手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

十牛図 3

 昨日猿ヶ京の合宿から帰宅しました。これを面白いと感じてくれる若い人がかなりいると言うことがまだ日本のマジック界に希望が持てます。今や、アメリカやヨーロッパが息切れし、韓国が発展先の見えない状況になってきて、私は、次の時代にマジック界を背負ってゆくのは日本だと確信しています。

 しかし、残念ながら現状は、駒が足りなすぎます。人を育てなければいけません。人を育てることは、私らの年代のマジシャンの使命なのです。今は種まきの時期です。しかしやがてそこから大きな実りが生まれると信じて活動を続けています。

 

 週末のスケジュールを間違えて書いてしまいました。関係される方はご確認ください。26日(金)、神田明神の公演、お弁当付きで5500円、12時から、神田明神伝承館、

観覧ご希望は東京イリュージョンへ5378-2882

指導、富士、27日(土)、名古屋、28日(日)、大阪、29日(月)、です。

 

十牛図 3

 第3段階で、自分のだめに気づくと、人は急に弱気になり縮こまります。しかしこれはとても重要なことなのです。それまで自分は世の中で一番うまいマジシャンだと思っていたものが、何かのきっかけで、全然ダメなマジシャンであることに気付きます。そして、弱い自分に気づいてから、これまで下手だと思っていた先輩、プロマジシャンを見ると、自分よりもはるかにうまい人だったことに気付きます。先輩どころか後輩を見てもうまいと思います。しかも、彼らは、うまいにもかかわらず、自分よりもずっと謙虚に生きていて、その姿に愕然とします。

 そうした先輩、プロを見て、これまでの自分がいかに尊大で、世間知らずだったかに気付きます。この時に、能力ある人に人に出会い、師となる人から生き方を学べば、その後大きな成長をします。それもこれも、人の大きさがわかり、人から素直に話を聞こうと思う気持ちになったたからこその出会いなのです。

 

 その師から基礎マジックを習います。本来なら、こんな初歩マジック、ばかばかしいと思っていたことが、改めて習うとそこは宝の山であることに気付きます。なぜ今までこれに気付かなかったのかと忸怩たる思いに駆られます。それは自分に対しての欲が消えたことで、初めて物が正しく見えるようになって来た証しです。

 

 然し、教える側からすると、この段階で若い人にものを教えることはまさに戦場なのです。彼らの心の奥にはまだ根深いプライドが隠れています。今は謙虚でも、少しうまくなれば、すぐにプライドが頭をもたげて来ます。そうなるといくら話をしても、話は自分に都合のいいように曲解されます。うまくなればなるほど人は曲がって育ちます。

 例えば、弟子の修行中に、テレビ局から、弟子にレギュラー番組の出演などが来たとして、それを私が、「まだ弟子の立場ですから、レギュラーは無理です」などと言って断ろうものなら、弟子は一生師匠を恨みます。今まで素直に学んでいた弟子が、レギュラー番組と聞いただけで急に欲をむき出しにして、仕事と師匠を天秤にかけて争いが始まります。師弟関係などと言うものは脆(もろ)く儚(はかな)いものなのです。

 修行と言うものは自分の欲や、虚飾をそぎ落として、素の自分を見ることなのです。然し、それは多分に弟子の反感を呼びます。自分の非を認めるよりも、師匠を恨んで悪口を言うことのほうが簡単なのです。しかし結果、それは自分の世界を小さくします。悪口は自分の修行の嘘を自分で公言することにほかならないのです。

 師弟の中には、そんな争いもなく、まるで友人のように仲良く生きている人もあります。しかしそれは修行ではないのです。互いが傷つかないように気を使いながら修行すると言うのは、修行ではなく、仲良しごっこなのです。

 そんな修業では、卒業しても、芸は少しも育たずに、年齢が行くにつれ精彩がなくなり、世間から少しも重きを置かれなくなります。芸の突き詰め方が甘いのです。

修行中は傍から見れば小さく縮こまって見えますが、この時期が最も大切なのです。

この先大きく羽ばたくには、まず屈して、その先に延びて行くしかないのです。

 

4、得牛(とくぎゅう)

 ここでようやく牛の全貌が見えます。紐でつないで、言うことを聞かせようとしますが、牛は暴れて言うことを聞きません。然し、ようやく手に入れた牛ですから、嬉しくて仕方がありません。苦労はしますが充実した日々です。

 

 マジックで言うなら、修行を終え、念願のプロ活動を始める時期です。まだそれほどうまくはないのですが、それでも知り合いや理解者を見つけて仕事を作って行きます。

毎日毎日が勉強で、うまく行かないことの連続ですが、不思議と日々充実しています。

 それまで自分のしていることで精いっぱいだったのですが、人前で演技を見せているうちに、物が複眼で見えてくるようになります。つまり観客の気持ちが少し見えて来るのです。自分の演技をしつつ観客の気持ちがわかってきますから、演技は格段にうまくなります。然し、それが必ずしも素直には育ちません。

