が膨れて幸せな気分になり、上機嫌で家に帰りました。

大腸検査終わり

 

大腸検査その2

 どうもこのところ病院ネタが多くなって、マジックのブログを期待している方々には期待はずれで申し訳ありません。私にとっては大変に興味ある体験ですので詳しく書こうと思います。

 昨日(22日)、指定されたレトルトの食事を自宅で温め、3食頂きました。朝が鳥雑炊、昼がシチューと粥。夜がハンバーグシチュ―と粥。何とも味気ないメニューです。粥も、焼きたらこか、からすみでも乗っていればまだ愛嬌がありますが、正味粥です。「これじゃぁまるで病人じゃぁないか」。と居直りたくなりますが、考えてみたら病人なんです。私は病人の予備軍です。どれも大してうまいとは思えません。レトルトの病人食に繊細な味を求めるのは無理でしょう。文句言わず食べるしかありません。

 この味気ない昼食の後に、二人の生徒さんが習いに来ました。四つ玉と、リングです。だいぶ巧くなりましたが、まだ合格は出せません。来週には合格するでしょう。

 

 晩飯を食べる前に、大樹が訪ねて来ました。シルクの帯を分けて欲しいそうです。私の所はシルクの帯を各種寸法を指定して注文していますので、一般には手に入らない帯が幾つもあります。それを一本分けました。

 そして仕事の話などを聞くと、やはりかなり苦労しているようです。大樹は元々海外の仕事が多かったのですが、今は全く海外に出られませんので、相当収入が落ち込んでいます。それでも役所や国の仕事がありますから、生活は維持できるようです。何とか生活を維持しつつ、将来のために自主公演をして、お客様を集めて、新しい作品を出してゆくのが今の仕事だと言っていました。

 今月は豊洲江東区の買取のショウがあるそうです。安定して大きな仕事があるのは幸いです。暮れにはまた玉ひでで公演をするそうです。自主公演は大切です。自分を試すうえでとても勉強になります。どんな小さな場所でもいいから、気長に続けて行くことが大切です。

 大樹は、初めて私の所に来た時には、気の弱そうな、おどおどした子供でしたが、海外の仕事や、国の仕事をしているうちにずいぶん自信が付いてきたようです。前向きに生きている限り、この先もそう悪い結果にはならないでしょう。

 

 さて、ハンバーグの晩食を食べた後、9時から、白い粉を約800㏄の水で薄めて飲んでゆきます。これはバリウムではなく、下剤だそうです。下剤を呑んで、胃腸の中の食べ物のかすを出してしまうのだそうです。つまり体内の宿便を排出するわけです。

 宿便とは長年体内に溜まった食べ物のかすです。これはかつて、断食などが流行したときに、宿便を取るのが健康にいいなどと言われて、体内の浄化を勧める本などが随分書いていました。それを断食なしで、下剤でやってしまおうというわけで、私もここらで体の中を浄化することはいいことなのだろうと思って少々興味を持っています。きっと今後の健康にいい結果になるのではないかと思います。

 白い粉を200㏄の水で溶き、それを呑みます。この液がべたアマです。砂糖水を呑んでいるようです。そのあと水を600㏄飲みます。合計800㏄の水は結構腹にたまります。その後寝るのですが、間食もできず、酒も飲めませんから、寝る以外ありません。幸いよく眠れました。すると、朝4時に目が覚めます。トイレです。

 下剤を呑んでいるのですから当然ですが、排便の後、まるで水のような便が出ます。ちょうど私が飲んだ水の分だけ出て来ました。便器を見ると茶色い水です。「ははぁ、これが宿便か」。と納得が行きました。呑んだ水がそっくり同じ量だけ排出されるのを見て、案外体の仕組みと言うのは簡単なものだと思いました。

 

 そして今日の朝です。8時半に、白い粉を2リットルの水で溶き、それをコップ一杯ずつ飲んでゆきます。これも味はほの甘く、塩気もあり、スポーツドリンクの味に似ていますが奇妙な味です。今ちょうど半分を飲み終えました。水を1リットル飲むとかなり腹にたまります。あと1リットル飲まなければいけません。

