手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 3

 昭和29年母親は親父と同棲するようになりました。兄も一緒です。兄は前の年、小学校に上がりました。親父が独身だと言って借りていた部屋に同居していましたが、家主が子供がいることを知って、出て行ってくれと言って来ました。当然です。

 この時代は、戦後間もないため、家の数が足らなかったのです。そこで、家持の家族でも、生活が苦しくて、部屋を一間、他人に貸している家が多かったのです。台所便所は家主と共同です。そんな家を親父は間借りしていたのですが、毎朝、母親と兄が家主と顔を合わせます。

 家主にすれば、独身だと言うから貸したのに、嫁や子供がいます。そこで出て行ってくれと言う話になります。ふすま一枚で隔たっている部屋を貸すのですから、子供が騒いだり鳴いたりすれば、家主も困ります。そのため子供のいる家族はなかなか部屋も借りられなかったのです。

 母親にすれば、これからもう一人子供が生まれます。きっちり子供がいてもいいという家を探さなければどうにもなりません。然し、引っ越し費用に、大きな金が必要です。それを何とかしてくれと父親に頼みます。頼まれた父親は、解決の見つからないままに悩んでいます。

 

 ある日、新聞を見ていると、長いこと追いかけていた競輪の選手が、鶴見の花月園に出場することを知ります。この選手の実力を知っている親父は、これぞ起死回生のチャンスとばかり、朝から鶴見に行くことにしました、然し手元の金が心もとなく困っていると、駅に行く道の屋根の上から祖父の声が聞こえます。祖父はこの時、寺の屋根を銅板に葺き替える仕事をしています。ブリキ屋にとって銅葺きは最高の仕事です。「おい、どうしたよ、どこへ行くんだ」。「ああ、親父かぁ、これから花月園に行ってみようかと思うんだ。狙っている選手が出るんだよ」。「ふぅん、金はあるのか、なんなら半分乗ろうか」。と祖父は金を出してくれました。

 さて、花月園について早速車券を買うと、狙っていた選手は勿論のこと、買う車券、買う車券どれも大当たり、当たった金で次の券を買い、どんどん儲けが膨らんで、最終には50万円もの金になりました、昭和29年に1万円の月給はなかなか取れません。つまり高給取りの50か月分の給料が手に入ったのです。

 当時は1万円札などありません。千円札五千円札すらもめったに見ない時代です。百円札50円札と言う札で50万円が支払われたのですから、札束をポケットに入れようとしても、ポケットの数が足りなくて、入りきれません。シャツのボタンをあけて、体の中にじかに札束を詰め込むと、元々太っていた体がパンパンに膨らみました。換金所のおばさんが、「そんな恰好で帰ったら暴漢に襲われますよ、気をつけたほうがいいですよ」。と、心配されました。そこでタクシーを奮発して、池上まで凱旋します。

 

 夕暮れ時に池上に帰ると、まだ祖父がお寺の屋根の上で銅板を叩いています。「親父よぅ、花月園に行ったら、当たって、当たって、大儲けだよ」。「何言ってやがる。嘘つくんじゃねぇよ、取られちまったんだろ」。「いや本当だよ、50万円取ったんだ」。「馬鹿野郎、そんなうまい話があるか。それじゃぁその金見せて見ろよ」。言われて親父は、地面に百円札の札束を鷲掴みにして、「これが5万円。それで、これが5万円」。と次々に札束を取り出すと、祖父は驚いてお寺の屋根から落っこちたそうです。

 「おい、親父大丈夫か」。「大丈夫だ、いや、お前は大したもんだ。そうと聞いちゃぁもう仕事なんかしてられねぇ。馬鹿らしい。もう仕事はやめだ。帰って酒と魚を用意しろ。今日は酒盛りだ」。それから3日3晩、親子で酒を飲み続けたそうです。

 と言うわけで、部屋は少し広い部屋を借りられて、親父と母とは結婚式をして、兄は籍を入れて、私のお産の資金もできて、12月1日にめでたく私は生まれたわけです。

 私はこの話を親父から何度も得意がって聞かされましたが、競輪に当たったお陰で生まれたというのは、当たったからいいようなものの、もし外れていたら私はこの世にいなかったことになります。なんとも儚(はかな)い人生です。世の無常を感じます。

 

 親父は、母と結婚するときに、祖父母や兄弟に重ねて言ったことは、私の兄のことです。「女房の子供は自分の子供として育てる。これから生まれてくる子供と決して分け隔てなく見てほしい。それでないと女房が肩身の狭い思いをする。これだけは理解してくれ」。と言ったそうです。無論家族一同異論はありません。

 兄は生まれながらに複雑な事情で育っています。母が望まない結婚をしてできた子供です。そして離婚です。横浜の実家で暮らしている時も、寡黙で、ほとんど毎日一人遊びをしていたようです。周りからは手が罹らない子だと褒められたそうですが、早くから世間に遠慮をして生きていたようです。親父の子供になってからも、別段逆らいもしなければ無理に寄り付きもせず、静かな性格だったそうです。早くから何となく自分の立場をわきまえているいるような人でした。

 演芸や芸能には全く興味がなく、親父が誘っても決して楽屋や、劇場には行きませんでした。私が楽屋に入り浸っていたのとは大違いです。私はこれまで、兄のこと、兄の父親のことは一切、兄にも、母にも訪ねたことはありませんでした。私は早くから兄との関係は知っていましたが、一切誰にも話しませんでした。今回ブログに書くことで公にしましたが、それまでは語ることはなかったのです。人に話していいことは一つもないだろうと思っていたからです。