 なまじお客様の気持ちが分かって来ると、妙に媚びたり、受けを狙ったりするようになります。マジックの合間にギャグが増えたり、ダジャレを連発したり、意味のない笑顔を作ったり、自分自身を妙に改造して表現したりと、余計なことばかりするようになります。まだ自分自身が何者であるかがわからないために、複眼が生かしきれないのです。せっかくマジックは上手くなってきているのですが、自らが品格を落としてしまって、収入が上がらず、生きては行けるようになっても、生活は苦労します。

 

 天一は、たまたま出合った西洋奇術師の手伝いをして、神戸や長崎で西洋人のパーティーに出演します。その間に西洋奇術を習い覚え、明治13(1881)年に大阪千日前で、西洋奇術と水芸で看板を張ります。当時珍しかった西洋奇術に観客が集まり大成功をします。

 当時の日本人の西洋奇術師は、衣装が満足に揃わずに、ズボンにシャツ姿で舞台に出たり、上着がないため陣羽織を着て出てきたり、ワイシャツを着て、下は袴だったりと、いい加減な服装で演じていた人が殆どだったのですが、天一は、フロックコートに山高帽、ステッキに手袋と、本式の衣装を一式買い込み、見るからに県知事や貴族のような服装で、千日前のみすぼらしい小屋掛けに出演したのです。

 まさかこんなところに、県知事のような格好をして堂々と演技をする奇術師が現れるとは誰も思っていませんから、話題は沸騰し、大人気になります。天一は、西洋人と一緒にいるうちに外国人のマナーを身につけ、それを舞台で演じることで当時の日本人を圧倒して見せたのです。マジックを身につけるだけでなく、西洋マナーを覚えたところが天一の慧眼で、これが世に出るきっかけとなったのです。

続く

 

十牛図 2

 明日から猿ヶ京でマジックの指導があります。10人のマジック好きが集まって、合宿をします。2日間、朝から晩までマジックの練習をして、手順物を2作程度習得します。稽古の間に、山歩きをしたり、温泉につかったりして、東京とは違う生活を満喫し、たっぷりとマジックをすることの面白さを味わう企画です。

 猿ヶ京の私の稽古場には、立派な舞台があります。元々が芸者衆の見番ですから。これをフルに生かして、手順物を勉強します。なかなかこうした機会は少ないと思いますので、みんな張り切っています。本来は毎月一回出かけて、稽古したいのですが、そうもいきません。できれば、今度は8月に開催したいと思います。ご参加ご希望の方がいらしたら、東京イリュージョンまでお申し込みください。03-5378-2882

 

十牛図 2

  前回は、第一段階の「尋牛」、第二段階の「見跡」、第三段階の「見牛」までお話ししました。ここで、私は、アマチュアはこの先には行けないと話しました。全く行けないわけではないのですが、先に進める人は少数なのです。この件で何人かの人に質問を受けましたので、第四段階に入る前に、少しお話ししましょう。

 

 もし、マジシャンが、マジックに出会って、マジックの面白さにのめり込み、それを自分仕事にして行きたいと考え、実際、プロ活動をして少し人気が出てきて、これで生きていけると手応えを感じたころに、思いもよらない挫折が立ちはだかって来ます。

 天一で言うなら大やけどです。天一ほどの挫折に出会う人はそうはいないと思いますが、例えば、私ごとで言うなら、12歳で舞台を踏んで、親は芸人でしたし、早くからギャラを稼いで、性格も愛嬌がありましたから、舞台向きな子供でしたので、仕事もたくさん来ました。私がこの道で生きて行くには何ら悩みもなかったのです。

 18歳の時に、名古屋の大須演芸場に出演していて、曲芸の若い人と毎日、毎夜一緒に食事をして、取り留めのない下らない話をしていましたが、ある日、その先輩が、真顔で、私の顔をしげしげと見て、「君は下手だ」。と言いました。突然のことに私はびっくりしました。いつものギャグかと思って、冗談で返すと、相手は一層真顔になって、「下手だ」、と言います。こうなるとどう言葉を返していいか困ります。それからその先輩は、事細かに、なぜ私が下手なのかを話し始めました。

 私は今までそんな風に私の演技を語る人に出会ったことがありませんでした。この時は、言っていることの全てが素直に理解できませんでしたが、どうやら自分は下手らしいと言うことはわかりました。さすがにその晩は寝付かれませんでした。次の日も、また次の日も、自分のマジックについて考えこみました。

 

 私は子供のころから、松旭斎清子に習い、その後、アダチ龍光に習い、ダーク大和、渚晴彦、高木重朗、二代目天海さんから初代石田天海のハンドリングを習い。あらゆる人の所に通っては、マジックを習得していました。その甲斐あってか、若い仲間の中では知識もありましたし、仕事も多く、恵まれた活動をしていました。

