手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 9

 さて親父は条さんと言う相棒を得て漫才を始めます。昭和38年のことです。その時に、条さんは、「キャバレーの仕事をしませんか」。と尋ねてきたそうです。初め親父は、「キャバレーは・・」、としり込みをしました。キャバレーと言うのは、お客様がアルコールを飲んで遊びますので、ショウが始まっても、なかなか真剣に見ようとはしません。特に話を主体とする芸能は、なかなか真剣に聞きませんから不向きです。

 親父が難色を示すと、条さんが、「いま日本中でものすごくキャバレーが増えています。ここを仕事場にすれば、十分生きて行けます。逆に、昔のような演芸の余興と言う仕事はどんどん減っています。キャバレーのギャラは余興並みに支払ってくれます。毎月10本以上は決まって行くでしょう。どうですか、やりますか」。

 言われて親父は、仕事のない現実を考えると、キャバレーもやむを得ないのではないかと思うようになります。結局、条さんとコンビを組んで、キャバレーに出演するようになります。この条さんと言う人は名参謀で、親父にいろいろアドバイスをします。

 考えてみれば、親父のコンビは常に親父がリーダーで、その中で親父の芸を批判する人などはいなかったのです。その代り、他のメンバーは親父におんぶにだっこで、仕事のことも台本作りも、全て受け身だったのです。それがうまく行かないと、責任はすべて親父にかかります。しかし親父は、受けても、受けなくても、いつも、「まぁ、こんなもんだ」。と高を括っていたのです。

 然し、条さんと言う人はそういう人ではありませんでした。キャバレーを数回こなすと、親父は自分自身が結構受けていると思い込んでいたようです。ところが、条さんは、「こんな受けでは帰り(再依頼)は来ませんよ。もっと爆発的な笑いを取らないと仕事は来なくなりますよ」。「でも飲んでいる客じゃぁ、聞きゃぁしないから、話ようがないじゃないか」。「そこを聞かせるように工夫するんです。もう一度台本を書き直しませんか」。

 それまでの親父のネタは、まるで落語のように、初めに話を振っておいて、後でそこをなぞってばかばかしく落としてゆく。と言うパターンが多かったのです。それを、話の繰り返しをやめて、セリフもどれも一言で言えるように詰めて、短く短くまとめたのです。つまり、話を起、承、転、結、でまとめていたものを、起、からいきなり結、に持って行ったのです。すると、酔って頭がマヒしているお客様でも、わかりやすくなり、がぜん受け方が変わって行ったのです。

 条さんと言う人は舞台では簡単な受け答えだけしかしない、およそ目立たない芸人だったのですが、人を生かす才能があるのです。お陰で親父の芸が以前よりテンポが出て来て、笑いの数が増え、面白くなって行きました。

 

 親父はようやく家に収入を入れることが出来るようになります。同時に母親も、外に出て仕事をするようになりましたので、一家は人並み以上の収入が稼げるようになります。但し、母は三か所の仕事を掛け持ちしていましたが、二人の働きで、生活はみるみるよくなってゆきます。

 親父は自分の喋りに自信を持ち、NHK漫才コンクールに出場します。NHK初出場でしたが、いきなり準優勝を果たします。この時、なぜ優勝できなかったかを審査員に尋ねると、「漫才コンクールは、喋りの技術を一番評価します。前半のネタはテンポがあって、ネタも斬新で面白かったのですが、後半が、ギターを使って数え歌で、数え歌と言うのが新鮮味がなく、また、歌で終わってしまうのが、漫才コンクールには不向きです」。と言われたのです。

 つまり親父はまだボーイズを引きずっていたのです。ボーイズ時代の取りネタを漫才でもそのまま使っていたのです。「一つとせー、ひねた子供が多すぎる、テレビの影響じゃないでしょか。こいつぁ豪儀だねー」、と一節歌って、ませた子供の話をして笑いを取り、二つ三つと話を進めて、五つになると、「五つとせー、いつまでやってもきりがない。それでは皆さんさようなら、また会う日まで―、また会う日まで―」、と言って終わっていました。

 数え歌は昔の漫才さんが散々使い古した古典的なパターンです。古いのです。型にはまって動かしようがないのです。他の漫才が、取りネタに爆発的な笑いを作ろうと苦心している中で、親父は、「いつまでやってもきりがないー」、と言って終わるのですから、下げを期待しているお客様はがっかりです。それを昭和40年の時点で、まだやっている親父の芸には限界があったのです。それでもよく入賞させてくれたと思います。

 この先、親父が、楽器をやめて、喋りに専念して、喋りの技術を磨いたなら、親父は笑いの世界で大きなポジションを得ていたでしょう。然し、親父は数え歌をやめることをしなかったのです。なまじキャバレーで安定して稼げたことも、後で考えたならマイナス要因だったのかもしれません。条さんも、親父の型を崩してまで喋りの改革をしようとは考えなかったのです。ある程度食べて行けるだけの成功を収めたなら、そこに満足をしていたのでしょう。結果として、親父は生活はキャバレーに安住して、またぞろ、マージャンと競馬に明け暮れるようになります。その先の一手を考えると言う人ではなかったのです。

 

 そのころ私は、学校の休みの時期や、日曜日などには親父にくっついて行って、楽屋に入り浸っていました。そのうち、小学校5年生くらいになると、舞台に上がって見たくなりました。しかし子供に喋りは難しく、親父のような天然の面白さは私にはありません。何か舞台に上がれる方法はないものか、と考えていると、どうもマジックは面白そうだと気付きます。あれを覚えたなら舞台に立てるのではないか、そう考えると急にマジックに興味が湧いて来ました。

