手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

いつものことではあるけども

  今日から関西に行きます。新幹線は14時発ですが、

朝から文化庁の書類を作成しなければなりません。

しばらく長文のブログはお休みです。

と、言いつつも、深夜に寝付かれないことが多いので、

(少し年齢を感じています)私は子供のころ、年寄りが異常に早起きをするのを見て、

「なぜこんなに早く起きなけりゃいけないんだろう」と不思議に思ったものです。当時の年寄と言うのはせいぜい60歳くらいでした。

そうなら昭和40年代で言えば、私は年寄りです。

もう、早く目が覚めることを疑問に思う歳ではないのでしょう。

どうせ寝られないなら何か書こう。と思って始めたのがブログです。

新しいことをすると発見がいろいろあります。

近々そのこともお話ししましょう。というわけで、また何か書くかもしれません。

時々見に来てください。

ふくらませました

 昨日の、「飛騨牛のしぐれ煮は」思いっきり膨らませたフェイク記事でした。お騒がせしてすみません。どこまでが本当かと言うなら、私と辻井さんが電話で話をしたこと、神崎君がロープマジックをしたこと、飛騨牛を食べたことが本当です。これを膨らませてどこまで面白く話が書けるか、自分自身が挑戦してみたくなり、実践しました。

 

 なぜ私がアマチュアの神崎亮仁(こうざき)君の話を書いたのかと言うと、辻井さんとの話の中で神崎君のロープ演技が偶然出てきたためです。神崎君は縁あって、今私のマジック指導を受けています。彼は前々からプロになりたがっていました。彼は誠にまじめな人で、演技もその通りにまじめです。まじめなことは認めますが、果たしてプロになって成功するかどうかが心配です。しかし彼はプロになりたいのです。大体私のところに尋ねてくる人は大概プロになりたいと相談に来ます。

 もしプロになるなら、少なくとも、彼の名前がマジック界で知られていなければいけません。何とか名前が知られるようになるにはどうしたらいいか。それなら私のブログの中で彼の記事を書いてみようと考えました。このところ私のブログは、毎回500人くらいの来訪者があります。いつもはサルバノだのダイバーノンだのを書いていますが、若手を書くのも面白いと思いました。

 

 そこで創作の始まりです。まず、神崎君を紹介するのに、ロープ手順がうまく、人柄がまじめで、と書いても誰も注目しません。よほど飛躍した内容でなければだめです。そこで、ロープ手順で、飛騨牛を食べたと言う話を膨らませ(実際は飛騨牛が先で、翌日ロープ手順を演じています。ロープの演技の成果で飛騨牛を食べたのではありません)、私に挨拶がないだの、しぐれ煮の土産もないと不満を言い、更には38度線の壁に至ります。その上私がガンガン怒って制裁を加える云々となれば、それっ喧嘩だと、人は面白がるでしょう。こうまで書けば、人の興味は集中するでしょう。

 でも、私の文章を読んだ多くの皆様なら、この話がフェイクであることはすぐにわかるはずです。そもそも私は、若いアマチュアがどこでどんなマジックをしようが何の興味もありませんし。やったマジックに挨拶があるもないも関係ありません。その人が土産を買ってきた来ないなどと言う話は論外です。ましてや制裁を加えることなど有り得ないのです。それらはすべて話を面白く膨らませるためのネタです、本気なわけがありません。恐らく読者は私の意図を嗅ぎ分けて、嘘を嘘と知って、読んでいたでしょう。

 さて、筋を書いて、昨日5日の朝7時にブログに載せたら、朝の8時で100人の反応がありました。ところが、9時になって、神崎君からメールが来ました。神崎君の演じたロープマジックは私が指導したものではないと言うのです。

 

 これは私のミスです。恐らく辻井さんとの話の中で齟齬が生じたようです。そうであるなら、話は全く白紙です。彼は私の手順を演じたわけではなく、彼が食べた飛騨牛は全く私のお陰ではなくなります。そうなるとその先の話で、私が神崎君を怒る理由もなければ、彼を排除する理由もありません。創作ブログはここで崩れてしまいました。

 私は神崎君に失礼なことをしました。すみません。私の間違いです。記事は取り下げます。と言いたいところですが、私は神崎君に全く逆の意味のメールを出しました。

 「君が認めるなら、このまま流したほうがいいでしょう。元々、君の名前をマジック界に知らしめるためにしたことです。朝の8時で100人も来訪者が集まるブログなら、一日で相当大きな効果があるはずです。内容の間違いは後で私が謝ります。むしろこのまま記事を流したなら、きっと話題が膨らんで、君の名前は大きく知られるでしょう。こんなチャンスはめったにありませんからこのまま流しましょう」。

