手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 11

 月が改まって8月になろうと言うのに、少しも暑くなりません。生活するには過ごしやすくて有り難いのですが、私の家の近所ではセミも鳴かず、蚊も出ません。ビールもアイスクリームも需要の伸びないまま、海にも行けず、温泉地にも行けず、殆どの人が、ただじっと家にいます。こんなことで日本は大丈夫か。と心配になります。

 感染者数が日本全体で1000人を超えたと言って騒いでいますが、感染者の数ではなくて、重症な感染者の数は大きく減っています。そうなら、収束の方向に進んでいると考えたらよいものを、またぞろ東京都は緊急事態を持ち出して、飲食店を締め上げようとしています。

 肝心なことは、重症感染者の減少をどう見ているのか、です。どなたかテレビで解説してくれませんか。その説明もないまま、なぜ自粛要請を求めるのですか。このままでは、いよいよ飲食店は倒産です。100%の赤字保証がない限り、自粛要請には応じられない。とはっきり反対表明する飲食店組合などが出てもよさそうなものですが、こうしたときに日本人は波風を立てようとはしません。

 然し、それもあと数か月でしょう。この先はいよいよ店の存続にかかわってくるようになるでしょう。多くの経営者は店を維持できなくなってきています。もう単純な自粛要請はできませんし、それではコロナは解決しないのです。

 

一蝶斎の風景 11

 還暦を祝っての襲名興行が済んでも、一蝶斎は、舞台に立ち、関東近県の旅興行くらいは頻繁にしていたようです。当時は、どこに行くのも歩いていたわけですから、相当に頑健な人だったのでしょう。

 一蝶斎自身は順風な人生を送っていても、日本の情勢は誠に不安定でした。嘉永6(1853)年には黒船が来航し、開国を迫られます。日本は一気に情勢が不安定になります。安政2(1855)年には江戸に大地震が来て、ますます国内は不穏になります。そんな折に、コレラが蔓延し、百万都市の江戸が、たちまち10万人の死者を出す騒ぎになります。なんとなく今の日本に似ていますが、この時代のコレラは今日のコロナウイルスの比ではありません。

 当時江戸では、コレラをコロリと呼びました。これにかかると数日のうちにコロリと死んでしまうためコロリです。当時の日本の侍は、コロリを、頻繁にやってくるようになった異国船によってもたらされた伝染病であると見て、異人を見つけては殺害するようになります。結果としてコロリが攘夷運動に発展し、つまるところ倒幕に至ります。

 そうした中で一蝶斎は、幕府からの信頼も厚く、安政5(1858)年、8月25日に、イギリスの使節団に手妻を見せることになります。場所は、使節団の宿泊している、芝の西応寺です。この時の一蝶斎の手妻を、使節団のジェラード・オズボーン海軍少将が日記に詳細に記録をしています。そこを抜き出して見てみましょう。

 

 その手品師は紳士然とした立派な人物で、ゆったりとした絹の礼服に身を包んでいた。彼には絶え間なく小太鼓を叩く軽薄そうな助手がいた。それは、我々の背後にいる日本の役人を十分に楽しませていた。この老手品師は、以前我々が見たことのあるような手品をいくつか演じた後、蝶の手品を演じた。蝶が始まると、我々全員が驚きの表情を浮かべた。

(略) 離れに拵えた二重舞台の上に手品師は正座した。背後には金屏風があり、そこには青と白の絵の具で富士の頂が描かれていた。(略)手品師は薄紙の小片で蝶をこしらえた。(略)蝶は、徐々に、扇の風から生命を与えられたかのようにふるまい始めた。蝶は向きを変え、扇に向かって下降し、その縁に沿って動いたかと思うと、次には舞い上がって空中にたたずみ、まるで晴れた夏の日に、花の上を遊ぶ蝶を見ているがごとくであった。

 そうかと思うと、気まぐれに向きを変えて舞い降り、落ち着きなく羽を震わせる。まさに生きた蝶をそこに見るのである。(略)

 手品師は思い出したかのようにもう一羽蝶を作って、仲間に加え、二羽は一緒に扇の周りで遊び、互いの注意を引きあうように様々な動きをし、更に扇の縁に沿って小刻みに動く。左手の扇を垂直に立てて、二羽の蝶が交互にそこによじ登り、右手の扇が大きく扇ぐと、右にいた蝶が反対側にに移り、また元の位置に戻ってくる。

 牡丹の咲いた鉢が手品師のそばに置かれていたが、蝶がそこに飛び移って、楽しそうに蜜を吸い、互いが口を寄せ合って喜びを表す。やがて、風に乗って優雅に飛び立ってゆく。(略)ひとしきり演技を終えた後も、老手品師は我々のところまで来て、屋根もない所で蝶を飛ばして見せ、手品師の周りや、扇の周りを飛ばせて見せた。(略)今まで見聞きしてきたものの中では群を抜いて素晴らしいものだった。

 

 と絶賛しています。一蝶斎の脇で軽薄に太鼓を打っていたのは、鉄漿坊主(おはぐろぼうず)と言う芸名の才蔵で、長く一蝶斎の才蔵役を務めていました。当時の手妻師は、太夫と才蔵の二人がコンビで演技をしています。太夫がまじめに演技をしている脇で才蔵は、冗談を言って観客を笑わせます。さすがに蝶の段では冗談は挟まなかったと思いますが、一つ一つの型を口上で説明しつつ進行を助けていたのです。

 この日、同席していたイギリスの、ローレンス・オリファントも、記録に書き残しています。同じ演技のはずですが、少し見方が違っていて、興味があります。

 

 品のいい老人で、目が鋭く、立派な聡明な顔立ちをしていて、白い顎髭(あごひげ)を生やしていた。これまでこの国でこれほど優れた容貌を見たことがなかった。

その服装はエジプトの手品史が来ていた服装によく似ていた。その同窓とした風采を増すのにふさわしいものだった。

 

 ここでも一蝶斎の顔立ちの良さを褒めています。顎髭を生やしていたと言うのは、新発見です。晩年に生やし始めたのでしょう。エジプトの手品師の着ている服に似ている。と言うのは、夏の、絽や紗で出きた薄い絹の服のことか、芭蕉布のような南方系の着物の生地を指してそう言ったのか、いずれもそうした衣装で手品を演じていたことは興味深いものです。

