手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 9

 昨日は、人形町玉ひでの舞台で公演をしました。早くもこの公演を楽しみにしているお客様が増えて来て、8月22日(土)も申込者が何人かおります。なかなか日常生活をしていて、お座敷に上がる機会と言うのは限られていますし、玉ひでの親子丼は通常、2時間待ちの行列を覚悟して並ばなければ食べられませんので、(玉ひでさんは、軍鶏鍋屋さんですから、鍋を注文してくださるお客様は予約ができますが、親子丼のお客様は予約ができません)。私のショウを見ると言うことで予約できると言うのは、親子丼を並ばずに食べられるわけで、ある意味抜け道と言えます。

 昨日は、弟子の前田と、日向大祐さん、ザッキーさんが出演し、そのあと私が50分、手妻を演じました。こうして毎月お客様の前で演技をしていれば、みんなだんだんと巧くなって行ききます。舞台はやり慣れることが大切です。もっともっとこの場に出てみたいと言う人が増えたならいいと思います。もっと出演者を増やして、2日間3日間できたなら、マジシャンは生の舞台と収入を得ることになり、力がついて来るでしょう。

 私は、5年のうちに、座敷や、ホテル、劇場で、30か所くらい、出演場所を作って行こうと考えています。意欲のあるマジシャンを10組くらい集めて、手分けして廻れば、少なくともマジシャンは年間20ステージくらいは一緒にツアーを作って回ることが出来ます。今すぐにそれを達成することは難しいですが、少しずつ、出演場所を広げて行けば、数年のうちに目的は達成できるでしょう。

 仕事がないと言って嘆いていてはいけません。理解者を探して、出演場所を作ることです。初めは20人30人のお客様でもいいのです。その舞台で、決して手抜きをせず、いい演技を続けていれば、きっとお客様は良い支援者となってくれるでしょう。

 

一蝶斎の風景 9

 一羽蝶から二羽蝶、そして千羽蝶と進んで行くにしたがって、花吹雪の口上を言い換えることで、蝶として表現できるものかどうか。おそらくここは一蝶斎もずいぶん悩んだのではないかと思います。

 私自身、30代に蝶の口上を取り去って、演技することを考えた時に、悩んだのは、二羽蝶と千羽蝶のサイズの違いでした。昔の式の口上は、「雄蝶雌蝶小手にもみ込みますれば、子孫繁栄、千羽蝶と変わる」。と言えば、とにかくは子孫が増えて行ったことはお客様に伝わります。然し、口上を取ってしまったら、どう整合性を持たせるのか、これは随分悩みました。

 私が蝶を覚えたのは20歳の時です。然し、自身のリサイタルなどで時折り演じる以外、めったに蝶を出すことはなかったのです。千羽蝶が納得できないがために、私は長いこと蝶を演じなかったのです。無論その間にも、人を訪ね歩いて、口伝を聞き集め、何かヒントはないかと調べました。

 一つは私の師匠(松旭斎清子)が話してくれた話、「親の蝶は、子供の蝶を見ることはできない。親の犠牲があって子供が生まれるのだから。蝶は子供の成長を見ることなく死んで行き、一年の後に子供は飛び立ってゆく。従って、子供の生は親の死であり、これはめでたい事でもなければ、悲しむことでもない、普通のことなのだ」。という話。これは無常観を表しています。これを実際に演じるために、口伝がいくつか残されていました。これは私が蝶の口上を取り去るために大変役に立ちました。

 吹雪を散らす際にも、吹雪を雪と見立てるか、花吹雪と見立てるか、蝶と見立てるかによって、吹雪の飛ばし方が違います。その飛ばし方は勿論口伝です。千羽蝶だと言って、ただ吹雪を撒いても蝶には見えません。そこには数百年の隠された秘密があるのです。残念ながら、多くの蝶を飛ばす手妻師はこの違いを知りません。

 私は習いに来る人には吹雪の飛ばし方を話しています。こうしたことを継承するから古典芸能なのであって、ただ吹雪を飛ばしていたのでは、単なるマジックです。びっくり箱のふたを開けて、人を驚かせているのと同じことです。ちゃんと学べばいいのになぁ、と思います。

 あれこれ工夫しているうちに、30代の末に、一蝶斎は、たぶんこうしたのだろうと言う答えが見つかりました。私はそれを今も忠実に演じています。

 不思議なもので、私が納得のゆく蝶を演じるようになると、にわかに私のお客様は蝶を見たがるようになりました。折から、バブルがはじけて、イリュージョンの仕事がなくなった頃です。そこで、徐々に仕事を、イリュージョンから、手妻に移して行きました。結果から考えたなら、うまく人生を乗り切ったことになります。

 

 私の活動はともかく、一蝶斎は「蝶の一曲」によって順風な人生を歩みます。弘化4年の豊後大掾の襲名披露は60の還暦を記念して興行したわけです。60と言う年齢は、当時としては相当な老人です。然し、一蝶斎は、体も、頭脳も健康だったようで、その後も精力的に仕事をしています。初めに書いた、信夫恕軒は、親が医者で、当人は漢文学書をし、その後新聞記者をし、晩年はほとんど働かずに、芝居や寄席を見ていたようです。その恕軒が一蝶斎の演技を漢詩にして書いています。それがいつの時代の一蝶斎なのかはわかりませんが、天保13年、信夫恕軒6歳の時か、弘化四年の豊後大掾の襲名の舞台か、はたまた晩年の舞台かは分かりませんが、かなり詳しく書いています。但し、恕軒は、大道具の芸はあまり好きではなかったようで、手わざのものばかり書いています。無論最大のお気に入りは蝶です。以下一蝶斎の演技を書いてゆきましょう。

