手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

芸能 芸術 を書くつもりが

 昨日、27日は昼に富士の指導をしました。なかなか会員が病気を恐れて集まらずに、5人で指導を致しました。どうも、コロナウイルスは、病気以上に、人の目が厳しくて、人は出歩かず、なかなか日常の生活に戻れないようです。こんなことで過大な対応をしていると、日本自体の経済がやがて回復不能の事態に陥ってしまいます。マスコミも、病気を煽ることばかりしないで、安全宣言をもっと徹底的に伝えるべきでしょう。

 夕方17時30分には新富士から新幹線に乗り、19時15分に名古屋、そこから在来線で、19時50分に岐阜に着きました。岐阜駅には、峯村健二さんと、辻井孝明さんが待っていてくれて、3人で柳ケ瀬にある料理屋、八祥(はちしょう)に行きました。

 八祥とは、同名の高級料亭の系列店の、カウンターの料理屋で、辻井さんおすすめの店です。ここで3人でうだうだ言いながらうまいものを食べようと言う趣向。毎度のことですが、辻井さんの店の選択はいつも感心させられます。先ずはずれがありません。お二人はまずビールで一杯。私は三千盛り(岐阜の高級酒)の常温でのどを潤し、そこに加茂茄子の田楽。甘い味噌ダレがさっぱりとした茄子によく合っていきなり大当たりでした。そしてからすみ。酒の肴の定番ですが、炭火で炙ってあって香ばしく、塩気が適度で、酒が進みます。

 クジラの焼き物、クジラは今時珍しいと箸を伸ばすと、昔小学校で食べた筋張ったクジラ肉とは打って変わって、霜降りの牛肉のような柔らかさで、全く牛肉を食べているような高級感がありました。クジラにも味に上下があるのだと知りました。この辺で酒はお代わりをしました。お二人も八海山の酒に変わりました。三人はマジックの話題で盛り上がっています。内容は秘密です。

 お終いにはのどぐろのかなり大きな魚が塩焼きで出て来ました。これが文句なく絶品でした。肴に塩を振って焼いただけの料理ですが、恐らく私が人生で食べたのどぐろの中では最高にうまい塩焼きでした。何でも単純なもので人を納得させたらそれは名人です。塩加減は濃くはなく、魚はしっかりと脂が乗り、身は柔らかく、大ぶりの魚はどこを食べても味わい深いものでした。どれも満足のゆく料理でした。

 

 それから、八祥を出て、道路を回り込んで、高級クラブのグレイスへ、今年の3月に行った店でしたが、あの後、すぐに、柳ケ瀬で、コロナウイルスの感染者が出て、柳瀬は火が消えたようになり、グレイスもその影響で、つい最近まで店を閉店していたようです。この時期はどこもそうですが、コロナの影響で、飲食店街は大打撃でした。

 ようやく再開しましたが、昨晩はお客様もまずまず集まっています。然し、一時の華やかさはなかなか戻っては来ません。早く元のようにたくさんお客様が来るといいと思います。チーママは小紋の薄い水色の絽の着物です。早、もう夏の装いになっています。ママがやってきましたが、ママは濃い目の黒系の着物で、刺繍のしてある絽の着物でした。実に着物がよく似合います。ママも着物ですが、ママは濃い色が似合います。黒系の絽の着物です。然し、よく見ると夏物に豪華な刺繍が施してあるのが贅沢です。この店はみんな服装がよく、いかにもアッパークラスに支持されている高級感が漂っています。先ほどの八祥で味の贅沢を楽しみ、ここでは女性の綺麗な着物を楽しみ、久々の柳ケ瀬で贅沢な思いをさせていただきました。

 全く気の置けない仲間と酒を飲むのは楽しいことです。と言っても、私は、病気がありますので、この日のために10日間酒を抜いています。その分この晩は随分飲みました。まぁ随分と言っても酒で2合、ハイボールで2杯。至っておとなしい酒です。抑えて押さえて飲むことを覚えたため、酒量はささやかなものです。それでもこの晩はとても楽しい思いをしました。

 この後、峯村さんはJRで帰るのですが、いつも峯村さんは上機嫌で、気持ちよく酔っぱらっていますので、電車を乗り越さないかが心配です。実は、前に、余りに気持ちが良くて、自宅のある春日井の駅を通り越して、多治見まで行ってしまったそうです。深夜に多治見まで行ったなら取り返しのつかないことになったのではないかと思います。峯村さんほど冷静な人でも、機嫌がよくなればミスもするのだと知りました。

 私はホテルに泊まって、翌朝名古屋に入ります。楽しい晩はあっという間です。

 

よく朝は、岐阜から名古屋に、UGMでの指導です。こちらも4人の集まりです。時間はありますのでじっくりと指導をしました。15時に指導を終え、15時30分に名古屋駅、16時30分に新大阪に入りました。さて、昨日からのお約束のブログを書こうかと思って、パソコンをあけましたが、そのまま数時間寝てしまいました。少々疲れました。眠りから覚めて、さてブログを書こうかと思ったら、空腹を感じました。