 オリファンとはまた、一蝶斎の前半の手妻の関しても細かく記述をしています。蒸籠、紙卵、紙片から傘出しに至る一連の芸は、天保13年に、子供だった信夫恕軒が見た一蝶斎の演技の流れとほぼ同じです。

 この、オズボーンとオリファントの日記が、その後、ヨーロッパに伝わり、一蝶斎の芸が広く知られるに至ります。無論、文章だけでは演技の内容は詳しくはわからないわけですが、それから約10年して、パリの万国博覧会に、一蝶斎の弟子の浅吉が出て、蝶を演じ大当たりをします。

 一蝶斎の人生を見てみると、彼が当時の芸人の中では桁違いの人であったことがわかります。背が高く、体格がよく、顔だちが誰よりも優れていて、頭がよく、手妻に関しても、かなり細かく色々な作品をアレンジしています。人として手妻師として申し分がなく、やる興行はどれも大当たりで、晩年まで恵まれた仕事をし、数十人の弟子を育て。82歳の寿命を全うして亡くなっています。若くして売れても、晩年不幸な人が多い芸能の世界の中で、稀なほど恵まれた人生を送っています。

あぁ、願わくば私もそういう手妻師になりたい。

続く

伝える力

 昨日(30日)は、早朝にブログを走り書きをして、急ぎ踊りの稽古に行ったため、誤字が出たり、大事なことが半分も伝わらなかったのではないかと思い、再度、詳しくお話しします。

 今回のコロナウイルスの騒ぎのように、人を集めてはいけないとか、公演するにしても人数を制限しなければいけない。となると、事実上、ショウを演じることはほとんど不可能になります。当然多くの芸能人は仕事に詰まって、どうしていいかわからなくなってしまいます。悲観してばかりいてもどうにもなりません。有り余った時間はチャンスです。有効に活用しなければいけません。

 今まで忙しくてできなかったこと。やりたいと思っていても考える時間がなかったことなど、とにかく自分の活動を前進させるために、いろいろ動いてみることは大切です。ただ悩んでいても問題は解決しません。然し、自分一人がやみくもに行動しても、出来ることはわずかです。もう少し大きな成果を手に入れたいと望むなら、今、自分が何をしようとしているのか、今している行為がうまく行ったらこの先にどうなるのか、折々に触れて、自分の行動を周囲に知らせておくことが大切です。

 先ず行動する前に、周囲の人に、自分の意思を伝える。これはとても大切なことです。私は常に、誰かれ関係なく、今していること、この先やろうとすることを話をします。すると、思いがけない人から、「あぁ、それを作ってくれる人を知っているよ」。等と、情報がもらえる場合があります。ここが人生の面白い所です。

 

 水芸のからくりを作るときなどは、世の中に水芸の装置の製作者などと言う人はいません。まったく当てのない中で人を探さなければならなかったのです。

 刀の刃の中心から水が噴き出す仕掛けなどは、既製品などありません。刀から製作しなければいけません。薄く細く長い刀の軸の中心から穴を抜いて行き、それを刀の中心から90度向きを変えて、細い刃の峰から水を吹き出させるのは至難の業です。しかし世の中にはそれができる人がいたのです。指輪の製作をしている人に長く細い穴をあけてもらい作りました。30年以上経た今でもその刀は現役で活躍しています。

 また、水芸の心臓部分、ピストンを操作する基盤は、日本で噴水の製作者の第一人者に作ってもらいました。それまで自分で作った装置で演じていましたが、故障が多く、失敗も多かったのです。経費は相当にかかりましたが、日本の歴史の中で一番いい水芸の装置が出来たと自負しています。

 お椀と玉のお椀を捜し歩いたときも苦労しました。植瓜術の大きな笊に和紙を張って漆を塗る作業も、全く手掛かりがありませんでした。瓜のサンプル作りも人を探すところから始まったのです。

 木工職人も、桐箱職人も、金銀細工師も、指物師も、漆塗りの職人も、金蒔絵の職人も、悩んでいると、ひょっこり思わぬ人の情報で知り合うことが出来ました。

 全く偶然で、人と人がつながって行きます。お陰で、どれほど新しい活動が開けて行ったか分かりません。一人で悩んでいては何も前に進まないのです。いい仕事をしたいと思ったら、プロを知らなければいけません。そして、知り合ったプロを仲間にしなければいけません。仲間の層が厚くなって、初めていい仕事ができるのです。

 問題解決のために情報発信をする。それがブログであったり、書籍や、youtubeであってもかまいません。どんな方法でも、まず、自分のやりたいことを先に示して、その道のエキスパートを探すことです。人前で見せるなら思いっきりいい道具で、夢のある舞台をしたいものです。常にアンテナを張っていい仲間を集めることです。

 目的を持って、情報発信をする。この繰り返しができる人は自然に仲間ができて、問題の解決を早めます。そして豊かな人間関係を作って行けます。マジックの悩みをマジックショップのケースの中をのぞき込んで、マジックの小道具だけで解決しようと思わないことです。そこから生まれるものは亜流のマジックにしかなりません。

 

 話は飛躍しますが、マハトマガンジー(1869~1948)と言う人は、政治家、哲学者として一流な人ですが、それ以上に、情報操作の天才でした。インド建国の父と呼ばれて今も尊敬を集めているガンジーは、残された写真から見ると、粗末なサリーを着て、素足で、糸を紡いでいたりして、貧しい階層の人のように見えますが、どうしてどうして、実は貴族の出で、彼は若いころにイギリスに留学して、弁護士の資格を取っています。しかしイギリスでひどい差別に合い、知識を持っていようと、所得が高かろうとも、インド人であると言うだけで差別の対象になってしまうことに憤りを覚えます。彼は、イギリス領の南アフリカに行き、差別を受けている人のために弁護士活動をします。それがやがて大きな抵抗活動に変わって行きます。