 然し、一つ不思議に思うことは、別れた父親の方の家は、跡取りである兄を欲しがらなかったのかと言うことです。跡取りならなんとしても家に置いておきたかったのではないかと思います。母も兄を置いて別れたほうが、その後は苦労せずに生きて行けたのではないかと思います。ここは全く謎です。相手方の亭主が、子供が出来た後も家に寄り付かなかったと言いますから、母にすれば、子供を残しても邪険にされたら気の毒だと思って、連れて帰ったのでしょうか。ここは母の判断ですからわかりませんが、人の幸せはどういう風に生きたなら手に入るのかは結果でしかわかりません。

続く

母親のこと 2

 話は昭和19年に戻ります。それまで親父は、川崎の旭町にある裏長屋に、両親と6人の兄弟と一緒に暮らしていました。祖父はブリキ職人で、腕が良かったらしく、若いものを何人か使って大きな仕事をしていたようです。然し長屋住まいです。

 当時、大都市では、だんだん空襲が激しくなってきて、東京の町で大きな家に住んでいる人がどんどん疎開してゆく状況にありました。家屋敷は人がいないと物騒です。空襲の際も消火をしてくれる人がいません。そこで大きな屋敷をタダ同然に貸していたのです。親父の一家はこれ幸いと大田区の池上に家を借りました。二階家で部屋数も多く、玄関の右側には洋間の応接室まであります。職人の頭とはいえ、洋間の応接間まで持っている人はまずいません。戦争のお陰で家族は一躍金持ち生活になりました。

 祖父はそこの一間を仕事場に使い、若い職人を集めて作業をしています。親父は、応接間を事務所にして、お笑いの一座を組んで、慰問に出歩いています。慰問は朝早くギターを持って出て行き、夜遅くに抱えきれないほどの土産を持って帰ってきます。当然、警察や、憲兵や、国防婦人会に目を付けられ、見とがめられます。

 憲兵も、警察も、親父は慰問の許可状を持っていますから、それを見せれば、それ以上咎められることはありません。問題は国防婦人会です。勝手に町内を見回って、「この非常事態に何をしているのか」。と、食ってかかってきます。これは苦労したそうです。こんな時代だからこそ人は笑いを求めているのです。そうした人に笑いを提供して何が悪いのか。彼女たちは、米や卵を渡すと、闇物資だと言って受け取ろうとしません。闇ではありません。農村の人たちが善意でくれたのです。然しそれを実証するものがありません。土産に領収書を求める芸人はいませんから。

 皆さんはこの話をどう思いますか。私は、昭和19年が、今のコロナウイルスの状況に酷似していると思います。私がショウを演じようとすると、「こんな時に何をしているのか」。と人が騒ぎ立てます。ショウを見に行こうとする人を周囲の人が「出かけるな」。とやめさせます。何をしようと大きなお世話です。芸人は芸能を演じなければ生きては行けないのです。それをショウを見たいと言う人に見せて何がいけないのですか。私は政府に金を求めているのではありません。ショウを見たい人にショウを見せようとしているだけなのです。コロナは危険だと言いますが、現実には、コロナに罹って死んだ人は1100人です。日射病で亡くなった人よりも少ないのです。東京が危ないと言いますが、私の周囲で感染者など一人もいません。感染しても殆どの人は症状もなく抜けて行きます。罹っても寝ていれば治るのです。

 それが恐るべきウイルスだと言って騒ぎ立てて、学校を休ませ、会社を休ませ、劇場を休ませ、レストランの出入りを制限しているいるうちに日本人はどんどん衰退してゆくのです。江戸時代にコレラが蔓延した時ですら、江戸では普通に芝居が行われ、通りには普通に物売りが出ていたのです。こんなことをいつまで続けるのですか。

 

 と、親父も世間を相手に叫んでいたのでしょう。何も、朝から晩まで国を思っていたところで、アメリカに勝てるわけではないのです。戦争は軍隊と軍隊のしていることです。周囲の人が何をしても役には立ちません。そうなら、軍人を慰問して喜んでもらえるという行為は、少しは国の役にも立っているはずです。と言っても、国粋主義者には、ギターを持ってばかばかしいことをしている人は非国民に見えるのです。

 祖父は、空襲であちこちの町が焼かれましたので、修繕に大忙しです。親父は慰問で大忙しです。そんな中に母親が歌手として入っててきました。やがて昭和20年に戦争が終わり、親父は吉本花月に出演するようになります。プロデビューです。ライバルが戦地に行っていますので、スイングボーイズは売れに売れます。

 戦争が終わってしまったので国防婦人会はいません。戦争中に、慰問の金がたくさんたまったので、その金で、今の一座を経理から、役員まで決めて組織にしようと考えます。実際自分が舞台が忙しくて、慰問が出来なくなってきていたのです。そこて新聞に座員募集の広告を出すと、何百人も人が集まったと言います。母親はそこの経理を担当して、組織を手伝います。この時、他の一座のように、研修生制度を作って、授業料を取って指導すれば今頃一財産を築いていたのですが、親父はそんなことは考えません。みんな仲間にして、酒を飲み、餅菓子を配っていたのです。

 