続く

クロネコの都築さん

 クロネコヤマトの元社長(その後会長)、都築幹彦さんが8月16日に亡くなりました。享年91。私はどれほど都築さんにお世話になったか知れません。

 都築さんはクロネコヤマトの社長時代からマジックを趣味にしておられて、会長職を2年務めた後、さっとすべての役職を退かれて、趣味の人生に生きることを決断します。東京アマチュアマジシャンズクラブに所属されて、毎年一回盛大な発表会をされて、派手なステージをするのが楽しみでした。特に手妻に興味があり、和服を着て華々しい手妻を見せるのが生きがいのようでした。

 初めは全くの独学でなさっていたのですが、手妻には細かな約束事があり、それを基礎から学ばなければこの先の発展がないことを知り、私の門を叩きます。

 それが平成10年の1月のことでした。

 当時私は、前年の12月に父を亡くし、大きな葬儀をしましたが、父に全く財産のなかったことを知り、結局私の支出になって、のしかかってきました。それは致し方ないことと諦めましたが、肝心なのはこの先のことでした。

 それまで五月雨式に覚えて来た手妻を、本物にまとめようと考えていました。つまり、道具一つにしても、マジックショップが合板で作ったの箱モノをやめて、指物職人に組み込み式に作ってもらい、そこに漆を塗り、金蒔絵を施して本物の道具で演じようと考えました。然しそれをどの作品もそのようにして、衣装から、道具から一式コーディネートをすると、数千万円かかります。その費用をどこから出すか、構想ばかりが先に立ち、現実には全く前に進んでいなかったのです。

 翌年1月に、私は、構想が前に進まないまま頭を悩ましていると、突然都築さんがやってきて、手妻を習いたいと申し出てくれました。それも必ず月に2回稽古をつけてもらい、少なくとも5年間は習いたいという話です。願ってもないことですぐに了解しました。すると、3月になって、多胡輝(千葉大学名誉教授、頭の体操の著者)先生が都築さんの噂を聞きつけて、訪ねて来て、都築さんと同じく習いたいという話になりました。このお二人が私についてくれたことは私の活動を大きくしました。

 お二人とも70歳を過ぎてはいましたが、講演活動が忙しく、随分大きな所得を得ています。そうした方々が私を支えてくれたのですから、一遍に私の活動に火が付きました。リサイタルをするとなれば、チケットを何十枚も買ってくれますし、道具を新規注文するときは必ずお二人も注文してくれました、衣装もどんどん作ってくれます。

 また仕事を随分紹介してくれました。公私ともに随分親身になって協力してくれました。私の活動の幅が大きく変わっていったのは言うまでもありません。

 お二人とも、東京アマチュアマジシャンズクラブの発表会では華々しく派手な舞台を競われますので、そのご指導で随分いろいろご協力をしました。この15年間くらいの活動はお二人の指導をしつつも、手妻のあらゆる部分をレベルアップすることに大いに役立ちました。全く私の人生にどうしてこんなに願ってもない展開が来るのか、何か、大きな運命すら感じました。今、考えても有難い時代でした。

 

 都築さんの従弟さんに榎本健一さんがいます。喜劇王と呼ばれ、大正末期から戦前戦後にかけての大スターです。エノケンさんの名前で親しまれ、三尺佐五平などと言う映画では、体の小さな武士の役をして、体よりも長い刀を差していて、刀のさやの先が地面に着くためにそこに滑車が付いていました。小さな体で、滑車の付いた刀をころころ引きずって動き回るのが面白く、子供だった私は夢中で見ていました。

 このエノケンさんがまだ若いころ、仕事がない時に都築さんの実家の煎餅屋さんを時々手伝っていたそうです。実家は愛知屋と言う大きな煎餅屋で、小売りではなく、全国のお菓子屋さんに卸していたそうです。その恩義を感じて、エノケンさんは、有名になってから、日劇公演などの際には、都築さんを車に乗せて、楽屋に連れて行き、一日遊ばせていたそうです。

 戦時中は米が仕入れられず、愛知屋は店を閉めます。戦後、無一文になって、都築さんは慶応大学に入り、その後就職先を探します。そこでエノケンさんを訪ね、映画会社を紹介してもらいたいと相談しますが、エノケンさんいわく、「もう映画はだめだよ。この先テレビジョンと言うものが出来て、各家庭で映画や芝居が見られるようになる」。と言ったそうです。昭和23年ならば映画会社は全盛期です。然し、その時期にエノケンさんは既に映画の斜陽を見ていたことになります。

 言われて映画会社はあきらめてどこか仕事斎はないかなとみると、ヤマト運輸と言う会社が募集をしていたそうです。ヤマト運輸の名前は知りませんでしたが、面接の練習に受けてみようと考えて出かけて見ると、うまく合格します。そのまま入社したのですが、実はヤマト運輸の初代社長は、運輸会社もこれからは体力のある若者だけでなく、頭脳の明晰な社員を入れなければいけないと言って、たまたま慶応大学に張り紙を出して10人だけ大卒を募集したのだそうです。

 その10人の中に都築さんがいたわけで、全く偶然の入社だったわけです。然し、入社してみると、配送と言う仕事は面白みのない仕事で、すでに契約している会社の製品を決まった場所に届けるだけのことで、変化もなく発展もない会社に見えたそうです。そのため2年の内に9人の慶応の仲間が辞めてしまったそうです。残された都築さんも、やめる時期を狙っていたそうですが、ある時、上司に飲みに誘われて言われたことが、

 「世の中で成功する人は、縁を生かせる人だ。君は縁あって、この会社に入ったのだから、その縁を生かすべきだ」。と言われたそうです。言われてしばらく会社にいると、二代目になる社長の息子さん(小倉さん)が、「企業の製品を輸送するのはやめて、いまアメリカで当たり始めている、小口の配送に切り替えたらどうか」、と言う提案を役員会議でします。当時一番末席の役員だった都築さんはその提案に賛成。他の役員は全員反対だったそうです。