 こう書くと、神崎君も半信半疑ながら納得したようでした。

 

  まず、神崎と言うマジシャンがどんなマジシャンなのか、興味を持ってもらうことが第一で、ブログの中での私の言い過ぎ、やりすぎは予定の行動です。読者を反発させたり、戸惑わせるから人は話についてくるのです。

 私が常々悩んでいることは、今のマジック界です。あまりに低迷しています。マジック界から発信される話題がなさすぎます。どんな形であれ、若い人の中から名前が出て来なければ将来がありません。そんな時に、ブログで騒がれて名前が出ると言うのはマジシャンとしては珍しいデビューの仕方です。私は、ここで昨日の文章を消してしまうのはもったいないと思いました。読んだ人が言いたいことを言って、神崎君が話題になって騒がれることのほうが面白いと判断したのです。世間では正しいか正しくないかで物事を判断しますが、芸能の世界は面白いか面白くないかで価値判断を決める場合が多いのです。そして私の予測は的中します。

 

 昼の1時でブログの来訪者は1000人を超えました。いつものブログなら同時刻で100人から200人です。10倍の効果です。夜6時で2350人。この数字は私が「ネットでの種明かしを批判」したときの数字と同じです。深夜12時で3500人。正直、私が膨らませた記事でこんなに人の興味が集まるとは思いもよりませんでした。

 ここで私はブログも書きようでとんでもない影響を人に与えることを知りました。

 若い人を売り出してあげるなら、その人の演技を認め、人柄を褒めることのほうが大切だと思われる人もいます。その通りです。人を認めることは大切です。でもブログで若いマジシャンを褒めて、認めて、それで3000人超えの来訪者が集まるでしょうか。大きく人の話題を作ろうと思ったなら、普通のやり方では達成しません。ではどうしますか。どなたか名案はお持ちでしょうか。昨日の私のやり方は案外正解なのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

 さて、神崎君は今回のブログでマジック関係者に知られることになりました。この先、しばらくはこの話題は続くでしょう。「私がロープマジックで飛騨牛を食べた神崎です」といえば人は面白がります。芸名も「飛騨 牛」にすればつかみの笑いはとれます。そこから先、神崎君がどんなマジックを見せて、人を引き付けるか、そしてどうやって自身を大きくして行けるか。そこは彼の才能になります。観客は浮気です。面白い、素晴らしいと言ったそのすぐ後で、別の興味にさっと移ってゆきます。芸能に生きるものは常に観客の浮気心に翻弄され続けます。神崎君が巧く人の波の上を泳いでゆけることを期待します。

 

 

飛騨牛のしぐれ煮は

 明後日の7日に岐阜に行くために、昨日、打ち合わせで辻井さんに電話をしました。辻井さん曰くは、「いや、先生、先生が私のことをブログに載せてくれたおかげで、名古屋から岐阜から、プロマジシャンやアマチュアからたくさんメールをもらいまして、大変でしたよ。結構たくさんの人が先生のブログを見ているんですねぇ」

 「どんな反応でした」「いやそれがね、みんな俺にも座敷に呼んで、いいものを食べさせてくれって言うんですよ。冗談じゃありませんよ。そんな誰でも彼でもご馳走したりしませんよ。話して値打ちのある人だから座敷を用意するわけで、どうでもいいマジシャンにいいものを食べさせたりしませんよ」「そうですか。岐阜や名古屋でも私のブログを話題にしてくれていましたか」「みんな読んでいますよ。今はマジック雑誌がありませんから、みんなネットでトリックの情報を仕入れてはいますが、マジシャンがどう生きて行ったらいいか、みたいな話は誰もしませんからね。みんな情報に飢えているんですよ」。「多少私のブログは役に立っているんですね」。

 

 「勿論です。つい、こないだ、先生が話題にしていた高橋匠君が来ましてね。小林恵子さんが連れてきたんですよ。他にも何人か若いマジシャンを連れてきて、恵子さんが飛騨牛が食べたいと言うものですから、飛騨牛のレストランに招待しましてね」「えぇっ、その若手をみんな連れてですかぁ」「えぇ、全員連れて」「それは大変な散財でしたね。若い者なんか味なんかわからないんだから、サイゼリヤでよかったんじゃないですか」「いや、若手だけなら安い店でもよかったんですが、恵子さんがぜひ飛騨牛が食べたいっていうから飛騨牛でないと」「義理堅いですね」。