 学生時代、彼はインド哲学を学びます。それを生かして南アフリカで、人と争うのではなく、非暴力、非協力の活動を始めます。差別をする人の仕事に協力をしない。差別をする企業の品物を買わない。そうした活動を展開して、度々投獄されます。

 然し、彼の優れた点は、自分が何をしているか、どうしたいのかを、イギリス本土に手紙で送り、それを新聞記事で展開して見せたことです。如何に英国人が、植民地で非道な行為をしているか、いかに多くの人が差別のよって虐げられているか、役人の不正や、軍人の無謀な行為で現地人が亡くなっているか、度々新聞で攻撃したのです。

 すると、英国人の中の開明的な人が共鳴して、現地で如何に英国人が悪逆非道を繰り返しているかを知り、英国本土で大きな運動に変わります。ガンジーは世論を味方につけたのです。

 その後インドに戻って、インドの独立運動を始めます。彼のやり方は徹底していて、軍隊の圧力に対しては、徹底して比抵抗を貫きます。抵抗しないことをいいことに、インド人を殺戮したり、怪我を負わせたりすると、すぐに被害状況をイギリスに送ります。すると英国人の良識派がその非道を攻め立てます。

 そうなると、総督府も軍隊もガンジーに手が出せなくなります。総督府が、塩を専売制にして、暴利をむさぼると、ガンジーは、「みんなで塩を作ろう」。と呼びかけます。何をしたかと言えば、みんなで海岸まで歩いて行って塩水を汲んできたのです。ただそれだけの行為が、何十万と言う人を集めたのです。800キロに及ぶ後進になって世界中の話題となったのです。

 インドでは綿花を作りながらもインド人が低い賃金で苦しんでいます。方や、英国がシャツや下着を作って稼いでいると、ガンジーは、「昔のように、綿を紡いで衣服を作ろう」。と呼びかけます。そこで自らが粗末ななりをして、糸を紡いでいる写真を英国に送ります。その写真は話題になり、直ちにTIMEの表紙を飾ります。

 そして、インド人は英国製の衣服の不買運動を起こします。こうして、行動を逐一世界中の人に伝えながら、比抵抗、不買運動をつづけたのです。

 比抵抗、不買運動ガンジー一人でしたならたちまちつぶされてしまいます。世界中の人を見方にして、支持者を集めたからこそ、戦わずしてインド独立が出来たのです。一見粗末ななりをして糸を紡いでいるガンジーが、実は裏で頭脳を使って、知識人を集め、マスコミを動かしていたのです。

 私は、今、多くの芸能人が出演の場もなく苦しんでいることを、こ先も度々ブログで訴えようと思います。

続く

 

何もすることがない時

 そろそろ一蝶斎もまとめなければいけません。一蝶斎の元原稿は、「手妻のはなし」(新潮社刊)を書くために15年前に集めた資料から書いています。「よく藤山さんは、毎日2000字以上もの原稿が書けますね」。と尋ねられますが、種を明かせば元となる原稿から、かなりの部分を抜き出しているのです。その他、思いつくまま、随筆なども書いていましたから、そこから抜き出して、毎日公開したわけです。

 元の原稿には、新潮社の都合で、割愛した部分も書かれています。大体私の話は長いものですから、本を出そうとすると、依頼された倍くらいの原稿を書きます。そのこぼれた部分が勿体ないために。こうして再利用しているわけです。

 でも、50歳で本を書こうと思い立ったのはいい事でした。今では膨大な手妻の資料を一から調べて本にする気力がありません。やはり50代の時の行動力はすごいと、人ごとのように思います。

 

 何もすることがない時

 本来なら、一蝶斎を書かなければならないのですが、私の苦しかったころの話をします。私が33歳(昭和63年)の時に、天皇陛下が倒れられて、夏から舞台の依頼がばったりストップしました。時はバブルの最盛期で、私はアシスタントや、裏方まで、数人の人を雇っていました。それがぱったり仕事が止まって、頭を抱えてしまいました。こんな日がいつまで続くかわかりません。でも、人を雇っている手前、弱気は見せられません。負のスパイラルから気分を転換して立ち直って見せなければいけません。

 そこで、「稽古をしよう」。と思い立ち、リハーサル室を何日も借り、基本の稽古、手順の稽古をしました。これが自分の本当の力を見つけることに役立ちました。これまでの自分の演技がいかに雑だったか、いかに突っ込みが弱かったかがわかりました。稽古で気づいたことはメモを取り、翌日はそこを重点的に稽古をしました。

 その年の秋に芸術祭に参加して、公演を打ちました。収入のない中で、リサイタル公演は本当に大変でした、金は随分かかりましたが、マンションを担保に500万円を銀行から借りました。これで怖いものなしです。これが文化庁の芸術祭賞の受賞につながりました。33歳でした。大衆芸能部門では最年少でした。これがその先どれだけ多くの仕事につながったか知れません。仕事がない、金がないといって泣いていたら何も手に入らなかったのです。

 

 その後、30代でバブルがはじけて(平成5年)、いきなり収入が3分の一に減った時、まさかこんな時代が来るとは予想もしていなかったので、たちまち生活に窮しました。芸術祭賞受賞の後(平成元年)チームを株式会社にして、家と事務所を一緒にして、高円寺にビルを建てました。子供も生まれました。まさに順風満帆の人生でした。それが数年で根底から崩れました。

 何しろ都市銀行が倒産する。山一證券が倒産する。絶対安泰と思われていた銀行や会社が軒並み倒産したのですから、東京イリュージョンなどは、はたから見たなら、かんな屑のようなものです。いつ無くなっても誰もなんとも思われない状況です。

 毎日仕事がありません。そこで、余った時間で自分の演技を見つめ、ひたすら稽古をしました。その時、ただ物が出る、消えると言うマジックに満足できなくなり、そこから本気で手妻の研究をすることになりました。それが結果として、今日の数多くの手妻の作品をまとめ上げることにつながりました。二度目の芸術祭(平成6年)受賞以降は私の手妻の評価が上がって、手妻で仕事を維持してゆけるようになりました。バブルが弾けて収入が減少したことは、不幸ではありましたが、結果として、新たな財産を天が与えてくれたのです。