 しかしよく考えてみれば、そうして習ったマジックは、全く外から仕入れてきたもので、それらを知っていると言うことは知識にはなっても、自分事ではなかったように思います。先輩芸人からは「あの子は何でも知っているよ」。等と言われていたのですが、それはいわば腕時計を買って、腕につけていることで自分自身が光り輝いているようなもので、本当に自分自身が輝いているわけではないのです。ちょっと似合わないと思ったら、すぐにまた別の時計や、宝飾品を買って、自分の身を飾っていたのです。自分が自分を磨く修行と言うものをしたことがなかったのです。

 ただ習った演技を適当に寄せ集めて、順にこなして行くだけで、少しも自分とマジックが一体となっていないのです。話を戻して、初めは先輩から、下手だと言われたことが何の事かわかりませんでした。自分自身は「さほどに下手ではない」。と思っていたのです。しかし、20歳を過ぎてから、徐々に下手の意味が分かって来ました。

 

 初めに、十牛図は、牛を見つけ、牛を飼い慣らしてゆく図だと申し上げましたが、それはその通りなのですが、最も肝心なことは、牛とは自分自身であり、飼い慣らして素直な牛に育てると言うことは、自分を律して生きて行く生き方を語っているのです。

 牛が自分自身なら、そもそも、牛を探すと言うこと自体が間違いなはずです。本来自分を見つめる旅であるはずがに、初めから問題や、悩みの原因を外に求めて、自分を見ないところが初めから間違っているのです。

 

 マジックを通してアマチュアが自分を見つめるかどうかと考えると、ほとんどは素通りをしてしまうと思います。多くのアマチュアは、マジックを演じることが楽しくて、見ている人に喜んでもらえばそれで満足なのだと思います。それでよいのです。

 アマチュアと言う存在はマジックを趣味としている人のことですから、マジックと自分の人生を一体にして生きる必要はないのです。稀にそうした人もありますが、そうしたアマチュアが幸せな活動をしているかと言うなら、必ずしもそうではないように見えます。プロにもなれず、アマチュアとしても全うできない人に見えます。

 

 プロになろうとするなら、どこかでマジックを自分事として見直すときが必要なのです。そして、いかに自分が浅い考えでマジックをしていたのかと言うことに気付いたときに、よき指導家に出会えたなら、その人の技量は思い切り高く引き上げられます。

 また逆に、教える側からすると、とことん悩んで、苦しみ抜いた人を弟子に取れば、その人は上手くプロの道につながって行きます。然し、この見極め方が難しいのです。

 弟子希望の人は、現状を何とか救ってもらいたいばかりに、実にうまく「迷える子羊」を演じます。そこで私がついつい手を差し伸べて、弟子に取ったあとで、ものすごい優越感の凝り固まった男であることに気付いて、愕然とすることがあります。

 弱そうに見えたのは当人の処世術で、あくまで変わった種仕掛けさえ覚えたなら生きて行けると信じています。私から幾つかのマジックを覚えてしまえば、当人はもう一端のマジシャンになって、弟子修行習得したと勘違いし、マジックを物としか見ずに、私をものをくれる親切な親父としか見ないのです。当人の本心は入門の前の素人のまま、だめの原因が何なのかを見極めようともせず、卒業して行きます。

 プロと称する人の中にも、かなりの数で、素人を引きずったまま、自己を見つめることもせずに、まるで腕時計を買い替えるがごとく、マジックを取っ替え引っ替え、ただの道具として扱う人がいます。無論それでどうにかなるものではなく、年齢が行くにしたがって、生きて行くことが危うくなって行きます。

 知識が付いたと言っても、借り物のマジックが溜まって行っだけのことで、何一つ自分の芸は生まれません。アマチュアとして生きるならそれでいいのです。しかしプロになるなら、第三段階で自分をしっかり見つめて、マジックの基礎を一つ一つ見つめ直さない限りプロとしては花開かないのです。

続く

明日は我が身

 昨日は、名古屋のキャッスルホテルで水芸を演じてきました。広いパーティー会場で気持ちよく水芸の演技ができました。有難いと思います。長いこと舞台が出来なかったものですから、この先、舞台のチャンスが永遠に来ないのではないかと心配していました。でも、これからは舞台回数も増えて行くでしょう。

 昨晩、舞台を終え、深夜に新幹線で帰京し、さすがにくたびれて寝てしまいました。翌朝は、銀行に何ヵ所か回らなければならず、朝から忙しく動いていました。昼には、名古屋の荷物トラックが到着し、前田とスタッフで荷物のかたずけをし、それから私は再度銀行行き。何のかんのと仕事から解放されたのが午後3時過ぎです。

 事務所に戻ると、昨日の水芸で湿った衣装は、全て前田が事務所にロープを張って、乾かしています。蝶々や傘出しの道具の入ったスーツケースは、演技終了後に、急いで詰めたために、道具の詰め込み方が間違っています。そこで、アトリエにスーツケースを広げ、道具を詰め直しをします。なんにしても大きな仕事をした後は翌日は道具と衣装整理に一日取られます。夜6時、ようやく少し自分の時間が出来たので、ブログを書き始めました。忙しい毎日ですが、充実しています。