 「満干の徳利」盥の水を徳利に移し、それを拳の中に入れて行く。拳に全ての

  水が入り、水は消えている。

 「銭の抜き取り」紐に銭数枚を通し、二人の観客に紐の両端を持ってもらい、半紙

  一枚を銭の上に載せ、銭だけ抜き取る。

 「紙片から花火」半紙を細かく裂き、火をつけると、花火に変わる。

 「紙片から蜘蛛の糸」更に紙片を丸め、空中に投げると蜘蛛の糸に変わる。

 「紙卵」蜘蛛の糸の切れ端を丸め、弾いているとだんだん膨らんできて、息を吹き

  かけると、卵に変わる。

 「延べ紙から傘」半紙を丸めて火にくべると、花火になり、火を消すと、5~6m

  もの延べ紙の帯に変わる。延べ紙をまとめると、大きな傘が咲く。

 「蒸籠」(多分、絹の小切れなどを出した後)箱に向かって、「出(い)でよ」と声

  をかけると、箱の中から鳩が3羽飛び立つ。

 「水中発火」テーブルの上に鉢を置き、水を張り、半紙を近づけると、半紙は燃え上

  がる。

 「釣り灯篭」空中に吊ってある灯篭を降ろし、中に蝋燭の明かりが灯っている。灯り

  の点いたまま、灯篭を鉢の中にれる。しばらくして、釣り上げてみると、蝋燭の灯

  りは水に濡れず、灯ったまま水の中から出て来る。

 

 今読んでも、何となくそのマジックがどんなものだったかは推測が付きます。手妻は単発で演じたのではなく、半紙を使って一連の芸につなげています。ルーティンと言う考え方がこのころからできていたようです。当時の恕軒にすればどれも不思議だったのでしょう。さてその恕軒が一蝶斎の蝶をどんなふうに見たのか、それはまた明日。

続く

 

コロナウイルスよどこへ行く

コロナウイルスよどこに行く 

 感染者が一日で360人を超えました。この先どうなるかと多くの人は不安を抱いています。然し、問題はありません。非常事態宣言をする前に戻って、非常事態宣言の際に少なくなった感染者の数がそっくり増えたのです。つまり非常事態で押さえた感染が、今増加しただけです。コロナウイルスは、一定数感染を増やし、その後収束します。それだけのことです。ウイルスとはそうして盛衰を繰り返すものです。

 いつまで今の状態が続くのかと言うなら、ワクチンや、特効薬ができるまで続くでしょう。それが1年先か、2年先かはわかりません。

 ロックダウンや非常事態宣言は何の意味もありません。学校を休校することも、会社を休むことも無意味です。ロックダウンは一時的には感染者を減らすことにはなりますが、非常事態を解除すれば必ず感染者は増えます。今の日々の数値が実証しています。

 マスク、手洗い、うがいと言った衛生管理は感染防止に役立つとしても、仕事を休んだり学校を休むことは意味がありません。それは経済を縮小させ、近い将来、国の運営が成り立たなくなります。ウイルスと戦って生きて行くためには、しっかり経済が維持されなければ意味がありません。このまま経済が衰退すれば、やがては補助金も出なくなり、病院の援助もできなくなり、ウイルス対策の研究費も出なくなります。それでは人の生活が成り立たなくなり、ウイルスだけが残ってしまいます。

 何があっても人は日々働かなくてはいけないのです。そんな当たり前のことが、このところ、人の仕事を軽視する風潮がはびこっています。

 

 政府が進めているGotoトラベルキャンペーンはどんどんやるべきです。東京都が止める理由はありません。働くときには働き、遊ぶときには遊ぶべきです。いつもと同じ生活をしていればよいのです。感染者が増大しているとはいっても、半年間で25000人が感染しただけです。しかも25000人のほとんどが完治しています。別段大したウイルスではありません。死者は990人です。日本人が毎年病気などで亡くなる人の数から考えても、コロナウイルスによる死者数は、極めて小さな数値でしかありません。

 連日感染者数をテレビで報じて大騒ぎをしますが、現実には、ノロウイルスや、インフルエンザから比べたなら、微々たる数字です。数年前にインフルエンザが流行った時に、テレビは、毎日患者数を報じましたか。皆に家にいろと呼びかけましたか、インフルエンザのほうが病気の威力が強かったのに、なぜコロナウイルスだけこんなに大騒ぎするのですか。仮にコロナに罹ったとしても、合併症を持つ重症患者か、衰弱している老人でもない限り死病には至らないのです。そのほかの人は、大した治療薬もないのに、寝ていて直したのです。たしかに、例外はあったとしても、数の上では990人の中の数例でしかありません。それを騒ぎ立てる理由がわかりません。

 

 マスコミの取り上げ方は目を覆うばかりです。先日の連休をテレビ局が取材をして、

高速道路のサービスエリアに止めてある自動車のナンバープレートを調べていました。その上で、東京ナンバーの車の人にインタビューをして、「どうして、東京都が反対しているのに、ここまで来たのですか」。と問うています。失礼を通り越して犯罪です。そんな質問に答える理由がどこにありますか。まるで監視社会です。江戸時代の岡っ引きのようなことをしています。国がキャンペーンを奨励したから遊びに出たのです。テレビ局に何か言われる理由はないのです。顔が映った人は、近所の心無い人から、外出するとは何事かと、後で攻め立てられるでしょう。大きなお世話です。

 国民みんなが遊ぶときには遊ばなければ、世の中が回って行かないのです。せっかく土産物屋さんなどが久々の連休で期待をして店を出しているのに、テレビ局はそれを邪魔して人の出鼻をくじいて何が面白いのでしょう。これは嫌がらせです。

 

 横浜流星さんがウイルスに罹った時も、どこで感染したのかをマスコミは執拗に聞きまくっていました。逆にあなたが感染したとして、どこでうつされたか答えられますか。山手線に乗っていて、感染したかもしれないし、地下鉄に乗ってやってきた記者と会話中に感染したかもしれません。いつどこで感染したかなど分からないのです。それを追い続けるテレビ局は俳優を犯罪者扱いしています。病気にかかった俳優は、被害者です。犯罪者ではありません。なぜ被害者への配慮がないのですか。