 一時一座を離れていた母親は、昭和25,6年頃また戻ってきます。ところがこのころになると、色々な問題が起きます。先ず、寄せ集めに慰問団の仕事が激減しています。もう、プロの芸人が活躍し始めていますので、仕事場が減ってきていたのです。

 親父の一家は住んでいた家を体よく追い出されます。職人の家族にただ同然で貸し続けていては、大家もやって行けないのです。やむなく近くの小さな借家を借りて住んでいました。スイングボーイズも、親父と、三枚目役をしている人見あきらさんがうまく行かなくなり、解散になります。親父は、他の仲間と脱線ボーイズをこしらえます。これもかなり売れて、忙しく活動していました。

 やがてテレビ局が開局し、親父はテレビ出演をするようになります。母親と一緒に暮らすために、池上に借家を借ります。もうこの先は結婚をするほかはありません。然し、母親は父親の稼ぎを見て驚きます。貯金がほとんどなかったのです。稼いだ分だけみんなに撒いていたのです。そうこうするうちに子供ができます。それが私です。

 母親は、結婚は了解です。然し、きっちり式を挙げたい。家も引っ越したい。お産に費用もかかる。兄が小学校に上がらなければいけない、そのためにも子供が生まれるまでに30万円がないと結婚はできない。と言います。至極もっともな話です。昭和29年のことです。勤め人の月給が1万円取れなかった時代の30万円です。

 すべてまっとうな話ですが、親父にすれば無理難題です。親父に金はありません。親父は、子供をおろして、母親との関係を解消するほかはないかと諦めかけます。そんな時に奇跡が起きます。

続く

母親のこと

 私の母親は栄子と言い、3年前に89歳で亡くなりました。生まれつき病気が多く、常々自分は長生きできないと言っていましたが、どうしてどうして、三姉妹の末娘で、三人とも長寿を全うし、その中でも母親が一番長生きをしました。

 母親は戦前は日本鋼管と言う大きな会社で経理をしていたと聞いています。横浜の上大岡に住んでいて、そこから銀座にある会社に毎日通っていました。昭和17年くらいのことと思いますが、時代はアメリカとの戦争の最中で最悪の状況でしたが、当人は18歳ですから、毎日が楽しかったのでしょう。銀座で食事をした思い出や、横浜のグランドホテルで、海軍将校のダンスパーティーに招かれた話など、随分と聞かされました。

 日本鋼管は武器を製造している会社でしたから、当時はフル操業で、景気が良かったそうです。給料日には、大勢の従業員が給料を受け取りに来ます。従業員一人一人に月給袋を渡すのが母の仕事ですが、後で苦情が来ないように、母親の勝手な裁量で、いつも、2,3日余計に残業代をつけてやっていたそうです。そのため母親の経理で社員から苦情が来ることは一件もなかったと自慢していました。そりゃぁそうでしょう。

 真ん中の姉は横浜松屋デパートのナンバーワンと呼ばれていた美人でしたから、デートのお誘いが多かったのですが、母親は美人ではなく、どこと言って目立つ人ではなかったようです。然し、声が良かったため、歌を勉強すればきっと歌で食べて行かれる。と持ち上げてくれる人がいて、歌のレッスンに通うようになります。そのうち、この歌をどこかで披露する場所はないかと考えていると、私の父親に出会います。

 

 父親は当時東京計器と言う、メーターを作っていた会社で働いていて、ここも軍事物資を作っていましたので景気が良かったようです。然し、仕事のほうにはあまり気が入らず、もっぱら、一座をこしらえて、コントや、漫談、楽器を使っての歌謡ショウなどの番組を作っては関東近県の農村や、軍隊を回って演芸を披露していました。芸名は南健児と名付けました。当時は、日本軍は南方に進駐していましたので、南に向かう健康な男で健児です。

 但し親父は身長が足らなくて、徴兵では甲種合格はできませんでした。もっともそのお陰で戦後も生き延びたことになります。親父は小柄で太っていて、顔つきはどうと言うものではありませんでしたが、愛嬌があって、人に好かれる人でした。

 本来は、日曜ごとに慰問に出かけていたのですが、地方でも不便なところですと、出かけて行って、ショウをして、帰ってくるまでに、2日も3日もかかることがあります。そんな時には、会社に戻った際に周りの人に、卵や、小豆、コメや酒などを持ってゆくと、上役は何も言わずに欠勤をごまかしてくれたそうです。

 日米の大戦が始まると、急に生活物資が不足し始めて、米や小豆や卵は貴重品になったのです。父親は毎週慰問に行って抱えきれないほど、食料をもらって帰ってきますので、そのお陰で、父親の周囲の人たちには大変感謝されたようです。

 ある農村では、「村の外れに若い娘が集まるところがある」。と聞かされて、出かけて見ると確かに若い娘が5,6人いて、酒を飲んで歌っています。そこで一晩遊んで、翌朝、無蓋のトラックに乗って座員は駅まで送ってもらう途中、田んぼで田植えをしている農家のおばさんたちがいて、必死に手を振っていますので、車を止めると、みんな寄って来て、「また、村においでよ。一緒に遊ぼうよ」。と言います。後で仲間と、「この村にあんなおばさんの知り合いがいたっけ」。と話していると、昨晩の若い娘だと思っていた連中が、田植えのおばさんが化粧をした人だったと分かります。「えらいおばさん相手にしちゃったなぁ」。と後悔したと言っていました。