 そこで、新大阪駅の二階にある東洋亭に行き、ハンバーグライスを頼みました。本当は大山地鶏のソテーが食べたかったのですが、ここもコロナの影響か、メニューの数が半分になっていました。食べたいものが自由に食べられないのは悲しい話です。無論ハンバークもこの店の看板メニューではありますが、今晩は地鶏が食べたかったのです。

 いたし方ありません。少々不機嫌になりましたので、ハイボールを頼み、サラダをおかずにハンバーグが来るまで、一杯やりました。本当は一杯飲んではいけないのです。

というわけで、部屋に戻り、ブログを書き始めましたが、食事ばかり描いているうちに既定のページがいっぱいになってしまいました。芸能芸術のお話はまた明日。

続く

 

 

 

 

 

コロナ後の指導

 昨日の、神田明神は、日向大祐さん、早稲田さん、村川さんの3人が見に来ました。

神田は広々したいい舞台ですので、本当なら、毎月、若手マジシャンのライブをやりたいくらいの気持ちです。実際そうなるといいと思います。私にもう少し力があれば、それくらいのこと楽々として見せるのですが、非力で済みません。

 

 今日から3日間、指導に出ます。コロナウイルス後初めての関西行きになります。参加者もそう多くはないと思いますが、少ないからと言って休んでいては維持できませんので出かけます。

 マジシャンの中には、ネットを利用して指導する人がいます。うまい方法だと思います。しかし私は芸能の継承は直接指導することによってのみなされる。という考えで指導していますので、ネット指導は致しません。その価値のわかる人のみご指導いたします。とにかく、これから新幹線に乗ります。

 芸術芸能について書いた文章がありますので、夜か、明朝まとめてブログに出します。ご期待ください。

 

十牛図 7

 今日は昼から神田明神で公演があります。お弁当付きで5600円ですが、今からではお弁当は間に合いません。公演だけをご覧になるのであれば、3000円です。ご興味ございましたらお越しください。

 

 さて、連日、禅の十牛図を解説していますが、そもそもマジックの関係書籍や、マジシャン自身が禅の十牛図を語ると言うこと自体が恐らく今まで無かったろうと思います。自分自身が、他のジャンルの人にはどう見えるか、或いは、自分が周囲の芸術家と比べて、どの程度に位置する人物なのか、という客観的に自分を見る発想がマジシャンにはないように思います。

 マジシャンの多くはマジックの世界の中でどう評価されるか、そこにばかり考えが集中しています。然し、それで日本の中で成功することは難しいのです。いや、自分自身では成功したと思っていても、世間は無評価なのです。なぜなら自分が世間から相手にされていないのですから。

 芸能、芸術の発展段階を十牛図に当てはめると、面白いように一致します。特に天一の人生と照合すると、まさに天一は名人の道をまっすぐに進んでいます。ところが、今のマジック界で松旭斎天一は必ずしも大きく評価されてはいません。これは日本人が海外のマジシャンばかり評価して、日本人を見つめないために人の偉大さがわからないのです。日本人の行動は極めて偏(かたよ)っています。特にマジック界は、狭いマジシャン仲間の評価を絶対の評価と勘違いしています。

 十牛図の残り二つを天一の人生と照らし合わせてみてみましょう。

 

十牛図 7

 

9、返本還源(へんぽんかんげん)

 そこには梅の古木が描かれています。ちらほらと花弁が散っています。この風景は自宅の庭に咲く梅です。功なり名を挙げた牧童は自宅の梅を見て、美しいと気付きます。然し、梅は初めから美しかったのです。自分が気付かなかっただけなのです。

 あちこちを彷徨(さまよ)い歩いて、自分自身が見えた時に、気付いたことは、自分がこの世の中にいようといまいと、自分が何を悟ろうと悟るまいと、自然の世界は美しいと言うことです。禅の世界では、あるがままに生きることが大切なんだと教えます。そんなことなら近所の爺さんでも婆さんでもとっくに気付いていることです。何のことはない当たり前のことですが、ここまで来て、当たり前なことを言われると妙に重さを感じます。ここでも禅は原点に帰って物を考えることを勧めます。

 

 学生の頃、何気に浅草演芸ホールを覗いたら、三遊亭円生師匠が出ていて、道具屋を演じていました。円生師匠ほどの名人が前座がするような道具屋を語るのは珍しいと、座って聞いていると、これが絶妙にいいのです。名人の評価を手に入れて、誰も疑うことのない芸を持ちながら、全ての欲を捨て、全てのことがわかっていながら前座ネタをする。この枯れ具合がいいのです。

 話は面白く、語る世界は前座では決して表現できない世界でした。それでいて押しつけがましさがなく、出て来る人はごく自然に仕分けられていて、芝居っ気もありません。明治時代の東京の風景はきっとこうだったんだろうなと推測させます。もう二度と聞くことのできない世界を覗き見て、私は幸せな気分になりました。