 地方都市ではコロナに感染すると、「会社を辞めてくれ」。と言ってくるところがあるそうです。本来会社は社員の健康を守らなければいけないのに、感染を個人のせいにして、すべての責任を押し付けようとしています。まるで江戸時代の考え方です。そんな200年前のものの考え方で、会社がこの先、生き残れるのでしょうか。

 今あちこちで起こっていることは、私がよく言う、誤謬(ごびゅう)です。本来正しい行為が、国を挙げて、国民全体で行動すると、人は過大に反応して、明らかに誤った方向に進んでゆきます。これを誤謬と言います。

 江戸時代にたびたび出された倹約令は、倹約することそのものは悪いことではないのですが、国を挙げて倹約令を行うと、たちまち経済が停滞します。元々、町人が富を持つようになったことに侍が嫉妬して、倹約令を出すようになったのです。

 絹の着物を作ってはいけない、売ってはいけない、金銀細工の品物を作ってはいけない、売ってはいけない。女の髪の毛は自分で結え、髪結いに行くな。琴、三味線を弾くな、芝居に行くな、落語、講釈、手妻など見るな。そうなれば多くの人は廃業します。

 しかし例えば、絹の着物は、地方の大名が、地元の殖産のために奨励して作って江戸、大坂に卸しています。大名家の家来の子女が織る着物は侍一家の生活を助けています。それが売れないとなると、大名の財政は苦しくなり、多くの侍は困窮します。

 一方、金持ちの町人は、別に絹物を着るなと言えば、絹の着物をひっくり返して、裏地の木綿を表に直して着るだけのことです。着物が裏地に金をかけるようになったのは度々倹約令が出たたためです。町人は少しも困らないのです。逆に侍はどんどん困窮して行きます。結果、倹約令はやればやるほど侍の生活を貶めたのです。

 

 その轍を今、日本の自治体は性懲りもなく繰り返しています。そして、日本人はやってはいけないことを一層拡大して騒ぎ立てています。Gotoキャンペーンは、絹ものを着るなと言うのと同じです。マスコミが旅行に出る人の車のナンバーを調べるのは、岡っ引きが絹や金銀細工を持っている人を暴くのと同じことです。それをテレビを見て悪しざまに言う人は、世の中の不平不満を近所の人のせいにして、周囲に責任を擦り付けて憂さを晴らしているのです。世の中を暗くして、因循姑息な社会を作っているのです。

コロナウイルスは一つも怖くはありません。恐ろしいのは人の行動です。人が国を悪くし、人が経済活動をつぶしているのです。そのことに一体いつ気付くのでしょう。

続く

一蝶斎の風景 8

 一蝶斎を書こうと思いつつ、世間のコロナウイルスに対するバカ騒ぎを見ていると、ついつい「くだらないことはやめろ」。と、言いたくなって、一蝶斎の話が中断してしまいます。コロナに関しては書きたいことがたくさんありますが、それはまた今度にして、今日は何としても一蝶斎の話を進めます。

 

千羽蝶の考案

 一羽の蝶が飛び、やがて伴侶を見つけ、二羽は仲睦まじく舞い遊び、やがて千羽の蝶となって舞台一面乱舞する。これは実に明快なストーリーで、しかも、無常観を良く表しています。無常観と言うと、「驕れる人も久しからず、ひとえに風の前の塵に同じ」。と言うように、栄えたものが滅びて行く姿を語りがちですが、一蝶斎は滅びを語らず、「子孫繁栄、千羽の蝶」。と、ストーリーを恒久の連動に繋げました。

 これは鴨長明(かものちょうめい)が、「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。と、自らの随筆の書き出しに語ったように、水の流れは見た目には何も変わってはいないが、その水一滴一滴は同じものではない。同じ水、同じ川ではなく、水は変わり続けている。と、鴨長明は気づいたのです。そこから世の中の大きな流れを知り、無常を感じ取ったのです。

 一蝶斎は、毎年、毎年、蝶は生まれて死んでゆくが、死んで行くことが終わりではない。親の蝶の死によって、次の子孫が生まれて行き、それが、新たな始まりである。すなわち無常観なのだと気付いたのです。終わりが終わりではなく、始まりが始まりではないのです。

 一羽から二羽になり、二羽から千羽になったと言うのは、数の変化ではありません。一羽の蝶は、単純に情景を語るだけの芸でした。それが二羽になったことで、夫婦の愛を語る芸の変わったのです。つまりここで、蝶を人間に見立てて、人の営みを語り始めたのです。更に、それが千羽を加えることで無常観、哲学にに昇華したのです。

 見事な発想です。こんなに深く人間を語るマジックは見たことがありません。さて、千羽蝶はいつ考えたのでしょう。研究家の中では一蝶斎の晩年と言う人もありますが、私は相当に早かったのではないかと思います。それは、例えば、一蝶斎の人気にあやかって、天保2(1832)年、柳亭種彦が書いた、「富士の裾浮かれの蝶衛(衛の文字の真ん中が鳥になった文字、そのままフリガナがちょうとりとかかれています)」

 この本の挿絵には千羽の蝶があしらわれていて、既に従来の蝶の芸と千羽蝶はセットになっていたと思われます。そうなら、天保2年の数年前、一蝶斎が30代の中ごろか、末ごろには千羽蝶は完成していたことになります。つまり一蝶斎は、文政2(1819)年に、谷川定吉から蝶を習い、それから恐らく10年のうちに、二羽蝶を考え、千羽蝶を取り入れたことになります。この一蝶斎の工夫こそが、彼の名前を大きくし、江戸随一の手妻師になった理由と思われます。

 

 然し、私は、前に、それまでも蝶のお終いに紙吹雪を飛ばしていたと申し上げました。その時の終わり方は資料が残ってはいませんが、飛んでいた蝶をつまみ、「折から来たる強風に煽られ、吉野の山の散り桜とともに、蝶は風に舞い、飛び去ります」。等と言った口上で余韻を残して終わったのではないかと思います。これですと、蝶は思い半ばで風に煽られて消えて行きます。