 「それで、店に行って食事をして、そこで若手がマジックを見せてくれたんですよ。高橋君は勿論うまかったんですが、他の若手は暗いし、声はほとんど聞こえないし、まだ人に見せると言うことがよくわかっていないみたいでしたね。ただね、神崎君がよかったですよ」「こうざき君?あのめがねの?」「そうそう、色の白い、彼はよかった。声もはっきりしているし、第一明るいのがいい」。「へぇ、そうですか、で彼は何をしましたか」「ロープですよ。手順もよくまとまっているし、巧かったですよ」「いや、ロープ?、あの、その、結び目の移動ですか」「そうそう」「蝶結びをやって、二つ結びで、おしまいが四つ結び目になる」「そうそう、よくご存じですねぇ」

 「いや、それは私の手順です。私が先月彼に教えたものです」「あぁ、そうでしたか、いや良くまとまっていて巧かったですよ」「そりゃぁそうでしょう私の手順ですから。いや、でも、彼は出世が早いなぁ。先月私から一回習っただけのものをもう人前に出しましたか、しかもその手順で飛騨牛をせしめましたか。うーん、地味な男かと思ってましたが、なかなか巧妙に生きますねぇ。でも彼は二日前に私の家に稽古に来たんですよ。確かにその時、顔色がよかったですよ。つやつやしてました。あれは飛騨牛の脂だったんだなぁ。でもその時、飛騨牛の話はなかったなぁ」。「そうですか」「辻井さんねぇ、出世前の若者に飛騨牛を食べさせたらだめですよ。まだマジックも未熟な若者が、飛騨牛なんか食べたら、人生なんてチョロいと思って、この先努力をしなくなりますよ。第一、飛騨牛の立場にもなってみてください。せっかく飛騨牛に生まれてきた牛が、下手なマジシャンに食べられたら、牛も浮かばれませんよ」。

 

 断っておきますが、私は、私の教えたマジックを神崎君がどこで見せようと別段苦情を言うものではありません。ただし、飛騨牛が絡むとなると話は別です。飛騨牛と言うのは十代二十代の若者が軽く食べられる肉ではありません。これがデニーズでハンバーグを食べたと言うなら何も言いません。どうでもいい話です。しかし、飛騨牛を食べたとなると話は変わります。更に、そこに私のロープ手順がからむとなると、私の指導の姿勢は変わってきます。

 彼はまだ私からたった一度、ロープ手順を習っただけです。まだやり込んではいないものです。きっと細かな部分で不出来なところもあったはずです。にもかかわらず、辻井さんが喜んで肉をご馳走したと言うことは、それは私の手順構成を辻井さんが褒めたたえたのであって、神崎君の技量はわずかだったはずです。言ってみれば飛騨牛の肉の90%までは私の力です。それを自分の手柄と思い込み、年齢不相応な肉を平らげて、顔をテカテカさせて、一言も私に挨拶がないと言うのは失礼ではありませんか。

 いや、食べたものをどうこうしろと言うのではありません。食べてけっこうです。しかし、せめて、店のレジの脇で販売している小瓶の、飛騨牛のしぐれ煮くらい買って来て、私の前に置いて、「先生のおかげで飛騨牛をいただきました、これはその何分の一かのお礼です」ぐらいのことを言えば、「可愛気のあるやつだなぁ。今度は四つ玉や、お札の手順でも教えようかな」と思うのに、まるで自分の才能で飛騨牛を食べたと思い込み、これでプロとして生きていけるぐらいの気持ちになる。これはいけません。

 多少素質のある、素直な若者だと思っていたのですが、案外支援しても感謝を感じないようなチャラ男なのかもしれません。そう思うと私と神崎君の間には北朝鮮と韓国の間にある38度線のごとき厚い壁が徐々にできてきます。こうしてブログに書いていても、少しずつ壁は厚くなってきています。レンガの壁の上に、厚くモルタルまで塗り始めています。人間関係と言うのは微妙なものです。しぐれ煮をケチったばかりに、彼は人生のチャンスを失いました。一見万全な人生も、些細なことで崩壊が始まります。言い訳は許されません。牛でしくじっては、ギュウの音も出ないはずです。近々制裁を加えようと思います。フッ化水素の輸出禁止です。

 

 というわけで、7日は岐阜で辻井さんと食事をし、8日は大阪の指導。9日10日は福井の天一祭に出演します。

 

 ところで、私の文章を大変に褒めて下さる読者諸氏が多いため、「舞台人のための秘伝書」をnoteに書くことになりました。ちょっと複雑な芸能の話はそこで致しますので、この先深いお話をお読みになりたい読者諸氏は「舞台人のための秘伝書」(https://note.mu/hiden_shintaro)をご覧ください。日常の話、マジシャンの話などはこれまで通り、ブログを引き続きご覧ください。

 

舞台人がやってはいけないこと

 マジックショウを見にゆくと、なんとも、不愉快な行為をするマジシャンを何度か見ます。本来、舞台人としてやってはいけないことを平気でするマジシャンがいます、しかも当人は決して悪意でやってはいません。むしろ至極当然に行っています。