 十牛図の梅の枝を眺める図は、まさに円生師匠が道具屋を演じる世界なのではないかと思います。ダイバーノンが晩年に、ウイスキーを飲みながら、ポケットの通うカードを見せてくれた時などは、まさに私のような若者に、無欲で、絶品の演技を惜しげもなく演じてくれたわけで、あれがマジックの返本還源の世界かなぁ、と思います。あるいは、島田晴夫師がもう名声を手に入れた後、欲を捨てて、自然に両手からハラハラカードを出したときなどがそれに匹敵するのかなぁ、と思いました。

 島田氏のカードを見ていると、いつも私はブラームス交響曲の4番第4楽章が脳裏に鳴り響きます。中年の孤独、儚さ、悲しみ、全てが合わさって、木枯らしとともに消え去って行きます。独自の世界です。何にしてもそこまで芸が到達したマジシャンと言うのは少数です。多くは欲を抱えて、発展途上で亡くなっているのですから。

 

 天一は、アメリカ帰国後に、歌舞伎座を10日間開けて凱旋公演をします。今日の天一の評価は、この歌舞伎座以降の興行によるものが大きいと思います。西洋の新しいマジックと、日本の伝統的な手妻を融合させて、文字通り自分の世界を作り上げたのです。

そして天勝をスターに押し上げ、後にアメリカから帰国した、養子の天二のスライハンドマジックを取り入れ、美貌の天勝、技の天二、風格の天一で三枚看板を張って、日本中を回って大活躍をします。

 然し、天一の人生は禅のような恬淡としたものにはならず、やがて天勝と天二のいがみ合いに発展し、一座は分裂します。

 

10、入纏垂手(にってんすいしゅ。但し纏の文字は、左の糸片を取って、右にこざと片がきます。)

 ここでは、牧童は中年になり、布袋様にように腹が出て、粗末な服装をして、ズタ袋を肩にかけ、杖を抱えて旅に出ます。またも原点に帰って、彷徨い歩くのですが、今度は自分を探す旅ではなく、世間の人を幸せにするための旅です。顔は満面の笑顔で、

出合う人すべてに悩みや不安を取り払ってあげます。欲を捨てて人に尽くして生きて行く姿です。

 

 マジックでこの境地に至るかどうかは難しいでしょう。芸能に生きるものは様々な欲を抱えて生きています。すべての欲を捨てて人のために生きると言うのは言うは易く、行うは難しです。

 チャニングポロックが40歳半ばで引退をして、それからは全くマジックを演じることなく、それでもマジックの大会やショウに顔を出して、相変わらずの風格で、堂々と客席で若いマジシャンのマジックを見ている姿は立派でした。多くの鳩を出すマジシャンを見ても決してそのマジシャンの否定はせず、良い評価をしていました。

 ポロックがマジシャンの芸を悪く言うことは一度もありませんでした。師には、自身の偉大さは自身が作るものだと言う信念があったようです。常に背筋を伸ばして椅子に腰かけ、乱れた姿勢は一切見せませんでした。若いアマチュアにも一個の人格者として扱い、あいさつも丁寧でした。これが最終境地とは言えないかもしれませんが、私の知るマジシャンの中では最高の人でした。

 

 天一は天二、天勝の仲たがいを見ながら、明治44年に引退宣言をします。一座は天二に譲り、天勝は新たな一座を起こします。当人は手塩にかけて作り上げた一座をあっさりと養子に譲ったのです。それ以降は病気療養に専念し、時折後進の舞台を見ていたようですが、一切舞台に上がることもなく、マジックをすることもなかったそうです。

 明治45年に癌で亡くなります。死亡記事は当時の新聞のトップ記事になり、葬式の行列は2㎞に及んだそうです。市電はストップし、黙祷して行列を見送ったそうです。日本のマジシャンとしては最高の人気と地位を手に入れた人でした。

終わり

十牛図 6

 私は日本と言う国を愛する一人ですが、唯一日本人の他人を監視する目だけは辟易します。これはもう異常と言っていいくらいです。あまりに偏狭なものの考えで、自分以外の人を自分の尺度に閉じ込めて考えようとします。特に芸人などはこれではばかばかしい発想も生まれなくなります。

 今は、渡部健さんがみんなにとっちめられていますが、芸人として考えたなら、彼は強姦したわけではありませんし、互いに同意のもとに遊んだわけですから、誰一人迷惑をかけたわけではありません。謝罪しなければいけないのは、奥さんの希さんに対してであって、世間の人が糾弾する話ではありません。

 ただ、やり方があまりに夢がありません。ちゃんと立派なマンションでも用意してことをしているならいいのに、トイレでことを済ませるなどと言うのはみみっちい話です。大物タレントとしての大きさがありません。

 然しそれ以外のことは、他人の口をはさむ話ではありません。ましてや、テレビ番組の降板などは必要のない話です。もっときわどい浮気をして、それがばれて、しかも堂々マスコミに出演しているタレントは山ほどいます。