 当時の農村は、闇で食料を買い付けに来る人達がいて、農家はどこも潤っていたのです。米のほかに鶏を飼って、鶏肉や、卵を売ると、面白いように金になり、米も、麦も高値で売れたそうです。そのための農家はどこも金を持って居ましたが、農村では金の使い場所がありません。そんな時に、演芸大会などすると、学校の講堂が入りきれなくなるほどお客さんが集まって来たそうです。

 そして、泊りは近所の農家に分宿するのですが、どこも芸人を泊めさせたくて、芸人の奪い合いだったそうです。但し、コントで、金貸しの役をやって、村の娘を借金の型に連れて行こうとする役をやった座員は、「あんなひどいことをする奴は泊めてはやれねえ」。と言われて誰も引き取り手がなく、親父が「いやあれは芝居だから」。と言っても「いや、そもそも元が悪くなければ、ああまで性格が悪い役は出来ねえはずだ」。と言って引き取り手がなかったそうです。やむなく親父と抱き合わせで泊めてもらったそうです。

 夜は芸人の宿泊する家に近所の人が集まって宴会です。ギターを弾ける父親は、みんなの歌を伴奏してやると、当時の農家の人は涙を流さんばかりに喜んでくれたそうです。帰りには持ちきれない程の土産を持たせてくれます。まさに芸人天国の時代です。

 言ってみればアマチュアの演芸一座にだったのですが、人気があって、慰問の依頼はひっきりなしだったそうです。そんな一座に母親が入ってきます。母親は歌手として歌謡曲を何曲か歌うのですが、一座の中では大人気だったそうです。

 

 慰問は戦後も続いたのですが、父親が、仲間を集めて、スイングボーイズを結成し、東京吉本に出演するようになります。戦後、殆どの芸人は戦争に行っていて、まだ帰って来ていない時で、寄席や演芸場はタレントがいなくて困っていたのです。アマチュアのお笑い一座ではあっても、結構評判の良かった親父には、引き抜きが来たのです。

 そこで三人が楽器を持って、ジャズや、歌謡曲を演奏しながらお笑いネタをすると、たちまち売れ出します。昭和20年、終戦すぐ後のことです。そうなると、親父は一座を休みがちになります。

 そんな時に母親に縁談の話がきます。どうもこの話は半ば強制であったらしく、母親の意思などはあまり考えてはもらえなかったようです。相手先はその一帯では豪農と言うような裕福な農家で、そこの長男と結婚します。そして程なく男子を生みます。私の兄です。

 ところがこの跡取りは、全く仕事をしなくても生きて行ける身分のために、毎日遊び呆けていたそうです。子供が生まれてからは家に帰りもしなかったようです。相手方の両親が再三意見をしますが、根っからの遊び好きで、しかも金に不自由のない家ですから遊びは改まりません。両親は申し分けながって、数年後に結局離婚をします。

 母親にすれば望まない結婚をして、相手の都合で離婚をされたわけですから、世間の都合に翻弄されて傷心の思いだったでしょう。慰謝料を貰って、子供を連れて上大岡の実家に帰ります。上大岡としても、とんでもない婿を紹介した手前、母親には何も言えません。しばらく母親は子育てに専念して、仕事をせずに家にいたようです。

 この間も、恐らく父親と母親は手紙などで近況を知らせ合っていたのでしょう。父親は母親が、農家の婿と別れたのなら、戻ってきて、一座に入らないか、と持ち掛けてきたようです。母親は子供がいるために、あまり乗り気ではなかったようですが、実家で生活していても、いい思いはなかったようですし、出来ることなら実家から離れたかったのでしょう。しかも舞台に上がれば嫌なことも忘れられると思ったのでしょう。様子を見がてら、東京に行って見ることにしました。

続く

 

四戒とコロナウイルス

 剣道をした人ならご存じと思いますが、四戒(しかい)すなわち、四つの戒めと言うものがあります。驚く、恐れる、疑う、惑う、の四つで、この四つに心が縛られぬようにと教えます。刀を持って、互いが戦う段に至って、上記の四つに捕われていると、判断が鈍り、体が硬直し、素早い対応ができなくなり、結果として相手に敗けることになります。

 驚くとは、例えば、突然予期しないことが起こると、人は一瞬、何が起こったのか、どう対処したらいいのかと、その解決のために、思考が、今現実に向き合っていることから、別のことに切り替わってしまいます。この思考時間が、実は一瞬ではなく、かなり時間を要するために、目の前の問題に空白ができて、その隙を相手に見透かされて、相手の太刀に切り込まれて敗けてしまいます。

 恐れるとは、相手の動作に無駄がないとか、相手が自信を持っているなど、勝手に判断を立てて、相手を過大に考えてしまいます。戦う前から既に気後れしています。これでは手も足も出ず、初めから敗けです。

 疑うとは、例えば、相手の仕掛けてきた動作が、誘いなのか、本気なのか、誘いだとしたら本当に出て来る技が何なのか、などと先々を考え込んでしまいます。いくら先読みをしても、実践では、将棋のように定石通りには行きません。その場の適応力でいくらも変わります。するとまた、考えた挙句、自らがとった技が正しかったのか、誤りか、そんなことを頭の中で考えていると、これも相手に隙を与えることになり、結果として敗けです。