 然し、そうした行為は、はっきり言って下品です。日頃活動している仕事の場が恵まれていないことがばれてしまっています。私は、「あんなことをしたら、いいお客様に呼ばれる可能性は無くなるなぁ」。と思いながら見ています。「誰か教える人はいないものか、誰も言わずにこのまま恥ずかしい行為を続けていたら、そのマジシャンの活動場所はどんどん悪くなるのになぁ」。と思います。「いっそ私が言うべきか。いやいや言ったら逆恨みされる。でも言ったほうがいいかな」。と、あれこれ迷って、ここに舞台でやってはいけない行為をいくつかお伝えしましょう。

 

舞台に上がってきたお客様への拍手の強要

 マジシャンが演技上、お客様に手伝いを求めて、一人のお客様を舞台に上がっていただく時に、「はい、手伝ってくれるお客さんに拍手」と言って客席に座っているお客様方に拍手を強要するのは恥ずかしい行為です。上がってきてくれたお客様に感謝しなければいけないのはマジシャンです。そうならマジシャンが上がってきてくれたお客様に礼を言うべきなのです。それを、客席で見ているお客様になぜ拍手をさせるのですか。

 大多数のお客様は舞台に上がってくれたお客様に拍手をする理由はないのです。お客様は入場料を支払って見に来ているお客様なのです。そうした人に拍手を強要するのは失礼です。それも「はい、はくしゅー」などと、まるでキャラクターショウのお姉さんみたいな口調で観客に指示するマジシャンは最低です。

 第一上がってきたお客様からしたなら、そんな強要して発生した拍手をされても嬉しいわけはありません。まったく意味のない拍手です。なぜこんなことが常日頃、平然と続いているのか、私は首をひねってしまいます。

 

拍手が少ないので出直してきます

 一度出て来て、客席の拍手が少ないときに「どうも拍手が少ないようですので、もう一度出直してきます」と言って出をやり直す。まるでお笑い芸人です。引っ込んだらもう二度と出て来てほしくないと祈ってしまいます。拍手の強要ほど醜いものはありません。こんな恥ずかしいことは決してやってはいけません。

 

ここはいつもですともっと拍手が来るところです

 マジックの現象が終った時にマジシャンが、「本当ですと、ここはもっと拍手が来るところなんですが」 。こう言うと観客は笑いながら追加の拍手をします。最悪な拍手の強要です。これをギャグと信じて毎回使うマジシャンは自分のセンスのなさを露呈しています。こんなレベルの低いギャグが笑いにつながると信じていること自体が舞台人として失格です。拍手を強要されたお客様が笑うのは、嘲笑です。馬鹿にしているのです。共感の笑いではありません。何年か舞台を踏んだマジシャンなら、嘲笑と共感の違いくらい分からなければいけません。早くこのレベルを卒業しないと、一生底辺の芸人で終ってしまいます。

 

舞台に上がったお客様が客席に戻る際は着席するまで見送る

 舞台にお客様を上げて、マジックを手伝っていただいた後、「それでは客席に戻ってください」、と言って、マジシャンはお客さんを見送ることもしないで、せっせとマジックの続きを始めます。これはマナー違反です。上がってきてくれたお客様に本当に感謝を感じているなら、おしまいまで見送らなければいけません。お客様が舞台から客席に戻るときは、舞台は照明で明るいのですが、客席は急に暗くなりますから、客席に降りるときに、多くのお客様は、一瞬、目が慣れずに目の前が真っ暗になります。舞台人はそれに慣れていますから目の切り替えができるのですが、お客様は慣れていませんから、うっかり階段を踏み外したり、客席を歩くときに転んだりします。

 そのため、マジシャンは、お客様が階段を降りるときも、客席に戻るときも、必ず見送らなければいけません。少なくとも階段の前までは行かなければいけません。そこから先は目で見て安全を確認します。よもやの怪我をするときがあります。マジシャンの責任で舞台に上げたお客様は、必ず席に戻るまでマジシャンが注視して、責任を持たなければいけません。お客様はマジシャンの言うことを聞く使用人ではないのです。

 私が子供の頃は、日本人と言うのは、なかなか舞台に上がって来なかったものです。日本人自体がシャイであると言う理由もあります。服装にこだわった時代でもあります。プライドにこだわっている人もいました。今は幸い、ちょっと声をかければすぐに上がってきてくれます。しかし、だからと言って、立場を間違えてはいけません。お客様はお客様なのです。そこを間違えるとマジシャンのイメージは悪くなります。

 