 43歳で、父親(南けんじ)が亡くなりました。大腸がんから、肺がんになって亡くなりました。それは前々から承知していたことでしたので、大きなショックはありませんでした。然し、私は、ここらで自分のしていることを本当の本物にしたいと考えるようになりました。

 中途半端なことはやめて、何から何まで本物なりたいと思ったのです。平成9年の12月に親父が亡くなり、あくる1月に、さて、本物になるためにどういう行動をしたらよいかといろいろプランを書いて、考えていました。

 すると、クロネコヤマトの元社長さんの都築幹彦さんが訪ねて来てくれました。本格的に手妻を習いたいから、月に2回稽古をつけて欲しい。と言うのです。無論了解しました。するとすぐに、千葉大学の名誉教授の多胡輝(頭の体操でおなじみの)先生が同じように入門してきました。このお二人が、熱心に習われて、しかも、長年私が、本当の指物師や、漆塗りの職人、蒔絵師に作らせた道具を作りたいと思っていたところ私が、作るものはすべて買ってくれました。

 これで一気に本物志向に弾みが付きました。道具も衣装も最高のものを揃えて舞台を再構築しようと考えました。これが(平成10年)の芸術祭大賞受賞につながりました。私の人生は、窮しているときに必ず誰か救いの手が現れます。それは有り難いことだといつも感謝しています。何にしても、体に空きが出た時は、何か行動をして、考えたことは必ず形を作り上げるようにしてきました。それが多くの成功につながりました。

 50歳になって、糖尿病が悪化して、それからアルコールをやめました。すると、夜になるとすることがありません。そこで本を書くことにしました、それが今に続く著作の仕事に結びつきました。アルコールをやめることは悲しことですが、結果として、健康と、文化的な活動を手に入れました。これがその後に人生に大きく役に立ちましたから、糖尿病になったことは私にとっては幸いです。

 さて、この度コロナウイルスで芸能人は、多くの舞台を失いました。そこで私は、ブログを書いています。更に新しい手妻(と言ってもアレンジですが)、を工夫しています。この活動が将来の役に立って、先々の人生を楽しくしてくれるなら、コロナウイルスも決して悪くはなかったと思えるでしょう。

 人は思いようです。晴れも曇りも、下界で生きているものの杞憂に過ぎません。3000m上空は一年中晴れているのです。全てはそんなものかと思って、達観して生きていれば、いつでもチャンスは手に入ります。悲しいも苦しいも一時のことです。過ぎてしまえばどれも楽しい思い出です。泣かずに挫(くじ)けずに生きることです。前向きに生きている者を天は見放しません。

 

 但し、悩みも、苦しみも、解決方法も、自分がどうしたいのかも、常に外に向かって発信することです。外に語らなければ、何も伝わらないのです。天は前向きに生きている人を見放さないとは言いましたが、あなたが前向きに生きているかどうかを天は知らないのです。仏教の教えで、「縁なき衆生(しゅじょう)は度し難し(どしがたし)」と言う言葉があります。縁なき衆生とは、縁のない人々です。度し難しとはどうしてあげようもないと言うことです。如何にお釈迦様でも、縁のない人は助けようがないと言うことです。

 たまには寺に来て手を合わせて拝みなさい、念仏や題目の一つも唱えなさい。そうでなければどうしてお釈迦様があなたを助けてくれますか。と言う話です。このことを少し現代風に考えて、自分が何をしたいかは常に周囲の人に伝えておくことです。こうしたい、ああしたい、誰か協力者はいないか。それを言葉でも文章でもネットでも、舞台の上からも伝えることです。伝えなければあなたのしたいことはなにもわからないのです。書くことも、表現することも芸術家の仕事です。そこを疎かにしないことです。

続く

 

一蝶斎の風景 10

マジック番組 

 昨晩(28日)何気にテレビを見ていたら、マジシャンが数人出演していました。原大樹さん、田中大貴さん以外は知らない人でしたが、どれも面白かったです。番組の意図として、マジックは進化している、ということをテーマとしているようです。マジック番組が少ない中、こうした企画を考えてくれるプロデューサーには感謝です。

 新しいマジシャンが、次々出て来なければ、マジック界は沈滞してしまいます。なかなか難しい時代ではありますが、何とか生き残って、活躍してほしいと思います。

 

コロナよりも人の理解

 コロナウイルスは、今月に入って、急に感染者が増えて、せっかくGotoトラベルキャンペーンが出たにも関わらず、またもや出足をくじく事態となりました。

 多くの人は、経済よりも、ウイルスを撲滅することのほうが大切だと仰いますが、今の現状では撲滅は不可能です。いくら抑え込んでも開放すればまた元に戻ります。さりとて、このままでは経済が成り立ちません。世界中の国々はもうロックダウンはできないことは分かっているのです。結局、経済を維持しつつ、ワクチンや特効薬ができるのを待つ以外解決の道はないのです。

 そうであるなら、もっともっとGotoトラベルキャンペーンのように、外に出て活動するような呼びかけが必要です。いくら感染者が増えても、もう3月4月のような、重症患者はほとんど出ません。ほぼ安全な状態と言えます。

 然し、それを不安がらせるようなニュースがマスコミで話題にされています。これでは多くの飲食店やホテル、旅行会社は倒産してしまいます。何とか、みんなが生活してゆけるように、不安を煽らないような方向に話を進めるべきです。

 今の状況では、この先の経済が立ち直るのに数年を要するでしょう。このままでは日本が貧国になって行きます。貧国となっては、国が、保証も、支援も、経済対策も打てなくなります。そうなっては、国が滅びて、コロナだけが残る結果になります。

 マスコミはおかしな風評を煽らず、国民は、コロナウイルスの感染者を加害者と見ずに、被害者として同情する、寛大な心が必要です。感染者の出た劇場や、ホテル、旅館。病院など、必要以上に騒ぎ立てるのはおやめなさい。その人たちも同様に被害者なのです。感染者を作り出そうとして活動いるのではありません。あまりに騒ぎ立てると、失業者が増えて、都市や、町が成り立たなくなります。もっともっと寛大な気持ちで見る目が大切です。

 

 