 それが渡部さんに許されない状況にあるのは、彼の本来持っている性格の暗さかもしれません。「やってしまいました。ごめんなさい」。と早くに謝れば大した話ではなかったはずです。だらだら話を伸ばしているから、ライバルからよからぬ話が出たり、性格やら、日常の些事にまで口出しされて、悪者扱いになっているのです。

 そもそも芸能界には、性格の悪いタレントは山ほどいます。人前に出よう。人を押しのけて成功しようとする人に性格のいい人などいないのです。そんな中でこれまで何とか生き伸びてきた渡部さんは、ましな部類の人なのではないかと推測します。

 私はまだ渡部さんにお会いしたことはありませんが、この人の情事を追いかけて、連日話題にしているテレビ局は、めでたいと思います。公共電波を使ってやるべきことは他にもっとあるはずです。また、それを見ている主婦は、「あの人はひどい人だ」。と表向き正義感をかざしつつ、その実セレブの集まるクラブを密かにメモして、有名人と一緒に楽しいことが出来るなら、ママ友を誘って遊びに行きたいと考えている人も多いのではありませんか。あぁ、日本は平和です。めでたし、めでたし。

 

十牛図 6

人牛俱忘(にんぎゅうぐぼう)

 ここから先はまさに禅の世界です。絵は全くの白紙で、何も書いてはありません。つまり空(くう)を表現しています。色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)の空です。色(しき)とは色々な物を意味します。つまり物です。空とはなにもない空間を意味します。訳せば、物は実は何もなく、何もないと言うことはすなわち物だと言うことです。よくわからない話ですが、順に考えたなら納得できます。

 例えば石造りの宮殿は、立派な作りで永久に壊れずに残りそうですが、実は長い年月の内には壊れて粉々になり、砂や塵になって消えて行きます。

大木も、何千年もそびえていそうですが、やがては枯れて、土になってしまいます。物に永久はなく、どんなものでも形を変えて、しまいには消え去ります。逆に、空は空ではなく、物だと言うのです。一見何もないように見えますが、空には実は酸素もあり、窒素もあり、コロナウイルスもあります。空は空に見えて実は何かがあると昔の人は考えていたのでしょう。

 人は周囲から認められたり、地位を得たりすると余計なことばかり考えます。それが偉くなればなるほど余計なことを考え、様々な悩みを抱えます。そんなことを考えていると全く人が変わって行きます。そこで禅では、地位も名誉も、知識も、一度捨てなさいと教えます。悟りすらも捨てなさいと教えます。全くの空にならなければこの先には進めないと言います。物を持つから不幸が増えるのです。

 

 マジックで言うなら、地位や人気が上昇すると、金儲けにあくせくしたり、地位を維持するために余計なことばかりするようになります。元々、少年の頃は、ちょっとマジックが出来て、周りの人が喜んでくれればそれで満足だったものが、うまくなって、人気が出れば、余計なことにばかり関わり合うことになります。そうなら、全く原点に帰って、純粋に人を楽しませることのみに専念すべきだと言うのです。(禅では度々原点に帰ることを勧めます)。但し、この立場で原点に返ることは至難の業です。

 

 天一は、人気が出て、日本中で実力を認められると、たくさんの弟子を取りました。その上で、弟子が学びたいマジックがあると、惜しげもなく教えたのです。後の話ですが、天一の得意芸のサムタイも、天洋が学びたいと言うとすぐに教えます。天勝には水芸を教えています。どちらも松旭斎の重要な芸であるのに弟子に教えています。こうしたところは天一の度量の大きさを意味しています。それがために、百年以上たった今も松旭斎一門は、奇術界の最大派閥なのです。

 話は前後しますが、明治28(1895)年に、天一は、天勝を弟子に取ります。この時天勝は9歳でした。初めは女中見習で入ってきたのですが、天勝の美貌を見るや、直ちに舞台で使うようになります。愛嬌のある子でたちまち人気が出て、こののち、アメリカから帰って来ると、もう天一と二枚看板になっていました。

 天一の偉大さは、明治34(1901)年に、アメリカヨーロッパに公演旅行に出かけたことです。この時天一48歳。今の48歳とは違い、この時代の日本人の平均寿命は、50歳~55歳くらいです。夏目漱石が49歳で亡くなっていますが、その頃は漱石を早死にだとは誰も言わなかったのです。つまり天一は、人の寿命が終わるころにさらなるチャレンジをしたわけです。なぜそんな晩年に海外に出かけたのかと言えば、一つは、新しいマジックを習得するため。二つ目は、自身の技量を試すため、三つめは稼ぐため、

 天一は海外に出るために一座を畳み、座員の中から腕のいいものを7人選び、通訳を雇ってアメリカに渡ります。日本では知らぬ人のいない天一ですが、アメリカでは無名です。全くの最低ランクのギャラから仕事を始め。苦労を重ねますが、たちまち実力を認められ、トップランクで活躍します。そしてヨーロッパにもわたり、ドイツ、フランス、イギリスなど各国を回って、王侯貴族の前で披露し、一流劇場に出演して、好評を得て帰国をします。マジック雑誌のスフィンクスには、世界5大マジシャンの一人に天一が選ばれています。