裏で手伝っているスタッフへの拍手の強要

 これは私が最も不愉快なセリフです。多くの場合、ショウが終わりかけた時に、やおら司会者が、「今晩のショウがうまくいきましたのも、裏で照明を当ててくれたり、音響を手伝ってくれたスタッフがいたからです。どうかその人たちにも温かい拍手を送ってください」。全く善意の押し売りです。音響や照明のスタッフをねぎらわなければいけないのは出演者なのです。入場料を支払って見に来たお客様に裏方の心配などさせてはいけないのです。

 舞台の裏で人がどんなに苦労していようと、お客様に裏の苦労は伝えてはいけません。裏方はあくまで裏方なのです。裏方の存在をお客様に感じさせてはそのショウは失格です。お客様にはマジックを楽しんで、面白がっていただいて、そのまま家に帰っていただくことがベストなのです。お客様からは既に入場料をいただいているのです、それ以上の心配を一切かけてはいけないのです。

 舞台の上でこれ見よがしに裏方への心配をして見せるのは偽善です。そんな人に限って、ショウが終われば裏方に挨拶もしないで、さっさと帰ってしまいます。うわべの誠意は何の役にも立ちません。

 

司会者が紹介したなら、自分で名前を名乗ってはいけない

 司会者が、「それでは次の出演者は、藤山新太郎さんです。では藤山新太郎さんどうぞ」と、呼ばれたなら、出て来て「藤山新太郎です」と言ってはいけません。それは司会者に失礼なことです。それはちょうど、お客様にカードをシャッフルさせておいて、カードを受け取ってからもう一度マジシャンがシャッフルするようなものです。マジシャンがシャッフルするなら、お客様にシャッフルさせる必要はなかったのです。お客様の行為を無にしているのです。マジシャンが司会者に司会を任せたなら、任せた仕事を自分がし直してはいけません。マジシャンは舞台に出た瞬間からマジシャンでなければいけないのです。

 

 今、ずらずら述べたことは日常のマジックショウで頻繁にされています。なぜそんなことをするのでしょう。それはマジシャン自身が何者なのかを知らないでマジックをしているからです。マジシャンはお客様へ奉仕するために存在しているのです。マジックショウはお客さんへの奉仕の場なのです。自分が気持ちよくなりたいためにマジックをするのは素人です。プロは奉仕をした挙句に入場料をいただく立場なのです。一にも二にも、お客様を考えてマジックをしなければいけないのです。まったくお客様への配慮が欠けているのです。そんな基本的なことも知らずにマジックをしているマジシャンが多いのです。なぜですか。

 仮に有名な俳優(あるいは女優)が、リサイタル公演をしたとして、上に書かれているようなことを言うでしょうか。「このマジックはいつもならもっと拍手が来るんですが」と言いますか。言わないとしたらなぜ言わないのですか。俳優がしないことをなぜマジシャンはするのですか。

 志が欠けているからでしょう。志を持って舞台に上がる人は、決して下品な舞台は作らないはずです。マジシャンはよほど気を付けなければいけません。日常の何気ない行動にこそ、あなたがステップアップできない理由が潜んでいるのです。

 

 私は常日頃、「普通のことが普通にできる人が名人です」。と人に言っています。こういうと、「人にできないことができる人が名人なのではないですか」と聞き返されますが、そうではありません。「普通のことが普通にできて、なおかつお客様を納得させたならそれが名人なのです」。

例えば、お蕎麦屋さんは東京に千軒あります。そこで出されるざるそばは、そば粉と水と、わずかな塩だけでそばを打ちます。そば粉と水と塩ならだれでも入手できます。実に簡単な食べ物です。しかし、ぜひ食べに行きたいと思うお蕎麦屋さんは東京に数軒しかありません。なぜでしょう。お客さんを納得させるお店と言うのは、何か特殊なマジックを使っているのでしょうか。いえいえ、マジックなんて使っていません。お蕎麦屋さんなのですから。普通のことを普通に行っているだけなのです。

 実は、人が普通のことと思って見過ごしている行為の過程に、光を見出した人が名人なのです。さて、その普通のことと言うのがどういうことなのか。考えてみてください。もう一度、ここに書かれたことを初めからお読みになってみてください。読んで内容が少しでも理解できたなら、あなたは確実に名人に一歩近づいたことになります。

プロとして生きる

 プロマジシャンになると言うことはどういうことでしょうか。一見プロの存在は見慣れたものですが、実際自身がプロになるとすると何をどうしていいのか、見当がつきません。プロマジシャンにライセンスはありません。自分でプロを宣言すればその日からプロです。宣伝写真を撮って、名刺を刷って、プロフィールを作って、ある事ないこと書きまくって、膨らませて書いて、それを仕事をくれそうな事務所や、企業に送って、さて、かかってくる電話を待っていればやがて出番のチャンスが来るでしょう。嫌々、それで本当に仕事が来るでしょうか。