 一蝶斎は、これを、「雄蝶、雌蝶小手にもみ込みますれば、子孫繁栄、千羽蝶と変わる」。と言って、終わらせています。(口上は少し違うかも知れません)。これは言葉を変えて、散り桜を千羽に変えたわけですが、実は吹雪を千羽蝶に言い換えるのは、簡単なようで簡単ではありません。

 なぜなら、まず蝶のサイズが違いすぎます。初めに飛んでいた蝶のサイズと、花吹雪を散らすサイズはサイズが違います。子供の蝶だから小さくてもいいと言うのも違います。そもそも子供の蝶と言うのはありません。蝶として飛んでいるならすべて大人の蝶なのです。蝶の子供は青虫です。

 良くプロの方の中にも、千羽蝶を千羽胡蝶と語る人があります。そして、胡蝶を子供の蝶と勘違いされる方がありますが、それは違います。

 ちなみに蝶の芸を胡蝶と言うのも間違いです。良く、私が蝶を演じるときに、事務所のマネージャーさんなどが、訳知りに、「胡蝶の芸はいいですねぇ」。等と言って褒めてくださいますが、蝶と胡蝶は別物です。

 胡蝶の胡は、古い中国では、外来品を指します。胡椒(こしょう)、胡瓜(きゅうり)、胡坐(あぐら)、などがそれで、古くに中国に伝わった、ペルシャあたりの品物や、風習に胡の字をつけたのです。

 そうなら、胡蝶とは何かといえば、季節風に乗って、西の砂漠の方から飛んでくる蝶を指します。それらの多くは極彩色で、いわゆる日本で言う揚羽蝶のことです。雅楽で、胡蝶楽(こちょうがく)と言う舞曲がありますが、この時、舞踊家が着る衣装は極彩色です。中国からの影響を受けた雅楽ですから、胡蝶と名が付けば極彩色の衣装を着るのでしょう。

 これと一蝶斎の飛ばす蝶とは違います。一蝶斎の飛ばす蝶は、白い紙で小さな蝶を作ります。すなわち紋白蝶です。これは遠くの砂漠から飛んでくる蝶ではなく、中国でも、日常どこにもいる蝶です。これは蝶です。従って、一蝶斎や、鈴川の流れを継ぐ蝶の演じ手は、蝶の一曲、浮かれの蝶と言って、胡蝶とは言いません。

 もう少し話を掘り下げて、そうならなぜ、蝶の演技を胡蝶と呼ぶ人があるのかと言うと、実は、三代目養老瀧五郎が、晩年に大阪の一陽斎正一に蝶の演技を譲っています。大正時代のことです。一陽斎は西洋手品を演じていたのですが、なぜかは知りませんが、蝶を習います。習い覚えた一陽斎は、自分の流派の芸であると宣言するために、胡蝶楽から名前を取って「胡蝶の舞」と名付けました。これが蝶の芸を胡蝶と呼ぶ原因になったと考えます。

 但し、一陽斎が無知だったからそんな名前にしたというわけでもないようです。一陽気斎の演じる蝶ははがきを半分に折ったくらいに大きなもので、しかも、色紙を使ったと言う話を聞きます。色が付いていて、大きな蝶なら、揚羽蝶と言えなくもありません。そうならあながち間違いのネーミングでもないと言えます。

 古い文献にも、胡蝶の文字が見えますが、それも揚羽蝶のような色のついた蝶を飛ばしたから胡蝶を名乗ったのでしょう。いづれも柳川の蝶とは別物です。

 何となく、蝶を胡蝶と呼ぶと学問のありそうな人に見えるからか、胡蝶の名前を使う人がいますが、それは間違いです。特に、蝶の演じ手は名称に気を付けてください。そこに時代の背景が隠されているからです。歴史に沿わなければ古典ではないのです。

次回は千羽蝶をもう少し詳しくお話ししましょう。

続く

感染者の数を数えないで

 数十年後に今の時代を眺めたら、「あぁ、あの時が人類の歴史の分岐点だったんだなぁ」。と思うかもしれません。すなわち半年前(2019年)までの人類の営みがピークで、その後、コロナウイルスの騒ぎによって人類は衰退した。となるのかも知れません。全くくだらない騒ぎです。

 コロナウイルスは人類を衰亡させるほどの威力はないのです。コレラよりも、ペストよりも、香港風邪よりも、エイズよりも、ノロウイルスよりも、インフルエンザよりも、はるかの感染力の弱い、威力のないウイルスです。

 それを世界中の政治家やマスコミが針小棒大に騒ぎ立てて、ロックダウンして、自らの経済を衰退させて、多くの失業者を出して、国と国はいがみ合い。交際を絶ち、人は疑心暗鬼になり、本来被害者であるはずの感染者を、加害者のごとく扱い。差別と偏見で我身を守ろうとしています。本当にそんなことをして自身が守れますか。自らの活動を狭めているだけではないですか。こんなことを続けて、この先どう生きていこうと言うのでしょうか。

 

 ロックダウンも非常事態も無意味

 私は、初めから、ロックダウンも、非常事態宣言も無意味だと言って来ました。そんなことをすれば国が衰退してしまうだけです。学校を休校にして、会社を休業にして、何が解決しますか。一時、数値上の感染者を減らすことはできても、ロックダウンを解除すれば必ず元に戻ります。特効薬も、ワクチンも開発されていないのですから、根本的な解決はないのです。学校や、会社を休んでも休まなくても結果は同じことです。ロックダウンや非常事態宣言ではウイルスは終息しないのです。

 今になって多くの人は、ロックダウンの無意味に気が付いたようです。私は初めからスウェーデン方式以外、国を維持してゆく方式はないと言いました。現実に、今の日本が、再度の非常事態宣言が出せずに躊躇しています。その姿は、スウェーデン方式と同じではありませんか。