 どんな地域でも翌日配達、どんな荷物も一つ1000円、それを達成させるというのですから、誰が聞いても無謀です。高速道路も満足に出来ていない時代に、陸送で、地方の輸送会社と連携を取って、小口の荷物を運んで、しかも収入が一つ1000円と言うのでは会社は成り立たない。と誰もが思います。然し、大手の運輸会社に押されて、シェアを失いつつあったヤマト運輸に選択の余地はなかったそうです。

 それから二代目の小倉社長と都築さんの涙ぐましい活動が始まります。小口の宅配をするということは真っ向から郵政省(郵便局)と対立することになりますので、反発が大きく、困難を極めたそうです。それが今は75000人の社員を抱える大企業ですから、大変に大きな成果を残されたことになります。二代目の小倉さんの後は都築さんが社長になりました。更に会長になり、そのあと職を退いても、講演活動で大忙しでした。

 都築さんはいつでも陽気ないい顔をしていました。大きな仕事を成し得た人は人相までよくなるのだなとしみじみ思いました。と都築さんを思い、合掌。

続く

母親のこと 8

 私は池上で生まれ、12年間池上で暮らし、都合5回池上の町中を引っ越しました。母にすれば、子供が2人いて、家賃の更新のたびの値上げを求められるのは、辛かったのでしょう。安い間借が見つかればすぐに引っ越していたのです。

 一ノ蔵にいた時に、私と親父がよく散歩をした旧道に、ラジオ部品の店がありました。堤方橋を渡る手前の三角形の敷地に二階家が建っていました。細い三角で、およそ人が住めるのかどうかも怪しいほど薄っぺらな家でした。

 その家が売りに出ていたそうです。当時30万円です。今の物価にして15倍と考えても、土地付き、都内で450万円は破格に安いと言えます。とにかくそんな家でも、引っ越すたびの敷金礼金など払わずに済みますし、第一家賃がいりません。その分貯蓄に廻せます。30万円は母親が手に届かない価格ではなかったようです。母は横浜の親戚まで一軒一軒尋ねて借金の相談をしました。然し、どこも貸してはもらえませんでした。後々までもその家が買えなかったことを残念がっていました。

 私が小学校に入り、アパートに引っ越したときに、母は編み物をやめ、働きに出ました。大森駅ビルデパートの店員でした。そして駅ビルが終わると有楽町に行き、日本料理店の仲居をしていました。定休日は別の店の店員をしていました。正月の3日間を除くすべての日を働き続けていました。当時の女性の給料は安かったので、これだけ働いても普通の男性の勤め人とそう変わらなかったようです。

 私にすれば朝から晩まで編み物の機械ががーがー騒がしく鳴っていた生活から解放されて、すっきりしましたが、家の中は誰もいなくなってがらんとしてしまいました。

 親父はいましたが、私が朝学校に行くときは寝ています。そして帰って来るとまだ寝ています。親父は用事のない日は競輪か競馬、パチンコか、仲間と麻雀に出かけます。

 私が後年、北野たけしさんや、仲間の芸人から、「あんな面白い親父さんと一緒に暮らしていたのに、何でお笑い芸人にならなかったの」、と、よく聞かれましたが、私が親父に憧れるわけはないのです。

 お笑い芸人の寿命は短く、終わってしまえば何一つ残らない人生です。ギャラは安く、一軒の家も残せません。時代が過ぎてしまえば、仲の良かったプロデューサーまで冷たい目であしらわれ、どこにも行き場がないのです。仕方なく池上の町中で博打をして遊んでいます。仕事のある時には、浅草などに出かけ、これもまた芸人仲間と博打をしています。全く先の展望がないのです。それを見ていて、親父の後を継ごうとはとても考えられなかったのです。

 親父はいつでも私と一緒にいたかったようです。しかし親父の行くところは悪い場所ばかりです。競馬場や、競輪場にまで連れて行きます。母親が晩に、「今日はパパとどこに行っていたの」。と私に尋ねると、幼い私は、「お馬の運動会に行ったよ」。と答えたそうです。

 それでも私はよく親父に連れられて、寄席や、演芸場や、余興のイベントの楽屋に連れて行ってもらいました。お陰で、幼い時から古今亭志ん生師匠や、柳亭痴楽師匠、コロムビアトップ・ライト師匠等の芸を見ることが出来ました。

 親父が楽屋で博打をしている間も、私を客席に座らせておくと、何時間でも芸を見ていたそうです。そんな様子を見て親父は、私が芸能が好きなことを知り、楽屋に連れて行くようになります。兄が、一切楽屋に入りたがらなかったのとは全く対照でした。

 私は大変ないたずら小僧で、何か人が驚くようなことをいつもしていました。然し、演芸を見るときと、本を読むときには熱心に時間を忘れて楽しんでいました。まだ幼稚園の頃でしたが、私の兄が買ってきた年鑑と言う厚い本がありました。これは世界中の国と言う国の経済力や、軍事力、生活風土などが事細かに書いてある百科事典です。幸いなことに子供用でしたので、解説の要所要所にマンガも書かれているし、全てにフリガナが振ってありました。

 私は母親や兄に平仮名を尋ねました。初めは只知っているひらがなを探すのが面白く、「し」の字や「つ」の字を探して喜んでいるようなレベルだったのですが、「し」の次に「ます」。が来ると、しますと読めるのが面白く、徐々に文章が読めるようになります。夢中になって眺めていると、その本がとんでもない知識の集大成であることに気付きます。幼稚園の間に、暗記ができるほど年鑑を読みふけりました。