 そう言っているそばから排便がありました。水便です。体を動かすと突然便意を催しますので、トイレの近くにいないと心配です。おちおち散歩もできません。「あぁ、親父もこんなことをしていたのだなぁ」。と思うと気の毒になりました。健康のため、長寿のためとはいいながら、余りに味気ない作業です。

 このあと残りの水を飲んで、午後に世田谷健康センターに行きカメラを体に入れます。どんなことにあるか楽しみです。その情報はまた明日。

続く

手妻の語る世界 3

 さて、明日大腸検査のためのカメラを入れます。そのために、体内を空っぽにしなければなりません。今日から三食は専門の食事をします。朝は鳥雑炊だそうです。レトルトの袋一つです。他のものは食べてはいけません。朝はまぁ、いいとして、こんなもので三食我慢ができるものかどうか。そして夕食後に2リットルの水を混ぜた白い粉を呑みます。きっと飲みにくいと思います。然し、仕方ありません。

 空腹と白い粉を呑んで、不快感のまま、明日2時に健康センターに行きます。どんなことになるのか楽しみです。カメラを引き出した後に、わたしがそっと肛門にサムチップを仕込み、中にミニ万国旗を入れておいて、「先生、まだ体の中に何か入っていますよ」。と言って、肛門からはみ出ているひもを先生に引っ張らせて、次々万国旗が出てきたら面白いと思います。看護婦一同拍手喝さいしてくれるでしょうか。

 いや、なかなか医者は、「うーん、これはショウアップしている」。とは言わないでしょう。「そういう下らないことはよしなさい」。とかなんとか冷たくあしらわれて終わる可能性もあります。そうなった時に、肛門を出しながら、ちまちまと国旗を片付ける我が身は惨めです。やめたほうがいいかもしれません。やはり65を過ぎたら、下らないことは慎んだほうがいいのかもしれません。

 今日は午後から指導が二人あります。食事の都合もありますから、一日外出することはないでしょう。

 

手妻の語る世界 3

 これまで長々と、手妻にはストーリーがあるという話をしました。江戸時代には単独に手妻だけで興行をする手妻師が多くいて、一公演2時間も3時間もかけて演じていたのです。そうなると、一瞬芸ばかり並べていたのでは間が持ちません。どこかでみっちり実のある演技をしなければなりません。手妻にストーリーを取り入れることは必然だったわけです。

 しかしそうなると、手妻一座の大夫は、手妻の技以外にも、芝居の素養や、踊りの素養を求められ、芸能を総合的に理解していないと勤まらなくなります。そうなると、一層有能な人材が求められるようになります。

 一蝶斎と言う人を見てみると、顔だちがよく、背が高く、頭がよく、手妻がうまく、と、人として抜きんでた人だったようです。晩年の一蝶斎を見たイギリスの役人が、「インドから東で見たアジア人の中で一番いい顔をしている」。と褒めたほどのいい男だったのです。然し、その時点で一蝶斎は70を過ぎていたのです。若い頃ならとんでもなくいい男だったと想像できます。

 その一蝶斎は、明治2年に亡くなります。83歳とも84歳ともいわれています。多くの日本人が50で亡くなって行く中では異例の長寿です。そして、あたかも一蝶斎の死に呼応するがごとく手妻の衰退がはじまります。日本に西洋奇術が入って来るのです。

 多くの手妻師は、いち早く、西洋風の衣装を買い求めて、自身の演じていた有り合わせの手妻を「西洋奇術」と詐称して、早々に西洋奇術師に鞍替えします。名前も、これまでの何々斎をやめて、万国斎ヘイドンだの、英情カーン、だのと得体の知れない名前を付けて活動をします。これにより、手妻の形は崩れ、せっかく芸術に昇華しかけた手妻はまたもこけおどしの世界に落ちて行きます。

 天保時代に当時子供だった信夫恕軒と言う文筆家(新聞記者をしたり、漢文の教師をしたり)、はその時見た一蝶斎が忘れられず、その後も度々一蝶斎の舞台を見て、一蝶斎の芸に心酔し、明治20年代になっても一蝶斎を褒めてやまなかった人です。氏の一蝶斎の賛じた漢詩に、「昨今の西洋の仕掛け物の種を仕入れて、それをただ真似て演じるだけの奇術をする西洋奇術師に比べて。一蝶斎の技は正に芸であり、それは天下の奇技であった」。と大賛辞を述べています。