 惑うとは、戦っているさなかに、女房のこと、子供のこと、自身の身分のこと、わが身と比べて、相手が卑しき身分なら、こんな軽輩と戦うことに何の意味があるのか、仮に負けたならこんな恥ずかしいことはない。等々と、生きる未練にこだわっていると、結局敗けてしまいます。

 

 時代劇では、二十人くらいの侍に囲まれて。主人公はバッタバッタと次々の侍を倒しますが、実際には戦国時代でも、江戸時代でも、そうした争いは皆無で、たった一人と戦う場合でも、互いが上記のような思いを持って太刀を合わせるわけですから。人一人倒すことは簡単ではなかったのです。そうしたときに、より雑念に取りつかれているほうが気持ちに隙がありますから、敗けやすいわけです。

 この四戒を見事に制して戦いのための剣法を作ったのが薩摩の示現流です。この流派の剣道は、剣の道の修行どころか、喧嘩剣法です。初めにとんでもない奇声を上げて、無念無我の境地で太刀を抜いて相手に突っ込みます。防御も技もありません。先を制して、奇声で驚かせて、相手が戸惑っている間に相手の脳天に太刀を浴びせます。相手が達人で、胴を払ってくるかもしれません。その時は斬られるだけです。切られて死んでも、同時であれば、初太刀は相手の脳天を叩きますから、怪我は相手のほうが深いはずです。つまり示現流は初めから自らの命を捨てた剣法なのです。

 彼らは太刀を抜いた瞬間から死を覚悟して戦います。相手が女房のこと、身分こと、何とか戦わずして生きていたいなどと、わずかでも生きることに執着しているなら既に薩摩に敗けています。

 

四戒とコロナウイルス 

 さて、話はコロナウイルスです。小池都知事は依然として不要不急を控えるように訴えていますが、肝心の国の政策は、感染危険度を5段階あるレベルの2であったものを、最低レベルの5に改めています。つまり、コロナウイルスは流行り風邪と同じレベルになっています。どういうことですか。初めからはやり風邪なら、学校閉鎖も、レストランのお客様の制限も、劇場の観客制限も何も必要なかったはずです。

 問題が起こった時に、誰もがウイルスを恐れて、過剰反応をしたのです。剣道で言う、四戒を超えて、過剰防衛をし過ぎ、必要以上に国民を煽ったのです。その結果が今の経済です。安倍首相の辞任の衝撃が大きすぎて、感染レベルのダウンはほとんど語られませんが、実際の経済活動から見たなら大問題です。今になってそそくさと危険度レベルを下げて、この大騒ぎの責任は誰にあるのですか。

 私がこのブログで何度も述べた通り、コロナウイルスは感染しにくいウイルスです。罹っても治る病気です。風邪と同じです。マスコミや都知事が大騒ぎをして、結局国内の経済がガタガタです。

 こうなった以上は、早く鎮静を考えることです。先ずマスコミにこれ以上コロナを煽ることをやめさせるべきです。もう番組そのものが疲れて生きているのでいい機会です。いい加減コロナを煽ることをやめさせて、無駄に煽った番組は名前を出して批判すべきです。感染者の数を羅列することはやめるべきです。はやり風邪を毎日報道する理由などないのです。

 次に、感染者に対して、パートの仕事を辞めさせたり、会社を首にしたりするような組織は、ニュースで伝えて、社名や名前を公表すべきです。悪質な場合は罰金を取るなり、刑事訴訟をすべきです。また、ご近所で、感染者の家族が運動会や、遠足に行くことをやめさせるような学校や、地域の集会は、テレビで名前を挙げて糾弾すべきです。

 感染者は被害者であって、鬼や悪魔ではないのです。感染者を疎外したり、その家族を差別するような、人の痛みのわからない人は、はっきり名前を出して、社会的な制裁を加えるべきです。こんな村社会がまかり通っているから、経済は停滞し、まともに働こうとする人たちの妨害になるのです。

 早く経済を元に戻さなければいけません。そうでないと、この先とんでもない増税や、失業が生まれます。それはコロナウイルスよりも恐ろしい結果になるのです。

 続く

 

安倍首相の辞任

 今日は朝から一人指導があり、午後から三人学生さんが習いに来ます。結局、一日指導をします。この数年、指導に掛ける時間が舞台の半分ほどになりました。年齢的にやむを得ないのかと思っていました。ところが今年になって、舞台が激減し、今では指導が80%になってしまいました。これも、コロナウイルスの影響を思えば、やむを得ないのかと思います。

 教えるということは自身が過去を振り返ることです。人にマジックを教えながらも、自分が習った時にことを思い出します。物によっては50年も前のことを思い出します。その思い出はほとんどは楽しかったことの思い出です。

 結局のところ、私は優れた指導家に恵まれ、好きなだけ稽古をし、舞台に立ち、他の仕事をしないで今日まで生きてきました。全くアルバイトなしで生活できたのです。旨く生き抜いてきたと思います。幸い私には50年以上の蓄積された知識が残されました。これを後輩に伝えて行こうと考えています。それが私の残された人生の活動の一つと考えています。

 

安倍首相の辞任

 安倍晋三首相が昨日首相を辞任されました。この人は政界のエリート中のエリートで、祖父が岸信介元首相、叔父が佐藤栄作元首相です。父君は、安倍晋太郎故人で、総裁候補と呼ばれていながら、病で亡くなった政治家です。安倍晋三さんは、この父君の政治秘書となり、政治家の勉強をしていたのですが、父君が病気で亡くなると、その地盤を受け継いで政治家となります。1993年のことです。この時点で、晋三さんは、首相になるべき政治家として、父君の遺志を継いで活動を始めます。