 幼稚園児であるのに、首相が岸信介であることを知り、その人が出っ歯であることを漫画で知りました。韓国が李承晩ラインを敷き、日本の漁民が苦しんでいることを知ります。ソ連アメリカが世界の二大大国で、互いに政治体制が違うことを知りました。何一つ理解はできませんでしたが、とにかく丸暗記をしたのです。

 祖父母の家で、その知識を披露したところ、父の妹たちは驚き、「この子は兄さんに似たね」。と言いました、兄さんとは、親父の弟で、その当時、大学の助教授になっていた人です。ここで私の才能を上手く生かしてくれれば、私も大学教授になれたかもしれません。しかし親父は芸人の仲間を作りたくて、私をおかしな場所にばかり連れて行きます。結局私は芸能に行くことになります。

 

 親父は、仕事が少なくなると、人の台本を書くようになります。漫才や、落語家の台本を書き始めます。特に柳亭痴楽師匠が当時、ラジオやテレビの司会を何本も引き受けていて、毎週番組の冒頭に、2,3分週刊ニュースのような解説を笑いにして語っていました。親父はラジオ番組一か月分4本の冒頭ネタを痴楽師匠の家に行って、一日で書き上げていました。そこには私も一緒に出かけました。鶯谷の駅前の路地を一本入った静かな住宅街の日本建築の家で、門から飛び石を伝って玄関に入ると、でっぷり太ったな痴楽師匠が和服で待ち構えています。

 恐らく昭和35,6年のことだったと思いますが、その家には何でもありました。テレビも、ステレオも、冷蔵庫も、暮らしの仕方が私の家とは明らかに違うことは子供が見てもわかりました。

 親父は、座敷に着くと、原稿用紙を畳に広げ、寝転がって原稿を書き始めます。痴楽師匠の前で寝転がれるのは親父だけです。痴楽師匠は、親父に気を使い、水割の入ったグラスを親父の脇に置きます。そして私に、「あなたは、オレンジジュースがいいかな」。と言って、ジュースを持って来てくれます。痴楽師匠は正座をして、じっと親父の原稿のできるのを見ています。その時私は、「親父も早くこういう生活をしてくれないだろうか」。と思いました。

 

 親父は、半ば芸能を諦めかけていたのですが、救いの人が現れます。条あきらさんです。お笑い芸人で、親父の才能に目をつけコンビを組みたいと言って来ます。親父も、仕事の少ないボーイズに未練はありません。話に乘り気になります。

 この条さんと言う人は、まじめで、人柄のいい人でしたが、自分自身が芯に立ってお笑いをしてゆく人ではありません。親父のような飛び離れた才能を持った人を支えることで生きて行くタイプの人です。ようやく親父は良き理解者を見つけたのです。

続く

母親のこと 7

 昭和30年代と言うのは、まだ一般家庭に電話が引けていませんでした。勿論携帯電話などはありません。仕事の依頼はもっぱら手紙のやり取りでしていたのです。

 親父のチームは、一人、商店の息子がいたため、店には電話があったので、そこを窓口にして仕事を取っていました。然し、親にすれば、息子さんが芸人になったことを喜んではいませんから、電話の応対もぞんざいです。仕事がかかってきても、詳しい話など聞きもしないで、メモ紙に言われたことだけを書いて、息子さんが帰って来るまでほったらかしだったりします。何時にどこに行くかもわからない時があります。そんなことで行き違いが生じて、せっかくの仕事を失ったりしていました。

 その日の晩にパーティーがあるから出演してくれないか。等と言った急ぎの仕事の依頼が来ると、まず3人の了解が必要です。この3人を探すために大騒ぎになります。相方さんが走って私の家に仕事の連絡をしに来てくれて、さて母が親父に伝えようとするのですが、親父がどこにいるかわかりません。母は池上中のパチンコ屋や、ビリヤード場を訪ね歩いて親父を探します。それでも見つからないと結局仕事は流れてしまいます。当然母は腹を当てて、夜に帰ってきた親父と喧嘩になります。

 母は、親父の仕事のだらしない決め方に懲りて電話を引きました。当時の電話は契約料も、工事費も、今からは想像ができないくらい高額だったのです。なんせほとんどの家に電話がないのですから、電線を引っ張って来るだけでも長い電線が必要で、そのため、当時の電電公社は電話債権などと言う得体の知れないものを抱き合わせに買わせて、電話工事費を取っていたのです。母にすれば思い切った投資だったと思いますが、一本でも仕事が来れば生活が助かるという、かすかな願いで決断したのです。

 

 当時、私の家には、早くから、電話と冷蔵庫がありました。この二つは自慢でした。貧しい家庭からすれば意外ですが、電話は親父の仕事にため、冷蔵庫は、祖父が、古い家を解体したときに、古い冷蔵庫があったため、それを持って来て、中を直して、結婚の祝いにくれたそうです。

 当時の冷蔵庫は、電気式ではなく、中に氷を入れておいて冷やす式のもので、外見は木製の家具のような作りでした。そんな冷蔵庫でも、近所では珍しく、近所の人が肉や卵を入れさせてもらいに来たのです。

 私の家では、冷蔵庫はあっても殆ど入れるものがなかったので、夏場に水を冷やす程度しか使い道がなかったのです。たまに肉や野菜が入っていると、そこには包装紙に斎藤だの田中だの名前が書いてあって、預かりものだから食べてはいけないと言われました。一体誰のための冷蔵庫なのかわかりません。