 然し、信夫恕軒の賛辞も空しく、手妻は衰退し続けます。手妻の良さを理解しない人が手妻を演じていては衰退は必然なのです。

 

 私は、若いころから手妻を覚え、その面白さに興味を持ち、何とか手妻を復活させたいと考えていました。そして、なぜ手妻が衰退したのか、と考えて行くうちに、明治15年に突き当たったのです。明治15年には、もう一蝶斎の威光は薄れ、弟子は散り散りになり、巷(ちまた)では西洋奇術師があふれ、手妻師は芸能の隅に追いやられて行きます。然し、そうした中でもまだ、後の三代目一蝶斎となる蝶之助のような手妻師がいて、手妻を残そうと奮闘していたのです。然し、多勢に無勢で大きな力とはならなかったのです。

 私は、明治15年の手妻師が、手妻を改革するとしたら、いったいどういう改革がしたかったのか。それを自分なりに考えました。27歳、昭和58年に、文化庁の芸術祭に参加し、板橋文化会館の小ホールで、「文明開化新旧手妻眺(ぶんめいかいか しんきゅうてづまのながめ)」と題して、古い手妻を復活させたり、改良したりして、なるべく明治15年に実際行われていたように、囃子方や、口上言いを用意して、昔仕立ての手妻を公演しました。

 この時、なるべく古いやり方を残しつつ、手妻がなぜ消えて行ったのか、何がいけなかったのかを考えて、ただ古いままを演じるのではなく、種仕掛けを改良したり、演出をスピードアップさせたり、随分変えてみました。実はこの考え方が、今の私の活動につながっています。

 つまり、私の手妻の外見はあたかも百年も二百年も前の型をそのまま継承しているように見せて作ってはありますが、その実、随分改良を加えています。その改良も、「もし明治15年の手妻師が今にいたとしたなら、彼らは一体手妻をどう改良したかったのか」。と言う考えを原点にして改良を加えています。

 つまり、現代の、マジシャンの発想で手妻を見るのではなく、明治15年のマジシャンがどうしたかったのかと言う視点で手妻の改良を加えることを考えたのです。当時の手妻師は、仕事もなく、収入にも恵まれず、世の中の大きな流れからも外れて、惨めな生活をしていたと思います。そんな人たちが、もし、収入があって、仕事にも恵まれていたとしたなら、彼らは、江戸の手妻からどんな夢を発展させて、手妻を大きく作り替えていったのか。そこの意思を受け継いで、再度考え直してみたいと思ったのです。

 旨く改良がなされたとしても、私が改良したということがわからないようにして、全く古風な作品が、あたかも遥か昔からあったかのように、舞台の芸として収まっている世界を作ったら面白いだろうと考えたのです。今も私は密かに目立たない改良を続けています。私のオリジナリティだとか、アレンジの才能などと言うものは消し去ってもいいのです。そんな些末な考えにこだわらず、先人の遺志を継いで、更に発展させてゆくための活動をして行こうと考えました。私はこうした生き方を見つけだしたことに密かな誇りを持って活動を続けているのです。

手妻の世界を語る 終わり

 

手妻の語る世界 2

 すみません、ブログを一日休んでしまいました。昨日は、学生さんが7人習いに来ました。皆さん熱心です。ようやく習うことの大切さ気にが付いたようです。習うということは、マジックそのものの知識を得ることのほかに、その周辺のカルチュア―を学ぶことになります。これが案外、この先マジックをして行くうえで大切なことなのです。

 私は、その間の時間を縫って、ブログを書いてはいたのですが、とにかく忙しくて、発信するには至りませんでした。ようやく今、お出しします。

 一昨日は玉ひでで公演しました。いつもの通り、前田、日向さん、ザッキーさん、早稲田さん、の4人の演技と私の演技です。私の方はNHKさんの撮りがあり、NHKさんの注文で、長めに6つの作品を演じました。1時間の内容を隅々まで把握して、一気に演じるというのはかなりハードな舞台です。それでも以前なら問題なく出来たのですが、最近は長い舞台は少し疲れます。でも、気持ちを集中して演じました。