 但し、スウェーデンではマスコミや、政治家が感染者数を毎日発表して、煽り立てるようなことはしません。スウェーデンのテレビ局も冷静です。それに対して日本は、なぜ毎日都知事や府知事が出て来て、感染者を発表するのですか。そこに何の意味がありますか。そんな仕事は保健所か、医者に任せておけばいいことです。

 みんなが毎日、感染者が200人を超えた250人を超えたと大騒ぎしますが、この半年で感染者は25000人です。死亡者は990人です。毎年の肺炎や、インフルエンザの死亡者から比べたらはるかに少ない数です。25000人の感染者も死者を除けばほとんどの人は回復して活動しています。何を騒ぐ必要がありますか。

 コロナウイルスは、ワイドショウが取り扱う番組ではありません。ニュース番組で取り上げれば十分です。毎日コメンテーターが出て来て、外出するな、家にいろ。そう言っていると国家は破綻します。このままではホテル、劇場、飲食店、旅行会社はほとんど年内に倒産します。人の倒産を煽るようなことを毎日テレビがやっていて、何が面白いのですか。やがてテレビにスポンサーがつかなくなりますよ。

 

スウェーデンは静寂

 スウェーデンでは感染者がほかの国よりも多いにもかかわらず、日常生活は全く静寂そのものです。飲食店は普通に営業していますし、小さなショウなら活動もしています。むしろコロナウイルスを煽れば病院の業務が煩雑になり、病院に来なくてもいい人が来て、その分、老人や、他の病気の患者のベッドを減らしてしまいます。

 日本では無駄にウイルスをマスコミが煽るために、病院は疲弊しています。先ずコロナの騒ぎをやめることです。病院は、衰弱した老人と、病気を持った患者のために確保することです。コロナは、健康体の人が罹ったのならただの風邪と同じです。家で寝ていれば治る病気です。危険なのは、衰弱した老人と、既に病気を持っている患者です。この人たちのためにベッドを開けておけば、何ら怖いウイルスではありません。

 

 GOTOトラベルキャンペーン

 結構じゃないですか、時期尚早などと言う人がいますが、今行かずしてどうしますか。そんなことを言っている間に企業がどんどん倒産しますよ。企業が倒産して、誰もが家に閉じこもって国民は生きて行けますか。年金生活者でも、企業が倒産すれば年金も出なくなりますよ。国家公務員も、地方公務員も、企業が倒産すれば、給料は半減しますよ。それをわかって家に閉じこもっているのですか。

 

第二波が来る

 またもオオカミ少年が騒ぎます。確かに第二波は来るでしょう。然し、何時の時代でもウイルスが途切れることはありません。新しいウイルスが来れば少なからぬ人が犠牲になります。しかし我々はそれを繰り返して生きてきたのでしょう。今に始まった話ではないはずです。まだ見ぬ第二波を恐れて、食べたいものも食べず、行きたいところにも行かず、じっと閉じこもって何が幸せですか。

 日本では毎年、交通事故で1万人が死んでいます。コロナウイルスは990人です。交通事故で1万人が死んでいるからと言って、自動車に乗りませんか、バスに乗りませんか、そうは考えないでしょう。同じことではありませんか。990人の死者が出ても、1億3000万人の中の990人ですよ。その数を恐れて観光しませんか、レストランに行きませんか、温泉に行きませんか。ことさらコロナウイルスが危険なわけではないでしょう。

 被害妄想を捨てて、もっと明るく生きる道を考えてはいかがでしょう。何もしなければ何もいい思い出はできないのです。それが本当に幸せでしょうか。

続く

 

 

プロの顔

 今日は朝から鼓の稽古。そのあと前田に稽古をつけます。これでほぼ午前中の仕事は終わり。午後は電気屋さんに行ってみようかと考えています。

 実は、先週、一階のアトリエのクーラーを新調して、一階はとても快適になりましたが、たちまちのうちに、3階と4階のクーラーも調子悪くなってしまいました。家を建てて30年ですから、電気製品はどれも古くなり、あちこち痛んできました。然し、この夏に3台のクーラーを買い替えるのは大きな負担です。よりによってこんな時期にどうして大出費をしなければならないか。悩んでいます。

 

プロの顔

 今週末の玉ひでは、予約のお客様が増えて、ほぼ満員の状態です。満員と言っても、客席に、コロナ除けの空白のスペースを作らなければならないため、せいぜい20席で一杯ですので、満席になっても収入は大したものではありません。

 それでも、弟子や、若手のマジシャンに出番を作り、舞台に立てるようにしてあげなければいけません。コロナだから、仕事がないからと言って、舞台に立たないでいると、いつしか、顔つきが芸人の顔ではなくなってしまいます。

 同じ仕事を長く続けていれば、勤め人は勤め人の顔になり、コンビニのお兄さんはコンビニのバイトの顔になってゆきます。それでいいのです。それがプロの仕事なのです。芸人とは、浮世の苦労を感じさせない、何とも呆気羅漢(あっけらかん)とした顔をしていなければいけません。そうでなければ人がお金を払って芸を見に来ることはないのです。どんなに苦しい時でも、頭の中は常にばかばかしいことを考えていて、周りの人を笑わせていなければいい芸人とは言えません。そうでなければ人は寄ってこないのです。

 

 アマチュアマジシャンとプロマジシャンの根本的な違いは、顔の作りにあります。アマチュアで知識があって、技も旨いと言う人は大勢います。そうしたアマチュアの技術は認めたとしても、その人が人前に立ってマジックをすると、多くのお客様はその人をマジシャンとはなかなか認めないものです。勿論、マジックの技が巧いことは素人にも分かるでしょうが、顔つきが、勤め人であったり、学校の先生であったり、学生であったり、すなわち、マジシャンでないことがお客様にもばれてしまっていると、お客様はマジックの世界にすんなり入り込めないのです。お客様にすれば、得体の知れない人の、得体の知れない演技を見せられていることになります。