 この天一の行動は、功なり名を遂げた天一が、アメリカに渡って、一から演技を見せたと言う点が、まさに、人牛俱忘の空の世界を意味し、空からもう一度自分を見つめることになったと考えます。50に近い天一が3年半も海外に出ることは容易なことではなく、英語は全く話せず、西洋の食事もほとんど口に合わなかったと思われます。それがために相当ストレスをためたと思われます。成功の陰に苦悩は大きく、晩年には胃癌になって、60歳で寿命を終えています。

 然し、天一のこの行動は、明治という時代にあって特筆すべき活動です。今日までも天一の偉大さを伝える偉業です。

続く

 

十牛図 5

 今週末は神田明神ですが、非常事態は解放されたとはいえ、人はおいそれとは遊びに出ません。どこの劇場も集客には苦労しています。「人を集めすぎてはいけない」。のだそうです。客席を2m以上お客様の感覚をあけろと言います。そんな必要がどこにあるのでしょう。

 山手線や中央線は2m置きに人が乗っていますか。一車両に50人以上乗せてはいけないと言う決まりを作っていますか。JRがそんなことをしていないのに、なぜ我々のようなささやかな芸能の公演に厳格な規定を求めますか。JRが手本を示せないなら、2mの間隔なんて嘘ではありませんか。

 勿論、劇場の空席分を東京都や、国が買い取ってくれるなら、公演も成り立ちますが、そんな話はついぞ起こりません。役所は平気で人の生活に入り込んできて、責任を取りもしないで要請を求めます。要請なら断ってもいいのかと言うと、それは要請ではなく、強制なのです。

 強制をしておいて、その生活の保障は一切面倒を見ません。それで我々はどうやって生きて行ったらいいのでしょう。なぜ人はコロナウイルで我々に犠牲を求めるのでしょう。こんなばかばかしいことをいつまで続けるのでしょう。

 

十牛図 5

6、騎牛帰家(きぎゅうきか)

 もう自在に牛を操れるようになった少年は、牛の背中に乗って、笛を吹いて、帰宅の道を進んでいます。心に何の悩みもありません。然し、牛が自分自身であるなら、自分が自分を使いこなせるのは当たり前のことです。あれこれ牛を捜し歩いて、それが自分自身であったことに気付いたときに、今までしてきたことは、何も知らなかった少年の自分に戻っただけだったと気付きます。

 

 マジックで言うなら、必死で色々なマジックを学んで、道具を集め、これで大きな仕事ができるようになると胸膨らませている時に、人の求めているものは道具ではなく、マジックですらなく、その人自身の魅力だと知った時に、愕然とします。物を追い求めて、物を手に入れた時に、物は不要と知り、全く無一物で、うろうろしていた少年時代の姿こそ正しき姿であったことに気付きます。

 マジシャンはここで自分自身を見つめます。旧作を見直したり、基礎マジックをさらに改良したりして、マジックそのものと真摯に向き合うようになります。そして、時にオリジナルを考えるようになります。

 若いころのオリジナルは、どうにかなりたい一心で、見せびらかしに近い活動をしがちです。これは実はほとんど自分の役には立ちません。オリジナルと言うのは、自分が何者かかがわかった上でないと役に立たないのです。

 自分と言うものがわかってからのオリジナルは、よりマジックの作品を自分自身に近づけます。心と演技が一体になった時に、自身の芸能は輝きだすのです。

 

 天一は、帰天斎の大道具や、一登久の水芸を入手して、意気揚々と劇場進出しますが、これだけでは大舞台に立てないことを知ります。よく考えてみれば、大道具が本当に重要なものなら、帰天斎は決して名もない大阪の奇術師に道具は売らなかったでしょうし、一登久も自分のオリジナル水芸をそうやすやすとは手放さなかったはずです。

 彼らがなぜ道具を手放したのかと言えば、彼らには喋りの武器があり、舞台人としての花が備わっていたからでしょう。彼ら自身は、自分の芸が道具だけで観客に受けているわけではないことを知っていたのです。

 それを天一は、道具さえあれば成功すると信じて大借金をして大道具を手に入れたのです。それは、己が何者かを知らなかったのです。天一はいいカモだったのです。

 一方、一登久は、帰天斎の奇術が際物であることを見抜きます。こんな芸人が東京で一流扱いされるなら、自分が東京に出たなら必ずや人気を独占できると自負して東京進出を考えます。但し、東京に出るためには費用が必要です。どうしたものかと悩んでいると、天一から水芸装置を譲り受けたいと話を持ち掛けられます。これ幸いと一登久は新規に水芸を作り、旧作を天一に売り、明治15年に東京進出を図ります。