 電話のある家は、当時、表札の脇に電話番号の札が張られていました。これは電電公社が、電話の引いてある家に優越感を与えるためにわざわざ札を作って貼ってくれたのです。ところがこの番号を、近所に人が自分の名刺に書かせてくれと言って来ます。これが呼び出し電話と呼ばれていました。自分の名刺に、(呼)と書いて、その次に私の家の電話番号を書いておきます。こうすると、私の家に知らない人から電話がかかって来たものを私が走って行って、その家に取次ます。呼ばれた人は、私の家の電話を使って話をします。まったくご近所へのサービスです。それが、私の家と話が付いてやっているならいいのですが、全然、私の家に断りもなく、無許可で呼び出し電話と書いてしまう人もいました。

 突然知らない人から電話がかかってきます。電話の向こうで呼び出し先の苗字を言われますが、心当たりがありません。母が、「きっと最近越してきた五軒先のアパートの学生さんのことじゃないの」。と言いますので、私が走って、アパートに行くと、果たしてその人で、学生がやってきて、長々話をして帰って行きます。当時は何時間話をしても電話の一通話は10円です。しかも相手からかかってきた電話ですから、費用はかかりません。そんな呼び出しが毎日のようにあります。

 私ら家族が晩飯を食べている脇で、さほど縁のない人が長々電話で話をして行きます。時に彼女とイチャイチャ一時間も話をして帰って行きます。それを私の家族は別段腹も立てず、毎回呼び出しをしてあげていたのです。呑気な時代です。

 電話まで引いて、万全な仕事の体制を作っても、親父は仕事の本数が少なくなってゆきます。私が小学校に入った時には、担任になった先生が、初日に私のそばに寄って来て、「君のお父さんは脱線ボーイズさんなの」。と聞かれました。この時までは私の親父の知名度はあったのです。然し小学校3年生くらいになるともう誰も親父の噂をする人はいなくなりました。お笑い芸人の寿命と言うのは短いものなのです。一旦落ちてしまうと取り付く島もないのです。親父は半ば自分の人生を諦めていました。

 後に親父に聞いた話では、「あの時危なくアルコール中毒になるところだった」。と言っていました。酒と博打に逃げるしかなかったのです。

 母親は毎日必死にセーターを編んでいますが、毎日親父が酒と博打に明け暮れている姿を見て悲しかったのでしょう。なんせ、一日中休まず働く母と、方や、今日は何して遊ぼうかと言う親父が狭い部屋に同居しているのですから。家の中はいつでも地獄極楽の生活です。

 母は編み物につかれると、私に「ダンスをしよう」。と言って、狭い部屋で私を相手にタンゴやジルバを踊ります。勿論私は何も知りません。母のすることに適当に付き合っているだけです。母は自分で「小さな喫茶店」などを歌いながら私とタンゴを踊ります。この時の母は快活でした。若いころを思い出して楽しげに踊ります。然し、しばらく踊ると、母は動かなくなります。私を抱きしめたままずっと涙を流しています。私はどうすることもできずただ黙って抱かれています。

 いくら働いても抜け出せない貧乏と、出口の見えない親父の生き方に暗然としていたのでしょう。子供だった私にも、母がどう生きて行っていいのかわからな苦しみを抱いていることは分かりました。然し私にはそれをどうしてあげたらいいのかがわかりません。私は小学校に入ったばかりだったのです。

続く

 

母親のこと 6

 私の話をしましょう。私は昭和29年12月1日に生まれました。深夜だったそうです。お産が夜にかかったために、親父も、祖父母も、狭い部屋にみんな集まって遅くまで起きていたそうです。祖父は、鯛焼きをたくさん買って来て、「祝いの尾頭付きだ」、と言ってみんなに配ったそうです。尾頭付きには違いありません。難産だったようで、難産の理由は、私の体重が4キロあったからだそうです。

 名前は直哉と名付けられました。母が志賀直哉の小説に傾倒していて、名付けたのです。生まれてすぐであるにもかかわらず顔がはっきりしていて、その後に少し大きくなると、誰にでも笑顔を見せたそうです。そのため近所の女の子が抱きたがって、順番待ちで、遊びにつれて行って、一度家を出るとなかなか帰って来なかったようです。

 親父は、自分の子供が生まれたことをとても喜んで、それまでなかなか家に帰って来なかったものが、夕方になると必ず帰ってきて、ずっとあやしていたそうです。

 それが生後3か月目に、親父が北海道の仕事から帰ってきて、その時、風邪をひいていたのが災いで、私は肺炎に罹ります。かなり危険な状態になり、医者が「明日までに熱が引かなければ危ないと思います」。と言って帰って行きました。当然祖父母からも家族からも親父は恨まれます。親父は部屋の隅でじっとしてしょげていて、三食全く何も食べなかったそうです。然し幸いにも一命をとりとめます。

 少し大きくなって、私が話をするようになると、母は私をおぶって買い物に連れて行くようになります。私は誰にでもにこにこしていたらしく、あちこちで声を掛けられます。肉屋の親父が、「坊や、どんな肉が食べたい」。と聞いたら、私が「お猿のお肉」。と答えたそうです。「うちはお猿はやってないんだ、他の肉はどう」。「じゃぁ猫の肉」。その時母は、「この子はお笑いの才能がある」。と感じたそうです。

 歩けるようになると、買い物も、歩いて出かけるようになります。ある日、買い物の途中で母とはぐれてしまいます。商店街の雑踏の中、どうしていいかわからず泣きながらうろうろしてました。こうしていてもどうにもなりません。自分なりにこんな時にどうしたらいいか考えました。そして、駅前の、いつも母がセーターを卸している洋品店に行きました。洋品店の主人は、私の顔を見て、いつも母がセーターを届けに来るときに、くっついてきている子供ですから、見覚えがあります。親切にも、自転車に乗せて送ってくれました。

 母親は家で夕飯の支度をしていました。全然私がいなくなったことを心配していません。私が、「迷子になって心配じゃなかったの」。と聞くと、「お前のことだから何とかうまく帰って来ると思ったよ」。と言いました。強い母親だと思いました。