 一緒に仕事をしたアシスタントや、スタッフが、「あぁ、久しぶりに仕事ができて楽しかった」。と喜んでいました。そうなのです。何より、いつもの生活に戻ったことが幸せなのです。何もしなければ楽、というのは間違いなのです。どんな大変な仕事をしても、自分の仕事を持っていると言うことはこの上なく幸せなことなのです。

 

明日は我が身

 ここへきて、非常事態宣言の行き過ぎが騒がれ始めています。当然だと思います。私が以前から、非常事態宣言などしてはいけない。ロックダウンなどもってのほかだと書いたときには、多くの人は、「ウイルスを抑え込むためにはやむを得ないことだ」。と言って、私の話を聞こうともしませんでした。「今は耐え忍ぶときだ」。などとまるで子供を諭すようなものの言い方をする人がたくさんいました。

 そんなことを言いながら、他人の生活を壊してゆく行為を平気で繰り返して、何ら忸怩たる思いのない人が殆どだったのです。

 初めの内は、ライブハウスや、カラオケ店、飲み屋さんや、料理屋さんがつぶれ始めた時には、「それも致し方ない」。と多くの人が思っていたのです。然し、日が経つにつれ、いろいろな仕事がうまく行かなくなって行きました。倒産や不景気が身近に及んできたのです。非常事態宣言が解除された今も、不景気風は去らないばかりか、一層ひしひしと伝わってきています。

 

学校閉鎖は無意味

 日本全国の小中学校を閉鎖したときに、給食業者や、農家や、パン屋さんが休業に追い込まれてみんなが困っていると言った時でも、まだほとんどの人は「致し方ない」。と、非常事態を肯定していたのです。

 しかしよく考えてください。コロナウイルスに対して、学校を半年も休む理由が本当にあったのでしょうか。コロナウイルスは、感染力が弱く、子供には罹りにくいウイルスです。なぜ学校を閉鎖にする理由があったのですか。明らかに過剰反応ではないのですか。その過剰反応の大小は、子供の学業を遅らせ、多くの業者を失業に追い込んでしまっています。

 

劇場閉鎖は芸術の死滅

 同様に、劇場や、野球場の入場制限です。そんな必要がどこにありますか。日頃、山手線や、中央線の混雑を経験している人たちが、それで感染しないなら、コロナウイルスは感染しにくいウイルスだとは思わないのですか。野球場や、相撲の体育館、劇場、どこを取っても、山手線の混雑ほどには混雑しません。そうなら、満席にしたところでほとんど感染しないはずです。それをなぜ過剰反応して劇場閉鎖に追い込むのですか。なぜ、他業種の仕事を邪魔するのですか。見たい人、来たい人が見に来るならそれでいいではないですか。

 

コロナ2よりも恐ろしい、人の監視

 感染したところで寝ていたら治る病気です。大騒ぎする理由がどこにありますか。そんなことよりも、過剰反応をして、経済の発展を止めてしまったなら、この先には自殺者が出るでしょう。そのほうがよっぽど問題です。

 今後、もう一度非常事態宣言を出したら、日本は必ず亡国につながって行きます。大きな会社が倒産するようになります。失業者もたくさん出ます。そうなってよいことは一つもないのです。そろそろ過剰反応から目覚めて、今をどう生きるかを冷静に見つめてはどうですか。ウイルスと共存(ワクチンや、特効薬ができない現状では、共存の道しかないではありませんか)して生きて行く道を考えなければならないのです。

 多くの人は、コロナ2が来ることを恐れています。然し、それは大きな問題ではありません。これまでのウイルスのバリエーションが来るだけです。似たことの繰り返しなのです。無論死者は出ますが、少数です。こう書くと、「人の死を大切に考えていない」。等と言う人がありますが、一億三千万人が住んでいる国で、ウイルスが流行れば、どんなウイルスでも数百人の死者が出ます。死者が出ることは前提の話なのです。それでも、、数百人の死者と言うのは、極めて感染度の低いレベルのウイルスなのです。健全な生活をしていれば決して死亡にはつながりません。

 それよりも人々の健全な活動を、第三者が監視することで、活動の邪魔をしています。ウイルスよりも恐ろしいのは、人の監視です。相撲や野球を無観客で公開するなどと言うことに何の意味があるのか、それを陰で強要する人々は現代の魔女狩りと同じです。それがどれほど国の発展を妨げていることか、早くわからなければいけません。

 この半年で政治は大きな間違いを犯してしまいました。コロナウイルスに過剰反応をしたことで、無駄な金をかけて、結果、人を不幸に陥れてしまっています。こんなことが許されるわけはないのです。