 来る日も来る日も電話の鳴るのを待ち焦がれ、仮に仕事の依頼が来たとして、それで毎月数本の仕事が間違いなく埋まり、生きて行くことに不安のない人生が約束されるでしょうか。それが来ないとしたらこの生き方に何か間違いがあると思いませんか。

 

 私はこれまで、マジック好きな少年が、あちこちのコンベンションに顔を見せて、コンテストでいい演技を見せて、人の話題になって騒がれて、さて、プロになると宣言をして、2,3年もすると全くこの社会で見ることがなくなってしまうのを嫌と言うほど見ています。なぜそんなことになるのでしょうか。どうしたらマジシャンはプロとして豊かに生きて行けるのでしょうか。

 

 マジシャンに限らず、どんな仕事でも、そこで生きて行こうとするなら、まず自身の立ち位置をしっかり見極めなければいけません。一つの社会の中にあなたが生きて行けるポジションがあるかどうか、そこの自身の見極めがいい加減だと、何十年たっても誰からも相手にされない結果になります。あなたがこの道で存在する価値があるかどうか、を3つのことから考えてみましょう。

 

1、あなたの技量。

 あなたはマジック界でどの程度の力量のマジシャンなのですか。例えばカードの技法、パスでもサイドスチールでも、人並み以上にうまくできる、と自負している人が、本当にそれがうまいのかどうか。お金を支払ってでも見たいと思う技なのかどうか。そこを見極めることです。案外自分がうまいとは思っていることが、それと同じことのできる人は世界で一万人いるかもしれません。あなたが技術だと信じていることは、実はこの世界では当たり前のことではないのですか。

 例えば、あなたが技を駆使して、相手の選んだカードを当てたとして、それでどうしてお客様があなたにギャラを支払いたいと思うのですか。あなたのカード当てとお客様の人生は全く無関係ではありませんか。カード当てと言う、全く浮世離れした行為を見て、それがどうしてお客様が自分のことのように喜べるのですか、

 カードを当てると言うことと、お客様がそれを自分事とすることの間に、何か人の心を動かす魔法がもう一つ存在するとは思いませんか。そこがわからなくて、カードを当てただけで収入になると思いますか。実はプロになるには単なるカードの技法のほかに、人の心を動かす技法が必要なのです、その技がなければプロとして生きて行けないのです。さてそれをあなたはご存じでプロになろうとしていますか。

 

2、他のマジシャンと比べて何が優れているのですか。

 マジックの技は未熟でも顔がいい。スタイルがいい、一緒にいると何となくステータスを感じさせてくれる。つまりスター要素がある。あるいは頭がいい。話の展開が面白くて、人の気持ちをそらさない。そんな人なら自然自然に人が寄ってきて、あなたを使ってみようと考えるプロデューサーも現れます。あなたは本当にそんな人ですか。あなたの何が人を超えて優れているのですか。そこの見極めがあいまいでは、あなたの能力が収入にはつながりません。

 

3,マジックにあなたの世界がありますか。

 当たり前に売り物のマジックをして、誰でもするような手順で、営業と称するあいまいな仕事をしていながら、それをプロ活動だと勘違いしていませんか。そんな活動を3年続けていても、誰からも注目されることはないでしょう。それでこの先生きて行くことが不安だと言うなら、その生き方は間違いなく不安そのものです。

 あなたの演じるマジックがあなたの世界を表現していますか。あなたしか作り出せないとびっきりの夢の世界を見せていますか。道具や、手順の羅列でマジックを見せていませんか。あなたでなければ表現できない世界を作ろうとしないで、いつしか小銭稼ぎで生きるマジシャンになろうとしていませんか。それでなぜ売れないかと悩んでいても、答えは既に見えているでしょう。だめを繰り返しているのです。だめはいくら繰り返してもだめです。早くだめに気づくことです。

 

 と、こう書けば、これからプロになろうとする人はみんな落ち込むと思います。そうです。落ちこんでいいのです。実は、プロとして生きると言うことの第一歩は、自分のだめを知ることから始まるのです。多くのプロになろうとする人は、みんな自分は人より優れていると信じています。でもそのほとんどは幻想です。根拠のない自信です。間違いなく言えることなのですが、世間はあなたに全く期待をしていません。あなたが優れたマジシャンであることを誰も知りません。

 にもかかわらず、あなたは勝手に自分が才能があると思い込み、それを第三者に否定されると勝手にもう駄目だと思い込みます。でもよく考えてみれば、初めから誰もあなたに才能があるとは思っていませんし、才能があってもなくてもあなたはこれまで世間に何の影響も与えていないのです。