一蝶斎の風景 10

 信夫恕軒が一蝶斎の蝶をどう見ていたか、彼の漢文をもう少し見て行きましょう。

(以下宮崎修多 漢文訳)

 「蝶の一曲は、紙をひねって蝶を作り、扇で風を送れば蝶は舞い上がる。花に戯れたり、水を飲んだり、途中から二羽の蝶になり、離れたり付いたり、二羽が結ばれたりする。人の衣服に停まったり、一蝶斎の頭に停まったりする。まるで生きているようだ。この二羽を集めて握り、扇で扇ぐと、千羽の蝶。に変わる。これぞ天下の奇技。これに勝る芸はない。西洋のマジックを真似る昨今の芸人にこの技を見せてやりたい」。

 天下の奇技。これに勝る芸はないと断言しています。余ほどのお気に入り様です。但し、恕軒は、一蝶斎がこれ以外に演じている大道具の芸にはあまり興味がなかったようです。水芸であるとか、怪談手品でお化けや骸骨が空中浮揚するなど、一般客には随分受けたであろう作品などは何も書いていません。あくまで恕軒は手わざの芸が好きだったようです。実際如何にたくさんの大道具を演じても、一蝶斎がお終いに演じる芸は蝶だったようです。お客様は一蝶斎の蝶を診なければ納得しなかったのです。

 

 恕軒が一蝶斎を漢文にしてまで褒めたのは明治に至ってのことです。実は明治も中ごろになると、江戸時代を懐かしむ老人がたくさん出て来ます。「天保時代は良かった」とか、「文政時代はいい時代でした」。と言った具合で、こうした話をする人たちを天保老人と言って、過ぎ去った江戸時代にノスタルジーを感じる人が少なからずいたようです。劇作家の河竹黙阿弥もその一人で、明治19(1886)年になって、戯曲を書きます。盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)で、その中で、七五調のつらねが出て来て、そこに天保時代の一蝶斎を洒落のめしたセリフが出て来ます。どうぞ名優になった気持ちで、声を出して読んでみてください。いかに木阿弥が一蝶斎の芸を愛していたか、切々と迫ってくるものがあります。

 「一蝶斎の「蝶々」が、生きているように働くは、種の知れねえ不思議な技。同じ頭は坊主だが、手品も下手な食わせ物。伏せた「卵を鳥にする」、そのヒョッコの小娘へ、旦那が手をば付けたなどと、強請る「懸篭(かけご)」の「二重枠」。古い趣向の「蒸籠(せいろう)」から、種々なご託を引き出して、まことと見せる種回しが、証拠と言って持ちだした。文は「三社(さんじゃ)の当てもの」より、初手から偽と知れている、たくみは見え透くビイドロの、「水からくり」の魂胆も、種を見られた上からは、ここらで終局(はね)にしたがよかろう」。

 一蝶斎が得意とした、卵をヒョコに変える技、懸篭の二重枠、蒸籠、三社の当てもの水からくり等がうまく語り込まれています。一蝶斎が死して18年も経った、明治19年にこの芝居は上演されました。天保老人が聞いたなら、このセリフはきっと懐かしかったでしょう。弘化4年に、一蝶斎は養子に二代目を譲りましたが、殆どのお客様にとっては、一蝶斎とは禿げ頭の、大柄な、いい男の初代のことを指したのです。そして、一蝶斎こそが文化文政、天保、弘化と言った、江戸末期の文化を具現して見せた手妻師だったのです。

抜き卵とホストクラブ

抜き卵甘皮卵

 昨日(27日)は、弟子の前田と、卵作りの作業をしました。卵作りとは、甘皮卵(あまかわたまご)と抜き卵を作ります。今は、マジックショップなどで、プラスチックの卵や、薄く簡単に膨らむ卵を販売していますが、実際それを使って演じるのと、本物の卵を使って演じるのとでは演技のリアル感が大きく違います。私の流派では、甘皮も、抜き卵も、実際の卵から作っています。

 抜き卵と言うのは、卵の中身を抜き取って、殻だけ使用するものです。本物の卵ですから、取り出しても全く卵そのものです。但し落とせば割れます。管理がややこしく、持ち歩きに不便です。然し、本物の味わいはプラスチック製品とは比べられません。

 甘皮卵と言うのは、文字の通り、卵の殻と、白身の間にある薄皮のことで、これだけを抜き出して紙片が卵になる芸に使います。これは乾くと使い物にならなくなり、常に保湿管理をしなければなりません。簡単ではない代物です。然し、本物、の甘皮を使うと、本当に紙の切れ端が卵になってゆく過程を見せることが出来ます。現象がお客様の見ている目の前で変化して行く芸と言うものが、手妻の中にはなかなかありません。そうした中でこの芸は貴重な作品です。

 

 いつの時代からこの方法で作っているかは知りませんが、少なくとも500年か600年くらいはこうしたやり方で作っていたと思われます。現代の卵は、殻が弱く、甘皮も薄く、なかなかいい素材に巡り合いません。それでも探して作っています。昔は、卵が貴重品でした。私の子供の頃ですら、卵は今の十倍の価値はありました。江戸時代ならさらに倍の価値はあったでしょう。袋から卵が出ただけで、お客様からため息が漏れたと思います。きっと作った卵や甘皮は、大事に大事に使ったことでしょう。

 弟子は必ずこうした作業を手伝います。これが将来、本物の芸と偽物の差を大きく引き離すことになります。素材を知り、作り方を覚え、500年以上前の芸を学び、所作を学び、自らの芸とする。芸能者は簡単には育ちません。然し、ひとたび学んでおけば、決してつぶれることはありません。

 ちょこっと覚えて、ちょこっと演じる。そんなマジックの仕方、生き方が、いかに危うい人生になっているか、今回のコロナウイルスを見ても、随分気付いたマジシャンが多かったのではないでしょうか。同じ学ぶなら、きっちり歴史に沿って、本当の本物をとことん学ぶことです。正当の継承者なら必ず生き残れます。

 

ホストクラブ

 昨日コロナウイルスに関連して、ホストクラブのことを書いていて、思い出しましたが、私は20代の頃、ホストクラブに出演したことがあります。場所は新宿の、愛だったかニュー愛だったか忘れましたが、愛のチェーン店だったことは記憶しています。