 当の天一は、ここで自分自身と向き合います。自分の魅力とは何かを真剣に考えます。やがて、ストーリーを作ってマジックを演じることを思いつきます。箱に入った女性に剣を刺すにも、なぜ女性は剣を刺されるのか、そこにストーリーが語られます。そうすることで観客に共感を求めます。天一の舞台は、一つのマジックが、ただ剣を刺すなら3分か4分に過ぎないものを、いくつかのマジックを合わせてストーリーを作ることで20分、30分と言う作品に仕上げます。この天一の発想は天一の舞台を大きくします。

 

7、忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)

 ここにはもう牛はいません。粗末な家の中に、中年の牛飼いが一人座っているだけです。牛を飼い慣らすための紐も、鞭も、もう外に放ってあります。牛は自分自身であることに気付いたため、もう描く必要はないのです。そこで初めて悟りの境地に至ります。

 

 ここまでくると、日本では数人と言うくらいの高名なマジシャンになっています。マジックを演じなくてもそこにいるだけで、存在がマジシャンです。しかし当人は、内心、心休まるときがありません。それは、頂点に立って、初めて他の社会が見えてきたからです。マジック界でトップであっても、マジック界そのものがトップの社会ではないことに気が付きます。他のジャンルのトップが、飛んでもない苦労をしている姿を見ると、自分のしていることの未熟に気付きます。

 マジック界を今以上に引き上げるには、他のジャンルの実力者ともっともっと付き合いを密にしなければならないことを痛感します。

 

 天一は、苦悩の末に明治20(1888)年に東京進出を果たします。練りに練った番組構成によって、東京の観客は熱狂します。一躍東京一のマジシャンになります。皇族や、政治家などとの交流もでき、大きな仕事が次々に舞い込んできます。

 翌年には支那(中国)に渡り、北京と上海で興行します。上海には、李鴻章が見に来て、その技量に感嘆し、天一漢詩を送ります。

 明治15年に東京に進出した中村一登久は当時東京一の人気を博しましたが、明治20年天一が大阪からやって来ると、人気は徐々に天一に移って行きます。

 帰天斎正一は、元々寄席の芸人でしたから、大阪の興行以降は一座を畳み、もっぱら寄席に戻って出演するようになり、大道具は演じなくなります。

ここから天一の活動は独走してゆくことになり、快進撃が続きます。

続く

十牛図 4

 今週金曜日、26日に、神田明神伝承館の地下一階にある江戸っ子スタジオで、私の公演があります。12時から食事、お弁当付きで、5500円、(鯛めし弁当です)。12時30分から公演が始まります。ご興味ございましたら、どうぞ東京イリュージョンまでご連絡ください。食事なしですと3000円です。

 その翌日、27日は富士の講習、28日は、名古屋です。名古屋は今月まではUGMのスタジオで行いますが、来月からはUGMが移転しますので、場所を変えて指導をいたします。名古屋近辺の方で、マジックの基礎指導と手妻を学びたい方はご連絡ください。

29日は大阪です。大阪も、マジックの基礎指導と手妻の指導をしています。ショウ、指導ともども、ご興味の方は東京イリュージョンまでお問い合わせください。

03-5378-2882

 

十牛図 4

5、牧牛(ぼくぎゅう)

 第4段階の得牛で、縄をつけて牛を捉えたものの、牛に暴れられ必死に抑えて、少しも休まるときがありません。

 マジックで言うなら、あれこれ必死になって仕事をしていますが、そうした中から、少しずつ、これまで学んできたマジックが役立つようになり、ようやく人に知られるようになって、生きて行くことはできるようになります。

 然し、なかなか人は順調に育ちません。慣れて来ると、おかしな癖がついて、古いダジャレを言ったり、おかしな話方をするようになったり、芸が鼻につくようになって、マジックそのものの品位を下げたりします。当人は一端の芸人のつもりで得意がっていても、どこか場末感が漂って来たりします。

 

 さて、第5段階の牧牛では、第4段階の喧騒は消え、少年が牛を引いています。牛も逆らうことなくおとなしく道を歩いています。ここでようやく少年は牛を飼い慣らしたのです。これで当初の目的を達成したことになります。通常の話なら、こうしてのどかに牛を引いている姿こそが終着点のはずなのですが、禅ではまだスタートにも立っていないのです。

 なぜなら、初めに申し上げたように、牛とは自分であり、自分を見つける旅に出ることこそ修行だからです。自分が果たさねばならない問題を物で解決しようとしているのです。自分が牛を引いていると言うのはそもそもが嘘なのです。この絵は嘘の世界で安住している姿なのです。

 

 マジックで言うなら、ようやく技量が関係者に認められ、そこそこいい仕事も回ってくるようになります。マジック大会のゲスト出演なども来るようになり、時には、弟子希望者も来るようになります。生活もでき、わずかな安定を約束します。

 すると急激にマジシャンは保守化します。これで生きていける、とわかると、自ら周囲に囲いを作り始めます。実際大多数のプロマジシャンは、ここで発展が止まります。自ら終着点を作ってしまいます。