 プロマジシャンを目指すなら、まず体に背負っているどうでもいいことを捨てることです。本当にプロとして生きていきたいなら、名前も、人気も、収入もすべての欲をいったん捨てて、自分のだめを見つめることです。その上で、プロマジシャンになると言う、たった一つの目的を信じて生きるのです。あなたがプロになったのではなく、世間があなたにプロとして生きて行くポジションを与えてくれたのです。それに感謝を感じたのなら、あなたはそのお返しとして「自分の持っている能力の中で何が人に役に立つか」を考えることです。自分がどうにかなることではなくて、人があなたの演技を見て、「何か救われた気持ちになる」、「一瞬でも嫌なことを忘れられる」、と思ってもらった時に、人はあなたのそばに寄ってきます。あなたがマジシャンとして生きて行けるかどうかは人の役に立ったかどうかで決まるのです。

 よくよく考えてみたなら、自分の才能など大したものではない。と気づくことがプロの道の第一歩です。自分のだめを知って、今まで「才能だ、能力だ」と思っていたことを根本から見直してみることです。「そんなことはわかっている」「「いまさらそんなことをしなくても」と思うようなことをもう一度稽古してみるのです。こんな稽古は地味で味気ないものです。然し一人黙々と続けてみることです。

 すると、意外にも自分が知っていると思うことが全く分かっていなかったり、出来ると思っていたことが少しもできていなかったりすることに気付いてきます。そうなるとこの地味な活動が面白くなってきます。できると思うことに間違いがあり、出来ないことに目をつぶっていた自分に気づきます。それが自身の未熟と知ります。この時、少しあなたはプロの道を知ります。プロの人生は派手で明るいものではありますが、その陰には地味で自己批判の連続の人生が控えていることを知ります。

 自分のだめさ、未熟さ、弱さを知ることで、どう生きるか、どうしたらよりよくなれるかを知るのです。そして自身の弱さを知ると、人の弱さに気づきます。おのずと人にやさしくなります。人にやさしいマジシャンのマジックを見ると、お客様は救われた気持ちになってゆきます。あなたが、一生かけて人の役に立つ芸能人としての人生を探し続けて行く根気があるかどうか。プロの道はそこを問い続けます。仮に一生かけても大して人の役に立たなかったとしても、そうして生きる人生に満足しているなら、それがプロとして生きる答えだと思います。

 

 私は色紙を頼まれると、よく「往く道に花あり」と書きます。これは、芸道とか、マジック道などと大上段に人生の道を語ろうとすることへの戒めです。多くは道を究めると言うと、道の先に何か極上の世界が待っているような印象をあたえてしまいます。しかし、仮にマジック道があるとして、行った先に何かがあるのかと問われても、何もないかもしれないのです。

 マジックを自らの天職と信じて生きるなら、行ったこともない道の先の、見たこともない極上の世界を語るのではなく、歩く道々に自然に育った雑草が花を咲かせていることに気づくことが大事なのだと思います。雑草は誰が通るとも知らない道にでもしっかり花を咲かせて、通る人を楽しませています。そうして、人を楽しませていながら人から見返りを求めません。美しいではありませんか、

 わずかな才能で小銭を稼ごうとするマジシャンの卑しい了見から比べたなら、雑草のなんと崇高なこと。それゆえに私は、往く道の先に何かを求めるのではなく、往くことそのものが目的であり、その目的とは往く道に咲く花の純粋な心を認めることだと言う意味で、「往く道に花あり」。と書いています。

来る人拒まず

 このところいろいろな人が訪ねてきます。

今日は午前中から日向大祐さん神崎亮仁さん、古林一誠さんが3人で訪ねてきました。

日向さんは東京大学を出てプロマジシャンの活動をしています。前から何度も日向さんの舞台は見ています。神崎さんは以前、大学生の頃にJCMAでマジックを拝見しました。今は会社勤めをしています。しかしどうやらプロになりたいようです。私は何とも言えません。ただ、もう少し基礎を学んで、あらゆるショウに対応ができるように、プロの目で修業しなおしてはどうかと話しました。古林さんはマジックの好きな俳優さんです。今二人は私のところにレッスンを受けに来ています。

 実は来年、一緒にステージをすることになっていて、今日はそのための打ち合わせで、このところ頻繁に尋ねて来ています。同時に、マジックの基礎レッスンをしています。レッスンの方は今回で二回目です。今日は、シルク、ロープを通常の二倍の内容で一遍に指導しました。あまり熱心なのでついつい多めに指導をしてしまい、夕方5時までかかってしまいました。まぁ、熱心なことはいいことです。