 もっと、大人の対策の立てられる人を政治家を世に出さなければなりません。人気や、パフォーマンスで人の注目を集めるような政治家はいりません。近々選挙があるようです。その時は軽薄な代議士は選ばないようにご注意ください。今回のようなことを繰りかさないようによく人を見て選んでください。

 続く

 

 

  

十牛図

 私の文章の好きな人は、私がたびたび十牛図(じゅうぎゅうず)を例にとってマジシャンの成長過程を書いていますので、ご存知かと思います。禅の公案の一つかと思いますが、僧の修行の過程をわかりやすく絵解きしたものが十牛図です。これがマジックの修行に面白いほど当てはまりますので、私がよく引き合いに出して弟子に話したり、書いています。順に説明しましょう。

 

 十牛図とは文字通り、10枚の絵であり、少年が牛を見つけて、牛を飼いならし、それに合わせて自らも成長してゆく過程を描いたものです。但し、10枚の絵の中で、牛が出て来るのは4枚しかありません。後半になると、牛は出てこないのです。こう書くと既に十牛図の本質を語ってしまうことになりますが、牛を見つけて飼いならすことが少年の本来の目的ではなく、そもそも牛は外にはいないと言うことに気付くことが一番大事なんだと言うことを語っています。こうした点が禅らしい話の展開です。

 これをすなわち、マジックに置き換えるなら、何も知らない少年が、まずマジックを見つけることで夢中になり、やがてそこにのめり込んで、一流のマジシャンになろうとします。しかしやればやるほど観客の求める姿から離れて行き、思うように技で生活してゆくことが出来なくなります。初心の頃を思えば、はるかにマジックの知識も技術も習得しているにもかかわらず、マジシャンで生きて行こうとしても食べては行けません。お客様からも大切にされず、いい仕事にも巡り合えません。さてそれはなぜかと悩みます。と、まぁ、そんな風に話は進んでゆきます。

一つ一つ、マジックに当てはめて、藤山禅師が解説して差し上げましょう。

 

1、尋牛(じんぎゅう)

 初めの絵は、少年がぽつんと立っている図です。何もありません。当人がこれから何をしてよいのかもわかりません。それよりも、まだ自分が何者なのかもわかりません。何かをしたい、何かを学びたいと言う思いはあるようですが、それならどうしていいか、その手段すら見つかりません。全く初心者の姿です。題名には尋牛とありますが、

自身が求めているものが牛なのかどうかもまだわかっていません。

 

 マジックで言うなら、何をしていいかもわからないまま、たまたまネットやマジックショップなどでマジックを買い求め、その面白さを知って、夢中になり始めるときです。道具を買って、その不思議にはまり、ひたすら道具を買い集めます。マジックショップにとっては良いお客様です。この時の少年のマジックは未熟ですが、何も知らずに演じていますので、怖いものなし、伸び伸びと演じていて、不思議と人に受けます。

 

2、見跡(けんせき)

 ようやく牛の足跡を見つけます。まだ牛かどうかはよくわかりません。然し方向は少し見えてきました。知人や資料なども少し手に入り、ここで坊さん修行に入る人もいます。しかし、まだ何もわかっていません。

 

 マジックを我流でまとめ上げて人前で見せるようになると、それなりに仕事が来たりします。それでもう当人はプロになったと勘違いします。

 天一は、たまたま習い覚えた剣渡り(つるぎわたり)がたまたま大当たりをして、十代の若者にはふさわしからぬ稼ぎを上げます。しかし当人はこれを実力と勘違いします。いまだマジックのことは何も知りませんし、なにも芸能のことは知りません。然し、金と人気のある者には人が寄って来て、たちまちおだて上げられ、一座が形成されます。当人はこれで10年先も安泰に生きて行けると信じています。

 

3、見牛(けんぎゅう)

 ここで初めて、牛が出て来ます。それもしっぽだけです。絵の端に小さな紐のようなものが見えています。しっぽでも牛は牛です。必死になってしっぽをつかみます。これが修行の始まりと考えられます。一人で何かをしていても、結局何一つ考えがまとまらず、心を決して、人に習うことを決意します。何もわからずうろうろしていたころを思えば大した発展です。

 

 天一は、前述のごとく、我流で生きてきた結果、火渡りに失敗し、無一文になります。ここで天一は大きく反省をします。この時の天一の判断がとても大切です。うまくいかなくなったときに、自分を見つめて、素直に心を改める。これがなければ、絶対に次のステップには進めません。

 私は、弟子を取るときに、必ず彼らのプライドを見つけます。私の所に弟子に入りたいと言うくらいの人は、つくづく自分の力ではどうにもならないことを知っています。然し、そこで、当人が心から自己を反省しているかどうかを見極めます。まだ、プライドが高くて、自分のこれまでの知識で、何とかやって行けると思っている人は弟子には取りません。自分のだめをとことん見つめ、他人の大きさがはっきりわかっている人ならとります。そこがわかっているかどうかが新たな人生の出発点なのです。人は人の力がなければ大きくなれない。そんな簡単なことすらも人は気が付かないものなのです。