 この人と私は同じ年です。1954年生です。同い年で、同じ年月生きては来ても、安倍氏が経験した世界と、私が見てきた世界とでは全く違う世界だったと思います。

 父君の遺志を継いで衆議院議員になった頃、政治家のパーティーで、氏を拝見しました。私は氏を見て、「あぁ、こういう人が日本の首相になって行くのだろうなぁ」、と思っていました。岸、佐藤、安倍晋太郎と続く、日本の保守本道の中で育った人ですから、若いころからタカ派の人で、自衛隊の容認、憲法改正靖国参拝など、かなり右寄りの活動を続けていました。

 それまでの多くの政治家が、何となく周囲に遠慮して、正々堂々と物が言えなかったのに対して、戦後生まれの晋三さんは、かなりストレートな物言いをして、世間を驚かせました。それかあらぬか、氏の右寄りの発言を嫌う人もいて、今一つ安定した支持が得られなかったようにおもいます。ところが、ある時期から、首相になることを目指してからか、右寄りな発言を控えるようになりました。以来、氏の支持層は広がり、自民党の顔として広く認知されるようになって行きます。

 その後晋三さんは2006年に、小泉純一郎首相の後を受けて首相に就任。首相にはなりましたが、氏の強気な発言の裏で、氏はかなりデリケートな性格のようで、第一次安倍内閣の末期に大腸の病気に罹り、2007年に首相の座を降りることになります。当人としては痛恨だったと思います。実際これで首相の目は亡くなったかと思われました。

 その後2012年に再度首相に選ばれ、今日に至ります。そして昨日、全く前回と同じケースで、氏は思い半ばで首相の座を降りたわけです。歴代首相の任期としては最長記録を作ったのですが、その実思いは複雑だったでしょう。

 氏は、在任中に。憲法改正を果たし、自衛隊国防軍に昇格させたかったでしょう。実際それぐらいの勢いが2年前にはあったように思います。然し、森友問題や加計問題に押しまくられて、評判が下がり、憲法改正はトーンを失います。

 また、拉致問題に熱意を見せていたにもかかわらず、大きな実りは得られませんでした。ロシアのプーチン氏とは粘り強く北方領土問題を交渉したにもかかわらず、体よくあしらわれて、北方四島は結局帰らずに終わっています。

 祖父の岸氏が日米安保を維持し、叔父の佐藤栄作氏が沖縄返還を果たしたのに対し、安倍氏はなかなか大きな成果が果たせなかったことは、痛恨だったろうと思います。

 それでも、8年の長きにわたって日本の経済を安定成長にもっていったのは大きな成果であり、更に、ご当人のルックスの良さは、歴代総理大臣の中でも、佐藤栄作氏、中曽根康弘氏と並んで、堂々トップのインスタ映えを見せたと思います。海外の首脳と渡り合っても引けを取らないばかりか、日本の重要性を強く印象付けたことは大きな成果だったと思います。

 

 また、このことはあまり多くの人が語らないことですが、今首相を辞めるということは、長い日本の歴史の中で、安倍氏はとても恵まれた選択をしたと考えられます。

 なぜなら、この先、コロナウイルスは1年では解決しないでしょうし、オリンピックも中止になるでしょう。経済は最悪な状態で、回復までには3年や4年はかかるでしょう。そうなら、次の首相は初めから貧乏くじを引くことになります。安倍氏が今やめたことは、安倍氏にとっては天の采配ともいうべきもので、大変な幸運だったと思います。逆に次の首相はとても困難な立場に立つことになるでしょう。

 いずれにしても、氏はまだ66歳です。本来ならそれくらいから首相の地位を狙う頃なのだと思います。それが8年もの長きにわたり、首相を務めての66歳ですから、人並み優れた人であったことは間違いないと思います。同い年でありながら目いっぱい大きな活動をした安倍氏に敬意を感じます。お疲れさまでした。

続く

 

リングの思い出

 今日は朝からアトリエの倉庫のかたずけをしています。長くこの仕事を続けていると、引き出しの中に、今では、もう使うことのない道具が、堂々既得権を持って居座って、収まっています。

 リングの引き出しを整理していると、私が12歳の時に買った直径21㎝の6本リングが出て来ました。今はなき天地(天地奇術研究所)製です。このリングは20歳になるまで舞台で使いました。その後12本リングを演じるようになってから25㎝のパイプリングを使うようになり、天地の丸棒リングは引出しにしまい込まれました。21㎝のリングは、手で荷物を持って移動していたころは、軽くて持ち運びに便利でした。その昔の奇術師が使うリングはみんなこんなサイズでした。今見たなら迫力のないちゃちな道具です。でも、思い出深いリングです。

 久々取り出して見ましたが、今見ても全く錆がありません。叩いた傷はあっても、今も現役で使えます。処分するには忍びないので、また引出しに収めておきます。

 

 このところ12本リングを習いたがる人が急に増えました。それはいいことだと思います。私が習い覚えた当時は3本リングが主流で、あのスローな演技を芸術的だとか言うアマチュアが多く、本数の多いリングは敬遠されていました。

 しかし、私は、「お客様に改めさせないリングは不思議ではない」。と思っていました。マジシャンが自分の都合で持ってきた3本のリングをどんなに上手く扱って、つなげはずしをしたとしても、多くのお客様は、「あれは、一瞬どこかが開くのだろう」。と推測をします。