 

 とにかく、母が毎日編んでいるセーターで家族は生活ができるようになりました。親父はテレビなどにたまに出ていました。NHKの演芸番組などを撮るときには、当時テレビ局は、黒塗りのハイヤーで迎えに来ます。ハイヤーが路地に入って来るだけで近所に人たちはびっくりです。どんな偉い人が来たのかと思い、みんな家から出て来ます。そこへ、親父が小さな体でギターを抱えて車に乗り込みます。窓から近所に人に挨拶をして車が走り去って行きます。近所の人は、「へーぇ、南さんも大したもんだねぇ」。と感心をします。この時だけ母も私も兄も誇らしげな気持ちになります。

 然しそれで仕事が順風かと言うと話は逆で、私が幼稚園に上がった頃になると、親父の仕事がだんだんに減ってきて、毎日ぶらぶらと遊び歩くようになります。今日でいう、イベント仕事がめっきり依頼が来なくなってゆきます。考えてみれば、若手でデビューした昭和20年から数えても親父はもう35です。若手と呼ぶには年を取り、名人と呼ぶには技量がありません。中途半端な年齢に来たのです。

 それでも何とか仕事にしがみつこうとして、テレビ局のプロデューサーと親密な付き合いをしようと考えます。金を使って接待もします。然し、大きな流れは変えられません。テレビ局が出来て7年。そろそろテレビに向いた芸人をテレビ局が選別するようになります。親父のように戦前の匂いのする芸人は敬遠され始めたのです。

 男三人が楽器を持って、ジャズや、歌謡曲を歌いながら替え歌を唄って人を笑わせるというパターンは悪くはないのですが、三人が楽器を持っているにもかかわらず、みんな楽器が自己流で、少しもまともな演奏ができません。素人臭さがばれてきたのです。基本に帰って修行しなおせば何とかなったのでしょうが、親父にそんな生真面目さはありません。そうこうするうちに、クレージーキャッツのように、本格的な演奏のできるお笑いタレントが出て来ます。そうなれば比べるべくもありません。

 親父は毎日外出して、パチンコ屋に行き、そのあと、博打の弱い近所の仲間を集めて麻雀や、ビリヤードをして、小銭稼ぎをしています。その稼いだ小銭は夜になって飲み代に消えます。母はそれを見て、どうにかしてくれと言いますが、親父にどうにかする才覚はありません。そのうち、逃避の世界に入り、朝からアルコールを飲み続けます。マンガ瓶と言う、小さな瓶に入ったウイスキーを買って、朝から母に隠れて飲むようになります。

 母はそれを見つけると、瓶を外に投げ捨てて大げんかが始まります。「あんたが売れるためならどんな苦労もするけれども、朝から酒を飲んでいても、何にもならないじゃぁないの」。ごもっともです。親父は何も返す言葉がありません。親父はすごすごと私を連れて散歩に出ます。一ノ蔵の町から旧道を通って、堤方橋に出ます。橋を越えたところに古本屋がありました。そこでしばらく古本を見ます。私は、そこで「ロボット三等兵」の漫画を見ます。今思い出してもくだらなくて、あのばかばかしさは忘れることが出来ません。のらくろや、冒険だん吉よりもずっと秀逸です。

 そのあと親父は実家に行きます。そして、私を置いて、パチンコ屋に行きます。夕方に帰ってきて、一緒に家に帰ります。その時にパチンコで当たれば、金になり、チョコレートなどの土産も出来ます。親父はパチンコは上手でした、台選びがうまく、また、池上の遊び仲間から情報が入りますので、よく当たっていました。と言っても当時のパチンコは、1000玉も出たら打ち止めでしたから、小銭稼ぎにしかなりません。

 それでも小銭を作らない限り遊ぶ金ができませんから熱心に玉を弾いていました。然し、内心は当人もそんな自分を恥じていたのでしょう。今この場から逃れたいがために、必ず、帰りにマンガ瓶を買っていました。私はそれが母との争いの種になることを知っていましたから、「お酒やめなよ」。と言いました。親父は下を向いて「うん」、と言いましたが、やめることはありませんでした。私は親父の毎日を眺めつつ、知らずのうちに人間の弱さを見つめることになりました。

続く

母親のこと5

 親父の稼ぎがまったく当てにならないことを知った母は、何とか自分自身で身を立てなければならないと考えます。然し、子供が二人もいて、しかも私はまだ生まれたばかりですから、手がかかります。外に働きに出ることが出来ません。

 そこで昔覚えた編み物の機械を使って、セーターや、マフラーを編んで洋品店に収めることを思いつきます。これなら一日部屋にいて仕事ができます。まさに芸は身を助く、です。ちなみに芸は身を助くと言うのは間違って知られた慣用句で、これは元々、川柳の一句で、「芸が身を助くるほどの不幸者」と言うのが正解の句だそうです。

 若いころに遊びで覚えた芸事が、その後になって生活の種になるという人は、決して恵まれた人ではないと言う意味です。そんなことを言われるまでもなく、母は一縷の思いで編み物を始めます。生きるためです。

 当時、既製品もなかなか手に入らず、ましてや特別注文などと言うものが贅沢品だった時代に、セーターでも、チョッキでも、色柄、デザインが自由に選べて、花柄やポケット、イニシャルなども注文で自由に付けられるとあって、依頼は殺到します。しかし問題は値段です。注文品ですから、そこそこいい値で取引されますが、親子4人が母が編むセーターで暮らさなければなりません。手間のかかる分、何日もかけて作っていては生活ができないのです。そのため母は一日一枚セーターを編んでは駅前の洋品屋さんに届けたのです。これは人間業を超えた作業だったようです。