 天一は、音羽師匠に弟子入りします。天一音羽師匠にどんな理不尽な目に合ったかはわかりませんが、少なくとも習ったことは天一を大きくしたはずです。それが証拠に、その後、天一は、音羽瀧寿斎と名乗って、水芸の一座を持つようになります。当時流行の水芸は、劇場の客席から見ていただけでは学び取れるものではありません。また、他の様々な手妻も一から習わなければ、誰も教えてはくれません。とにかく、音羽師匠は、天一を、一流とまでは行かずとも、二流の下くらいの芸人には仕立ててくれたのです。本来は感謝をしてもし切れないはずです。

 どんな芸能も、一からマナーを学んで、礼儀をわきまえて、その上で、基礎を繰り返し習えば、輪郭のしっかりした芸人が育ちます。天一は、音羽師匠から、人はどう育てるかということを教えてもらったのです。これは天一の人生には大きな成果だったはずです。この修業の数年間は天一にとって決して無駄な時間ではなかったはずです。

 

 さて、第三段階を前に、殆どのアマチュアは進歩が止まります。ここから先には行けません。なぜなら自分のしているマジックに自己批判がないからです。面白い、楽しいマジックを、仲間に見せていれば幸せ。そう思っているだけではプロにはなれません。

 そこに責任を自覚して、自分のなすべき道を見つけようとしない限り芸能の先は開けないのです。アマチュアは何十年マジックをしても、何千ものマジックを覚えても、その先には行けません、先に行ける人はよほど自分の心の奥を深く見つめている人だけです。さて、そんなマチュアが何人いますか。

続く

舞台活動開始 天一と水芸

 先週12日、金曜日が神田明神、13日、土曜日が玉ひで、共に小さな舞台でしたが、明日は名古屋で水芸をいたします。そのため、朝から大道具を出して、荷物を組んでいます。こうした仕事はいつものことではありますが、コロナウイルスが間に入ったために久しぶりの水芸出動です。本来なら、夏に向かう時期ですので、水芸がもっともっと動かなければいけません。今日、荷物が先乗りして昼過ぎに名古屋に向かいます。

 私と女性アシスタントは明日、新幹線で名古屋に向かいます。私は明晩に舞台をして、最終新幹線でそのまま東京に戻ります。仕事はいつもハードですけど、こうした活動をすると、充実した人生を送っていると実感します。

 来週は再度、24日の12時から神田明神で公演します。観覧ご希望の方がいらっしゃったら東京イリュージョンまでお申し込みください。5378-2882

 24日の神田が済みますと、25日富士、26日名古屋、27日大阪の指導に行きます。いつもの3日間の指導です。指導もようやく再開です。東京の指導など合わせますと、月に10日以上仕事がありますから、まずまずの活動です。

 

天一と水芸

 和歌山で無謀な火渡りをしたことで大怪我をした天一は、火傷の足を引きずりつつ大阪に向かいます。それまで得意の絶頂だった天一が人生で初めて味わった挫折感だったでしょう。10代で一座を持って、剣渡りで当たり、座員を抱え、女房まで持って稼いでいた天一が、火渡りを失敗したことで、財産を失い、女房は呆れ返って逃げ出し、座員は見切りをつけてやめて行き、体は火傷で剣渡りもできず、かろうじて生きているだけの身になって、大阪に向かう旅は惨めなものだったはずです。

 天一が19歳から25歳くらいまで、何をして生きていたのかは謎です。当人もこの時代のことは話したがりません。人に言えない惨めな生活をしていたのかもしれません。確実なことは、このころ、これまで我流で奇術をしていたことを反省し、優れた師匠を探していたようです。

 大阪には大物の手妻の師匠が何人もいたのですが、弟子入りを申し込むとあっさりと断られたようです。天一がまだ海のものとも山のものともわからないのですから断られるのは当然です。あちこち訪ね歩くうち、天一は当時流行していた水芸に興味を持ちます。水芸の大看板だけでも、養老瀧五郎(この時期に瀧翁斎を襲名し、大阪の水芸界の大幹部)、吉田菊五郎(この時期はまだ菊丸)、早竹虎吉(曲独楽の水芸)など何派もあって、その技を競っていました。

 ところが天一は、大物の手妻師からは相手にしてもらえず、やむなく音羽某と言う師匠につきます。この師匠のことを天一は詳しく話そうとはしません。よほど弟子のときに辛い目に合ったのか、或いは、あまり大した師匠ではなかったのか、詳しいことは分かりませんが、今となっては、屋号が音羽と言うことだけで、名前すらも分かってはいません。弟子としてみた時にこれは不実だと思います。

 

 何であるにせよ、この時の天一の修行は天一を大きくしました。それまで誰からも奇術を習わず、舞台のことも楽屋のことも何一つ学んでいなかった天一は、この時初めて、学ぶことの大切さを知ります。