 無論そんな都合のいいリングなどありません。然し素人は、「どこかが開くんだ」。と勝手に納得をし、それ以上の興味を持とうとしなくなります。結局演技は、ただ漠然と眺めるだけです。そのため、イベントの主催者は、

 「藤山さん、あの3本のリングだけはやらないでください。お客さんがダレますから」。とくぎを刺されます。無論私は3本リングはしません。他のマジシャンが、自己陶酔をしながら悦に入って3本リングを見せたのでしょう。然し、マジシャンの思いとは裏腹に観客をしらけさせたのです。

 それゆえ私は、改めのないリングは意味がないと考えていました。これは私の考えではなく、ダイ・バーノンの考えです。バーノンはシンフォニーオブザリングの解説の中で、リングは観客に渡さなければ不思議さは伝わらないと述べています。あの口下手なバーノンですら、リングを観客と喋って、やり取りをしつつ渡しています。

 私が12本リングに着眼したのは、初めにリングを全てお客様に渡して、改めて見せるところです。このインパクトは他の手順に代えがたいものです。これはすごい手順だ。これを生かさない手はないと思ったのです。

 

 ところが当時の、殆んどの日本のアマチュアは12本リングを馬鹿にしました。「今時、リングで造形なんてやっても意味ないよ」。と言われたのです。確かに、12本リングはいくつもの矛盾のある手順でした。つなぎ外しの技法はごくわずかで、殆どが造形作りに費やされましたし。全部バラバラにして見せる技もありませんでした。演技中に造形の説明を入れるため、演技は間延びして、冗長に見えました。

 然し、そのいくつかの問題をクリアすれば、この手順はきっと面白いものになる、と私は判断しました。実際、松旭斎千恵師匠から習いながらも、頭の中ではすでに改案がすらすらと浮かんでいました。「ここさえ直せばこの芸はきっと受ける」。と、確信していました。その後舞台で12本を演じてみると、観客の反応の良さに自分で驚きました。自分の判断に自信を深めました。以来、20年。私のショウの中で、12本リングはドル箱を稼ぎあげる手順になりました。

 私にとって、手妻で水芸や蝶が定着するまでの35歳までの稼ぎは、イリュージョンと12本リングとサムタイだったのです。実際それでビルが一棟建ったのですから間違いはありません。

リングもサムタイも、わざと喋りの技術を要するもので、まさに私の手順でした。

 20代でここに特化したことが仕事を安定させました。しかし、如何に私の仕事が順調でも、多くの奇術家は12本リングを高く評価しなかったのです。リチャード・ロスを代表者とする3本リングの影響がずっと後まで続いたのです。

 ところが、ここへきて、リングの評価が変わってきました。3本リングも6本リングも、演じる人が減ってきたのです。そうした中で、12本を見ると、派手で、不思議で、よく受けるということで、ようやく面白みが関係者の間に伝わったようです。12本リングを愛するものとしては、良い流れになったと思います。

 

 私の演じる12本リングは、かつての12本の手順とはかなり違います。今残されている手順は、あくまで私の解釈による12本です。しかし今ではこれを古典の12本リングだと思い込んでいる人がかなりいます。と言うよりも、これ以前の手順がどんなものだったのかを知っている人が殆どいません。そのため皆さん勝手に私の手順を演じています。

 アマチュアがビデオを見て、勝手に演じるのは致し方ありません。然し、プロで演じるなら私に許可が必要です。それは道義上の問題です。無論、実際に許可を求めて来る人もいます。それに対して私は、許可をしています。許可料も取ってはいません。あくまで黙認です。書付が必要なら紙にも書きます。

 但し、「一回でもいいから私に直接習ったほうがいいですよ」。と申し上げています。ビデオで覚えて真似するレベルはアマチュアのすることなのです。プロが得意芸にするなら、直接習って、その奥書を聞き出さなければだめです。やはり芸能は、直接習わなければ伝わらないことが多々あるのです。

 私が遠くの国に住んでいる人であったり、既に亡くなっている人なら、もう習うことは不可能ですが、まだ現役でいるなら、一度縁を持って習うことはプロとしては絶対に必要です。そこがわかるかわからないかがプロの真価を問われるところなのです。習っていなければその人の存在は、偽物なのです。偽物のままビデオをなぞって演じていてもどこまで行ってもアマチュアなのです。

 

 と、古いリングを眺めながら、様々なことを夢想しました。12歳の頃のリングに触れながら、あれから53年が経ったことが現実なのか夢なのか、判然としません。確実なことは、指の感触がかろうじて昔を思い出します。それも私の記憶のかなたのことです。

続く

 

 

芸は人 その2

 昨日、小野学さんの農場のメロンを書かせていただきましたが、メロンは即完売したそうです。あまりの人気で、あっという間の完売です。もし来年頼まれるのでしたらお問い合わせ下さい。それから、私はメールの連絡先を間違えました。ono.famを、ono,farmと書いてしまいました。famが正解です。ono.fam@ogata.or.jp

恐れ入りますが訂正ください。 

 

芸は人 その2

 テレビでマジックの番組があると、必ずマジックを見て驚くひな壇タレントが数名います。彼ら彼女らは、マジックを見て驚くことが仕事なのでしょう。適度にいいリアクションをしたり、ちょっと洒落た発言をします。面白いギャグを言って場を盛り上げたりもします。ただ見ているだけでなくさりげなく番組を盛り上げているのです。