 私の所属していた事務所からの依頼で、私自身は、当時ナイトクラブやキャバレーに出演していましたので、その一連の仕事と理解してお店に行きました。

 そのころ私は、燕尾服姿で、鳩出しやカードをやっていました。開店早々のお店に入って、楽屋で支度をしていると、ホストの一人がしきりに話しかけてきます。普段、ショウの差し込みはあまりないそうで、特にマジックは初めてだそうです。「期待してるよ」。等と気軽に言われるので、「ノリのいい店なんだな」。と思っていました。

 ところが実際フロアに出て演技をしてみると、その視線が異様でした。ナイトクラブと違って、ホストクラブはお客様が女性で、男性がホストを勤めます。そのホストが、一斉に私へ冷たい視線を送ります。「なに、あれ」。というような冷淡な表情で見ています。

 お客様の方も、見てはくれていますが、ショウを見ているのでなく、何となく品定めをしているような眼で見ています。この時私は生まれて初めて、自分自身が色で見られる体験をしました。演技がどうの、内容がどうのではないのです。マジックなんてどうでもいいのです。男として、色の対象として見ているのです。

 こうなると、いつもの気持ちで、いい演技などできません。明らかにお客様は別の目的で見ています。そのことが苦痛で、演技そのものに力が入らなくなってきます。それでもとにかく20分くらいの舞台をつとめ、楽屋に帰りましたが、汗びっしょりでした。

 客席からお呼びがあると言うことで出かけて見ると、この店の社長、会田さんでした。会田さんの店だから愛なのです。席に座り、「今回初めて、ショウを入れてみたんだよ。どうせ呼ぶなら、なるべくいい男と思って君を選んだんだ」。どうやらいい男の代表として、私が選ばれたようです。確かに私は20代はいい男だとあちこちで褒められました。それは有り難いのですが、「評判いいなら又何度か頼むよ」。と社長は言ってくれましたが、2ステージのショウを終えると、体はぐったりして、「もう出たくない」と思いました。何にしても、男性ホストの視線が冷たすぎるのです。

 表向きは静かに見ていますが、心の中はまるっきり否定的なのです。それが証拠に、現象の結末になると、お客様(女性)は拍手をしてくれますが、ホストはそれに遅れて、ささやかな拍手をするだけです。儀礼的に、少し拍手をして、すぐにまた冷めた目で見ています。彼らは私の指先から足の先まで品定めをしています。

 ホストの品定めは、色ではなく、身につけている品物を値踏みするのです。ワイシャツは安っぽいとか、カフスボタンがちゃちだとか、靴がせいぜい2万円くらいかな、とか、自分の持ち物と比べて、私の身につけているものがどれほど安いものなのかを調べて、トータルで自分が勝っているなら、満足しているのです。

 それと似たような連中は歌手や、俳優にもいます。水商売に染まっていて、金でしか人が見えない連中です。私はどうにもこの雰囲気に耐えられません。

 歌手でも、俳優でも女優でも、金持ちのヒモになって、小遣いをもらって生活している人が少なからずいます。そうした生活をしながらも、自分が目指す俳優、歌手になるべく努力をしていればいいのですが、人を物や金で換算するようになると、いつしか、努力は馬鹿らしくなります。

 人に可愛がられて、金や物をもらうようになると、努力することが馬鹿らしくなります。努力は貧乏人の悪あがきに思えるのでしょう。結局ヒモはヒモでしかありません。ヒモをやって、俳優をしていると、顔も性格もヒモになります。コンビニのバイトをして、役者をしていると、いつしか動作も、顔も、コンビニのバイトになってしまうのと同じです。

 この話は、コンビニのバイトがいいのか、ヒモがいいのかと言う比較の話ではありません。どちらも俳優、女優としてみたなら三流です。

 そんな集団から、金で軽くあしらわれることは不愉快です。無論、ホストにも一流はいるでしょう。会田社長からして、会って話をしただけで才能の塊であることはわかりました。でも、以後ホストクラブには出演しません。もっとも今の私にはお呼びは来ないでしょう。そりゃそうです。

続く

人生の指針

 私はこれまで、生きて行くうえで、二者択一を迫られたとき、その答えを自分自身で出せずに苦悩したときに、出かけて行って指針を尋ねる人が3人います。三人は、私の難しい問題に対して、毎回、実にいい答えを出してくださいました。どれほど助けて頂いたか知れません。今でもとても感謝しています。

 私が、何の医療知識もないのにもかかわらず、コロナウイルスに関していろいろブログに書いています。わずかこの半年で、6回か7回書いています。なぜそれが書けるかと言うなら、私には、信頼できるお医者さんが4人いるのです。何かコロナウイルス関連の問題が起きると、その都度話を伺います。すると、面白い答えがいろいろ帰ってきます。時に、テレビや政治家が言っている話と真逆な答えが返って来るときもあります。

 そんな時に私が、「もしそれが本当なら、なぜ先生がそれを世間に訴えないんですか」。と言うと、「みんなが信じていることを、医者の立場の者が否定すると、それだけで対応がやかましくなるから、よほどおかしなことでもない限り、あまり言えないんだ」。と言います。「但し、訪ねてくる患者さんには、折に触れて、本当のことを話している」、そうです。私は、こうしたお医者さんの情報を聞いて、それが自分自身で納得できたときに、皆さんに書いているのです。

 私の言っていることは、素人の発想ではありますが、でも、書いてきたことはその通りになったと自負しています。ロックダウンや、非常事態宣言は意味がないこと。学校や、会社を休業することは無意味だと言うこと。劇場や、レストランで距離を取って席の空間をあけることも程度問題であって、あまり意味がないこと。

 なぜなら、山手線や、中央線の、ラッシュアワーを野放しにしていて、誰も、電車の3密を黙して語ろうとしないにもかかわらず、たまに行くレストランの席を細かく規制するのは、言ってみれば、片方で水道管が破裂捨て、水が噴水のごとく放水されているのに、その水道管の補修をせずに、一軒一軒のお宅を訪ねて、水道の元栓から水が漏れていることを神経質に注意して回るようなものです。