 恐らく弟子に入ると、初めはとるに足らない、簡単な奇術から習うことになると思います。半年前までの天一だったら、「そんなことは知っている」。と、小ばかにして、まともに習おうとはしなかったでしょう。

 然し、この時の天一は、芸に自信をなくし、しかもどこの師匠にも入門を断られ、藁にも縋る想いで音羽師匠に弟子入りしたわけです。人間が最も弱気になっているときに、心を素直にして、技を学ぶと、技の有難みをしみじみと感じます。よく知っている奇術でも、再度習いなおすと、今まで考えてもいなかった部分に工夫が見え、新たな発見をします。なぜここに気付かなかったかと、目から鱗の連続になります。

 こうして初めて、天一は芸と向かい合います。

 

 水芸を一つの道具と考えるのは間違いです。水芸は実に多くの要素を取り入れて、今日の形を作っています。湯呑から吹き上がる水と刀の刃の中央から吹き上がる水は仕掛けが違います。太夫の持つ扇子の先から出る水は全く違う仕掛けです。後見が頭の先から水を噴き上げるのは、また仕掛けが違います。お終いにたくさんの水が吹き上がるのはまた仕掛けが違うのです。それぞれがある時代に考案され、それらが大阪で一つにまとめられて今日の水芸が出来ています。

 これらのからくりをひとまとめにしたのは、養老瀧五郎です。瀧五郎は、元々は江戸の手妻師で、江戸では蝶を飛ばし、剣渡りを得意にしていました。安政の大地震の頃に大阪に渡り、大阪で活動を始めます。その際、年齢のこともあり、剣渡りをやめて、水芸を看板にするようになります。看板芸となると、従来の、一本か二本、水が吹き上がる芸では観客は納得しません。水の出る個所を増やし、より不思議な出方をするように改良して、今日の水芸の原型を作り上げます。これによって、大阪では水芸が流行り出し、幕末から、明治30年代くらいまで、水芸は、手妻の看板芸として大活躍します。

 さて、天一の習い覚えた水芸は、養老瀧五郎のような規模の大きなものではなかったようです。旧来の、水が一筋、二筋出る程度の至って小さな仕掛けだったようです。

 それもすぐには習得できず、随分音羽の師匠の下で修業したようです。その修行のかいあって、天一は独立をし、一座を持ちます。この時の天一の名前は、音羽瀧寿斎です。恐らく25歳くらいでしょう。名前は立派ですが、芸はまだまだです。

 私は、かつて、天一について、「天一一代」と言う本を出しました。この時、天一の修行の過程を、禅の十牛図(じゅうぎゅうず)に当てはめて解説しました。何も知らない少年が、一つの芸を学んでゆく過程で、人間が大きくなり、今まで考えてもいなかったことが見えてくる。全ではその修行の過程を、牛を見つけて飼いならすと言う絵を見せて、平易に解説しています。この絵がまことに芸能の修行とよく当てはまるため、私はよく話をしています。

さて、その十牛図については明日お話ししましょう。

続く

 

コロナは終息するか

 私はここで度々コロナウイルスについて書いてきました。私は医療に詳しいわけではありません。たまたま数人の医師を知っているだけで、その医師が言うには、「コロナウイルスは流行り風邪だ」。と言うことと、「そのウイルスを治す方法が今のところない」。そして「しかし、もし罹ったら家で寝ていて直す以外にない」。また、「罹っても、体力のない老人か、または、合併症を発生していない限り、ほぼ治る」。「子供や若い人には罹りにくい」。という話を、数人の医師から聞いています。

 

学校閉鎖、非常事態宣言は過剰反応

 この話を聞いていままでの日本のウイルスへの対策を見ていると、まず、学校閉鎖は必要なかったのではないかと思います。日本中の小、中学校を半年も閉鎖することに何ら意味はなかったと思います。元々子供には掛かりにくいウイルスですし、多くの子供はほとんど地域から離れて活動することはありません。それを自宅待機させたことは、明らかな過剰反応だったと思います。

 そして、非常事態宣言と言うものも、全く意味がなかったのではないかと思います。

非常事態宣言によって、マスコミが騒いで、政治が騒いで、日本中大騒ぎの末に、会社を休業にし、人の集まる施設を休業し、そうして、多くの人に犠牲を強いて、表向きは数値上の感染者を減らしはしましたが、それでウイルスは撃退できましたか。

 その代償には国の経済がめちゃめちゃになっています。多くの企業、有名店、ライブハウスや、劇場、ホテルが倒産しています。

 非常事態宣言を支持していた、医学界の権威者や、ノーベル賞受賞者の先生は、なぜ、非常事態の末に、経済が疲弊することに気付かなかったのですか。私は初めから、非常事態宣言などしたら、国が崩壊すると言い続けました。奇術師ですらわかることが、なぜ政治家や科学者にわからないのですか。その理由は簡単です。一つの事象を捉えるのみで、人を見ていないからです。