 私はこの人たちがどういう人選でここに出てきたのかに興味があります。一見、マジックを見て驚くだけの人ですから、誰でもよさそうなものですが、その役割にはいくつかパターンがあるように思います。私の見るところ、4つのパターンに分けられます。

 1つは、おバカキャラ、ただ何も知らないで素直に驚くタレント。2つ目は、知識キャラ、適度の頭が良くて、一過言持っていて、時にタネに肉薄するようなことまで言う、辛めのタレント。3、お笑いキャラ、何事も笑いでくるんでしまうような調整役のタレント。4つ目は、美人、トレンドキャラ。番組が話題になるように、美人であるとか、今話題の人を入れます。この人が出ていることで視聴率が確実に上がるタレント。

 見ていると、この4人のパターンのタレントが実にうまく連携して、番組を盛り上げています。私などが見ていると、「あぁ、うまいことタレントを配置しているなぁ」。と感心します。然し、肝心のマジックを演じているマジシャンが、彼らの存在を理解していない場合を多々見ます。カードを引かせるのでも頓珍漢な人にカードを引かせてしまったりします。

 知識キャラの人に引かせるならもっと知性的な話をすればよいのに、ただ弾かせるためだけに使ったり、その際に何か突っ込まれてしどろもどろになったり。おバカキャラにカードを引かせて、サインをさせるなどしちめんどくさいことをさせているうちに、カードの表が見えてしまったり、使う相手を間違えてしまうのです。番組の意図を理解しないで、そこにいるのがただのタレントだと思い込んで、自分のマジックを演じる際に道具のような気持でしかタレントを見ていないのです。

 そんなマジシャンを見ると、マジックができる以前に、人としての才能に限界を見てしまいます。マジシャンよりもおそらく回りで驚く役をするタレントのほうが、いいギャラを取っているはずです。考えてみればおかしなことで、マジック番組であるのに、マジシャンよりもお客様で来ているタレントのほうがギャラが高いというのは不自然です。しかしこれは不自然でも何でもないのです。

 

 周りで驚いてマジックを見ているタレントは、確実に自分の役を演じ切っていますし、自分の個性をしっかり出しているのです。翻って、マジシャンは、与えられた時間内に不思議な現象、不思議なマジックを見せることは熱心でも、その人の個性、人間性、キャラクターが一向に見えてこない人が多いように思えます。視聴者が、この人となら、一時間でも話を聞いていたい、と思いうようなマジシャンがなかなか出てこないのです。

 実はここに、マジシャンがマジシャンとして呼ばれても、なかなかひな壇のタレントになれない現実を感じます。本来はマジシャンでも十分ひな壇に座って、人の芸を楽しむ役を貰えるはずなのです。しかしマジシャンがなかなかそうしたタレントになれないのは、自分の個性を強く打ち出していないからでしょう。マジックの現象に埋没して、その人本来の面白さが伝わってこないのです。

 そんな番組を見ていると、マジシャンは、マジックのトレーニングを30%くらい休んででも、自分の個性を磨くことや、喋りの勉強をすること、大きな流れを読み取ることの訓練をしたほうが、出世の近道なのではないかと思います。

 テレビと言うのは、言ってみれば鵺(ぬえ=妖怪)のような存在で、形があって形がなく、核心があるようで核のない、ぬらりくらりとした、得体の知れない存在です。お笑いタレントや、役者や、歌手は、そうした得体の知れない妖怪を相手に、七転八倒の苦労をして、自分の居場所を維持しているのです。

 少しでも視聴者に嫌われればあっという間に放り出されます。ちょっと時流に遅れているとみなされれば、さっさと番組から降ろされます。不倫をすれば問答無用で抹殺されます。いつタレント生命が終わってしまうのか全く予想できない状況の中で、彼ら彼女らは必死に生き残りをかけて戦っているのです。

 ひな壇に座って、マジックを見ているだけのタレントも、マジシャン側から見たなら、「何もせずに楽でいいなぁ」。と思いますが、実はその立場をつかむだけでも大変な苦労なのです。そしてその立場が、来年も維持される保証はどこにもないのです。ひな壇に座って物を言う権利などと言うのは、誰も保証をしてくれるものではありませんし、冷静に見てひな壇は「地位」ですらないのです。

 そんな中で、もしマジシャンが行く行くひな壇に招かれるようなタレントに立ちたいなら、先ずタレントの気持ちがわからなければいけません。タレントは短い時間内の多くのコメントを投げています。しかしほとんどのマジシャンはその答えを拾わないばかりか、頓珍漢な受け答えばかりします。

 タレントはもしマジシャンがこう答えてくれたなら、こう切り返そう、と三手先まで考えて筋を振っているのです。もしマジシャンがタレントのセリフを掬い取って、面白い話につなげてあげたなら、タレントは感謝するでしょうし、「あのマジシャンは使えるよ」。と噂をして、バラエティのコメンテーターに昇格するチャンスを得るでしょう。キャラクターを磨いて、キャラクターで番組を盛り上げてあげることが出来れば、今以上に大きなポジションに立てるのに、マジシャンはひたすらイフェクトの中に埋没しています。人生のチャンスは、マジックの沿革を眺めて、そこに自分の個性を生かしたときに成功がにあるのに、

続く