 プロの価値は、その顔にあります。プロの活動を3年も続けていると、何となくほかの仕事をしている人と違う顔つきになってきます。10年も続けていると、体中から雰囲気が香ってきます。これがプロの値打ちです。何もしていなくても芸能に生きていることがお客様にもわかるようになるのです。

 こうなって来ると、楽屋に入って来た時から既に芸人になっています。小さなしぐさ一つ一つがほかの社会にいない人になります。

 長く舞台を務めていると、顔に滋味が生まれます。何とも見飽きのしない顔になるのです。目元に魅力があったり、肌につやがあったり、表情が豊かだったり。よその世界にいない顔になるのです。これがプロの魅力です。

 世間のお客様はそんなプロマジシャンに接したいのです。決してカードを出して、一枚引いて、それを当てるからプロマジシャンなのではありません。そこにいるだけでマジシャンと思わせる人がマジシャンなのです。

然し、プロの顔を維持することは簡単ではありません。

 

舞台は鏡

 なるべく数多く、舞台に出て、お客様に接してていないと、顔はみるみるつまらない顔になって行きます。芸能は、舞台に上がるたび、一回一回お客様の反応を見つつ、反応に合わせて、自らの表情を変えて行くものです。百回、千回演じてきた演技でも、次に出る舞台で、その瞬間その瞬間にどんな表情をしたらお客様が喜ぶのか、その微妙な違いを自分で感じ取って演じなければいけません。終演後には、毎回お客様の反応を反芻(はんすう)しながら、自分の表情を微調整します。常に微調整を繰り返していると、いつしか味わい深い顔になってゆき、舞台に独自の世界が生まれてきます。

 実は、マジシャンのパーソナリティを作るのも、舞台を作るのも、全てはお客様が教えてくれるのです。それ故に、一回一回の舞台をないがしろにしてはいけません。一回の舞台には、この先どうして行っていいのかのヒントが隠されています。それを的確に感じ取って、表情に活かして行くのです。それができる人がいい芸人なのです。

 さて、そのためには、舞台に数多く立たなければいけません。一人で稽古をしたり、ビデオを映してマジックをしても、あまり効果はないのです。無論、稽古は大事ですが、稽古をしたなら、それが正しいかどうか、お客様の前で確かめなければ芸に至らないのです。稽古ばかりしていると、芸が頑迷になり、融通の利かない芸になります。結果として人の気持ちを救えない、わがままな芸が出来てしまいます。それは芸であって芸ではないのです。

 うまく行った演技と言うものは、常にお客様の気持ちと寄り添っていて、演じていても、お客様の息遣いまで重なってきます。「あぁ、お客様はこうしてほしいんだなぁ。ここをじっくり見せてほしいんだなぁ」。と、細かくお客様の気持ちがわかります。その期待を外さずに、ぴったりお客様の心に寄り添って演じ切ると、お客様は惜しみない拍手を送ってくださいますし、時に涙を流してくださいます。

 そんな演技ができた時には気分良く舞台を終えることが出来ます。それもこれも常に舞台に出続けていて、細部に至るまで自分自身が演技を把握していなければできないことです。そのために、私は自分の舞台チャンスを自ら作っています。

 舞台の上では雑念を捨てて、心を無にして演じなければいけません。今月中にクーラー2台を何とかしなければいけないと言う、些末な悩みは脇に置いておいて、純粋な気持ちで舞台を演じなければならないのです。

続く

一蝶斎の風景 7

 昨日は幸いよく眠れました。大阪で指導をした後、少し疲労を感じましたので、いつものように、あちこち挨拶に寄らずに、すぐ東京に帰ったのが良かったようです。

 今日は、昼と夜にお稽古に来る方が3人あります。東京のレッスンは毎週火曜日か水曜日に集中させています。明日は前田の稽古があります。前田は毎週一回、朝9時から2時間指導します。週末土曜日には玉ひででの舞台があります。

 玉ひでは、お客様も定着し、間近く芸が見られることで評判がいいようです。親子丼と、鳥の料理がついて、5500円です。人数制限がございますので、当日入場できない場合があります。事前予約をお願いします。(食事なしですと2500円です)

東京イリュージョン、03-5378-2882

 

 こんな風に日々用事をしているうちに、三月、半年はすぐに過ぎて行きます。でも、この生活を繰り返しても、自身の向上がありません。もっと自分自身を変えて行くために時間を使わなければいけません。今日は間の時間を使って、自分の使っている道具を見直してみようと思います。こうした時間も楽しいものです。

 

一蝶斎の風景 7

 金で身分が買えると言うことは、完全に身分制度が破綻していると言うことです。公家に限らず、地方の大名の家来でも、旗本でも御家人でも、株を買って侍になることは金さえあればできました。大概の侍の家は、親代々の借金で、禄は金貸しに右から左に渡り、他に収入の当てがないので身動きが出来ず、その末裔は継ぐべきものがありませんでした。

 やむなく屋敷をやくざ者に貸して、やくざ者はそこで博打を開帳します。やくざが博打をしているのは町方同心も知っていますが、武家屋敷に踏み込むことはできません。武士は治外法権です。当の侍家族は、屋敷内の、元家来の住んでいた粗末な家に暮らしています。地位があべこべになっています。

 公家も同じでした。収入の道がないために、位を金に換えて、あちこちの金持ちに売り歩きます。芸人でも実力のある芸人などはこぞって位を買いました。それは、芸人であることで、いわれなき差別を受けることを避けるためです。実際に興行をしていると、強請(ゆす)り集(たか)りが頻繁にやってきます。そうした連中にしつこく嫌がらせをされることでこれまでもずいぶん苦労しました。然し、官位を手に入れれば、公家になれます。そうすれば公事方が取り締まってくれます。町方同心に訴えればよさそうなものですが、実は、町方同心こそ強請り集りの仲間ですからどうにもなりません。そこで自らが公事方の所属になって、公事方に訴えればたちまち問題は解決です。無論謝礼は必要ですが、強請り集りから解放されるだけでも大きな効果です。