 レストランや飲食店は、政治が関与しやすいから、文句を言うのであって、肝心の通勤電車の3密ををそのままに放置しているなら、感染は止まりません。つまりコロナウイルスの対策としては対策になっていないのです。ホストクラブなどいい例です。

 ホストクラブがどれだけ感染者を増やしたのかと言えば微々たるものです。そもそもホストクラブと言う職業自体特殊です。多くの都民にとっては縁のない場所です。そこで感染綾が出たとしても通勤電車の一両分にも及ばない数のはずです。

 然し、世間に言われると反論しにくい職業なのでしょう。多くの人にすればあってもなくてもいい職業だと思われているのでしょう。しかし私はあえて弁護します。マルクス資本論の中で、人の需要があって、継続して依頼があるなら、それは立派に職業である。と言っています。そうならホストクラブも職業です。パチンコ店も同じです。それを否定するのは差別です。お気の毒です。ウイルスの餌にされているのです。あえて言うなら弱い者いじめを国や地方自治体やテレビがしているのです。お陰でホストクラブも、パチンコ店も、飲食店も、続々倒産しています。

 

 然し、連日通勤電車を野放しにして、なぜ、爆発的な感染が広がらないのか、不思議です。それは、コロナウイルスが世間で考えているような、強いウイルスではないからです。ウイルスの脅威を言うなら、ノロウイルスや、インフルエンザのほうがはるかに強く、危険なウイルスなのです。コロナウイルスは、大きな病気を持っている人か、衰弱した老人でもない限り、殆どの人は、感染しても、自然に治ります。感染したかどうかも気付かないうちに治った人は大勢います。つまり、コロナはほとんど風邪と同じなのです。

 と、こう書くと、テレビで医者や、大学教授が、「いや、この先に、姿を変えたコロナウイルスが出て来て猛威を振るう」。だとか、「第二波がやってきている」。などと不安を煽ることを言う人がいます。本当のそうでしょうか。

 第二波と言うのはいずれは来るかもしれません。しかし今はむしろコロナウイルスは衰退に向かっています。確かに、実際の感染者の数は、増えています。然し、この数に騙されないでください。今は半年前と比べると、あちこちの病院でウイルス検査が簡単に出来るようになっています。その上、テレビが、ひたすら危険を煽っていますから、検査をする人が増えているのです。半年前の数倍、或いは数十倍検査が増えれば、当然その中で感染者の数値も上がって行きますから、一見、ウイルスが猛威を振るっているように見えます。しかし実態は逆です。

 テレビは、重症な感染者の数をもっと知らせなければいけません。7月の重症感染者の数を精査してみることです。重症感染者は極端に減っています。それは日本だけでなく、中国も、ヨーロッパも、アメリカですら極端に減っています。大きな流れは、今のコロナウイルスは、収束に向かっています。

 第2波、第3波の問題はまだ出ていませんから、ひとまず後で考えるとして、人の不安をあおるような材料は今のところ見当たりません。そうなら、Gotoキャンペーンで旅行に出るのも大丈夫でしょう。食事に出ることも大丈夫です。芝居やマジックを見に行くのも問題ありません。大きな波は去っています。一時的に感染者の数は増えても、この先、感染者の数は減って行きます。問題はありません。

 

 ところで、この半年間で、商店街は随分廃業した飲食店が出ています。飲食店だけでなく、病院も、銀行も、あらゆる仕事がうまく行かなくなっています。そうなると、芸能関係者が以前のように復活して活動できる日はいつなのでしょうか。実業が不況では、芸能になかなか仕事は発生しないでしょう。元に戻るには2~3年かかるかもしれません。3年待てない芸能人は大勢います。多くの芸能人は今月、来月の生活に苦しんでいると思います。

 そんな時に我々は何をしなければいけないのか、何でもいいから芸能を見せる場を作って行くことです。初めは儲からないかもしれません。然し、見せていれば必ずお客様は出来て行きます。こんな時代だからこそ、芸能に触れたい人は実は多いのです。

 マジシャンと言う職業は、簡単に人ができないスキルを持っています。そこに自信を持ってください。それは貴重です。しまっておいては勿体ないのです。ある程度のスキルを持った人なら、今こそ自らの世界を語って見せるべきなのです。これからプロになろうなどと言う人は、稽古をして、その合間に、外に出て、マジックをして見せるべきなのです。

 嘆いていても前には進みません。ミュージシャンなら音楽をすべきです。マジシャンならマジックをすべきです。とにかく手当たり次第、芸を見せるべきです。こうした中で、お客様が何を望んでいるのか、自分の芸能に何が不足しているのか、芸の本質をしっかり見つめるのです。今が成長のチャンスなのです。

続く

 

一蝶斎の風景 9

 昨日は、人形町玉ひでの舞台で公演をしました。早くもこの公演を楽しみにしているお客様が増えて来て、8月22日(土)も申込者が何人かおります。なかなか日常生活をしていて、お座敷に上がる機会と言うのは限られていますし、玉ひでの親子丼は通常、2時間待ちの行列を覚悟して並ばなければ食べられませんので、(玉ひでさんは、軍鶏鍋屋さんですから、鍋を注文してくださるお客様は予約ができますが、親子丼のお客様は予約ができません)。私のショウを見ると言うことで予約できると言うのは、親子丼を並ばずに食べられるわけで、ある意味抜け道と言えます。

 昨日は、弟子の前田と、日向大祐さん、ザッキーさんが出演し、そのあと私が50分、手妻を演じました。こうして毎月お客様の前で演技をしていれば、みんなだんだんと巧くなって行ききます。舞台はやり慣れることが大切です。もっともっとこの場に出てみたいと言う人が増えたならいいと思います。もっと出演者を増やして、2日間3日間できたなら、マジシャンは生の舞台と収入を得ることになり、力がついて来るでしょう。

 私は、5年のうちに、座敷や、ホテル、劇場で、30か所くらい、出演場所を作って行こうと考えています。意欲のあるマジシャンを10組くらい集めて、手分けして廻れば、少なくともマジシャンは年間20ステージくらいは一緒にツアーを作って回ることが出来ます。今すぐにそれを達成することは難しいですが、少しずつ、出演場所を広げて行けば、数年のうちに目的は達成できるでしょう。