 出来の方はどうだったのでしょうか、明日またNHKさんがアトリエに来ますので、そこでお話を伺うことにします。今回放送していただけるのは、クールジャパンと言うタイトルの番組で、これまでも、日本文化を真正面から捉えて、伝統芸能や、伝統産業、職人芸、などの優れた知恵や、技を見つめて、世間に伝えています。

 実は私はこの番組に是非出演したかったのです。手妻の何がいいのかを伝えるにはこの番組はまさにうってつけです。手妻は千年以上続く芸能ですが、その内容は、今日見てもかなり不思議なものが多いのです。しかも、単に不思議なだけではなく、不思議を覆い隠して、マイルドな表現にするために、ストーリーや、見立てが入ります。こうしたものを語ることで、芸能としての奥行きが生まれて行きます。面白い芸能です。

 ここを是非番組で取り上げてもらいたいと思います。

 

手妻の語る世界 2

 前回は、江戸の初期の縄抜け名人の話をしましたが、それまで異なる作品を順に演じるだけで手妻の興行がなされてきましたが、江戸期に至って、小屋掛けが常設、半常設の形で定着するようになると、それまで一回こっきりのお客様との接触が、度々同じお客様が見に来るようになり、お客様の芸能の理解が深まって行き、その中で見巧者(みごうしゃ、芸能を見識を持ってみるお客様)が育ってゆきます。

 この見巧者と言う存在が、江戸の芸能、芸術を大きく引き上げます。ちなみに見巧者と発音するときの、「ご」は鼻音で、鼻に抜けるように発音します。これは江戸の発音で、江戸の言葉は、濁音は、第一音ははっきり発音しますが、単語の途中に出て来る濁音は鼻音で柔らかく発音します。例えば、学校と言う時の「が」は、はっきり発音しますが、小学校の「が」は鼻音で発音します。一見どうでもいいことですが、見巧者と言う柔らかい発音の中から、江戸の審美眼が育てられ、芸能が形成されてゆくわけです。

 江戸時代に、周囲から見巧者と言われた人は、大変な尊敬を集めます。今日の芸能評論家と呼ばれる以上の敬意で見られます。(芸能評論家は自称ですが、見巧者は他薦ですから)。こうした人たちが、芝居や人形芝居、手妻や軽業、講釈、浄瑠璃、落語などの小屋に頻繁に顔出しをして、観客として諸芸を育てて行きます。

 西洋の芸能芸術の理解者が、王侯貴族であるのに対し、日本の芸能の支援者は、庶民が殆どで、家業を隠居した老人であったり、無役の武士であったり、江戸の留守居役などで、接待することが仕事の武士であったり、富裕な商家の女房であったり、娘であったり、そんな人たちが芸能を支えていたのです。

 彼ら彼女らには、「こういう芸能が見たい」。「こんな風であってほしい」と言う夢があります。それを贔屓の芸人に託すのです。芸能は、芸人と贔屓との共同作業で作り上げられてゆきます。

 

 小屋掛けが方々にできると、例えば歌舞伎は、それまで歌舞伎踊りを見せていたものが、踊りだけで長時間人を楽しませることが難しくなります。そこに何らかのストーリーが求められるようになります。踊りから、演劇に移行してゆくわけです。

 歌舞伎も初期は、二枚目の色男が色町に出かけて、女郎に持てたの持てないの、などと言う単純な話から、徐々に男女の複雑な話や、英雄豪傑の話などいろいろなジャンルが生まれ、その都度世間の話題を集めるようになります。

 それは落語も同様で、それまで簡単な小話の羅列だったものが、小話をいくつかつなげて大きな話に作り直されてゆきます。小話だけなら、ばかばかしさや、おかしさだけで完結してしまうものが、演劇の要素が加わると、人情の機微が加味されて喜怒哀楽が表現され、世界が大きく広がって行きます。それまで座敷に呼ばれて、余興のように見せていた落語も、専門の寄席ができるようになり、それにつれてお客様が付いて来て、次第次第に一つの話が30分から1時間に及び、更には10日間の続き物になって行ったりします。

 こうした大きな流れが手妻にも影響されて、手妻も自然に演劇が取り入れられるようになります。つづらに中から幽霊が現れて、空中浮揚して、殺した相手に復讐をするなどと言う筋が考えられたり、(怪談手品)。大盗人になった手妻師が、取り手から逃れて水に入って消えたのち、裃姿になって迫上がって出てきて、なおかつ宙乗り(空中を紐で釣って、空中遊泳をする)となって引っ込んで行く、と言うスペクタクルを演じたり、(吉田菊五郎の水芸)。