 私も10代、20代の頃、先輩マジシャンからマジックを習うことはとても楽しみでした。若いいうちにいろいろなことを覚えるのは有益です。しかも、ちょっと習うのではなく、手順物を一からしっかり、ちゃんと学ぶと、それらは後で一つ一つが財産になります。こんな機会はめったにないので、本気になって学べば、よい作品を手に入れたことになります。

 

 さて、3日前には、大樹の公演の後、北見翼さんが私の家まで来て、夜遅くまで話をして、泊まっていきました。よほど私と話がしたかったのでしょう。あらゆることを熱心に尋ねられました。翼さんは、若手としては珍しく、手妻を演じるマジシャンです。しかし、手妻の演じ手と言うのは数が少なく、前々から私と話をしたかったそうです。勿論どこかで会うと立ち話などはしていましたが、これほど長時間、熱心に話をしたことはありませんでした。

 なぜ話をしなかったのかは、翼さんの師匠が北見マキさんで、北見さんと私は手妻の世界ではライバルのように見られていましたので、そのお弟子さんが私と親しく話されることは難しかったのでしょう。しかし北見さんが四年前に亡くなられましたので、ようやく心置きなく話ができるようになったのでしょう。何が人の縁かは知りませんが、私と話ができてよかったようです。別段、私は翼さんを拒否していたわけではありません。希望があるならいくらでも手妻の話をしたいと思います。

 

 今週末は天一祭がありますので福井に行きます。福井でも福井のプロさんが私と話をしたいらしく、手ぐすね引いて待ってくれています。どこへ行ってもたくさんの仲間のいることは幸せです。

 福井にはサイキックKさん、ロイヤル山口さん、そらさん、まさよさんなど、何人かプロがいらっしゃいます。福井県はそれほど人口の多い土地ではないのに、そこでプロ活動してゆくことはなかなか大変だと思います。しかし皆さん頻繁に東京や大阪に出て、情報を仕入れるなどして、活発な活動を続けています。私は年に一度天一祭のおりに、福井に伺うのですが、福井でマジックのショウは珍しく、福井のお客さんも、プロさんも、この日を楽しみにしてくれています。舞台に上がると熱い歓声が聞こえ、演じていて張り合いがあります。楽屋などでも皆さんと顔を合わせて話ができることは楽しいことです。

 福井には9日10日の二日間伺いますが、前日8日は、大阪で指導。7日は岐阜に行きます。

 

 岐阜は私の古くからの友人で、辻井孝明さんと言う、老人介護施設を経営しているアマチュアさんがいらっしゃいます。私はこれまでずいぶん辻井さんにお世話になっています。パーティーなどの仕事を世話していただくこともしばしばです。今回は、全く仕事ではありませんが、大阪に行く前日、「ちょっと寄りませんか」と言われ、岐阜に下車して、よい料亭で、一晩、酒と魚の接待を受けます。こと食に関しては黙って通り過ぎることはできません。血糖値もコレステロールもなんのその。飛騨牛や、いい魚が食べられるなら、喜び勇んで岐阜に行きます。

 今年の夏には、同じく辻井さんからアユ尽くしの接待を受けました。長良川沿いの料亭で、焼きアユ、味噌だれの鮎、小鮎のてんぷら、次々と鮎が出てきましたが、驚いたことに、その鮎の獲れた長良川の支流の川名までメニューに書かれていて、それぞれ味と脂の乗りが微妙に違うところを食べ比べようと言う趣向です。鮎はご存じのように味の淡い、癖のない魚です。これまでも鮎はずいぶん食べてきましたが、別々の川の支流に住む、鮎の食べ比べというのは、人生初で、こんな贅沢な遊びをさせていただくことは食のマニアとしては無上の喜びです。

 私の口から言うのもなんですが、辻井さんと言う人は本当にいい人だと思います。

 その辻井さんも、なぜ私にそんな贅沢を提供してくれるのかと言うなら、やはり地方都市にいて、辻井さんほどマジックに精通している人にすれば、地元のアマチュアと話をしても物足りないのでしょう。深く突っ込んだ話をする人となるとやはり、私とでなければ納得がゆかないのでしょう。そこで、私が東海道を行き来するときを狙ってエサでおびき寄せ、料理ご馳走して下さった上に、ホテルまで用意して、私を独占して、心行くまでマジックの話がしたいのです。無論私に依存はありません。いい魚、いい酒があればどこへでも行きます。食事がうまければ一晩中語り続けます。マジックの話も、とびっきり秘密のお話を用意します。

 

 と言うことで、7日から10日までの4日間は東京を離れます。折々ブログは書きますが、書かれていないときは、前の晩飲みすぎたと思召してください。