 朝早くから編み物をはじめ、お客様の注文にこたえて、斬新な柄のセーターをこしらえ、夕方には用品店に納めます。そして現金を貰い、その現金で、翌日に編むセーターの毛糸を買い、更におかずを買って帰るのです。その間私はずっと背中におぶられていたと思います。

 母はいつも編み物の機械をがーがーと動かしながら、小さな声で呟いていました。それは、網目の数を数えていたのです。途中で毛糸の色を変えるときなど、目の数を記憶していないと間違いが起きます。そのためいつも、口でカウントしながら編み機を動かしていました。

 私は、幼くて、脇で色々母に話しかけますが、母は一切話を聞こうとしません。そのうち、泣き出しますが、そうすると、母は編み物をやめ、口で唱えていた数字を紙に移してから、私を抱いてあやしてくれます。然し、5分もするとまた作業を始めます。母には辛い日々だったと思います。

 母のセーターは評判で、中には直接注文して来る人もありました。その時は洋品店の利益分が余分に手に入りますので、随分助かったと言っていました。

 池上に連月と言う、古い日本蕎麦屋さんがあります。そこのお婆さんが、時々セーターや膝掛けを注文してくれたそうです。品物が出来上がって、蕎麦屋さんに届けると、店の奥に離れがあって、日当たりのいい廊下に椅子を置いて、品のいいお婆さんが日向ぼっこをしていたそうです。自分の生活とあまりにかけ離れた生活をしているおばあさんを見て、「私の人生にこんな幸せな晩年が来るだろうか」。と思ったそうです。

 この言葉は幼い私の心に残りました。世話になった母親に何とかして、そうした生活をさせてやりたいと早くから考えていたのです。

 母の仕事は順調でした。注文は先々までも予約が付いていて、編み上げるとすぐに現金になりました。少しですが貯金も貯まって行きました。然しその金を狙う輩がいます。一人は親父です。親父は、このころテレビ局に出入りしていて、プロデューサーなどとしきりに呑みに行ったり、マージャンをしたりしていました。こうしたときの交際費が必要です。親父は母に、「プロデューサーと打ち合わせするのに金が要るんだ」。と言うと、母はすぐ必要な金を出したそうです。親父の出世のために必要な金は無条件だったそうです。親父はそれを持って、飲みに出かけます。母親のセーターの何枚かの利益が親父の飲み代で一瞬に消えます。

 さらには祖母でした。祖母の家は家族が多く、しかも、親父の下の兄は大学に行っていて何かと金がかかり、何時でも金が足らなかったようです。祖母は、頻繁にやって来ては金の無心をしました。これも、頼まれるとすぐに金を出しました。我が家に金を借りに来るということは、あちこち尋ねてどうにもならなくなったから来るのでしょうから、貸さないわけにはいかないのです。

 母は生活の仕方が固く、当時家で使っていた、炭や練炭なども、一か月分をまとめて買っていました。炭や練炭は置き場がないため、縁側に積んであります。米も袋ごと積んであります。はたから見たなら金持ちです。然し金持ちでも何でもないのです。まとめて買うと、炭でも米でも運んでくれる上に、小分けで買うよりも、一割くらい余計に呉れるのです。一割は、一年で言えば一か月分の炭が只になるわけす。そのため生活は苦しくてもまとめ買いしていたのです。

 ところが、それを祖母が目をつけて、金を借りに来た帰りに、「あらまぁ、ここにこんなにたくさん練炭が、少し貰っていっていいかしら」。と言言うと、母は黙って練炭をを3つ縄で縛って、祖母に渡します。祖母は練炭を手に下げて帰っていきます。これでおまけの3個は消えます。母の思惑は脆くも崩れたわけです。祖母が帰ると母はいつも泣いていました。幼い私にはなぜ母が泣いているのかよくわかりませんでした。

 

 親父はテレビ局のプロデューサーと、仕事の後に徹夜マージャンをし、その晩は仲間の家に泊まり、昼まで寝ています。それからまたビリヤードをして、さて夕方になって、プロデューサーが帰ろうとしたときに、徹夜マージャンで煙草の匂いが体についていますので、風呂屋で体を洗ってから帰りたいと言います。そこで親父とプロデューサーは近所の風呂屋に行きます。

 体を洗っているうちに、たまたま祖父が仕事を終えて風呂に入ってきます。祖父は職人で、体中に千本桜の刺青が入っています。こんな祖父をプロデューサーに見られたら、やくざ者と思われるので拙いと思い、親父は知らん顔をして体を洗っていると、祖父が近づいてきて、「なんだ、どうしたんだ、顔を隠して、俺だよ、お前の親父だ、なんだこの野郎、他人行儀に、とぼけやがって」。としきりに話しかけて来ます。この時くらい親父は恥ずかしと思ったことはなかったようです。後でプロデューサーに、「君のお父さんは随分カラフルな体をしていますねぇ」。と褒められたそうです。

続く

母親のこと 4

 昨日は、イベントの依頼が来て、企画書を頼まれました。来年1月の話ですが、まとまれば大きな仕事になります。急ぎ企画書を送りましたが、まとまるかどうかは先の話です。然し、大きな企画を持ち込まれることは、まだ世間が私を求めてくれている証拠で、何となく話が来るだけで気持ちが落ち着きます。

 

 そして朝から前田の稽古です。このところテーブルクロス引きをしています。以前、弟子の晃太郎とやっていた演技です。別段手妻でもなければ、マジックですらないのですが、長いショウの中に入れると気分が変わってとてもよく受けます。