 実際にはまだ自分の作品、自分の世界が出来ていないのです。何から何まで借り物で、自分が何者なのか、何をなさなければならないのかもわかっていないのです。考えが足らないまま、安住の地を見つけたと思い込み、わずかばかりの知名度を利用して、レクチュアービデオを出したり、グッズを販売したりして、余計なことに時間を使うようになります。それが一層目的を遠ざけます。彼らにとって、マジックは稼ぎの手段であり、物なのです。その間違いに気づかない限り、先の世界は見えないのです。

 

 天一は、千日前に小屋掛けで、西洋奇術師で名を上げ金を稼ぎ、得意の絶頂にいたさ中に、東京から帰天斎正一(きてんさいしょういち)がやってきて、中座で1か月興行します。それを迎え撃つかのように、大阪の中村一登久(いっとく)が、弁天座で新式の水芸を引っ提げて興行します。弁天座も中座も江戸時代から続く芝居小屋で、1000人も入る当時の一流劇場です。そこで二人の芸を見て天一は圧倒されます。

 天一は自らを西洋奇術の元祖と看板を出しましたが、帰天斎も同じく西洋奇術の元祖と詠っています。然し、その芸の差は歴然で、まず帰天斎の道具は大砲術のような、当時の人が見たこともない大道具をいくつも備えています。しかも、喋りが絶妙に面白く、「あなたよく見るヨロシ」などと、へんてこな西洋奇術師のセリフを考案して、当時の大阪の観客を爆笑させます。

 片や一登久は、西洋奇術の合間に、軽妙な喋りでなぞがけなどを取り入れ、アドリブを利かせて観客を笑わせ、トリに最新式の水芸を演じます。大きな仕掛けで、数十か所から水が吹き上がり、おしまいには天井に吊った何十基もの灯篭からも水が吹き出します。規模において、喋りの軽妙さにおいて、とても歯が立ちません。

 天一は自らの千日前の成功がいかに小さなものだったかを思い知らされます。

 然し、嘆いている間もなく天一は、すぐに二人と接触をし、顔を見知ってもらい、その上で、大道具を買い取りたいと話を持ち掛けます。最新式の道具類をおいそれと手放すはずはないのですが、どこをどうまとめたのか、幸い交渉はうまく行き、帰天斎の西洋奇術の大道具数点と、一登久の水芸装置を入手します。これで天一は内心、天下が取れると思ったでしょう。然し、現実には天下どころか大阪の一流劇場からも出演依頼は来なかったのです。

 幾ら道具立てが立派でも、天一自体に大舞台の座頭(ざがしら)としての魅力が備わっていないのです。当時の一流劇場は、普通に4時間くらい興行しました。幾ら道具をたくさん持っているからと言っても、4時間も奇術を見続けたなら、大概観客は飽きがきます。4時間見ても飽きないと言うのはよほど座頭に魅力がなければできないことなのです。千日前の小屋掛けで一人2銭、3銭貰って、50人100人の観客を呼ぶ力を身につけたと言っても、それで中座や弁天座に立てるわけではないのです。

 天一は、小屋掛けの芸人から、一流劇場に出演する芸人になるために、帰天斎や、一登久から大道具を買い取りました。ところが、大舞台に立つと言うことは、道具を持つことも重要ですが、それよりも何よりも、自分自身の強烈な魅力がなければ看板に立てないのだと気付き、愕然とします。一流とは自分自身が一流でなければならなのです。

続く

 

  

十牛図 3

 昨日猿ヶ京の合宿から帰宅しました。これを面白いと感じてくれる若い人がかなりいると言うことがまだ日本のマジック界に希望が持てます。今や、アメリカやヨーロッパが息切れし、韓国が発展先の見えない状況になってきて、私は、次の時代にマジック界を背負ってゆくのは日本だと確信しています。

 しかし、残念ながら現状は、駒が足りなすぎます。人を育てなければいけません。人を育てることは、私らの年代のマジシャンの使命なのです。今は種まきの時期です。しかしやがてそこから大きな実りが生まれると信じて活動を続けています。

 

 週末のスケジュールを間違えて書いてしまいました。関係される方はご確認ください。26日(金)、神田明神の公演、お弁当付きで5500円、12時から、神田明神伝承館、

観覧ご希望は東京イリュージョンへ5378-2882

指導、富士、27日(土)、名古屋、28日(日)、大阪、29日(月)、です。

 

十牛図 3

 第3段階で、自分のだめに気づくと、人は急に弱気になり縮こまります。しかしこれはとても重要なことなのです。それまで自分は世の中で一番うまいマジシャンだと思っていたものが、何かのきっかけで、全然ダメなマジシャンであることに気付きます。そして、弱い自分に気づいてから、これまで下手だと思っていた先輩、プロマジシャンを見ると、自分よりもはるかにうまい人だったことに気付きます。先輩どころか後輩を見てもうまいと思います。しかも、彼らは、うまいにもかかわらず、自分よりもずっと謙虚に生きていて、その姿に愕然とします。

 そうした先輩、プロを見て、これまでの自分がいかに尊大で、世間知らずだったかに気付きます。この時に、能力ある人に人に出会い、師となる人から生き方を学べば、その後大きな成長をします。それもこれも、人の大きさがわかり、人から素直に話を聞こうと思う気持ちになったたからこその出会いなのです。