 一蝶斎は官位を、江戸で既に買っていたと思います。その上でこの度、公家に挨拶に出かけたのでしょう。これで晴れて、一蝶斎は、柳川豊後大掾藤原清高となりました。然し、旅の間は名前は伏せておいて、江戸に帰って、還暦の披露をした時にお披露目しようと考えたようです。

 

 大坂は、難波新地と言う、相撲興行が開かれる大きな空き地に、ひときわ大きな小屋を作り、ひと月以上興行したようです。人気は上々で、大入りが続きます。江戸を離れてしまえば、水野の倹約令など誰も守りません。上方の庶民は、全く文化文政時代の儘の派手な生活を享受しています。

 さて、大坂を終えた後は西国の興行です。恐らく四国の金毘羅芝居には出たと思います。金毘羅さんは大坂の庶民にとっては最も人気のある旅行先で、道頓堀に船着き場があって、そこから多度津の港まで、丸に金と書かれた帆掛け船が連日出航しています。多度津からは荷物を馬に載せて、平野を歩いて金毘羅さんまで行きます。金毘羅芝居は常設の芝居小屋で、周囲は参詣客を相手に飲食店や旅籠がひしめいています。ここもひと月以上の興行をしたのでしょう。

 

 一方、水野の改革は失敗が続き、天保14年に水野は失脚します。一蝶斎は、水野の失脚を喜び、一刻も早く江戸に帰ることを望みます。然しその後の契約がずっと続いています。予定の興行を全て済ませた後、一路江戸に戻ります。天保は終わり、弘化と言う時代になっていました。

 あちこち回って、天保15年九月に安芸の宮島にある厳島神社に行きます。移動は全て舟です。ここには常設で大きな芝居小屋があります。何分、宮島は小さな島ですので、参拝客は小舟で宮島まで行き、神社に参拝した後、旅籠に泊まって宴会をするまでの間、どこにも行き場がありません。多くは芝居小屋に入って来て、半日芸能を楽しんだのでしょう。当然ここも大当たりだったでしょう。

 宮島の芝居と、大分の柞原八幡は通常つなげて興行したようですから、宮島の後は豊後の柞原八幡まで行って興行したと思います。恐らく柞原は正月興行と思われます。

 

 江戸に戻ったのは弘化2(1845)年でしょうか。戻ってみると、虐げられていた天保時代とは打って変わって、江戸の繁栄は復活していました。改革で、200件以上あった寄席がみんな廃業したものが、たちまちあちこちに寄席が出来て、以前より増えています。一蝶斎は旅で稼いだ金を襲名披露にかけて、盛大な興行を企画します。

 

豊後大掾襲名披露

 弘化4(1847)年、浅草奥山の小屋掛け興行で、3月18日から、柳川一蝶斎の豊後大掾襲名披露と、倅(養子)、二代目柳川一蝶斎の襲名披露を行いました。浅草寺の御開帳と重ね合わせての興行ですから、連日大入りです。

 内容が、凝りに凝ったもので、小幡小平治蒸籠抜けなどと言う、箱から抜け出たり入ったりの大道具にストーリーをつけて演じたり、浦島の物語をストーリーに沿って演じ、乙姫を倅、二代目一蝶斎が演じ、浦島を豊後大掾が扮して、竜宮城の景を見せ、玉手箱を、からくり細工の蛸(亀ではなく蛸)が、舞台袖から機械の音をさせつつ持って来て、玉手箱をあけると、煙がもうもうと上がり、豊後大掾は消え失せます。そして、迫舞台(せりぶたい、床下から自動で競り上がって来ます)に乗って出て来ると、衣装がそっくり変わっていて、口上が始まり、そこから蝶の一曲が始まると言う趣向です。

 一蝶斎はこの日のためにぜいたくな着物をたくさん作り、派手な舞台ごしらえをしました。それが江戸中の話題になり、浮世絵が襲名披露の様子を何枚も描き出しました。

 手妻師が浮世絵になることは過去にもあったのですが、何枚も絵草子屋が競うように浮世絵を出すのは珍しいことです。一蝶斎絶頂の時です。

 この後、関東近辺の祭礼など数年にわたって回り、相当にいい稼ぎをしたようです。

続く

一蝶斎の風景 6

 7月19日、大阪のホテルにいます。昼に、名古屋で指導をして、先ほど大阪につきました。明日は大阪の指導です。少し体調がいいので、明日のためのブログを書きます。

 

天保の改革、西国の旅

 天保12年の水野忠邦の改革は度を超えたものでした。江戸の街中の寄席はどんどん閉鎖され、芝居小屋は当時湿地帯だった浅草猿若町に全て移転になり、贅沢品の類は、街中で役人や岡っ引きが衣類を改めて、少しでも違反していると婦女子でも身ぐるみはがされました。役者は素面で街を歩くことを許されず、必ず編み笠をかぶって外出するようにと命じられます。これでは罪人扱いです。町全体が密告社会になり、一度密告されれば容赦なくひっくくられて罰を受けます。

 しかしこれは200年前の社会のことだとは言えません。今でも似たようなものです。コロナウイルスで、誰もかれもマスクをさせられ、マスクをしていないとみんなからにらまれます。劇場が、消毒などを少しでも怠ったり、舞台と客席が近かったりすると、ネットにすぐさま公表して劇場を叩きます。それらを監視するのは役所ではなく、頼んでもいない庶民の目です。鵜の目鷹の目で人のミスを暴き出して、正義を盾に騒ぎます。衛生から身を守ることは表向き、その実他人を監視して、非を見つけて騒ぎます。正義を持った人の暴力です。社会がどんどん暗くなって行きます。

 