 弟子が、テーブルクロスを引いて見せるのを、脇で私が余計なことを喋って邪魔するという筋なのですが、単純ですが、お客様が喜びます。私独特の説教臭いセリフが笑いになります。演じると5分あります。これをやらないのは勿体ないので、前田に仕込んでみようと思います。恐らく来年初めにはお見せできるでしょう。

 

母のこと 4

 昭和29年に親父と母は改めて所帯を持ちます。競輪の大当たりのお陰です。しかし母が結婚して気付いたことは、その生活のめちゃくちゃなことです。当時の親父はお笑い芸人としてはかなり売れていた人だったのですが、その収入には波があり、いいときは良くても悪いときは全く何もない状態だったのです。

 当時の芸人は、ギャラと言う考え方がなかったのです。舞台を依頼されて、演じると、後で、祝儀袋に入った金を貰います。これが全くの見計らいで、相手の思し召しだったのです。それは親父に限らず、当時の芸人全てがそんな金の貰い方をしていたのです。さすがにNHKに出演するときは、きっちり明細をくれますが、仲間内から頼まれる仕事は全くもらってみなければわからないような金でした。つまり昭和30年代は芸能は仕事ではなかったのです。遊びの延長で、道楽の範疇だったのです。

 当時、父親は男3人で音楽ショウをしていましたので、貰った金は3等分です。1000円貰っても330円ずつ分けることになります。その330円を稼ぐために、クリーニング屋さんに糊の効いたワイシャツを頼んで、行き来にタクシーを使ったりすれば、もうギャラは残りません。帰りに一杯飲んだりすればその分赤字です。

 しかし親父はそれで満足なのです。金のことなど関係ないのです。招かれて、お客様に喜んでもらえれば、それだけでうれしいのです。私の親父は、晩年に至るまで、仕事を引き受けるときに、先方とギャラの相談をしたのを見たことがありませんでした。

 親父は舞台に立てて、人が喜んでくれたのだから満足です。然し、家で赤ん坊を抱えて、親父の収入を待ち焦がれている母にすれば、仕事から帰ってきて金が足らないは困ります。足らないならまだしも、時には使い果たして帰って来るときもあります。

 北海道の巡業などは、半月、1か月と長い日数をかけて、北海道の町を回ります。そうしたときは、興行師と月ぎめのギャラを打合せして出かけますので、当然ギャラもかなりいい仕事です。

 冬の北海道は農作業ができませんから、大概の人は冬場は暇を持て余しています。そこへ演芸と歌謡ショウで、学校の講堂を借りて公演すると、面白いように人が集まります。半月1か月と回れば相当にいい収入になります。帰りは青函連絡船に乗り、夜行列車で東北本線を上って帰ってきます。その途中福島に着くと、福島競馬に知り合いの騎手が出場しています。資金はたっぷりあります。少し遊んで帰ってもいいだろうと、親父だけ途中下車します。

 しかしこんな時はなかなか当たりません。少し金を減らして、また東北本線に乗ります。上野駅に着くと、そこにたまたま知り合いの噺家がいます。これから麻雀をするからどうだと誘いをうけます。親父は博打の誘いは断りません。それから徹夜マージャンをしますが、これもつきがきません。ギャラはどんどん減って行きます。減った稼ぎを補おうと、またもや仲間を集めて博打をするうちに、1か月の北海道のギャラはきれいに消えてしまいます。

 数日遅れて家に帰ると、家では親父が久々に買ってきたために歓待を受けます。そしてギャラはどうしたと聞かれます。親父は「なんだかねぇ、後で送金するって言っていたよ」。ととぼけます。それが1か月して2か月しても金が届かないとなると母も機嫌が悪くなります。やがて大げんかが始まります。子供が二人いるにもかかわらず、親父と母はいつも金のことで喧嘩でした。

 母は親父のことを心から愛していました。何にしても優しいのです。そして、とびっきり面白い人なのです。家に帰って来ると、その日にあったことを色々話をしますが、その話が、何でもないことばかりなのですが、親父が話すと腰が砕けるほどおかしいのです。親父は笑いを作る天才でした。

 親父は、帰って来るときに、大きな声で道で歌を歌いながら帰ってきます。夜だと数百m離れていても親父が返ってくるのがわかります。すると母は「あっ、パパだ」。と言って食事の支度を始めます。なんとなく母親は楽しげです。帰って来ると父親はいつでも陽気です。幼い子供から母親まで満遍なく笑わせます。

 ここまでは最高の父親なのです。然し、その日のギャラがないとわかると、母親は鬼の形相に変わります。子供たちは、「それ、また始まるぞ」。と部屋の隅に隠れます。

親父は母に一切手を挙げません。逆らいもしません。母が一方的にまくし立てて怒りをぶつけます。時に茶碗や、やかんが飛びます。しかし親父はじっと黙っています。

 母親は、「お金がないと言っていてもどうしようもないでしょ。どうしたらお金ができるか考えなさいよ」。と怒ります。すると親父はちゃぶ台の前で、しおらしく下を向いて考えているふりをします。いくら考えても答えは出ませんから、そのうちに、鼻歌が出ます。鼻歌が終いには気持ちが入って来ていい声で歌い出します。「夕焼け空がまかっか、トンビがくるりと輪を描いたー」。するといきなり台所から茶碗が飛んできます。「少しも本気で考えていないじゃないの」。すると親父は、「あのなぁ、俺がこうして、静かに、どうやって金を作ろうかと悩んでいたら、それでこのちゃぶ台の上に1,000円札が二、三枚出て来るかい。出てこないだろ、俺は手品師じゃないんだから。だったら歌でも歌わなきゃしょうがないだろう」。これで2つ目の茶碗が飛んできます。

 毎日面白い話を聞かせてくれる親父は大好きでした、然し、この家にいる限り、楽しいだんらんの結末は常に地獄でした。

続く