 

 その師から基礎マジックを習います。本来なら、こんな初歩マジック、ばかばかしいと思っていたことが、改めて習うとそこは宝の山であることに気付きます。なぜ今までこれに気付かなかったのかと忸怩たる思いに駆られます。それは自分に対しての欲が消えたことで、初めて物が正しく見えるようになって来た証しです。

 

 然し、教える側からすると、この段階で若い人にものを教えることはまさに戦場なのです。彼らの心の奥にはまだ根深いプライドが隠れています。今は謙虚でも、少しうまくなれば、すぐにプライドが頭をもたげて来ます。そうなるといくら話をしても、話は自分に都合のいいように曲解されます。うまくなればなるほど人は曲がって育ちます。

 例えば、弟子の修行中に、テレビ局から、弟子にレギュラー番組の出演などが来たとして、それを私が、「まだ弟子の立場ですから、レギュラーは無理です」などと言って断ろうものなら、弟子は一生師匠を恨みます。今まで素直に学んでいた弟子が、レギュラー番組と聞いただけで急に欲をむき出しにして、仕事と師匠を天秤にかけて争いが始まります。師弟関係などと言うものは脆(もろ)く儚(はかな)いものなのです。

 修行と言うものは自分の欲や、虚飾をそぎ落として、素の自分を見ることなのです。然し、それは多分に弟子の反感を呼びます。自分の非を認めるよりも、師匠を恨んで悪口を言うことのほうが簡単なのです。しかし結果、それは自分の世界を小さくします。悪口は自分の修行の嘘を自分で公言することにほかならないのです。

 師弟の中には、そんな争いもなく、まるで友人のように仲良く生きている人もあります。しかしそれは修行ではないのです。互いが傷つかないように気を使いながら修行すると言うのは、修行ではなく、仲良しごっこなのです。

 そんな修業では、卒業しても、芸は少しも育たずに、年齢が行くにつれ精彩がなくなり、世間から少しも重きを置かれなくなります。芸の突き詰め方が甘いのです。

修行中は傍から見れば小さく縮こまって見えますが、この時期が最も大切なのです。

この先大きく羽ばたくには、まず屈して、その先に延びて行くしかないのです。

 

4、得牛(とくぎゅう)

 ここでようやく牛の全貌が見えます。紐でつないで、言うことを聞かせようとしますが、牛は暴れて言うことを聞きません。然し、ようやく手に入れた牛ですから、嬉しくて仕方がありません。苦労はしますが充実した日々です。

 

 マジックで言うなら、修行を終え、念願のプロ活動を始める時期です。まだそれほどうまくはないのですが、それでも知り合いや理解者を見つけて仕事を作って行きます。

毎日毎日が勉強で、うまく行かないことの連続ですが、不思議と日々充実しています。

 それまで自分のしていることで精いっぱいだったのですが、人前で演技を見せているうちに、物が複眼で見えてくるようになります。つまり観客の気持ちが少し見えて来るのです。自分の演技をしつつ観客の気持ちがわかってきますから、演技は格段にうまくなります。然し、それが必ずしも素直には育ちません。

 なまじお客様の気持ちが分かって来ると、妙に媚びたり、受けを狙ったりするようになります。マジックの合間にギャグが増えたり、ダジャレを連発したり、意味のない笑顔を作ったり、自分自身を妙に改造して表現したりと、余計なことばかりするようになります。まだ自分自身が何者であるかがわからないために、複眼が生かしきれないのです。せっかくマジックは上手くなってきているのですが、自らが品格を落としてしまって、収入が上がらず、生きては行けるようになっても、生活は苦労します。

 

 天一は、たまたま出合った西洋奇術師の手伝いをして、神戸や長崎で西洋人のパーティーに出演します。その間に西洋奇術を習い覚え、明治13(1881)年に大阪千日前で、西洋奇術と水芸で看板を張ります。当時珍しかった西洋奇術に観客が集まり大成功をします。

 当時の日本人の西洋奇術師は、衣装が満足に揃わずに、ズボンにシャツ姿で舞台に出たり、上着がないため陣羽織を着て出てきたり、ワイシャツを着て、下は袴だったりと、いい加減な服装で演じていた人が殆どだったのですが、天一は、フロックコートに山高帽、ステッキに手袋と、本式の衣装を一式買い込み、見るからに県知事や貴族のような服装で、千日前のみすぼらしい小屋掛けに出演したのです。

 まさかこんなところに、県知事のような格好をして堂々と演技をする奇術師が現れるとは誰も思っていませんから、話題は沸騰し、大人気になります。天一は、西洋人と一緒にいるうちに外国人のマナーを身につけ、それを舞台で演じることで当時の日本人を圧倒して見せたのです。マジックを身につけるだけでなく、西洋マナーを覚えたところが天一の慧眼で、これが世に出るきっかけとなったのです。

続く