 一蝶斎はそんな江戸に嫌気がさして、天保13年、初夏に江戸を離れます。一蝶斎のこの時の旅興行は、わかっているだけでも、天保13(1842)年、7月29日からの名古屋大須での興行。天保14(1843)年、大坂難波(今の難波の高島屋の裏あたり)での興行。天保15(1844)年、芸州(広島県)宮島芝居での興行。

 それぞれ1っか月以上は興行したと思います。しかも、このほかにも、例えば、名古屋に出たなら、近隣都市の祭礼を持っている興行師が見に来て、すぐにすぐさま契約が決まって行ったでしょう。小さな祭礼では、とても直接江戸から芸人を呼ぶことはできませんので、こうした機会を生かしてすぐさま日程を決めて行ったと考えます。

 

苦労の荷物輸送、

 ところで、一蝶斎の大道具は、恐らく2トンから3トンあったと思います。これらはどう運んだのかと言うと、恐らく、江戸から尾張の熱田までは船便で運んだものと思います。熱田からは川舟を雇い、大須に近くまで運び、そこから馬で大須観音前まで運んだと思います。一方、人は、東海道を旅して、名古屋に入ったものと思います。春、秋は大名行列が多いため、東海道は旅籠(はたご、旅館のこと)が取れません。また秋は台風などが来て、東海道の川は通行止めになるので、中山道を使います。然しこの度は、初夏の旅ですので、東海道を歩いたと思われます。

 大須観音は、江戸で言う、浅草によく似た地域で、境内に、びっしり芝居小屋が並んでいます。興行の規模からすると、江戸、大坂、京に続いて名古屋は大きな繁華街です。どれほどの規模の小屋を建てたかはわかりませんが、少なくとも300や400入る芝居小屋を建てたのではないかと思われます。それにしても8月の興行は、熱さで人が集まらないと聞きますが、よくこの時期、名古屋で興行したものだと思います。

 この先、近隣の神社の境内などにある半常設の舞台を回ったようです。想像ですが、川舟と馬を乗り継いで、伊勢あたりまで行ったのではないかと思います。当時の馬は、小型でしたから、荷物を乗せられる量は、米俵三俵(俵一票は60キロ、一石は二俵半、150キロ)が精いっぱいです。すなわちこれが一馬力です。3トンの荷物であれば、馬を20頭借りなければなりません。地方の町では話題に乏しいものですから、江戸から20頭もの馬を引き連れて芸人が来たとあっては、町は大騒ぎです。

 一座は、町に近づくと、旅籠(はたご)を借りて、そこで全員が揃いの柳川と書いた法被(はっぴ)を着て、馬の荷物には、派手な幕を飾り、荷物には、幟(のぼり)を立てて、そこに、「東都大手妻師、柳川一蝶斎」などと書かれた幟を飾って、三味線、囃子方は大八車に乗せて、「四丁目(しちょうめ)」や「たけす」などと言った派手な囃子を演奏しながら町に入ります。町の辻々に来ると、馬を止めて、囃子は、「辻うち」に変わり、そこへ番頭が出て来て、江戸から来た手妻師の一行であると口上を述べます。江戸言葉をあまり聞き慣れていない町の人にはそれだけで効果は十分です。そして、チラシを配ると、人は争ってチラシを求めます。馬の周りには近所の子供たちがびっしり集まって、一座の行列にぞろぞろついてきます。

 伊勢あたりの興行を終えると、荷物は船に乗せ、大坂へ送ります。座員は歩いて大坂まで入ります。大坂は翌年(天保14年)春の興行ですので、かなり名古屋との間に時間がありますので、ひょっとすると、京に行き、京で先に興行したのかもしれません。大坂から京に行くのは今ではあっという間に行けますが、江戸時代は簡単ではありません。淀川を遡って行かなければなりませんので、船が進む時間は下りの三倍、費用も三倍かかります。下り船なら、竿や櫓をこいで半日で京から大坂に行けますが、上りは、川に逆らって進むため、岸から馬や牛で船を曳いて進みます。時に、険しい流れの所では人足が何人も出て舟を引くために経費と時間がかかります。このため、上りの旅は、荷物は船で、座員には小遣いを与えて歩いて京に向かわせるのが常でした。

 さて京の興行は、四条当たりの小屋掛けと思われます。ここで興行しつつ、実は、一蝶斎には、もう一つ、京で用事がありました。それは官位を受けることです。

 一蝶斎は、江戸にいるときに、官位を与えてもよいと言う誘いを受けます。江戸には嵯峨御所という、今日の出張機関があり、そこにいる公家が、江戸で、稼ぎのいい、商人、職人、芸人を見つけると、官位を売りつけたのです。京の公家は生活が苦しく、生活維持のために、官位の許可状を発行していたのです。これはあらゆる分野に及び、

 例えば、商店では、店の名前に堂の字が付くのは官位を得なければ名乗れません。亀屋万年堂と言うお菓子屋さんがありますが、亀谷を名乗ること按摩や、琴、三味線の師匠になる権利が与えられています。また、金貸しの権利も認められています。盲人は、琴の稽古などをつけて細かく稼ぎ、それを人に貸して利益を作り、その中から、せっせと公家に献金をして、身分を買います。別当、座頭などと言うのが官位の名称で、映画の座頭市と言うのは、座頭と言う位を持った市さんという意味です。金がなければ座頭市にもなれません。最高位は検校と言う位で、検校は全く大名と同格です。町で役人に会っても、検校は役人が捕まえたりはできません。身分が違うのです。

 一蝶斎は、身分を手に入れることにしたのです。恐らくその理由は、天保の改革で、役人や、岡っ引きが嫌がらせをするための対策だったのだろうと思います。

 芸人に与えられる、官位は、掾、大掾などです。これに国名が乗ります。山城大掾(やましろだいじょう)であるとか、豊後大掾などと言う名称になります。聞くだけで立派な身分に思えますが、公家の中では最下層に近く、大したものではありません。そんなどうでもいいような身分を勿体ぶって、庶民に売って、公家は暮らしていたのです。次回詳しくそのあたりをお話ししましょう。

続く