 仕事がないと言って嘆いていてはいけません。理解者を探して、出演場所を作ることです。初めは20人30人のお客様でもいいのです。その舞台で、決して手抜きをせず、いい演技を続けていれば、きっとお客様は良い支援者となってくれるでしょう。

 

一蝶斎の風景 9

 一羽蝶から二羽蝶、そして千羽蝶と進んで行くにしたがって、花吹雪の口上を言い換えることで、蝶として表現できるものかどうか。おそらくここは一蝶斎もずいぶん悩んだのではないかと思います。

 私自身、30代に蝶の口上を取り去って、演技することを考えた時に、悩んだのは、二羽蝶と千羽蝶のサイズの違いでした。昔の式の口上は、「雄蝶雌蝶小手にもみ込みますれば、子孫繁栄、千羽蝶と変わる」。と言えば、とにかくは子孫が増えて行ったことはお客様に伝わります。然し、口上を取ってしまったら、どう整合性を持たせるのか、これは随分悩みました。

 私が蝶を覚えたのは20歳の時です。然し、自身のリサイタルなどで時折り演じる以外、めったに蝶を出すことはなかったのです。千羽蝶が納得できないがために、私は長いこと蝶を演じなかったのです。無論その間にも、人を訪ね歩いて、口伝を聞き集め、何かヒントはないかと調べました。

 一つは私の師匠(松旭斎清子)が話してくれた話、「親の蝶は、子供の蝶を見ることはできない。親の犠牲があって子供が生まれるのだから。蝶は子供の成長を見ることなく死んで行き、一年の後に子供は飛び立ってゆく。従って、子供の生は親の死であり、これはめでたい事でもなければ、悲しむことでもない、普通のことなのだ」。という話。これは無常観を表しています。これを実際に演じるために、口伝がいくつか残されていました。これは私が蝶の口上を取り去るために大変役に立ちました。

 吹雪を散らす際にも、吹雪を雪と見立てるか、花吹雪と見立てるか、蝶と見立てるかによって、吹雪の飛ばし方が違います。その飛ばし方は勿論口伝です。千羽蝶だと言って、ただ吹雪を撒いても蝶には見えません。そこには数百年の隠された秘密があるのです。残念ながら、多くの蝶を飛ばす手妻師はこの違いを知りません。

 私は習いに来る人には吹雪の飛ばし方を話しています。こうしたことを継承するから古典芸能なのであって、ただ吹雪を飛ばしていたのでは、単なるマジックです。びっくり箱のふたを開けて、人を驚かせているのと同じことです。ちゃんと学べばいいのになぁ、と思います。

 あれこれ工夫しているうちに、30代の末に、一蝶斎は、たぶんこうしたのだろうと言う答えが見つかりました。私はそれを今も忠実に演じています。

 不思議なもので、私が納得のゆく蝶を演じるようになると、にわかに私のお客様は蝶を見たがるようになりました。折から、バブルがはじけて、イリュージョンの仕事がなくなった頃です。そこで、徐々に仕事を、イリュージョンから、手妻に移して行きました。結果から考えたなら、うまく人生を乗り切ったことになります。

 

 私の活動はともかく、一蝶斎は「蝶の一曲」によって順風な人生を歩みます。弘化4年の豊後大掾の襲名披露は60の還暦を記念して興行したわけです。60と言う年齢は、当時としては相当な老人です。然し、一蝶斎は、体も、頭脳も健康だったようで、その後も精力的に仕事をしています。初めに書いた、信夫恕軒は、親が医者で、当人は漢文学書をし、その後新聞記者をし、晩年はほとんど働かずに、芝居や寄席を見ていたようです。その恕軒が一蝶斎の演技を漢詩にして書いています。それがいつの時代の一蝶斎なのかはわかりませんが、天保13年、信夫恕軒6歳の時か、弘化四年の豊後大掾の襲名の舞台か、はたまた晩年の舞台かは分かりませんが、かなり詳しく書いています。但し、恕軒は、大道具の芸はあまり好きではなかったようで、手わざのものばかり書いています。無論最大のお気に入りは蝶です。以下一蝶斎の演技を書いてゆきましょう。

 「満干の徳利」盥の水を徳利に移し、それを拳の中に入れて行く。拳に全ての

  水が入り、水は消えている。

 「銭の抜き取り」紐に銭数枚を通し、二人の観客に紐の両端を持ってもらい、半紙

  一枚を銭の上に載せ、銭だけ抜き取る。

 「紙片から花火」半紙を細かく裂き、火をつけると、花火に変わる。

 「紙片から蜘蛛の糸」更に紙片を丸め、空中に投げると蜘蛛の糸に変わる。

 「紙卵」蜘蛛の糸の切れ端を丸め、弾いているとだんだん膨らんできて、息を吹き

  かけると、卵に変わる。

 「延べ紙から傘」半紙を丸めて火にくべると、花火になり、火を消すと、5~6m

  もの延べ紙の帯に変わる。延べ紙をまとめると、大きな傘が咲く。

 「蒸籠」(多分、絹の小切れなどを出した後)箱に向かって、「出(い)でよ」と声

  をかけると、箱の中から鳩が3羽飛び立つ。

 「水中発火」テーブルの上に鉢を置き、水を張り、半紙を近づけると、半紙は燃え上

  がる。

 「釣り灯篭」空中に吊ってある灯篭を降ろし、中に蝋燭の明かりが灯っている。灯り

  の点いたまま、灯篭を鉢の中にれる。しばらくして、釣り上げてみると、蝋燭の灯

  りは水に濡れず、灯ったまま水の中から出て来る。

 

 今読んでも、何となくそのマジックがどんなものだったかは推測が付きます。手妻は単発で演じたのではなく、半紙を使って一連の芸につなげています。ルーティンと言う考え方がこのころからできていたようです。当時の恕軒にすればどれも不思議だったのでしょう。さてその恕軒が一蝶斎の蝶をどんなふうに見たのか、それはまた明日。

続く