 

人の生活があってこその病気対策

 社会は人の営みで成り立っていると言う大前提を理解していないのです。非常事態宣言をすれば、町の商店街の焼鳥屋のおやじが失業する。定食屋のおやじが失業する、銀座のクラブのママさんが失業する。レストランのオーナーが失業する。そこに出入りしているマジシャンが失業する。

 一人一人を見ていたなら、たいして世間に強い影響力を持った人たちではありませんから、彼らが失業することなどなんとも思っていないのです。政治家も科学者もテレビ局も、平気で彼らに犠牲を強いるのです。何の保証もせず、何の協力もせずに、しばらく我慢しろといいつつ、彼らの生活の息の根を止めるために、連日マイナスの情報を流し続けるのです。

 そこに悪意はないとは言わせません。感染者の数は報道しても、完治した人の数は報道しません。コロナウイルスに罹った人の数は報道しても、他の肺炎や、感染病の患者の数は報道しません。ことさらコロナウイルスだけがとんでもない危険なウイルスであるかのような報道ばかりしていました。然し、今になって見れば大した病気ではなかったのです。

 

我が身に返るウイルス

 しかしこのことはこの先になって大きな問題を生みます。秋口に第2のウイルスが出て、もう一度非常事態宣言をして、自粛を求めれば、今度は有名企業まで倒産することになるでしょう。旅行会社は勿論。航空機の企業も、デパートも、ショッピングセンターも、自動車メーカーすらも、このままでは倒産です。

 そうなれば、あれほどはしゃぎたてて毎日特集を組んでいたテレビ局も、不況で、企業が倒産すれば、スポンサーが集まらなくなり、一日何時間か放送休止になるかもしれません。病院も倒産するかもしれません。不景気になれば地方都市の税収も大きく減って、補助金や補填もできなくなります。そればかりか地方公務員の給料も遅配になる可能性もあります。公務員ならつぶれないと思っていた人たちも、意外にあっさり給料が減って愕然とするでしょう。その時、焼鳥屋のおやじの失業を他人事のように見ていた連中が、周り廻って生活できなくなってゆくのです。誰がいけないのでしょうか。

 事はコロナウイルスではないのです。何事も問題が起こった時に、まず人の生活を考えなければ国は成り立たないのです。コロナウイルスの死者を減らしても、会社や、店をつぶして自殺した人が感染患者を上回れば、それは政策が成功したとは言えないのです。そうであるなら、非常事態宣言は何ら意味がなかったことになるのです。

 

解決はスゥエーデン方式のみ

 私は前回書きました。非常事態宣言や、ロックダウンは一時期感染者を減らすことにはなりますが、非常事態を解除すれば、すぐにまた感染者は増えると。表向き、統計で、感染者を減らして見せても、意味はありません。ウイルスは必ず増殖します。なぜなら、いまだに特効薬もワクチンも見つかっていないのですから。

 無理に感染者を減らすことにあまり意味はありません。むしろ、スゥエーデン方式のように、普通に生活をして、企業も、レストランも普通に営業して、もし、ウイルスに罹ったなら、病院に行き、治療をし、自宅で静養し、直し、そして、免疫力を身につけて、その免疫力でコロナウイルスに立ち向かい、感染力を抑えて行く。

 こうする以外、解決の道はないのです。ただしこのやり方は、世界的には評判の悪いやり方です。一時的に感染者を増やすからです。然し、伝統的に、人類が、ウイルスに立ち向かってきた方法は、こうして生きてきたからです。どんなに死者を増やしても、特効薬や、ワクチンができない限りはこうして生きる以外手がなかったのです。

 昔と違い、今は医療も発達しましたし、衛生面でも発達していますから、百年前とは比べ物にならないくらい、感染者は少なくなっています。昔の医療は、不衛生な設備、院内感染、他の病気の併発などで、多くの死者を出していたのです。今は格段にそうした面は改善されていますから、人が普通に仕事をして、その中で病気を治して行けば、そう危険なことにはならずに、解決するはずです。

 特にアジアや日本のように、中国のウイルスに対して何らかの免疫力を持っている国々は、おいそれとは感染者を増やしません。それは現実に、感染者の数が証拠となっています。そうなら、極端なロックダウンや非常事態宣言をすることなく、やんわりスゥエーデン方式に切り替えたほうが正解と思います。実際日本の感染者が少ないのは、規制による効果ではなく、免疫力が功を奏しているからではないかと思います。

 この先再度、非常事態宣言など考えないことです。そうでないと、本当に、とんでもない大不況が訪れるようになります。現に、アメリカも、イギリスも、フランス、イタリアも、中国、韓国も、国の経済が極めて危険な状態に来ています。このままではどこの国も、町の景観は崩れてしまい、経済は崩壊します。ウイルス対策に懸命になっている間に、みすぼらしい最貧国に落ちてしまいます。

そうならないために、もう一度、一人一人の生活を見つめ直すべきです。

続く