 そうした中で、柳川一蝶斎の蝶の曲が生まれます。紙の蝶を飛ばす芸は、江戸の初期に生まれました。初めは何秒間飛んでいるか、と言う瞬間芸のようなものだったと思いますが、幕末期の柳川一蝶斎によって、蝶の一生を語るストーリーが生まれます。

 蝶の誕生、出会い、結ばれ、別れ、亡くなって行く。そして、月日が経って、その子孫はまた千羽蝶となって羽ばたいて飛んでゆきます。その様は人の輪廻を語り、無常を語ります。紙で作った蝶をとばすことが、無常観を語るというところがものすごい発想です。蝶の飛ぶさまを見ているうちの、独特の世界に引き込まれ、いつしか人の一生を感じさせます。こうしたマジックは海外にはなく、手妻独自の世界と言えます。

 

 私が蝶の稽古をしているときに、師匠の清子が、昔の人の工夫を話てくれました。「蝶は、地味な芸だから、お終いに千羽蝶を撒くとき、唯一派手になるため、にこにこして千羽蝶を飛ばす人がいるけど、そこは笑ってはいけない。蝶と言うのは親の死があって、子供が生まれるんだからね、蝶の親子は一緒に散歩をするなんてできないんだよ。去年飛んでいた蝶は蝶の親、今年飛ぶ蝶は蝶の子供だからね。

 だからね、『男蝶雌蝶を小手に揉みこみますれば』と言って、深呼吸をする」。「なんで深呼吸をするんですか」。「それで一年経ったという約束。物の成り代わり立ち代わりは常の事だから、普通の顔をして飛ばすんだよ」。と教わりました。

 この師匠の話はどうも口伝だったと思います。口伝なら人に話してはいけないことですが、私は手妻の本質を語る言葉として、よく舞台で話しています。紙の蝶にそこまで心を込める手妻の世界が素晴らしいと思い、今日まで続けています。

続く

 

 

手妻が語る世界 (お休み)

 今日は玉ひでの公演。同時にNHKの撮影です。相当に忙しい一日になりそうです。舞台は一回っきりの本番です。毎回やっていることをするのですが、舞台は魔物です。うまく出来るといいと思います。このところ、周辺に仲間が増えて来て、色々手伝ってくれます。人が増えるのはいいことです。

 できることなら、玉ひでのような場所が、二、三か所出来て、毎月マジックショウを開催できるといいと思います。意欲のある仲間がもっともっと必要です。コロナの影響で、仕事がないと一人で悲観しているマジシャンもたくさんいることでしょう。

 でも、こんな時こそ、コロナが解決した後のために練習をして、舞台を探して、なるべくお客様に接して演技をして行かなければいけません。泣いている時間はありません。自身の目的のためにできることはできるところまで進めておかなければならないのです。仕事のできる人、成功をつかむ人は才能の差で決まるのではありません。目的を持って、目的がぶれずに、ちょっと先を読んで行動できるかどうかで決まってしまいます。それは才能とは別の能力です。

 マジシャンはみんなマジックを愛していると思います。マジシャン自身もそう信じています。然し、マジックを愛しているなら、泣き言を言ってはいけません。ぶれずにひたすらマジックを考えるべきです。ひたすら観客を探して、観客に奉仕すべきです。長くマジックを続けていれば、必ず仕事が来なくなる時があります。そんな時は自分がマジックを愛しているかどうかが世間に試されている時だと知ることです。

 どんなことがあっても続ける。きっと観客がいると信じる。あなたはみんなから求められていると信じることです。ここで根性を鍛えるのです。この道で長く生きたならうまく行かないことばかりおきます。然しめげない、ずっと続けて行く。それが、マジックを愛する人の生き方です。

 

 と、言うわけで、今日はあまり時間がありません。手妻が江戸時代に、いかにして、世界観が作られていったのか、とても貴重な話をしたいと考えていましたが、あと1時間でアトリエを出なければなりません。これから和服に着かえて出発しようと考えています。明日また続きをお話しします。しばしお待ちください。

続く